杯から手を離したことはなかった

「正平調(せいへいちょう)」は神戸新聞のコラム。ぼくの好きな読み物の一つでした。

 《 放哉の事を思ふと、まことに夢の如くでもあり、又、ふしぎな因縁があるやうにも思はれる。彼と私と知り合ったのは一高に居た頃である、其事を彼は「入庵雑記」の初めに書いてゐたが、一高俳句会の席上で顔を合はすといふだけで、格別ふかい交際をした訳ではなかった。当時、夏目漱石の「我輩は猫である」が評判になってゐたが、一高の校友会雑誌に「我輩はランタンである」といふ文章を書いたものがある、ランタンとは消燈後寄宿舎の廊下に吊してある油燈で、其油燈自身の見る所として、消灯後の寄宿舎の百鬼夜行する様を描いたのである。それは実に明暢自由なる達文であって、誰が書いたのだと喧しかったが、其の筆者は彼、放哉だったのである。大学時代には彼はさして勉強もせず、又、俳句もさして熱心でなかったらしい。鎌倉の円覚寺へ行って参禅をしたのは其頃だったらう。卒業後、赤門出の法学士として東洋生命保険会社に入り、累進して契約課長の椅子を占めてゐた。俳句も気が向けば作るといふ風で、決して上手ではなかった。渋谷に家があった頃、同人達が時々遊びに行っても、句の話などよりも、まあ一杯飲めといふ風で、彼はいつも長火鉢の前にトグロを巻いて、杯を手から離した事はなかったといふ。彼の妻君が非常なハデ好きで、家では朝から風呂を立て、女中が二人もゐたといふ話である。

 彼が朝鮮火災保険会社の支配人となって彼地にわたり、突然、やめるやうになったまでの事情を私は好くしらない。彼はたゞ自分の「馬鹿正直」の為めだといってゐる。兎も角、彼は非常な決心をしたので、一燈園に飛込んで来た時は──彼は其妻君さへも、どこかへ振り捨てゝ来て、全く無一物の放哉だったのである。彼が、俳句に復活し、又、彼の俳句が光って来たのは、それからの事である。

 私と彼との密接なる交渉も其から始まる。十三年の春私が京都に来て、久しぶりで彼に逢ったのは、知恩院内の常照院であった。其寺へ、彼は一燈園から托鉢に来たのが縁故となって、常住の寺男に住み込んでゐた。私が尋ねて行った時、彼は一燈園(の)制服のやうな紺の筒紬を着て、漬物桶を洗ってゐたが、前から和尚に其日は暇を貰ふ事を話してあったらしく、手拭で身体をはたいて、其手拭を又腰にさして、私と一緒に連立った。何しろ久濶を叙する意味で、其夕、四条大橋の袂の或家で一緒に飯をたベた。彼は一燈園に入て以来、禁酒をしてゐたのださうだが、今夜は特別だからと云って、禁を破って大に飲んだ事だった。其翌日、私から再び常照院を訪れると、和尚の話に「尾崎サンはもう出て貰ふ事にしました」との事、聞けば前夜、院に戻ってからもメートルをあげすぎて、すっかり和尚の感情を害してしまったらしいのである。彼の流転生活はそれからはじまる。彼は常照院を追はれて、須磨寺に行き、須磨寺を出されて(之は酒の上ではなく寺内の葛藤のまきぞへを食ふたといふ訳)、小浜の常高寺に赴き、小浜では和尚の借金の弁疏係をしてゐたがお寺其物が経済的に破綻したので、彼も居たゝまれずに京都に戻って来た。私の京都の寓居に暫くゴロゴロしてゐたのは其頃である。彼はやはり寺の下男がいゝ、とて、三哲の龍岸寺といふ寺へ行ったが、そこの和尚とは性格的に全く合はないので、又飛出して来た。さうした流転生活の初まりは、四条で酒を飲んだ事(私が、まあ今夜はよからうと飲ましたといっていゝかもしれない)に因を発するとすると、私も大に責任を感じなければならぬ訳である》(荻原井泉水「放哉の事」)

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 引用文は、尾崎放哉の死に直面しての、井泉水の追悼の辞の一部です。ぼくは下手の横好きというのか、俳句を齧ってきました。(なんでも齧るのが好きで、途中で放り出してしまうという悪癖があります)作るのも、鑑賞するのも大好きです。井泉水は正統俳句をたしなみつつ(虚子の弟子だった)、自由律俳句という前人未到の荒れ地を開拓し、放哉や山頭火がその沃野に育ちました。とくに放哉は(高校・大学の)一学年下という気安さもあり、終生の付き合いがありました。「十三年の春私が京都に来て、久しぶりで彼に逢ったのは、知恩院内の常照院であった」とあるのは、「大正十三年(1924)」のことで、尾羽打ち枯らした放哉との再会の場面です。

 翌(あす)からは禁酒の酒がこぼれる(荻原井泉水)

 久しぶりの邂逅、直後には別れ別れになる。「断酒」を決めていた放哉をたしなめて「まあ、一杯くらい、いいじゃないか」と勧める井泉水。「(放哉の」流転生活の初まりは、四条で酒を飲んだ事(私が、まあ今夜はよからうと飲ましたといっていゝかもしれない)に因を発するとすると、私も大に責任を感じなければならぬ訳である」という塩梅なんです。ぼくは井泉水もよく読みました。「自由律俳句」はそれなりの歴史があるもので、ぼくが尊敬していた近藤益雄という教育者にもたくさんの秀句が残されています。彼もまた、井泉水の筋の人でした。(以下は、光彩陸離たる井泉水の句群から、さて「星を拾う」とすれば、どんなものか。井泉水句中の「星々」です)

佛を信ず麦の穂の青きしんじつ
 
空を歩む朗々と月ひとり
 
石のしたしさよしぐれけり

●荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)=俳人。明治17年6月16日、東京・芝神明町(現港区浜松町)に生まれる。本名藤吉(とうきち)。中学時代より作句し、1901年(明治34)旧制第一高等学校に入学し、角田竹冷(つのだちくれい)の秋声会、岡野知十(ちじゅう)の半面派に関係し、のち正岡子規の日本派に参加し一高俳句会をおこした。05年東京帝国大学言語学科入学、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)の新傾向俳句運動に加わり、従来の俳号愛桜(あいおう)を井泉水と改めた。08年東大卒業。碧梧桐と11年4月『層雲』を創刊したが、季題について意見を異にする碧梧桐が大正初頭同誌を去り、井泉水は季題と定型を揚棄した自由律俳句を唱え、門下から野村朱鱗洞(しゅりんどう)、芹田鳳車(せりたほうしゃ)、尾崎放哉(ほうさい)、種田山頭火(さんとうか)らの作家を出した。句集に『原泉』(1960)、『長流』(1964)、『大江』(1971)、主著に『俳句提唱』(1917)、『新俳句研究』(1926)、『旅人芭蕉(ばしょう)』正続(1923~25)、『奥の細道評論』(1928)など。65年(昭和40)芸術院会員。昭和51年5月20日没。[伊澤元美](日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。