現実のなかに正路を開拓しよう

 《 あらゆる学校のあらゆる学級に何人ものサキがゐる。彼等に対して、教師はどのやうな態度で接しなくてはいけないか。その理論を堅固(けんご)に作り上げない限り、解決はあり得ない筈(はず)であつた。傷口に膏薬を貼るやうな姑息な方法ではなく、傷を根治させるための、更には滅多に傷を負はぬ強靭な体質に育てるための理論の構築。しかし、果してそんな事が可能であらうか。

 教室での教育には、当然ながら限界がある。教科書がなくて教師の裁量に任される場面の多い綴方は、指導を通して子供の生活に触れる部分が大きく、それ故に教師の情熱の対象ともなり得たのだが、サキの例は、それにも限界があるのを教へて呉れたやうでもあつた。本当に教育者であらうとすれば、先刻も不充分ながら議論されたやうに、学校教育からはみ出した部分にまで触手を伸ばして行かなくてはならないだらう。若(も)しかすると、生活綴方の根本は、もともとさうした教室内の綴方科からはみ出した部分に求めるのが本来であつたのかも知れない。だが、六十人もの生徒を相手にして、果して誠実が貫けるだらうか。彼はそこでまた堂々巡りをしないわけには行かなかつた。どうすれば、何をすればいいのだ、この惨めな土地の教師は 》(高井)

 サキの仕事さがしは困難をきわめました。男鹿の話はまとまらず、子守奉公くらいがせいぜいでした。それは「職業」といえるものではなかった。サキの担任教師は父親を説得して「小学校の補習科」に進学させた。二年修了の補習科では主として裁縫の指導をすることになっており、就職に有利だと考えたからでした。しかしその一年後、サキは補習科を辞めた。金がつづかなかったからだ。

 それからは由利郡前郷の教師の家に「女中奉公」に出ますが、「女性として居たたまれないやうな事情」もあって、一年後にはそこから逃げだします。その後、金浦の菓子屋に一年、薬屋に四年。そして、二十三歳で塗装業の男性と結婚した。三人の子どもを育てるのに、ソバ屋の手伝い、保健の勧誘員、二十㌔もの昆布を背負って行商にもでました。ようやく生活が落ち着くのは昭和も四十年代だったそうです。生活苦との闘いは何十年もつづいたのでした。

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 「北方教育」と呼ばれた教師たちの実践

 秋田を中心として、大変な課題に挑戦した教師たちの実践を考えてみることにようとしています。この教育実践の「狼煙(のろし)」のように評価され、多くの教師たちに衝撃を与えたた小さな詩、まず最初に、その詩(生活綴方詩)を読んでください。(この情趣はきっと分かりづらいだろうと想像しています)

   汽 笛(きてき)   (秋田県金足西小学校4年生)

 あの汽笛          

 たんぼに聞こえただろう

 もう あばが帰るよ

 八重蔵 泣くなよ

  北方教育の中心となって困難な仕事を導いたのは成田忠久という人だった(1897年9月~1960年10月)。1929(昭和4)年に「北方教育社」を興し、翌年には雑誌「北方教育」を創刊。北の地方から全国に「生活教育(=子どもの生活に密着し、子どもの生活を子ども自身でつかみなおさせるための教育)」の実践を呼びかけた人でした。今、日本海に面した秋田県山本郡八竜町の役場前に「記念碑」が立っている。しばらく八竜町の浜田尋常小学校の代用教員をつとめた縁からです。

 (十年ほど前だったか、ぼくは秋田県を取材に訪れた。その際、成田さんの「記念碑」を探して、その近くの役場(三種だったか)に入った。理由を説明して、「どこにあるのでしょうか」と尋ねたら、職員さんは成田もしならければ、北方教育も知らなかった。昭和は遠くなりにけり。帰ろうとした瞬間、一人の方が「石碑でしょ」と声を出し、「あのバス停にあるのがそれじゃない?なんか大きなのがあるから」といった。役場前の停留所の横に大きな碑が建っていた。碑文を読み、写真を撮った。確かに記念碑だった「北方教育の父」と成田忠久さんを湛えていたが、ぼくは悲しくなった。役場のだれ一人、興味も関心もなかったのです。そんなもんだな、と何か寂しくなりながら、役場を出たのでした。職員さんを非難するのではありません。写真はフィルムのままカメラに入って、今も手つかず)

 成田は後に「北方教育の父」などと称されるようになった。幼児期に両親を亡くし、母親の実家で育つ。第一次世界大戦では通信兵として従軍、青島(ちんたお)に滞留しました。復員後の代用教員経験が成田さんを学校教育の裏方(支え役)に導いたのです。

 《 子どもの自主性、創造性をのばそうとする大正自由教育に打ちこむ青年教師だった。グループ学習や童謡劇、綴方も取り入れた。運動会では午前中の記録をガリ版で刷って速報として配り、自分が作詞した校歌に振り付けしたマスゲームを披露し、村民を驚かせた。が、校長の不義を偶然見たという理由で退職させられる 》(佐藤国雄『人間教育の昭和史「山びこ」「山芋」』朝日新聞社刊。1991年)

 代用教員を退職した後、秋田市内(市内には秋田連隊があり、そこが得意先だった)で豆腐屋を開業。その利益で「北方教育」を支えます。彼のまわりにはたくさんの教師たちが集まった。東北はいうにおよばず、関東や北陸、そして全国から有形無形のつながりを求めた教師たちでした。滑川道夫、近藤国一、佐々木昂(こう)、加藤周四郎、鈴木正之、佐藤忠四郎ら。さらには、国分一太郎、鈴木道太、池田和雄、平野婦美子、近藤益雄、寒川道夫などなど。成田さんが「北方教育社」を起こした昭和4年当時、東北地方の生活状況は厳しさの度を増していた。宮澤賢治が「雨ニモマケズ」を書いたのは昭和六年。亡くなったのはその二年後だった。

 《 成田らが北方教育をめざした二九年、世界大恐慌が起こり、米価の下落、不景気…。翌年には日本にも波及、さらに全国的な凶作で、とくに東北の農山村の生活は崩壊寸前だった。長期欠席、身売り、欠食児童など、を目の前にして東北の教師たちはもの言わぬ子どもたちの生活環境(生活台)にとび込み、生活のありのまま、本音をつづらせ、そのなかから子どもたちに生きる意欲をもたせようとした 》(佐藤・前掲)

 《 百姓の子は都会の子どものように感覚が浮動していない。鋭敏でない。悪くいえば牛のように鈍重(どんじゅう)だ。鈍重な牛を動かすほど農村の鞭は深刻で凶暴な風格をしているのだ。/ 百姓には都市生活者のような虚飾がない。食われなくなれば馬を売る相談を子どもの前で実直に話している。せわしくなれば乳飲み子を三年や四年の子どもの首にぶらさげて田畑へ出る。/ 十か十二の女の子に父親の昼飯の心配させるような家庭なのである。こうした家庭だけなのである。

 子どもとおとなの境はない。子どもはおとなの言葉をあたりまえに使っている。「不景気、不景気」という言葉をあたりまえに言っている。ただ関心の程度が深いか浅いかである。/ 子どもの自己凝視はまず自己批判としてしだいに批判精神を増大していく。(中略)  客観的な現実と特殊的な個人との統一の上に一切の幻覚を清算し、生活の真実へ緊迫してきた。ここでもう一度われわれは文学と綴方(重要な部分)の一致した動向をみなければならない 》(佐々木昂「菊池勇氏の文藝運動と綴方教育」『北方教育の遺産』所収。日本作文の会編集。百合出版刊)

《 どこまでも、生活にしがみついて、自分をうちたてていこうとする意志は、現実なる諸条件のうそでない認識から明朗に発足すべきものだ。/ 皮肉と風刺の中におちこむ超越的態度を警戒しよう。/ おっかぶせて子どもを引きづる観念的な盲信を反省しよう。/ ここにのみ、ぼくたちの子どもたちとともに、彼らの生活を愛する情熱が生まれてこようというものだ。この情熱的実践行を、ぼくたちは時代の教育者として態度する 》(成田忠久「実践の方向性」『北方教育』第十四号。昭和九年八月)

 「現実のなかに正路を開拓しよう」貧困を極めた子どもたちを前にして、教師たちは「宣言」した。

 (「サキさん」の後日談があります。高等小学校を中途でやめて、さまざまな苦労を重ねながら、彼女は東京に出ます。そこでも辛酸をなめながらの生活は続きました。やがてようやく家庭がが落ち着き、ほっとしていたころです。テレビの取材があり、彼女は「北方教育」の経験者として語りだしていました。その様子を遠くはなれた秋田県由利本荘の地で臥せりながら観ていた人がいました。それは誰あろう、鈴木正之さんでした。涙を流しておられました。

 鈴木正之の「綴方」の授業を聞かれてサキさんは、感慨深げに「これまで、いろいろと大変な生活だったけれど、今このようにして生きているのは、やはりあの時の先生方のおかげだった」と。もう少し詳しく述べられればと、機会を改めて書こうと考えています。

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