

A Suburban White Supremacy / ©2020 ROGERS-ANDREWS McMEEL SYNDICATION ↑ トランプがすがる「白人主婦」幻想へのノスタルジー(パックンの風刺画コラム) Superpower Satire (USA) ジューン・クリーバーは白黒テレビ時代にはやった米シットコム『ビーバーちゃん』に登場する主人公のお母さん。アメリカ「黄金時代」の郊外に住む典型的な白人家族の象徴だ。漫画ではトランプ大統領が自らの選挙スローガンをもじった言葉で、そんな白人専業主婦の偉大さを取り戻すとエプロンで主張している。/ 漫画のトランプ母さんは白人至上主義団体KKK(クー・クラックス・クラン)の頭巾を模したクッキーを焼いている。「黄金時代」といっても、先進的な北部も含めて多くの街に黒人が住めない地区があった。ビーバーちゃんは心温まるファミリードラマではあるが、白人のみの「理想」を描いている。実際、公民権運動真っ最中の1957年から63年の間に放送された全234回中、黒人がしゃべったのは1回だけ。テレビは白黒でも、映っていた社会は白のみ。(以下略(https://www.newsweekjapan.jp/satire_usa/2020/08/post-40.php)
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ぼくはアメリカに幻想もあこがれも抱いてはいません。今頭の中にはかなりの部分、彼の国に存在した哲学者や思想家、あるいは社会論や法律問題などに関する研究者の問題意識が占めていることは事実であり、それを隠す必要も感じてはいません。あえて、いえば、良質の部分、それをぼくは、若いころから吸収しようとしていたと思う。誰から教えられたわけでも唆されたのでもありません。しばしばこのブログまがいに書いたように、ジョン・デューイや、ソロー、あるいはそこにつながるプラグマティスなど、その他多くの教育者や教育改革者たちからも影響を受けてきました。明確に言えるのは、彼らは少なくともぼくが知る限りでは「人種差別主義者」(racist)などではなかった。また、ポリティカルコレクトネスの危うさも感じてきました。(*)

● ポリティカル‐コレクトネス【political correctness】 の解説 人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない、中立的な表現や用語を用いること。1980年代ごろから米国で、偏見・差別のない表現は政治的に妥当であるという考えのもとに使われるようになった。言葉の問題にとどまらず、社会から偏見・差別をなくすことを意味する場合もある。ポリティカリーコレクト。PC。政治的妥当性。[補説]「ブラック」を「アフリカンアメリカン(アフリカ系アメリカ人)」、「メリークリスマス」を「ハッピーホリデーズ」、「ビジネスマン」を「ビジネスパーソン」と表現するなどの例がある。日本語でも、「看護婦・看護士」を「看護師」、「保母・保父」を「保育士」などの表現に改めたことが、これに相当する。(デジタル大辞泉)
いい悪いの問題ではなく、デモクラシーが見果てぬ夢であったとしても求め続けるに値するものであるということも学んできました。人間存在の核心部にある価値、それは認めるほかに接しようがないものです。互いがその価値を見出さない限り、抑圧や圧迫、はては暴力の支配が勢いを得てしまいます。政治が勢い「数の争い」となり「勝てば官軍」とばかり、少数者や自らに都合の悪いものを弾圧する、これが白昼罷り通っているのが現実です。誰が他国の大統領になるか、それはぼくの関心事ではあっても手の届かない政治問題です。でもそのことが直接間接に、この島社会に波及するとなると問題は別の話になります。地球は狭くなった分、ぼくたちはいろいろな悪影響もこの身に受けることになります。
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