いつもながら、芸のないことで、はなはだ恥ずかしい限りです。以下の引用は司馬遼太郎さんのエッセイ「赤尾谷で思ったこと」からの長い引用です。あるいは全文を引いてみようかとも考えたのですが、なにかと障りがありますので、それだけはやめにしました。
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越中庄川の上流に、赤尾谷という冬は雪にとざされる村がある。その村の宿にとまったとき、赤尾の道宗のことなど、あれこれおもった。赤尾の道宗とは、/「ごしやう(後生)の一大事、いのちあらんかぎりはゆだんあるまじき事」

という文章ではじまる「赤尾道宗二十一箇条」を書いたひとである。室町期のひとで、文章には文亀元年(一五〇一年)何月と日付が入っている。かれはよく知られているように、在郷の念仏信者で、蓮如に親炙した。道宗においておどろかされるのは、人間が人間に対してこれほど尊敬できるものかということである。
道宗は京からみれば僻遠の山中にいながら、年に何度か京へのぼって蓮如のそばに侍し、その法話を聴いてよろこぶだけでなく、蓮如の息の仕方から洟のかみよう、あるいは蓮如が無言でいるときのたたずまいにいたるまで、そこに何事かあるがごとくに感じとろうとする姿勢をとった。たまたま蓮如と道宗がいた世界が、分類的にいえば宗教の分野であったがために、われわれはこの両人の関係を、特殊な精神の感作や感応のおこなわれる世界として棚にあげてしまいがちだが、それにしても道宗の蓮如への傾倒はすさまじすぎる。
あるとき、はるばる京からもどってきて、この山中の自分の屋敷の縁側に腰をおろし、わらじを解こうとした。このとき京で忘れものをしたことに気づく、そのままわらじを結びなおしてふたたび京の蓮如のもとにっむかって発ったというのである。忘れものというのは、自分の妻女に頼まれていた事柄であった。妻女はかねて道宗に、「こんど京へのぼられたとき、自分のような者にもわかるような御言葉をちょうだいしてきてほしい」とたのんでいたのだが、道宗はそのことを忘れて帰国し、妻女の顔をみて思いだしたのである。

この挿話は、百年前までの日本の社会にいた者なら感動したかもしれないが、現代ではむしろ滑稽感さえつきまとう。現代というのは、人間が人間を尊敬せずとも済むという思想もしくは機能をふくみこんでいるようである。子供があすは遠足だという場合、晴れなのか雨なのか、かつては母親にきいた。もしくは自分で即製のマスコットをつくって祈るという、軽微ながらも敬虔の念をもつ体験をした。そのことが、こんにちの機能性に富んだ社会では、母親もマスコットも必要とせず、さらにはそれと同じことを繰りかえすようだが、仰いで恃み入る姿勢を必要とせず、電話機に命ずればそれで用は完結するのである。子供にとって受話器のかなたからひびいてくる声に対し尊敬したり感謝したりする必要はなく、子供はその声を使用するだけで済む。子供が主人で、声は奴隷の立場にある。子供たちは万事、このような社会にいるのである。

以前の社会はそうではなかった。/ ひとつの原形として原始社会を考えれば、猪を獲る方法を身につけるには、村の名人に肌身を接し、赤尾の道宗が蓮如に対してそうしたように、名人の呼吸の仕方から咳ばらいの仕様、または山歩きするときの足腰の動かし方にいたるまで吸収せざるをえなかった。その吸収の仕方には方法というものがなく、その名人を全人的に尊敬してしまう意外になかったであろう。尊敬するという姿勢をとるとき、体中の毛穴までが活動し、何事かを吸いとることができるように思われる。
人間が生物としてはかない面があるのは、通常孤立して生きてゆけないことである。人間は人間との関係において生存を成立させている生物である以上、古来、自分以外の何者かを尊敬するという姿勢を保っていることによって社会を組みあげてきたように思える。
ちかごろ、若い母親が嬰児を殺したり、妊娠中にノイローゼになって自殺するといった事件が多い。その事例のほとんどが核家族においてあらわれているという。医者たちのいうところでは、一般に出産や育児に自信がもてなくなったというのがその心因であるらしく、こういう種類のノイローゼは原始社会以来、ごく最近までなかった。老人の体験や知識に対する尊敬心をうしなったためにその助言や助力を得られず、頼むところのものは市販の育児書だけであり、その関係はさきにふれたダイヤルをまわせば天気予報がきけるということに似ている。育児書の活字は、心のささえや、信頼すべき老人たちがおしえてくれるたかのくくりかたまで教えてくれないのである。このことも、人間が人間に対する尊敬心をもつという原始以来の習性をうしなったための、大げさにいえば文明史的な不幸というほかない。

教育の場では、子供たちに批判する心を育てねばならないが、同時に人間を尊敬するという心の姿勢もあわせてもたさねば、健康で堅牢な批判精神というものができあがらないであろう。(中略)
つい赤尾谷の宿で考えたために、道宗という重い例を持ちだしてしまったが、私がここで触れたかった課題はもっと軽い。人間が他の人間を尊敬するというこの奇妙な精神は、人間の生存のために塩と同様重要なものだということを言いたかっただけである、むろん血液の中の塩分がそうであるように少量でいい。それがもし人間の社会からなくなってしまえば、この生物の生存関係としての社会はごく簡単にくずれ去ってしまうにちがいない。そういう恐怖感をちかごろもっているのである。(『司馬遼太郎が考えたこと7』新潮文庫、2005年刊)(初出は1973年3月)
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「人間が人間に対してこれほど尊敬できるものか」、これがこの短文の核心でしょうが、それはまた同時に「人間が他の人間を尊敬するというこの奇妙な精神は、人間の生存のために塩と同様重要なものだ」という問題に直結しているのです。学校教育の不毛を嘆くのは当然として、その先に、後でもいいのですが、血中の塩分と同様に、人と人の間に「尊敬心」という別種の塩分が枯渇しているという恐怖心をいだくのは健全な心持だと思う。でも、その社会生活に不可欠の心持が多くの人々の中に育てられていないという状況に対する警鐘でもありました。
司馬さんの鳴らした警鐘乱打はやむことがないのです。その不幸の真っただ中に、ぼくたちは暗夜に手探りしているわけです。「尊敬」というのはなにか高尚なものをいうのではないでしょう。相手に対する「慮(おもんぱか)り」とも「思いやり」ともとらえられるものです。少しばかりの気づかいです。たがいが「少しばかりの気づかい(配慮)」を失って、他者と暮らすとはどのようなさまをいうのでしょうか。
道宗は生年は不詳、1516年に没。富山県五箇山赤尾谷の人。妙好人(在俗の篤信者)とされます。「妙好人」*とは浄土宗や浄土真宗における篤信者をさす言葉で、とくに浄土真宗では俗世にある篤信の人を言いました。
*「真宗を中心とした浄土教の篤信者のこと。《観無量寿経》が念仏者を〈人中の分陀利華(ふんだりけ)〉とたとえたのを,唐の善導が《観経疏散善義》で注して,〈人中の好人,人中の妙好人,人中の上上人,人中の希有人,人中の最勝人〉と称したのに始まる。本来は念仏篤信者に対する褒賞語で,法然,親鸞,一遍などもその意に用いたが,江戸時代末に《妙好人伝》が板行されて以後,とくに真宗の在家念仏者の篤信家を指す語となった。そのほとんどは農民を中心とする庶民的な念仏者で,その生活がすべて念仏中心に展開するのを特色とする」(世界大百科事典第2版)
若い時に、五箇山には当地出身の友人に誘われて一夜の宿、地酒(三笑楽?)をたしなみ、翌朝は二日酔いのままにひどい雑談をしてしまいました。ぼくよりはるかに年上の方々(何人おられたか、百人は越えていました)を前に「山の人生」から学ぶというような暇話でした。
この文章を書かれた時代、司馬さんはまだ四十代だったと思われます。じつに溌剌としていました。その後はすこしどころか、まことに偉大な存在となられたのか、ぼくにはわからない部分も出てきましたが。しかし、よく読みました。肩や肘に力みのない文章(表現)にはずいぶんとあこがれたものです。関西人(兵庫生まれの大阪育ち)の軽妙洒脱・洒落っ気もほどよい加減でありましたね。