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本日から十一月。陰暦の霜月朔日です。霜月といって、咄嗟(とっさ)に浮かんだのが表題句でした。「霜月やかたばみ咲いて垣の下」この句にいささかの思い入れがあったからでしょう。作者は村上鬼城(きじょう)、群馬は高崎の人でした。彼の生涯の履歴にぼくは疎いのですが、その作品には強く惹かれてきました。自己主張をするでもく、淡々と季節の風情を詠むでなく、その中にはどこかしら、物寂しげですらある陰影が刻されているようです。それでいて、もちろん人間が有する矜持というものさえも感じられてきます。そこにぼくは強く惹かれる。
もう一つは、鬼城氏の句から誘発されたものでもありますが、「かたばみ」という草花にもぼくはいくつかの想い入れがありました。少し季節は外れているようにも思われますが、拙宅の荒れ庭に、いかにも可憐そうに咲いている、その風情にいろいろなことを妄想しますね。実はこのカタバミについては、おふくろの面影が強く宿っています。これもいつのことだったか、高校生の頃、あるいは大学に入ってからだったか、さらには結婚してからだったか。たぶん、ぼくが結婚して家を作ったときに小さな庭に芝生を植えたのだったが、その芝生の間から、「かたばみ」が伸び出してきた、その時におふくろが京都から出てきていたのだったと思う。「これはかたばみというて、うちの家紋なんや」といったことを今でもはっきりと覚えています。クローバーに似て、しかし最も強い生命力を持った草花。この「かたばみ」の家紋だけでも何十種類もあるといいます。おふくろの言う「家紋」は父方のものだったと思う。親父は土佐の高知出身だったからか、長曾我部の家紋がつけられていました。(これにぼくは全くの無関心だったので、その話題(家紋云々)の内容は何も知らないまま)

ぼくにはほとんど関心が湧きませんでしたけれど、「剣片喰(けんかたばみ)」というのがそれや」とおふくろは言ったのを、どうしてだか、ぼくは忘れないで鮮明に覚えている。家紋以上に「かたばみ」という草類をはっきりと教えられた思いがするのですね。ぼくは家紋など使ったことはないし、それを意識したこともありません。正装時の衣装に「紋付(袴)」「羽織(袴)」なるものがあり、そこには「紋所」が織り込まれています。ぼくは「紋付」を着たことは一度もないが、今だって「落語家」などはそれがトレードマークになっているでしょう。
家紋の由緒や歴史はおそらくかなり古いものでしょう。誰も彼もが家紋を持ち出して生きていたわけではなく、それなりに権門・勢家が自らの地位や権力を誇示するために工夫されたものだと思います。「源平藤橘」などがその淵源かもしれません。それを武士が倣ったというように、またそれを平民が模倣したようにして、今日までつながってきたのではないでしょうか。(そんなものは、ぼくには無用ですがね)、

今でも結婚式やお葬式の際に使われる提灯などにも、それぞれの家紋(紋章)が使われています。どこにでも見られる「墓石」には必ずといっていいほどに「家紋」が彫られています。まんまと「石屋さん」の商売に載せられたのでしょうか。それは、誰にとっても、ある種の自己・自家の帰属意識の根拠、「旗印」にもなるもだったかもしれません。でも、今どき、それを意識している人がそれほどいるとはぼくには思われませんが。徽章(きしょう・バッジ)などもこの類でしょう。国柄や家柄を誇るのは人情というか、人間の常の心持ちなのかもしれませんが、それが必要以上に強調されると、いろいろと差し障りが出るというもの。「名門」「一流」「由緒」を誇示し見せびらかすのは、今となれば、醜悪でさえあるようにぼくには感じられますが。
大学に入った早々に、ぼくは図書館で「日本の家紋」に関する大著を何冊か眺めていたことがあります。どうしてだったか動機は忘れましたが(偶然のことで、たぶん暇すぎたのでしょう)、紋章(家紋)だけでも数百はあるという記録や紋章(家紋)のいろいろ(歴史)に、とても驚いた経験がありました。「議員バッジ」も似たようなもので、実際は、それをつける人間の中身の問題なんですよね。
表札
自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。
自分の寝泊まりする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことはない。
病院へ入院したら
病室の名札には石垣りん様と
様が付いた。
旅館に泊まっても
部屋の外に名前は出ないが
やがて焼き場の鑵にはいると
とじた扉の上に
石垣りん殿と札が下がるだろう
そのとき私がこばめるか?
様も
殿も
付いてはいけない、
自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る。
精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい。(石垣りん)
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◎ カタバミ(かたばみ / 酢漿草)= [学] Oxalis corniculata L.カタバミ科(APG分類:カタバミ科)の多年草。全体に薄く毛が生える。根は肥厚し、そこから地上に多くの走出枝を出し、上部は斜上して長さ10~30センチメートルになる。小枝が多く、地に接する茎からさらに細い根を出すことがある。葉は根生し、また茎上では互生して、長柄の先にクローバーに似た3枚の小葉をつける。小葉は幅約1センチメートルの扁倒卵形(へんとうらんけい)で先端がへこみ、裏と縁(へり)に毛があり、昼は開き夜になると裏を外側にして二つに閉じる。普通は緑色であるが、紅紫色や緑紫色のものもある。花期は6~9月。花序の軸は直立茎の上に腋生(えきせい)し、ほぼ散形に1~8個の花を下向きにつける。花は黄色、径約8~10ミリメートル。萼片(がくへん)5枚、花弁5枚。雄しべ10本、子房は上位で5本の花柱がある。蒴果(さくか)は円柱形で長さ2~2.5センチメートル。細かい毛があり、熟すと5裂して暗褐色の種子を多数はじき出す。種子は広卵形で横じわがある。北海道から南西諸島、小笠原(おがさわら)に生育し、世界の暖温帯に広く分布する。全体にシュウ酸を含むため酸味があり、スイモノグサともいう。葉形が美しいので家紋(酢漿草紋)として用いられてきた。観賞用にはオキザリスの名で、熱帯アメリカ、アフリカ原産のものが十数種栽培されている。(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)
◎ 紋章【もんしょう】=家の標識として用いられる図様。紋,家紋,定紋,紋所ともいう。また広義には,都市,学校,会社などの標識図様も含める。日本では平安時代中ごろ,貴族が車や輿(こし)につけた車紋が初めで,そこから家紋の風が生まれ,やがて武家も紋をもち,旗,武具,幕などにも付するようになり,図様も多くなった。武家には,名門の末流と称してその紋章を自家の紋とする風も多く,また一家で表紋,裏紋,本紋,替紋など10余個の紋を用いたりした。江戸時代,紋章は装飾的な意味が強くなり,また苗字(みょうじ)をもてない町人なども紋章を用いるようになって,加賀紋,伊達紋,鹿の子(かのこ)紋,比翼紋などが流行,姓氏と家紋の関係は次第に薄れた。このような経過につれて,紋章は多様化し,通常広く用いられるもので300〜500,変形などを入れると数千に達するとされる。ヨーロッパでは,12世紀十字軍士の付けた標識に始まり,初めは王侯貴族の特権であったが,のち地方の州,都市,司教区,同業組合,学生団体なども紋章をもてるようになった。その形式は盾(たて)形と冑(かぶと)形を基本的要素とし,さまざまな図案が用いられる。(「百科事典マイペディア」)

◎ 剣片喰紋(けんかたばみ)は、ハートの形の3つの葉を三方向に広げて描いて、それぞれの間に剣を伸ばして描く。通常の『片喰紋』とは上下が逆になっており、剣が上にくるように配す。俗説として、農民が「片喰」を使用し、武家が「剣片喰」を用いるといわれるが、高名な武家でも片喰を使っており、この説は信憑性に欠ける話である。(「家紋のいろは」:https://irohakamon.com/kamon/katabami/kenkatabami.html)
◎ 霜月(しもつき)= 陰暦11月の異称。だいたい陽暦の12月にあたる。この月になると霜がしきりに降るから霜降月といったのが、霜月に転じたといい、露ごもりの葉月、神楽(かぐら)月、雪待月などともいう。冬も深みゆく季節で、まだ極月(ごくげつ)師走の慌ただしさは世間にもみられず、冬の季節に入ったことをしみじみと味わう日々が続く。歌舞伎(かぶき)の世界では、この月の1日を顔見世といい、元旦(がんたん)の心でこの日を祝うが、これは中国古代の周の風俗に倣ったものともいい、周正(しゅうせい)、周の正月などの名もある。(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)
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表題句の作者・村上鬼城氏の句、いくつかを。この「霜月やかたばみ…」の句には、鬼城氏の佇(たたず)まいというか、その風趣・風貌・風情がきっちりと詠みこまれているように、ぼくには思われます。その「姿形(すがたかたち)」はまるで「カタバミ」のようでもあると。ご当地高崎市では「境涯句を詠み続けた高崎が生んだ近代俳句の巨星」(高崎新聞)ととても大事な存在として誇っている風がよく見えます。
・痩馬の あはれ機嫌や 秋高し ・いささかの 金ほしがりぬ 年の暮 ・麦飯に 何も申さじ 夏の月 (同上新聞より)

〘鬼城の句は、人生の悲惨事をなめつくして初めて得られるところに特徴があり、これを「境涯の句」と呼んで評価したのは、大須賀乙字という俳句評論家です。大正6年に出版された『鬼城句集』の序文で、「明治大正の御代に出でて、能く芭蕉に追随し一茶よりも句品の優った作者がある。実にわが村上鬼城である」と述べています。実際、鬼城俳句には人生について深く考えさせられる作品が多くあります。(以下略)〙(高崎新聞)(http://www.takasakiweb.jp/takasakigaku/jinbutsu/article/23.html)
・霜月やかたばみ咲いて垣の下
・あるたけの藁かかへ出ぬ冬構
・短日や樫木原の葱畑
・ほの赤く掘起しけり薩摩芋
・秋の暮水のやうなる酒二合
・冬蜂の死にどころなく歩きけり
・新米を食うて養ふ和魂かな
・雹晴れて豁然とある山河かな
これらのいくつかの句は、ぼくの勝手な選択で、折につけて愛誦する「句たち」です)

(* 村上鬼城(むらかみきじょう)(1865―1938)= 俳人。江戸に生まれ、幼時高崎に移る。本名荘(しょう)太郎。11歳で母方の養嗣子(ようしし)となる。若くして耳疾を患い、ために軍人、司法官を志して果たさず、父の職を継いで高崎裁判所の代書人となった。『ホトトギス』の初期より投句し正岡子規(しき)の指導を受け、次いで高浜虚子(きょし)に就く。『ホトトギス』の有力作者となったが、耳疾のため裁判所を辞めさせられ、多くの子女を抱えて貧困と不遇の生活に甘んじ、動物に哀憐の目を注いだ独特の境涯句は大須賀乙字(おおすがおつじ)の激賞を受け、乙字編『鬼城句集』(1917)により一躍俳名があがった。その後愛知県発行の俳誌『山鳩(やまばと)』の選者に迎えられ、浅井啼魚(ていぎょ)らの尽力で大阪に鬼城会も発足し、生活もしだいに安定した。句集には前記と同名の『鬼城句集』(1926)、『続鬼城句集』(1933)のほか、『鬼城俳句俳論集』(1947)などがある。(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)
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