瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず

2026年7月
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 「文選」という文献をいつどのようにして読んだか、はっきりしません。もちろん、大学に入ってからだったのは確かで、暇に明かせて手当たり次第にぶつかっていったと思います。もちろん、何の案内もなかったわけで、それこそ手探りで、言葉(文章)の森に分け入ったという風でした。文字通りに「分け入っても分け入っても青い山」だった。

 少し「道草」を食(は)みます。この山頭火の一句は驚くほど人口に膾炙(かいしゃ)したもので、何度もあった山頭火の、ある種のブームの火付けの役目を果たしたものでした。彼は不惑を超えた時期に、人生の煩悶もだしがたく、世間からの出家遁走を試みます。御多分に漏れず、ぼくも他人につられて山頭火にのめりこんだ時代もありました。俳句という形式に飽き足りない発想や世界観が、自由律句という形無し・枠外れの表現形式が格好の場を提供したのでしょうか。この「分け入っても…」は、いよいよ坊さんになるかとお寺に入ったけれど、うまく受け入れてもらえなかった節に、熊本から宮崎に抜ける山中深くを歩いた際に作られた作品だとされます。山頭火、四十四歳の砌(みぎり)。

 ぼくの書き散らす「駄文」の山のあちこちに、山頭火の風韻・風狂が、ぼく自身の勝手な解説交じりで並べられています。この一句に関しても何度か触れました。繰り返し読んでみる。すると、何処まで行っても「青い山、また山だなあ」などという陳腐を突き抜ける、山頭火の衷心からの目覚め(決意)があった、その表出の句であることが判然とすると、ぼくは解します。「青い山」は緑のどこまでも濃い山間・山中の風情・風韻でもありますが、山頭火の句はそのようなありきたりの「青」ではなく、どんなに山中深く入り込んでも、そこにはきっと「青い山(死の影)」、つまりは墳墓(あるいは青木ヶ原という樹海)があるということだったでしょう。

 「人間至る所青山あり」(月照)この「人間」は「じんかん」と読んで世間を表すとぼくは受け止めています。世の中には「死に場所はいたるところにある」というのです。故郷や都会ばかりが活躍の場ではないこと、これにて明らかではないかと、山頭火は見たのでしょう。山頭火の言う「青い山」は、まさしく「青山(墓所)」だったと思う。出家者として、京都の寺院に生きることを願った月照青年は、やがて国事に奔走するようになる。最後は鹿児島錦江湾に、西郷隆盛と身を投げたほどの武者だった、そんな元僧侶の来歴を山頭火が知っていてもおかしくはないし、それに肖(あやか)ろうとした、その矢先に、人跡未踏と思われるような山間溪谷の地にも「人間の息吹・痕跡」を見たはずです。

 さて、道草を食むために入り込んだ「脇道」から、うまく出られますかどうか。世情、頓(とみ)に頽落の激しさを加えていますが、そんなものに付き合っておられるかという、ある種の意気(気分)もないわけではありませんが、それでは何をするという年でもありません。瓦解する国、崩れ行く社会とともに、自らもまた崩壊過程に入っていることを隠すものではありません。それにしてもと、大嘆息が出るのはなぜでしょうか。(右は、京都のある丘陵地にある「西行」のお墓と記された者。予期しないで、これに出逢った時には、それこそぼくは魂消(たまげ)たものでした。多分中学生のころ)

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 「文選」の中でも数少ない暗記ものの一つに「瓜田に云々」がある、その章句にこのところずっとこだわり続けているのです。「他人から疑いを向けられることはするな」というのは、ぼくの積年のモットー(自戒の教え)でもあります。心ある人は過ちを未然に防ぐものだし、疑いをもたれるような行いは厳に慎むもの。そんな「訓え」をだれに諭されたのでもなく、ぼくは我が身に堅持してきたと思う。つまり「瓜田に履を納めず」「李下に冠を正さす」と。八十を超えて、これまでにはっきりと記憶しているのは二度ばかり。先輩・友人から「君(ほど)のような人(あなたともあろう人)が、そういうことを言う(する)のか」と、おそらく窘(たしな)められた。今でもその「叱責の雰囲気」を忘れることはできない。

 君子防未然、
 不處嫌疑間。
 瓜田不納履、
 李下不正冠。
(出典・「文選 古楽譜 君子行」

 《「君子行」 君子防未然(君子は未然に防ぎ)不處嫌疑閒(嫌疑の間に処らず)瓜田不納履(瓜田に履を納れず)李下不正冠(李下に冠を正さず)嫂叔不親授(嫂叔は親ら授けず)長幼不比肩(長幼は肩を比べず)勞謙得其柄(労謙なれば其の柄を得)和光甚獨難(光を和らぐること甚だ独り難し)周公下白屋(周公は白屋に下り)吐哺不及餐(哺を吐きて餐らうに及ばず)一沐三握髪(一沐に三たび髪を握り)後世稱聖賢(後世聖賢と称す)》

 現下、この国の政治家のほとんどは「瓜畑(うりばたけ)で履《靴)を履きなおし」「李(すもも)の木の下で冠(帽子)をかぶりなおしている」、実に間違いと同衾(づきん)しつつ、それを最大の喜びとしている、そんなことをしきりに考え込んでしまうのです。政治家とは「聖人君子」の生業だったとは「夢のまた夢」。見るからに「疑わしいことを率先してやっている」のではないかと思ってしまうのです。もっと言うなら、おのれの欲望や利害にかかわることばかりが政治課題となっているというべきかもしれません。だれだってやっている悪行。バレなければいいのだ。バレたところで、白状しなければ大丈夫。「人の噂も一週間さ」という為体(ていたらく)。脱税、パワハラ、不倫、汚職…、まるでやりたい放題です。

 「皇室典範」改正問題が政治の課題というか、国会審議の俎上に上がっています。天皇は直系男子に限り認められ、女性天皇はまかりならぬ、と誰が決めるのか。「瓜田納履」「李下正冠」、そんな輩が跳梁跋扈しているさまが、事程左様に、ぼくのごとき老人にも明らかです。皇室の帰趨を「我がもの」にし、自らが、老醜も耄碌も委細構わず、「惟神の道」を詳らかにしないままに、肇国の「男尊女卑」の天皇家の家筋を守ろうというのです。「万世一系」という、ありうべからざる「みぞゆう」の麗しき伝統を、我らもまた継承しなければならぬと、勝手に思い込んで、君側の奸たらんと欲している御仁が、陰に陽に蠢いている、この状況を爆破・粉砕するがごとくに、断ち切りたいものです。惟神の道は「男尊女子」を旨とするなら、そんな「道」は歩かなくてもいいではないか。だれが、何を血迷っているのでしょうかね。

 (余談になりますか。米国からの報道によると、米大統領関連企業はイラン侵攻以降、純資産を何と「22億ドル以上」稼いだという。「李下に冠を正しっぱなし」。それも白昼であろうが、いつであろうが、ですね。真似る必要なないからね、日本の政治家諸君よ。)(つづく)

葦原笶水穂之国丹手向為跡天降座兼五百万千万神之神代従云続来在甘南備乃三諸山者春去者春霞立秋往者紅丹穂経甘甞備乃三諸乃神之帯為明日香之河之水尾速生多米難石枕蘿生左右二新夜乃好去通牟事計夢尒令見社剣刀斎祭神二師座者(巻13-3227) 
                      
(葦原の瑞穂の国に手向すと天降りましけむ五百万千万神の神代より言ひ継ぎ来たる神奈備の三諸の山は春されば春霞立ち秋行けば紅にほふ神奈備の三諸の神の帯にせる明日香の川の水脈速み生しため難き石枕苔生すまでに新夜の幸く通はむ事計夢に見せこそ剣大刀斎ひ祭れる神にしませば)

(「万葉百花」奈良県立万葉文化館:https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=3227)

 (ヘッダー写真「太平記絵巻展(県立歴史と民俗の博物館)」)(https://stib.jp/mogitate/2011/06/taiheiki.html

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◎ 文選【もんぜん】= 中国、南朝梁(りょう)の昭明太子蕭統(しょうとう)が側近の文人たちの協力を得て編集した文章詩賦(ふ)のアンソロジー。800余の作品が37種の文体に分けられている。30巻。漢魏(かんぎ)以来文学創作が活発となり、作品数が増すにつれ、優れた作品の選集が求められるようになった。その集大成として現れたのが『文選』である。先行する他の選集は時代とともに滅んだ。『文選』が選択の対象としたのは、文章詩賦の類で、経書や諸子百家の書および史書などは原則的に除外され、また小説の類は無視されている。時代は春秋戦国の古代から当代の梁にまでまたがるが、当時現存の文人のものは含まれていない。選択の基準は、蕭統の序にみえる「事は沈思に出でて、義は翰藻(かんそう)に帰す」に集約される。内容ある美文が典型とされたのである。後世批判がないわけではないが、全体として漢魏六朝(りくちょう)の文学を具体的作品でみごとに体系づけている。所収の作品が第一級の資料であるばかりでなく、文学理論の書(『文心雕竜(ぶんしんちょうりょう)』など)と並んで六朝文学批評の大きな成果である。唐代科挙の試験に詩賦が課せられたこともあり、『文選』は創作の手本として重んじられた。唐の李善(りぜん)が注して30巻を60巻とし、その系統の清(しん)の胡克家(ここくか)の復刊したテキストが最良とされる。/ 日本への伝来は古く、すでに「十七条憲法」(604)に本書からの引用が指摘されており、また『万葉集』の部立(ぶだて)も本書の体例をモデルにしているといわれる。さらに万葉の歌人をはじめ、奈良平安の文学には、漢詩文のジャンルのみならず、本書所収作品の影響がみられ、愛読されたことが知られる。そのほか貴重な古鈔本(こしょうほん)がいくつか伝えられており、江戸時代には和刻本も出版されている。(日本大百科全書ニッポニカ)  

◎ 月照(げっしょう)(1813―1858)= 江戸末期の志士、僧。讃岐(さぬき)(香川県)出身の大坂の町医玉井宗江の子に生まれる。幼名宗久。1827年(文政10)叔父清水寺(きよみずでら)成就院(じょうじゅいん)住職蔵海(ぞうかい)の下で得度。中将房忍鎧(介)(にんがい)、のち忍岡(にんこう)と改名、字(あざな)は月照、無隠庵(むいんあん)・一鋒(いっぽう)と号した。35年(天保6)成就院住職となり同院の復興に努めた。青蓮院宮(しょうれんいんのみや)、この絵忠熈(このえただひろ)ら堂上に出入りし、ことに忠煕に和歌を学ぶ。54年(安政1)住職を弟信海に譲り国事に奔走、58年梅田雲浜(うんぴん)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らと交わり攘夷(じょうい)の勅諚(ちょくじょう)を水戸藩に下すことに成功した。安政の大獄に際し西郷隆盛(たかもり)とともに鹿児島に行くが、薩(さつ)藩当局にいれられず、同年11月16日西郷とともに錦江(きんこう)湾に入水(じゅすい)。西郷は助かったが、月照は没した。墓は京都清水寺にある。(日本大百科全書ニッポニカ) 

◎ 太平記【たいへいき】= 南北朝の動乱を描く軍旗物語。40巻。小島法師〔?-1374〕が作者の一人。南北朝時代から数回にわたって書きつがれ,1370年代に現在の形になったと考えられる。北条高時の失政,後醍醐天皇の北条氏討伐計画に始まり,建武新政の完成と崩壊,足利尊氏の謀叛(むほん)を経て南北両朝の対立に至る50数年間の動乱を描く。雄勁(ゆうけい)な和漢混交(こんこう)文。《平家物語》に次ぐ軍記物語の代表作。物語僧に語られ,江戸時代には《太平記》の解釈により大名らに政治を講ずるものが出,また庶民を対象に,のちの講釈師の源流となる太平記読みも流行,後世の文学・思想への影響はきわめて大きい。(百科事典マイペディア)

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