保守とは横町の蕎麦屋を守ること

▣ 週の初めに愚考する(第参拾九)~ 「保守とは横町の蕎麦屋を守ることである」といったのは福田恒存(つねあり)さん。文壇にあって、何かと物議をかもすのを得意とした評論家であり、文学者で、かつ演劇人であり、シェークスピア研究者としても一流の域にあった人。学生時代、まだ右も左もわからず、方向感覚が育っていない時代、ぼくは福田さんの「評論」「批評」に大いに触発されたことを記憶している。何が快かったのか、今となれば曖昧になりましたが、まあ、肩で風切る、颯爽とした出で立ちで、並みいる「教条派」「守旧派」を一刀両断する趣があったからだったと思う。無知な若者の「彷徨・漂泊時代」でしたから、蒙昧な存在意識がその拠り所を求めていたのかもしれないし、誰でもいいから名のある文学者たちの仕事部屋を覗いてみただけだったかもしれません。当時においても、ぼくは福田さんは保守派の論客だと思わなかったが、時代が降るにつれて、まるで一方の雄(神棚)に祭り上げられた気がしています。だんだんと、時代とともに右寄りに変更した感があるのは、福田さんの側に理由があるというより、むしろその周辺の有象無象が、彼をして右への移動を成し遂げたかのようだった。(それはまた、別のテーマで)

 幸か不幸か、ぼくは「保守」にも「革新」にもたどり着くことはできず、爾来、文字通り「右往左往」しながら(自分では「右顧左眄」ではないと思っている)、ついには、右にも左にも落ち着くべき居所は見つからなかった。「彷徨(さまよい)」は今に至るも続いています。「保守とは横町の蕎麦屋を守ること」なのかどうか、ぼくには断言はできない。その謂わんとするところは、古くからある「心地よさ」「そこに店を構えていることが日常の風景」、それを福田さんは「保守」と呼んだのかもしれないが、何よりも「蕎麦屋」が忽然と消えてなくなる世の中ですし、その拠点だった横丁すら消滅する時代、そんなこんなで、いまどき「横町蕎麦屋的保守派」などといって、どこの世界の話かと訝られそうです。

 「自分の生活スタイルを保持すること、そのために失われやすいものに対して、鋭敏に、かつ能動的に活動する精神」と定義された福田流「保守」のお眼鏡にかなうものは、昭和三十年、四十年代当時もいなかったと思う。当然、今日においてはなおさらのと、です。ここが福田恒存さんの偏屈・面倒なところで、「自分の生活のスタイルを固守」するというのが保守、そういう指摘は理解できますが、「(それには)鋭敏に、かつ能動的に活動する精神」が欠かせないというのは、すでに、従来からの「保守」の域を超えているんじゃないでしょうか。「守るために変革する」という保守主義は、英国譲りの「保守(conservatism)」で、いかにも英文学研究者だった福田恒存さんの一面目ではありました。

 新しい総理大臣に選ばれた(「当選」した、といいたい。それは彼にとって、まるで「宝くじ」を買い続けて、初めて高額当選するような僥倖でしたから)石破某、彼は自らを「保守政治家」と規定している。何でもかんでも「守る」のだから、保守派、国防族です。ならば、名も「茂」ではなく「守」に改名したらどうですか。世間では野党とされる立民党の野田某代表と、石破某を並べたら、ぼくなどにはどちらが「保守政治家」か判断がつきません。以前から、この国には与党(保守)ばかりで、革新は「共産党」だけといってきました。ますますその感を強めています。(共産党もかなり保守的になっていますが)しかるに、保守だからこそ、常に点検を怠らないようにという姿勢は絶えて見られないのが、「政治における「保守」「保守党」です。つまりはいささかの移動・旋回・転向も我慢できない「守旧派」の別名でもあるでしょう。

【新生面】何を守るのか 文芸評論家の福田和也さんが先月、亡くなった。保守派の論客であり美食家としても知られた人らしく、昨年刊行された近著では、コロナ禍中のなじみの店を訪ねながら、保守の在りように思いを巡らせていた▼『保守とは横丁[よこちょう]の蕎麦[そば]屋を守ることである』。思想の先達としていた評論家・福田恒存の言葉を書題としたその随筆によると、保守の信条とは「自分の生活スタイルを保持すること、そのために失われやすいものに対して、鋭敏に、かつ能動的に活動する精神」だという▼石破茂首相が一昨日、就任後初の所信表明演説を行った。総裁選直前に『保守政治家』との自著を出した石破氏である。演説ではルール、国民など「5本の柱を守る」と目指す政治スタイルを示した▼明日からは代表質問が始まり、9日には党首討論が予定されている。中でも衆院選に向け「穏健な保守層を狙う」としている立憲民主党の野田佳彦代表と、どんな初手合わせとなるのか注目したい▼ただ国会論戦を前に、石破氏の姿勢がぶれ始めているのが気になる。総裁選では予算委員会開催を念頭に、「国民に判断材料を提供する必要がある」と強調していたが、党首討論後に即解散となりそうだ。さらに裏金議員の原則公認を検討と聞くと、ルール、国民を差し置いて何を守るのかと思う▼前述の著作で石破氏は次のように記している。「少数意見を大切にし、国会では野党の質問にも丁寧に答える。それが保守のあり方です」。その信条を守れるか-が早くも危うい。(熊本日日新聞・2024/10/06)

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 「個人と集団」という視点に立つとき、保守派の多くは「集団」=「国家」に優先権を与えます。国家大事であって、その根幹(単位)をなすのが「家制度」だから、「夫婦別姓」は論外となるのは、見え透いた「理屈」です。「家族」があって、それを単位とした大家族、つまりは「国という家」が成り立ち存続するという教義です。換言すれば、国家あっての国民、そんな捉え方でしょう。新しいような、それでいて古色蒼然とした「教条主義(イデオロギー)」ではありませんか。まるで「公地公民」を、ぼくには彷彿とさせます。新総理は、元来はこちこちの「保守反動」です。その実態は、今でもまったく変わっていないと、ぼくはみている。一時期から、彼は口当たり・耳にやさしい政論を吐いてきましたが、党内孤児としては、何を言おうが波風が立たないという、気楽さもあり、あるいは破れかぶれのなせる業でしたね。国があっての国民、そんな目出度い「国家第一主義者」です。名もない民衆(人民)が集まって作ったのが「国」という箱(入れ物)だった、それが歴史の事実です。「鶏が先か、卵が先か」の比ではないんです。

 国が最優先するのだから、「人権(権利)」も国から与えられ、それに応じて「義務」も国家から課されるという「国家家父長」主義です。国家のために、国民たるものは、いわば「滅私奉公」すべきだという無体な思考の持ち主だったし、今も変わらないと捉えるなら、まさしく「時代物」というほかありません。ぼくは、今のこの国の政治や政治家に何かを期待するという「楽天グループ」には所属していない。国家が飛ばす火の粉が降りかかるなら、万難を排し、身を挺して消し方に回る。

 「少数意見を大切にし、国会では野党の質問にも丁寧に答える。それが保守のあり方です」と洒落たことを言う。「国民の納得と共感を得られる政治を実践することにより、政治に対する信頼を取り戻し、日本の未来を創り、日本の未来を守り抜く決意だ」(初の「所信表明演説」より。2024/10/04))このところの「歴代首相」の演説(ことば)は「真に迫る」「心に響く」ところ皆無です。他人が書いた原稿を棒読みする(自分が書いたにしても)ばかりでは、迫真、衷心からは程遠いのです。その理由は、仮初(かりそめ)にも、そこに魂を込める気がないからでしょうね。

 総裁任期は三年であるという。ぼく(だけではないと思う)にとっては、「石の上にも三年」、いや、正しくは「石破の下にも三年(限り)」になることは避けられない。その間に寿命が尽きる気がします。「往生際」は汚したくないものです。

⦿ ほ‐しゅ【保守】① ( ━する ) 正常な状態などを保ち、それが損じないようにすること。ほうしゅ。②旧来の習慣、制度、組織、方法などを重んじ、それを保存しようとすること。また、その立場。ほうしゅ。(精選版日本国語大辞典)
⦿ …政治勢力を二分法的に分類するときに用いられる用語で,〈保守〉が一般的に保守主義的立場に立つ勢力を,〈革新〉が反保守主義的立場に立つ勢力を,それぞれ総括的に指すが,もっぱら日本の自民党と社会党を中心とする〈55年体制〉下の政党勢力の配置状況に関連して用いられてきた。この場合,〈保守〉は自民党を中心とする政治勢力を,〈革新〉は社会党を中心とする反自民勢力を意味する。…(世界大百科事典)
⦿ こうち‐こうみん【公地公民】〘 名詞 〙 令制における土地・人民の公有制を説明する用語。大化改新の詔によって私地私民制を廃し、収入公して天皇の土地・人民とした原則。戸籍によって国家に把握された公民は、租庸調を課された人民で、貴族・僧侶・賤民を含まない。奈良時代には過重な負担からのがれて浮浪し逃亡する公民が後をたたず、一方、天平一五年(七四三)墾田永年私財法によって土地公有の原則がくずれ、ここに公地公民制の崩壊は決定的となる。ただし、「公民」の語は律令には使用されていないなど、近代歴史学が用いた学術用語であり、律令法とは必ずしも一致しない。(精選版日本国語大辞典)

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「果報は寝て待て」というけれど、…

 ただ今午前7時。室温26.5℃、湿度79%。小雨が降ったりやんだり。

 ずいぶん昔の記憶です。小学校時代、何年生だったかは忘れましたが、「クラス新聞(便り」」というものがあった。おそらく担任教師が手作りで出していたと思う。今日でも、「学級だより」とか「学級通信」という手法で、子どもたちにというよりは親に読んでもらいたいと、熱心に出している教師もいるでしょう。今の時代、いろいろな方法がありますので、かなりの普及ぶりが想定されます。もちろん、発刊対象の単位は学級とかクラスというのですから、大きな話題や学校外のことはさておいて、担当クラスのことごと(出来事や問題点など)が書かれているに違いない。(この「学級新聞」的なものがさらに進化して生まれたのが,戦時中に興隆期を迎えた「綴り方教育」というものでした)

 本日の高知新聞のコラム「小社会」を一読、高知新聞そのものに懐かしさを覚えたと同時に、地域新聞、地元新聞というものの「あり方」や「現実の問題」についていくつかのことを考えさせられました。もうかなり前のことになりますが、一夕、親しく高知新聞の記者と現地で飲んで話すという機会に恵まれました。つかず離れず、ぼくはかなり以前から当該新聞には関心を寄せていたから、なおさら、本日のコラムが切実さをもって迫ってきたというわけです。

 「ニュース砂漠」、とても気になる現象ではないでしょうか。もちろん、この「ニュース(情報)枯渇」が引き起こす砂漠化は、この社会のいたるところで生じているはずです。時に「町から書店が消える」という話題が、深刻な問題として報道されることがあります。無書店市町村は年とともに増加しています。もちろん、情報や知識は書物や新聞からしか入るものではないのは分かりきっています。でも、この現代にあっても、誰もがネットを通じて情報を得ているとは限らない。ともすると、誰も彼もがスマホやパソコンを使ってネットにアクセスしているとみなす向きが圧倒的に多いことでしょう。逆に、スマホやパソコンを利用しない人間は、それこそ「時代おくれ」「社会の敗残者」の如くに扱われるという現実(人々)もある。情報から遮断されている存在に「社会的弱者」というレッテルを張って、事足れりというのでしょうか。

【小社会】高知も砂漠に? 米国の地方紙を何社か訪ねたことがある。かの国には市や郡ごとに地元紙があり、記者たちはインクのにおいが漂う小さな社屋で懸命に地域のニュースを発信していた。日刊や週刊などを合わせた数は2004年時点で8891紙に上った。▶しかし、社会のデジタル化と新型コロナによる広告減などで大半が経営難に。米大学の調査によると、22年までに3割が廃刊に追い込まれ、記者やカメラマンは6割も減った。▶その結果、住民が地元の報道に触れることがほとんどできない「ニュース砂漠」が広がった。メディアの監視が弱まると、地方行政や議会は緩み、腐敗する。地元紙が廃刊になった米西部の市では、市幹部が議会と結託して給料を大統領の2倍に引き上げていた。▶日本も危うい。全国の新聞・通信社の記者は過去20年で24%減。県内でも特に全国紙の記者が減り、新聞によっては高知の記事が載らない日が増えた。▶先日の黒潮町長選では性加害問題で辞職した前職が返り咲いた。被害女性と和解できていない前職の再挑戦をどう考えるべきか。正面から取り上げたメディアは本紙だけだった。▶小4男児が亡くなった高知市のプール事故もそうだ。遺族に寄り添いつつ市当局の対応を問い続けているのは本紙のみ。そんな中、市長与党の市議は「一部の行き過ぎた報道に不信を抱く」と議会で言い放った。足元で砂漠化が始まっているのか。踏ん張らねば。(高知新聞・2024/10/05)

 「情報の空白」問題を「新聞消滅地域」に限定して考えてみます。ここでいわれる「新聞」とはおそらく「宅配新聞」、あるいは「購読新聞」を指しているのでしょう。宅配以外でも、駅やコンビニなどで購入することもできますから、要するに「読むべき新聞そのもの」が消滅しているという話でしょう。ぼくが住んでいる地域(町)は、人口が6247人(本年10月1日現在)、世帯数は2944世帯。平均同居者数2.12人。(この十年で、ほぼ1300人が減少したことになります)間違いなしに、近未来には消滅する自治体であることは確実。この町には「タウン誌(町内報)」が発行されていますが、拙宅には届かない。折り込みで配布するので、新聞購読者に限るということでしょうか。ぼくは新聞を取っていないので無配達。(それに反して、納期が遅れるとやんやの催促便が来ます。「無駄使いは止めろ」といつもうために、役場に行きます)

 だから、この自治体の情報にはまったく通じていません。時に、地方紙で扱われている地元ニュースをネットでみることはあります。しかし詳細はカヤの外。一年前ほどから、ごく近くで「産業廃棄物最終処分場」の建設工事が始まりました。おそらく、町議会で長年議論されてきたのでしょうが、現場で工事が始まる段階でようやく知るというお粗末ぶり。大掛かりな工事で、何年かかるか、どういう施設なのか、そんな事柄にもまったく通じていないのですから、一住民としては、その資格を、ぼくは問われると思う。「タウン誌」の戸別配達を希望しても、色よい返事はない。というわけで、ぼくは、まさに「情報砂漠」「ニュース砂漠」のただなかに住んでいます。文字通り「砂上の陋屋」ではあります。

 コラム「小社会」では高知の砂漠現象の齎す「弊害」状況について書かれています。少し長い引用を。

 「先日の黒潮町長選では性加害問題で辞職した前職が返り咲いた。被害女性と和解できていない前職の再挑戦をどう考えるべきか。正面から取り上げたメディアは本紙だけだった。▶小4男児が亡くなった高知市のプール事故もそうだ。遺族に寄り添いつつ市当局の対応を問い続けているのは本紙のみ。そんな中、市長与党の市議は『一部の行き過ぎた報道に不信を抱く』と議会で言い放った。足元で砂漠化が始まっているのか。踏ん張らねば」と。「砂漠化が始まっているのか」ではなく、すっかり砂漠になったということですよ、コラム氏さん。高知新聞にしてこうですから、他紙は推して知るべし、と言えば叱られるか。地域新聞は地元に密着しているがゆえに、当局や有力者(広費収入源)の意向には逆らえない道理で、ぼくの知るだけでもいくつもの自治体で同じような「新聞と報道対象の癒着」「馴れ合い」が生じています。そのいちいちを取り上げようとすると、そんなの嫌だと、ぼくのへそ曲がり根性が反対をします。

 ほとほと、この社会はダメになった、堕落しきった、腐敗の極みだと、言えばきりがないほどに、社会悪の横行、道義の頽廃は尽きるところがないようです。それもこれも、あるべき地方新聞がなくなったからというのではない。もちろん全国紙とか大手紙という「看板倒れ新聞」の落日がかかる事態を招いているというのでもない。一言で申すなら、なるべくしてなった、そういうことです。今般、予想に反してだったか、石破某が総理大臣に押し立てられた。見識や経験を買われたという、彼の人望がモノを言ったのでないこと言うまでもありません。地位をかけて争った高市某が当選していた方がよかったのかもしれない。その心は「あの東洋の小国は、それほどに右翼・極右が跳梁していたのか」と他国から総スカンを喰らうはずだったし、その方が、日本崩壊の完了は早かったかと思われるからです。

 このところ、いたずらにアメリカ大統領選挙の報道を、現地メディアを通じてみています。そして、あれっと思ったのは「大手メディアが事実を正しく報じていない」というメディア批判が頻繁に叫ばれることでした。「選挙で負けた」という事実に砂をかけて、権力の地位にしがみつこうと、あらゆる手段を使って選挙結果を歪めようとした元大統領、三十数件の犯罪事実で起訴され、有罪判決も出ている元大統領が、あろうことか、再び、公党の候補者に祭り上げられたという事実に、ぼくは肝を潰したのでした。これがアメリカの政治の現実なのだと、民主政治の目指すところ、はるかに遠いことに嘆息しきりだった。こんな出鱈目を許したのは彼の国の政治であり、報道であり、指導者や一般選挙民の関心の薄さだったでしょうか。誰が悪いというのではないかもしれぬが、少なくとも「メディア」は政治や権力への健全な批判力を研ぎ澄まさなければ、たちまちにして権力の軍門に降る、結果は見ての通りということになろう。そして、あろうことか、その元職の再選が実現可能視されているのだ。

 他国の問題については、事情もよくわからないところがあるので事の断定はできません。しかし、それでもなお、メディアの復元力と批判力の旺盛さに、ぼくは一縷の望みがあるという思いを強く持つ。残念だけれど、わが社会には「復元力」も「批判力」もすっかり「鈍麻」「摩滅」してしまったという実感がある。「ニュース砂漠」「情報砂漠」は、新聞やテレビ等、メディアが伝えるべきことを伝えず、書くべきことを書かないところから生じる社会現象でしょう。「伝えるべき」、「書くべき」とは「ありのままの事実」を伝え、書くということです。起こっている事実を正確に伝え書く、その役割を怠り失えば、メディアは権力の「手先」「便所の紙」でしかなくなるのです。まるで「不夜城」のような、煌々とした明かりに照らし出されている「砂上の楼閣」、それが各地にみられる「砂漠化」の現実の姿だというほかない。それに抗して、何か、回復や復元の道があるとは、ぼくにはとても思われません。

 「一粒の麦死なずば、ただ一つにてあらん。 もし死なば、多くの実を結ぶべし」という。

 勤め人時代、ぼくは勤務先の大学の著しい頽廃に対して、いつも広言していました。「堕ちろ、堕ちろ」と。中途半端に生き延びると、一層困難な状況で死(破滅」を迎えるからだと、顰蹙を買いながら、嘲笑を浴びながら言い続けていました。この国もまた、同じ事態にありますね。「堕ちろ、堕ちろ」、と叫ぶしかないようです。「果報は寝て待て」ですけれど、「知るべき事実」は向こうから、ひとりでにやってはこないのです。寝てる場合か。

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兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川

 地面には秋の日が射している、そのそばで、にわかに雨が降るという、なんともおかしな天気です。劣島には台風が接近しているようで、少しも気が許せない、そんな「秋の空」ではあります。拙宅の近辺ではすっかり稲刈りも終わり、コメ不足騒動が何だったかと訝りたくなるような、物流世界の「儲け主義」横行にはすっかり気が滅入るほどではあります。(ただ今、午前九時すぎ)

 加えて、さらに追い打ちをかけるような「値上げ」の攻勢が続いています。輸送費の高騰、原材料の高騰、人件費の高騰などと、証拠も出さないで値上げのラッシュとは、いかにも自給自足を放擲して久しい貧国の「食糧事情」を物語る。毎日の買い物で「なけなしの金員」に羽が生えたように、方々に飛んでいくのを押しとどめることはできない。どこまで騰がれば気が済むのかと肝をつぶしかねない状況下で、新しい内閣ができたのだが、その実、顔つきはいささかは変わったかに見えますが、実態はまさに「旧態依然(old-fashioned)」で、何一つ代わり映えはしないのです。新しさを装う酒には古びた皮袋に、それこそがお似合いだ。首相(実は、冷や飯の間は「右翼の仮面」を被っていた)は無能で権力欲ばかりが強いとなると、その実態は透けて見えます。

 ひたすら総理でありたい(だけ)、大臣でありたい(だけ)、国会議員でありたい(だけ)という「ありたいだけ(only I want to be)」教の妄者ばかりでは、この国は一寸先も、一瞬たりとも安泰であることはできないのです。赤字国債の膨大な発行と蓄積、加えて、日銀の低金利政策の泥沼からの脱出がほぼ不可能と来ています。物価高と不景気と円安が、いささかの変化の兆しもなく継続する(stagflation)とみれば、この国の破綻は目前の事件というばかりでしょう。

 いかにも嫌なことばかりを口にしましたが、本日のいくつかのコラムが身近に生息していた昆虫や鳥類の異変に触れて、その実態に大きな赤信号を灯す風情でした。山形新聞の「談話室」はアキアカネ(赤トンボ)とスズメに関して、一方は百分の一、いや千分の一以下に減少した、他方は半分以下にと記述しています。理由や原因は一つではないのですが、ただ一つ言えることは、そのほとんどが人間の蛮行による環境破壊に起因するということです。「アキアカネは、1990年代から新たに用いられた農薬の影響で、地域によっては100分の1とか千分の1以下に減ったと主張。スズメは「この数十年で半分以下になった」と応じ、他の要因も挙げつつ、減反や耕作放棄で餌を取る場所が減ったのが大きいと語る」と一冊の著書からの状況を解説しています。(二週間ほど前に、拙宅裏庭で「アキアカネ」に出会いました。涙が出るほどの邂逅だった。また別の日にはイチモンジセセリが花から花へと移り飛ぶ姿を観ました。それにしてもスズメがめっきりいなくなったのは、 以前から気付いていました。スズメのお宿はどこに行ったのか)

 信濃毎日新聞「斜面」はイチモンジセセリやスズメなどの減少傾向を、これまた一冊の著書を介して書かれています。「気になるのは、環境を守る活動が活発な調査場所でも減少が止まっていないことだ。想像以上に日本列島の生態系は傷つき、生き物の多様性が失われているのかもしれない。姿を見せなくなったイチモンジセセリに気づかされる」と「談話室」に続く、この島の環境破壊の現実を指摘します。コラム氏はいささか呑気だと思うのはぼくだけかもしれないが、筆者は長野住まいだから、まだまだ、彼の地は大丈夫という感覚なのかもしれません。

 新潟日報の「日報抄」氏は、まるで良寛さんのような振る舞いに及ぼうとしている。「日中はまだ汗ばむような日もあるが、虫たちは越冬の準備を着々と進めているのだろうか」「本県を含む北陸地方の12月~来年2月は平年より雪や雨が多くなり、大雪となる恐れが高まる見通しだ」だから、カマキリに教えられて、冬支度を始めなければならないのだろうかと、今冬の大雪を案じておられるのです。降れば豪雨で、府ら目場酷暑、それが今夏の一大現象でした。来るべき冬季はいかがなことになるでしょうか。

【談話室】▼▽散歩コース沿いの田んぼは随分と稲刈りが進んだ。知らない間に山から里に下りてきたアキアカネが空を飛び交い、スズメたちが群れる。いずれも日本の原風景には欠かせない存在だが、近年急速に数を減らしている。▼▽ネーチャーガイドとしても活動する詩人大島健夫さんの著書「希少生物のきもち」は、コウノトリを進行役に、生き物たちが現状を語り合う趣向だ。この中でアキアカネとスズメが対談。生活史などを踏まえ、先祖が数を増やすことができたのは稲作のおかげだと感謝する。▼▽一方でアキアカネは、1990年代から新たに用いられた農薬の影響で、地域によっては100分の1とか千分の1以下に減ったと主張。スズメは「この数十年で半分以下になった」と応じ、他の要因も挙げつつ、減反や耕作放棄で餌を取る場所が減ったのが大きいと語る。▼▽「このままだと、私たちはいつの間にか絶滅する」。アキアカネは、都市部の外で起きている事象に関心がある人とそうでない人の分断を理由に、将来を悲観する。事は生き物に限るまい。コメ不足や価格上昇を声高に嘆く大都市の消費者に、田んぼの実情を知ってほしい。(山形新聞・2024/10/04)
【斜面】消えるお隣さん 1930(昭和5)年8月21日の昼前、突然小さなチョウの大群が大阪市の官庁街に現れ大騒ぎになった。冷房などない時代。開いた窓から入り込み、仕事どころではなくなる。屋外では車や人にぶつかり、路上に死骸が積み重なった◆そんな観察記録を、地元の昆虫研究者が書き残している。チョウの正体はイチモンジセセリだ。体長2センチほどで茶色。胴体が太く、一直線に速く飛ぶ。秋に群れで渡りをするチョウとして知られ、60年代ごろまでは大規模な移動が各地で見られたという◆「蝶、(ちょう)海へ還(かえ)る」(中筋房夫、石井実共著)に詳しい。信州では稲を食べる「ツトムシ」の成虫として嫌がられた。68年10月28日の本紙は、秋になると東北地方から大挙して飛来する「機動力のある害虫」と記し、生態を紹介している。かつては無視できない身近な生き物だった◆今は急速に数を減らしているらしい。2008年度から22年度までに1年当たりで6・9%減少していたことが、環境省の調査で分かった。イチモンジセセリだけではない。どこにでもいる鳥だと思っていたスズメやオナガも消えつつある実態が浮かぶ◆里山の荒廃やシカの食害、農薬の影響などが要因に上がる。気になるのは、環境を守る活動が活発な調査場所でも減少が止まっていないことだ。想像以上に日本列島の生態系は傷つき、生き物の多様性が失われているのかもしれない。姿を見せなくなったイチモンジセセリに気づかされる。(信濃毎日新聞・2024/10/04】
【日報抄】西日を和らげるため、自宅の窓に吊ったすだれにカマキリが姿を見せるようになった。おなかが大きいと思っていたら、編んだ竹の上に卵が産み付けられていた▼しげしげと眺めていると、もう一つあるのに気づいた。さらには何かの虫のサナギのようなものも、すだれの隙間にしがみつくように付着している。日中はまだ汗ばむような日もあるが、虫たちは越冬の準備を着々と進めているのだろうか▼日本には四季がある。けれど春と秋は以前ほど感じられなくなってきた。ことしもカンカン照りの季節から、冷たい雨や雪に震える季節へと一気に駆け抜けていくのか。虫たちに倣って、私たちも早々に冬の訪れに備えねばならないのかもしれない▼気が重くなる予報が聞こえてきた。本県を含む北陸地方の12月~来年2月は平年より雪や雨が多くなり、大雪となる恐れが高まる見通しだ。日本に冬型の気圧配置をもたらすラニーニャ現象が発生する可能性が高いという▼気象庁気象研究所は昨秋、一度にどっさり降る「どか雪」について、北陸は温暖化の影響で増えたとする研究結果を明らかにした。温暖化で沿岸では雪が雨となる一方、山沿いでは海水から供給されるなどした水蒸気量が増え、雪が一気に降るためとみられる▼近年は暖冬傾向が強まっているが、ひとたび降り始めると、どか雪になりがちだ。日頃からの備えが、いっそう大切になるのだろう。冬支度の手始めに、カマキリが卵を産んだすだれも、そろそろ片付けようか。(新潟日報・2024/10/04)

 ぼくは大変に不便なところに住んでいる。都会人趣味のかみさんは、不便であることに不平を漏らすが、反対に生来の野生人(今は野生老人)は、不便をいたく気に入っている。反対に便利は目の敵、そこまではいわないけれど、ぼくはあまり好みません。人間の側が知恵や工夫を働かす、あるいは我慢をするという「成長の薬」を絶やしてしまうからです。田舎の田舎では、少し足を延ばせば一面が田んぼで、見るからに広々とした景色が狭くなりがちな気分を広げてくれます。また一方では畑が多彩・多様な作物を育てている風景にも出会えます。都会地を離れていればこその「幸福」ともいえそう。もちろん、ぼくは野菜一つ作ろうとはしていません。その点では辺地の「寄食者」であることは否定できません。それはそれ、ひたすら不便を忌み嫌う世の風潮に、ぼくは昔から違和感を持っていました。かの山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」はやたらに有名になりすぎましたが、その心は「どんな山奥にも、人間の生活の痕跡がある」ということです。その時、いったい「便利」とは何を指すのか、大いに疑問を感ずる。

 さて、それぞれの住処における環境破壊は、ある特別な行動や生活スタイル(文化)から生み出されたものでないこと、言うまでもありません。カリブ海発生のハリケーンが米国南海岸地域に壊滅的な打撃を与えた、その状況に目を塞ぎたくなるし、南米ブラジル辺のアマゾン川が、突如砂漠に変じた写真を目にして、にわかには信じられない驚きを覚える。その他、地球上のいたるところでは天候異変(異常気象)からの「自然災害」「自然破壊」がなお進行中です。それもこれも、わが隣組の仲間でもある「アキアカネ」「イチモンジセセリ」「スズメ」「オナガ」などなどが、踵を接するようにその姿を消しつつある、その日常とひとつながりの「自然環境の崩壊」に基づくものでしょう。今夏の驚愕するばかりの「酷暑」続きは、ぼくたちが住む、破壊され、傷つけられた環境からの危険・危難を知らせる警報(sos)だったと思われます。小さな昆虫や鳥類が姿を見せなくなるのは、よくいわれる「炭鉱のカナリヤ」現象でもあるのでしょうか。(ある報告では、今日の「農業」が最大の自然環境破壊の元凶だとされていました)

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君子は豹変す、小人は面を革む

 米国大統領選挙の報道を見ていて、ある面において、彼我の差に歴然たるものがあると再確認したところもありますが、いずれ劣らぬ「狸と狐」(人間と比べられるなんて、許しがたい軽率と、狐狸さんたちに怒られそう)という感情が強くなりました。ぼくのなす駄弁や駄文の大半は好き嫌いでありますから、人それぞれとお許しを願うが、こと政治の世界に厳然と存在するのが「虚飾」「虚妄」「虚偽」「虚栄」「虚言」「虚誕」という、虚しさを通り越して泣きたくなる現実でしょう。この点に関しては日米にいささかの「優劣」も存在しないと、ぼくは断言できます。

 昨日は同国副大統領候補者の討論会をライブ中継で観ていました。(共和党対民主党の)副大統領候補者のディベートでしたから、見る側も審判員よろしく「勝ち負け」「「引き分け」に、一時の遊戯を楽しんだのかもしれません。登場者の一方は「いわゆる一流大学卒の弁護士」であり「上院議員」、他方は元学校教師であり、州兵経験を持つ現職知事。テレビやネット上では「贔屓の引き倒し」をしているのも、彼我に格段の差はないといえます。ぼくが驚いたのは「息をするように嘘をつく」という、この劣島の故元総理のように、平然と、かつ流暢に、しかもとくとくと「虚言」を吐き出す、その姿を、あるテレビ放送(豪州)は「新しいスター誕生」と褒めそやしていました。ひどいもの、程度が低いというだけでは足りないと、メディアの堕落、ぼくは、心底から思った、世界同時多発で「メディアは死んでいる」とね。

 嘘も方便といいますが、かくも、のべつにあからさまな嘘を吐き出していると、ついには「嘘から出た真」となる通りでしょうか。「一人虚を伝うれば万人実を伝う」というのは、一人の政治家が嘘をつき通せば、やがてそれが支持者の中では大きな「真(実」」となっていく、「一人がでたらめを伝えれば、大勢の人が次々にそれを言いふらして事実にしてしまう」、その一連の経過や動向そのものが選挙運動であり、政治活動だとすれば、さもありなんと、ぼくたちは言葉を失うのです。「嘘が政治で、嘘つきが政治家」であるという人民の不幸。

 この数日間の各紙コラムを通覧して痛感するのは、いったいこれは何なのだというあきれ果てる「惰性」と「横並び」主義でした。新総理が選ばれ、国会が始まろうという、そのいちいちに、数ある新聞のコラム(新聞記事は読まないことにしている)が、どこも同じで、まるで相談したかのような内容だということ。奇しくも、お互いが一致したということでしょうが、その「一致」の度合いがすごいことになっているのです。ぼくは、個々のそのすべてを引用しようとしたが、無駄と知って諦め、その一、二を出すに止めることにします。新総裁の段階では「国民に(選挙の)判断材料を提供する」とかなんとか言って、「予算委員を開き、必要な補正予算をを組み、いろいろと与野党で議論してからの解散」を広言していたのに、総理任命の初日に「短期決戦」とばかり超早期解散を宣告したのです。

 その言辞の矛盾や齟齬を詰(なじ)るのか、認めるのか。ぼくにはよくわからない、新聞コラムの評価のさまざま。新総理は「美辞麗句」の主であるとは思わないが、口から出任せを言ったわけでもないのかどうか。つまり、場当たりで「発言する」、まるで節操がないというべきかどうか。彼の胸中にあるのは、権力の座につきたい、そのためには誰からも嫌われたくない、そんな芸当がこの人にできるはずもないと思いきや、「総理の椅子」の魔力にしてやられたということです。この御仁は、かつては所属政党を出ています。政治浄化かという「言霊」に酔ったのかもしれないし、若気の至りだったかもわかりません。そしてやがて、実家の「熱(ほとぼ」り」が冷めたと自己判断して「出戻り」を果たしました。党内で人気がないのは当たり前でしょうに、どうしてその「無節操」を指摘しないのかと、ぼくはコラム連に対して訝(いぶか)るのです。「右顧左眄(うこさべん」」という語を進呈したいほどです。 

 そして、ここに引用する二つのコラムは「君子豹変」を根拠に、彼の出処を、表向きは批判するかの如くです。「総裁選では、解散前の国会論戦を尊重する姿勢をアピール」したのに就任会見では即解散とは、「君子豹変す」というから、豹に擬せられた新総理は「豹変」したと、やんわりやさしく批判している風を装う(中國新聞)。また、「きのう国会で首相に指名され新内閣を発足させた石破茂氏の変わりぶりには驚くばかりだ」と嘆いてみせるのは「卓上四季」(北海道新聞)です。この二つが共通して利用しているのが「君子豹変」という「易経」の言葉です。いかにも学(教養)のあるところを披歴しているといいたいですね。

【天風録】君子豹変せねば 君子は豹変(ひょうへん)す―。変節を非難する悪口に使われがちだが、本来の意味は違う。豹の毛が生え替わって文様が鮮やかになるように、優れた人は過ちを速やかに改めて、面目を一新するものだという中国古典の言葉。生え替わりの時季は今時分らしい▲きのう就任した石破茂新首相の場合はどうだろう。衆院を1週間後に解散して、総選挙を27日投開票の日程で行うと就任会見で正式に表明した。総裁選では、解散前の国会論戦を尊重する姿勢をアピールしていたのに▲まさか、論戦重視の姿勢が過ちだったと悟ったわけではあるまい。ぼろが出ぬうちに早期解散を、と迫る党内の声に抗しきれなかったのだろう。野党から「豹変だ」と猛反発を招き、新政権は荒れ模様の船出となった▲論客を自負する石破氏の語り口で印象的なのは、「いかんのだ」と「ねばならない」である。安倍1強の時代に、国会を軽視するような政権運営や相次ぐ「政治とカネ」問題に党内から苦言を呈した数少ない政治家だ▲これまでの「いかんのだ」にたがわぬ政治が問われよう。きのう「国民に正面から向き合い誠心誠意語っていく」と述べた。政局の秋、君子たれば改めて豹変せねばならない。(中國新聞・2024/10/02)
【卓上四季】君子は豹変す 高市早苗氏の20年近く前の一文である。「政治リーダーには、熟慮熟考の上で政策変更の必要を感じた場合には、批判を恐れず堂々と豹変(ひょうへん)し、その必然性を国民に説明できる君子であっていただきたい」▼タイトルは「君子は豹変す」。氏のサイトから一部を略して引いた。教えを受けた松下幸之助は一度決めたことをしばしば変えたという。その逸話を踏まえた主張だった▼自民党総裁選で接戦を繰り広げた相手のご高説やありがたし―と押し頂いたわけではあるまいが、きのう国会で首相に指名され新内閣を発足させた石破茂氏の変わりぶりには驚くばかりだ▼なにせ、これまで「国民に判断材料を提供する」として、一問一答で議論を戦わせる予算委員会を開くべきだと強調し、衆院の早期解散には否定的だった。それが総裁選に勝利するや、フライング気味に超短期決戦を決めた▼野党から攻め立てられないうちに総選挙に持ち込めとの党内圧力に屈したのだろうか。しかし「正直で筋を通す」のがこの人の持ち味であったはずだ▼能登の復旧と復興、物価高、人口減―と課題は山積している。何より「政治とカネ」の問題にけじめをつけ、政治への信頼を確かなものにしなければならない。石破氏が向き合うべきは身内の論理ではなく国民だ。そこをくれぐれも忘れないでもらいたい。(北海道新聞・2024/10/02)

 同じような表現は「易経」中に二か所出てきます。「易経・革卦・上六」と「易経・革卦・象伝」。「易」についての説明は省略します。要は「陰陽」の組み合わせで「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と、運命や幸不幸を占う。わが国でもある時期には重んじられていました。今でもあるところにはあり、信じる人には信じられていますね。それはともかく、「君子豹変」です。ぼくがまだ三十にもならない頃だったか、文芸評論の小林秀雄さんが書筆をふるって「君子は豹変す 小人は面を革む」と額装していたのを見たことがありました。それをよく記憶しているのは「君子豹変」ばかりが世間で持て囃(はや)され、それに続く「小人革面」以下が一向に知られていなかった時期だったから、ぼくには新鮮に映ったし、早速出典に当たって、その事情をを知るようになったからでした。

 「大人虎変、君子豹変。小人革面」(上六)、「君子豹変、其文蔚也。小人革面。順以従君也」(象伝)。君子の上位に位するのが「大人」、徳の高い人、優れた見識のある人などなど、そんな人を「たいじん」と呼んで、尊崇したのでした。その下にくるのが「君子(くんし」、要するに優れた政治哲学の実践者・政治家。その支配下に来るのが「小人(しょうじん)」、ごく一般の人間で政治指導者の導きに身を任せる人という意味でしょう。中国古来の「人間評価」です。というように、いちいちを駄弁れば、今日は終わらないので、ここで中止。

 問題は「虎変」と「豹変」の違いであり、「革面」の意味でしょう。面倒だから省略しますけれど、じつは、その内容は「政治変革」や「政治革命」には極めて大事あなのだというのが「易経」の教えるところです。ぼくがコラムに感じた通俗性は、「君子豹変」の解釈に重きを置いて、石破某の「変節」「無節操」を、いかにも非難した風に装っているばかりで、虎変や豹変、あるいは革面を語らず、ましてや「征凶、居レ貞吉」は素通りですから、研究不足というほかないいですね。「それでいいのだ」と自嘲でもするか、お里が知れるとはこのこと。読者をコケ(虚仮)にしているのではないかとぼくは言いたい。

 さらには「其文蔚也」「順以従君也」とある事すら知ろうとはしないなら、恥ずかしいではないか、といいたくなります。ここで「小人」とは、いわば親鸞聖人や法然上人がいう「悪人」のこと。人類の九分九厘が含まれる「衆生」のことです。すべて人間は、という時の「人間」のこと。このコラムで、いかにも石破某が「君子」のごとき存在というに至っては笑止千万。「大人虎変 君子豹変 小人革面」とは、上には上があるということ、下は下があるということ。稀有な存在の大人は時宜(天命)を得て(虎の毛が一気に生え変わるように)革命をな成し遂げる、そして、大人の事績を見習って、君子も同じように(豹の毛が生え変わるように)、鮮やかに変革や革命を実行する。

 政治革命・政治変革を成就するには「小人(大衆・俗人)」に留意しなければならない。「小人革面」とは、大志も持たないような「小人」をして、変革や改革に目を向けさせ、徐々にその性質を革(あらた)めさせる、それが君子や大人の仕事だというのだ。大衆を無視して何事もできないのが政治の道・径であり、無節操で欲に取りつかれた「小人」を強化すること、それがなければ、「変革」「革命」が起こるはずもないということです。「小人」たるもの、君子や大人の真似をして何事かを実行するなら、それは凶(と出る)。ひたすら「居レ貞吉」「小人が貞」、つまり君子に従うなら「吉」、革命や変革は成就するという。ぼくが「政治は町内会政治で言い」という根拠であり、理由です。

〈易経・革卦・上六(じょうりく)〉上六。大人虎変、君子豹変。小人革面。征凶、居レ貞吉。(君子豹變す。小人は面を革む。征けば凶。貞に居れば吉)
〈易経・革卦・象伝(しょうでん)〉象曰。君子豹変、其文蔚也。小人革面。順以従君也。(象に曰く、君子豹變すとは、其文蔚たる也。小人は面を革むとは、順にして以て君に從ふ也。

● 易経【えききょう】= 中国古典。五経の一つで,本来卜筮(易)のテクスト。《易》《周易》とも称し,英訳は《Book of Changes》。12編。八卦(はっか)の組合せにより,64の卦の意味を説く〈卦辞(かじ)〉,各卦を構成する6本の爻(こう)の意味を説く〈爻辞〉の2編が経本文。〈彖伝(たんでん)〉〈繋辞伝(けいじでん)〉など解釈の部分が10編で,これを〈十翼(じゅうよく)〉という。経は周の文王が,伝は孔子が作ったといわれるが伝承にすぎず,経は周代に,伝は周末から漢初にかけて漸次できたと考えられている。戦国時代から秦漢にかけて,儒家は自己の主張をこの経の解釈に結びつけて展開し,宇宙論や陰陽哲学を付加して,中国人の人生観や世界観に大きな影響を与えることになる。〈観光〉〈革命〉〈同人〉など,《易経》に由来する語も多い。(マイペディア)

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 よく、誰彼なしに「座右の銘」などと洒落たことを口にする。難解な漢詩や漢語を並べるのが常です。石破某も例外ではありません。(くだらないから触れることはしない」この「座右の銘」を尋ねられて、前述した小林秀雄さんは「頭寒足熱」と墨書した。それにも、ぼくは肝をつぶしました。合理的というか、即物主義というか、小林という人が分かった気がしました。「健康第一」などという抽象的なことではなく、具体的に、即物的に「頭寒足熱」。この書をぼくは実見に及んだことがあります。頭は冷やして、足は冷やすな。

 さて、例によって駄文に結論はない。ただ一言。石破某も高市某も、厚かましいにはほどがあって、自らを「君子に準(なぞら)えている」のだから、始末に負えません。己を知らないにもほどがある。つまりは、自らにも平気で、常時、嘘をついているのです。もってのほかというべきですね。どうして「私は小人でございます」と、自己認識ができないのだろうか。小人はいつだって「征凶、居レ貞吉」、「順以従君也」という思想(態度)を失えば、なにごとも始まらないのですが。

 「政治リーダーには、熟慮熟考の上で政策変更の必要を感じた場合には、批判を恐れず堂々と豹変(ひょうへん)し、その必然性を国民に説明できる君子であっていただきたい」(武市某)ど厚かましくも「人の上に立つ」「人を導く」政治家であるという、その魂胆というか、自惚れから壊していかないと。この女性も、堂々と嘘をついて生きています。時にはやむを得ず嘘をつく必要があるだろうが、その時は「嘘ですよ」と顔に出るようであってほしい。その点では「堂々と、国民に嘘をつき通してきた」故元総理の弟子をもって任じているのですから、何をかいわんや。

 石破某が総理だというのは「永田町のルール」、それが世間通用の規範になるはずもないとだけ言っておきます。ひたすら謙虚、いつだって謙譲であるところから、いささかなりとも「君子の資質」が萌すかもしれない。無理だろうなあ、という声がぼくの背中でしています。繰り返します、「嘘つきは泥棒の始まり」だということ。嘘をつかないだけでも、何者かではないでしょうか。「人は知らないで嘘をつく」のではないでしょう。「無知」からまちがえるのは無知であって、それは「嘘」ではないからです。知りつつ吐くのが嘘。

 (蛇足 新総理大臣には期待も待たないし、辞めるがいいなどともいわない。ちらりとネット動画などを見る限り、とても「老成感」が満ちているとぼくには思われました。老婆心ならぬ、老爺心から「今少し、減量されたらどうですか」と。痛々しい姿を見るのは嫌だし、それこそ「頭寒足熱」「早寝早起き」で、仕事(まともな政治)をしてほしいと、無体な注文を出しておきます)

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引き返せない地点に来てしまった

米ハリケーンの死者128人に、数百人が安否不明 「集落が地図から消えた」(CNN) 米南部を襲った大型ハリケーン「へリーン」による洪水で、9月30日までに6州で128人の死亡が確認された。被災地で捜索救助活動が続く中、犠牲者はさらに増える見通し。/へリーンは「カテゴリー4」の非常に強い勢力で26日にフロリダ州に上陸。ほぼ200万戸で今も停電が続いている。被災地はインフラが寸断され、家族の安否が確認できないという住民は数えきれない。/最も死者が多かったノースカロライナ州では、内陸部のバンコム郡などで56人が死亡した。山に囲まれた光景が美しいアッシュビルの町は濁流にのみ込まれた。/水が徐々に引き始めると、がれきの山と化した住宅や、破壊された建物、横転した車が姿を現した。/アッシュビルのマンハイマー市長は30日、「電線はまるでスパゲティのように見える。これほどの混乱状態は形容しようがない。まさに世界滅亡のような光景だ」と語った。(以下略)(ヘッダー写真は:28日、米ノースカロライナ州アッシュビルでは大型ハリケーン「へリーン」による記録的な洪水で甚大な被害が出た/Melissa Sue Gerrits/Getty Images)(https://www.cnn.co.jp/usa/35224438.html)(CNN・2024/10/01)

 このところ、折を見ては米大統領選挙報道を、現地のテレビやネット番組を通してみています。その合間に、数日前から強烈なハリケーン「へリーン」の北上する様子や、フロリダ州やノースカロライナ州に上陸して多大な被害を発生させている状況を見て、この国にして、今なお、これだけの被害があるのかと、ただただ驚愕してます。被災者(犠牲者や行方不明者、さらには家屋等の被害に遭遇した人々を含む)や被災状況は、その全貌はつかめていないようです。昨日夕刻現在で、ある情報によれば犠牲者(死者)は160人以上といわれる。行方不明者の総数も千人の単位だという。

 現段階で、軽々に断定はできませんが、自然現象による異常気象による災害は、世界各地に及んでいます。地球全体が、それこそサンドバックの如くに打ちのめされているとぼくには思われます。この国では先だっての能登半島の豪雨に起因する大洪水による被害の大きさに肝をつぶしすばかりでしたが、その数十倍に達するかと思われる「へリーン」による被害。これは極めて特異な現象ではなく、年年歳歳発生件数は増加し、被害規模が桁(けた)外れに大きくなっているというデータもあります。今回のハリケーンも「史上最大の規模」という報道がなされていました。

(CNN) ブラジルは現在、1950年に記録が始まって以降最悪の干ばつに見舞われている。同国の自然災害監視当局が明らかにした。極度の干ばつに見舞われるのは2年連続。国土のおよそ60%が影響を受けており、首都ブラジリアを含む一部の都市では140日以上連続で雨が降っていない。/アマゾン川最大の支流の一つであるネグロ川はアマゾナス州マナウス市付近で、この時期としては記録的な低水位となっている。ブラジルの地質調査機関によると、水位は1日あたり約18センチ低下している。/この川の特徴である漆黒の水は通常、広く複雑な水路を流れているが、衛星画像からは広大な川床が露出し、大幅に縮小していることがわかる。/マナウスでネグロ川と合流してアマゾン川を形成するソリモエンス川も同様だ。/コロンビアとペルーとの国境にあるブラジルの都市タバティンガでは先月、ソリモエンス川の水位がこの時期としての最低水位を記録した。/船は座礁し、かつて水が流れていた場所には広大な砂地が広がっている。(以下略)(CNN1・2024/10/01)(左写真は「水が干上がって土が露わになったネグロ川の川床」Edmar Barros/AP via CNN Newsource)
スイスとイタリアが国境を一部変更へ 氷河融解の影響(CNN) スイスとイタリアが近く、アルプスの名峰マッターホルン付近を走る国境の一部を変更する。国境線の目印とされてきた氷河の融解が進んだためだ。/スイスとイタリアの国境は、氷河や雪原が大半を占めている。スイス政府は9月27日の声明で、氷河が溶けて自然環境が変化し、国境が引き直されると述べた。/両国は昨年、国境変更で合意していた。スイス政府が27日にこれを正式に承認し、イタリアでも承認手続きが進んでいる。合意は双方が署名すればただちに公布され、新たな国境の詳細も公表される。/欧州は温暖化が世界で最も速く進行している地域とされ、氷河はその深刻な影響を受けている。スイスで昨年消失した氷河は4%と、過去最大だった2022年の6%に次ぐ割合を記録した。/スイス連邦工科大学チューリッヒ校の氷河学者、マティアス・フス博士がCNNに語ったところによると、今年もこの傾向は変わらず、冬の豪雪を上回るペースで融解が進んだ。/フス氏は国境変更について、氷河融解による「小さな副作用のひとつ」だと指摘。そのうえで、世界地図に直接影響が及ぶことにより、温暖化が引き起こす重大な変化はさらに明白になると述べた。(CNN・2024/10/01)

 偶然、本日付けのCNNニュースで、「異常気象」に関する、三つの記事が掲載されていました。日ごろから、それとなくいくつかの文献や資料(新聞テレビ等を含む)に気を配るようにして、気候変動問題を見ていました。「温暖化」の危険な兆候が出てから、それが周知の事実となってからでも、すでに半世紀は優に経過しています。それでも、地球上の「近代国家」「先進国」、いわゆる「経済大国」と称される諸国は、各種団体が発する、いろいろな指標や報告・警告の類を目にしながらも、これまでの「経済成長(規模拡大)」を改めようとはしてきませんでした。この立場の第一の特徴は「大量生産・大量消費」だったし、その傾向は、以前には開発途上国と言われていた国々にも、今日は顕著に認められます。中国やインド、あるいはブラジルなどの資源大国が組織している「ブリックス」は、これまで以上に速度を上げて「経済成長」に邁進しているのです。(BRICSは「ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ、イラン、エジプト、アラブ首長国連邦、エチオピア」九か国から構成される)

 いわゆる「先進国」が経済発展を遂げ、その地位を独占的に維持しようとすることはどう考えても公正ではないでしょう。「後進国」とされてきた諸国も国家経済の拡大を図り、そのために化石燃料を大量に消費してきた結果、今日の「地球温暖化」という「世界交流・交通の赤信号」が点灯したのでした。加えて、同じ温暖化現象が北極や南極にも及んでいることを思えば、まさに、今日の「異常気象」現象は、きわめて人工的・人為的原因によることが明らかになるでしょう。悲観的に聞こえそうですが、経済発展、経済大国、あるいは軍事大国への飛躍、そのためになりふり構わぬ国家運営がもたらした「地球温暖化」という「鬼子」は、もう人間の知識ゃ技術では回復・修復できない段階を超えていると、素人ながら考えざるを得ません。

 「ローマクラブ」が著した「成長の限界」が出たのは、今から半世紀以上も前の1972年のことでした。発表当時、一読して深く教えられ、考えさせられたことを今も強烈に記憶しています。詳細は省きますが、とにかく、ぼくにしては珍しく、実に興味をもって熟読したものでした。ローマクラブの報告では主として「石炭」「石油」の発掘(消費)量と想定埋蔵量の計算上の比較から、このままの経済成長・発展にはおのずから限界・期限があるというものでした。その視点は間違いではなかったと思う。しかし新たな発掘技術の開発・進歩や、それまでには認められていなかった化石燃料の埋蔵地帯が、新たに発見されたこともあって、「成長の限界」は年々、引き伸ばされて今日に至ったのでした。

 化石燃料の埋蔵量を消費し尽くす、そこで経済成長は必然的に止まるという推論は、しかしながら、もっと深刻な「限界要因」を突き付けられたのでした。それが「地球温暖化」であり、「気候変動」だったというのです。繰り返しますが、もう現在の地球人は「引き返し不能」の地点にまで来てしまったといえます。「温暖化」が温暖化以前の気温状態にまで後退するにはあまりにも時間がかかりずぎるからです。「今日からは、一切化石燃料は使わない」という離れ業は誰にもできないでしょうし、きわめて非現実的です。地球上の人口爆発と、それを支えている食糧生産の増大が続く限り、悔しいけれど、地球人は、座して死を待つことはないでしょうが、立っていても座っていても、今のような「経済生活」「大量生産・大量消費」が止まらない限りは、「もう終わった」ということになるのです。

 世界各地で発生している「自然災害」と呼ばれる人為的な災害要因を持つ現象は、「収奪され」「打擲され」てきた地球の断末魔であり往生際だと、ぼくには映るのです。

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 35億人を襲う熱波、2070年までに居住不可能に 国際研究(インドは過酷な気温の下で暮らす人口が最も多い国の1つになると予想される)(右下図・インド地方の高温状況を参照)/NASA EARTH OBSERVATORY IMAGE BY JOSHUA STEVENS)(CNN・2020.05.06)(https://www.cnn.co.jp/fringe/35153349-2.html

⦿地球温暖化【ちきゅうおんだんか】= 石油・石炭などの化石燃料の大量使用などによって地球大気の温室効果が進み,気温が上昇すること。温室効果の中心となる物質は化石燃料の燃焼によって発生する二酸化炭素,メタン,フロン,亜酸化窒素などである。とくに二酸化炭素は,1991年時点の全世界の排出量が61.9億tC(炭素換算トン)と推定され,1950年から約4倍に増大している。1880年代からの100年間に地球の平均気温は0.3〜0.6度上昇,これに伴い海水面も海水の熱膨張などによって10〜20cm上昇した。《気候変動に関する政府間パネル》(IPCC)の予測によれば,大気中の二酸化炭素が現在のペースで増加すれば,21世紀末に平均気温は約3度上昇し,海水面は30cmから最高で1m上昇することになり,いくつかの島嶼(とうしょ)や都市の低地部では,何千万人もの住民が移住を余儀なくされる可能性もある。また世界中の生態系に影響を与え,異常気象が発生すると考えられている。2006年英国のニコラス・スターンが英国政府に提出したスターン報告では今世紀末まで温暖化を放置すれば世界のGDPの2割に相当する巨額の損失を被るという報告がなされている。発展途上国と先進工業国の経済的・政治的利害の対立等があり,地球環境問題の中で最も解決の難しい問題だが,解決のための国際的協調の枠組み作りが緊急に求められている。とりわけ経済成長で世界を牽引する,中国,インドの二大国の動向が鍵といわれる。(百科事典マイペディア)

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空高くものみな騰がる痩せる秋

【天風録】ことしも残り3カ月 秋冷の候…。知人に一筆したためようと時候のあいさつ集を繰って言葉を見つけた。しかし秋も深まり肌寒いと感じる人はまだ少ないだろう。9月に多く使われるらしい「秋涼の折」の方がぴったりきそう。例年よりも夏が延びた気がする▲書き出しが決まっても、筆を進めるのをためらう人がいるかもしれない。郵便料金がきょうから値上げ。はがきは63円を85円に、手紙は110円に一本化される。季節のあいさつ状で通じ合う文化が細らないといいが▲ことしも残り3カ月。思えば元日から激動続きである。特に能登半島にとってつらい月日だった。震災の傷が癒えぬうちに9月、記録的豪雨が追い打ちをかけた。まだ安否不明の人も。被災者の心身はもう限界ではないか。一刻も早くケアしなくては▲石破茂政権がきょう発足する。「一人一人に笑顔が戻ってくる国を、必ず」と強調していた。被災地の復旧・復興へ野党も早急な補正予算を求める。だが首相就任前のきのう早くも衆院解散・総選挙の日程が示された▲補正予算などそっちのけで10日足らずで解散とは。総裁選で語ったことと矛盾しないか。何を考えているのか。さすがに一筆啓上し、問いたくなる。(中国新聞・2024/10/01)

 ・空高くものみな騰がる痩せる秋 ・買う側も負けず劣らず音を上げる(貧窮老人) 

 神無月に入りました、諸物価が値を騰げました、では洒落にもならない。自分で作れるものを作らず異国に頼り、自作物も季節を選ばず、化石燃料やハウス栽培に依存する。独立・自立が聞いて呆れる為体(ていたらく)です。夫婦二人の高齢者生活であっても、諸物価高騰の高波・低波は避けきれません。これに加えて、拙宅には猫さま数多(あまた)屯(たむろ)しているし、外からの寄食者(猫)もいる始末。人聞きは悪いから大きな声では言えませんが、人間にかかる食費より、猫さまに使う食糧費が高いという、そんな気も以前からしているのです。正確に計算しないのは、心臓や懐によかろうはずもないから。

 毎日のように買い物に行くから、モノの値段はそれなりに把握しています。野菜や魚、肉類に食パンと牛乳、そして卵なども、貧しいながらも毎日の食卓には欠かせない必需品。それに電気・ガスなどの光熱費もまるで月ごとに高騰しているかの錯覚を持つ。さらには田舎の辺土に居住する身としては、生活の足である車は欠かせない。ガソリン代がいっかな下がる気配がないのはどうしたことか。ここでもまた、他国・他者に依存しきりでは、自立できない貧国の悲哀を痛感するばかりです。打つ手はあるかと問われれば、あるはずもないだろ、そう返答するしかないのです。

 いまさら、政治や行政の不為・不作を嘆いても、呪っても始まらぬとは誰よりも自覚しているつもりですが、愚痴の一つ、悪態の一つも吐き出したくなるのもやむをえない。それで一瞬は気が済むかもしれぬが、生活が立ち行かないとなれば、某国の大統領候補よろしく「犬を食う」「猫を食う」というあられもないフェイクを実践したくなる(というのは、真っ赤な嘘)。今では酒も煙草も無縁になったが、仮に悪癖・悪習を続けていたらどうなっていただろうか。酒代煙草代を巡って、かみさんや猫たちと諍(いさか)いが絶えなかったかもしれない。早くに縁切りできたが故の、今であります。

 アメリカを襲ったハリケーンのものすごい破壊力に肝を潰している。今の段階で、死者は百人を超え、数千人が行方知れずという。フロリダをはじめ沿岸から内陸地域にはあまたの災厄がなお続いているのです。翻って、能登半島の惨状を窺う。これでもか、これでもかと打ちひしがれる被災者に、これでもかこれでもかと為政者は止(とど)めを刺そうとするような無策・虐政を排する景色も認められない。何を考えて要路に立つのかと、詮方ない譫言(うわごと)を溢(こぼ)しそうになる。

・台風過神も仏も手薄なり(新井智恵子) ・天よりす豪雨地表を覆ひたり(日野草城)

 朝から小止みなく時雨が続きます。酷暑に傷(いた)められた大地、生類を優しく慰めるかの如くにそぼ降る。この先、時雨変じて豪雨とならないか。南海上には二つの台風が劣島を窺っています。あるいは本日の午後、当地は豪雨に見舞われるかもしれない。いささかの油断もかなわない、天の変であり、地の異であるのでしょう。やがて来るべき、秋天の抜けるような爽快さを期待しつつ。

・富士秋天墓は小さく死は易し(中村草田男さんにありました、「秋天」の一句)  

・ふるさとを同じうしたる秋天下(さらに高野素十氏の一句も)

何事もなくそれだけを祈る秋(無骨)(右は梅原龍三郎・画:「北京秋天」)

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