使われる人を育てる

 結局、日本の教育は「使われる人間」しか育ててこなかったのではないか。学校はだれかに、あるいは何かに使われるためのトレーニングの場にすぎなかったこと。おとなしくか、要領よくか、有能にか、ともあれわが身を、使われる人間としてしか思い描けない日本人ばかりを育ててきたのではなかったか。

 使われる人間は、寂しい。独りで、ばらばらに生きることしか知らないから、リストラや倒産や定年で辞めたとたん、友だちは散ってゆき、いっきに萎(な)えてしまう。こうした人々の群れが、これからの一年間、この国の底に澱(おり)のように溜(た)まっていくのだろう。(吉岡 忍「みずから動く人間を育てよう」朝日新聞・05/01/15)

 使う人がいれば使われる人がいます。人それぞれの能力や性格、あるいはその他の条件によって立場が分れるのが当然です。でも、吉岡さんがいわれるように日本の教育は「使われる人間」しか育ててこなかったといってもいいのかどうか。その傾向は顕著ですけど、「~しか」とはいえないのではないでしょうか。学校からはみ出す人もいますし、嫌な言葉ですが「落ちこぼれ」もいます。「落ちこぼされ」というのが実情に近いでしょうが。

 「人に使われる人間」は、一面では素直で従順でおとなしい人なのかもしれない。だから使われることに抵抗しようなどとは考えもつかないわけですね。その反対に、使われたくない人に対しては、意外と意地悪な見方をするのも世間です。素直じゃない、反抗しているなどと、いかにもたてつくことは許せないとばかりに攻撃的になるんです。

 「自分からは動かない。動きたくない、動けない大人たちは傍観を決め込んでいる。

若者たちはどうだろう。若年層の10人に1人が失業中だ。学校にも仕事にも研修にも行っていない、いわゆる『ニート』な若者に、私もときどき旅先で会う。彼ら一人ひとりは、私ほど露骨な言い方をしないけれど、使われる人間の窮屈さや哀れな末路をたくさん見聞している。なぜ無理してまで世間に加わらなければいけないのか、とためらっている」(同上)

 大人とはちがって若者は、といえなくなってしまった時代にわたしたちは生きています。「いまどきの若者は…」としたり顔して教訓を垂れていた大人どもがからっきし弱くなってしまったからです。やることなすこと、まったく若者(たんに年端が行かないというだけの意味です)とおんなじじゃんといいたくなります。もちろん、すべての大人がそうだというのではない。そんな大人がいかにも多いというのがぼくの実感なんです。

 結論でもなんでもありませんが、学校という空虚な場所に身も心も預けてしまって、手足をもがれてほぞをかんでいる人たちで埋まっているのが、この社会の実態です。昔も今も変わらないでしょうね、この実態は。学校というところは、だれかに頼らなければ生きて行けないと人びとに思わせる魔術を施すようです。あるいは麻薬なのかもしれない。頼られるより「頼る人」こそがこの島、この時代には必要だったからです。

 ペットをみればいい。飼い主に頼らないペット(がいるかどうか)なんてかわいくないし、なにより飼い主に嫌われていてはペットでありつづけることはできないでしょう。お手、といわれて手だか足だかを出し、泣けと命じられて、ワンとかニャーとかわい子ぶっていれば、食事にありつけることを勉強したペットは幸いなるか。実際は、どうか。けっして飼い主に丸め込まれてばかりではなさそうに思われないでもない。「ペット」とは「愛玩用の動物」といわれます。「愛玩」というのは「大切にし可愛がること」と辞書には出ています。ほんとにそうか。子どものペット化、ペットの子ども化が盛んになっている時代ではないですか。いいのか、悪いのか。

 つまり、学校がやっていることは人間の家畜化ならぬペット化ではないか。立てとか座れとか、右向けとか、教師は言いたい放題で、それに背けばレッテルを張られるんだ。しかも近年はなんとたくさんのレッテルがあることか。飼い犬に手を噛まれる飼い主といえば、笑えないジョークだけど、教えてやってる子(教え子というんだって)に噛まれる、じゃない、教えられる教師がもっとたくさんでてくればいいんですね。

 先に紹介した吉岡さんは次のように文章を結んでおられます。

 「人が人を動かす人間社会の原理は、これからも変わらない。雇用や上下の関係のないところで、一人ひとりはどう動けるのか。そのステージを社会と呼べば、やっと私たちは社会を作り始めたばかりである」(同上)

 吉岡忍さん(1948年、長野県佐久市出身)。ノンフィクション作家で、たくさんの作品を書かれています。もう何年も前に、ある会に呼ばれて、彼と対談(雑談)をしたことがあります。多分、横浜で。教育や子どもの問題についてだったと思います。ぼくは自分のふがいなさを棚に上げてというのではないつもりですが、「無所属」の人に強烈な敬意を抱いてきました。年齢的には吉岡さんはぼくよりも若い人ですが、尊敬する気持ちは今でもたいへんに強いものがあります。

投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。