
房総半島の僻陬(へきすう)の地に移住して、早くも十三年目も半ばを過ぎました。60歳(還暦)を機に一念発起、と勇んでは見たものの、優柔不断が災いして、都会の喧騒に塗れること半世紀、返す返すも勇気のないことだったと慙愧の念ばかりが強くなります。連れ合いとの同棲生活も優に半世紀を超えました(ただ今五十三年目も半ば)。こんなことは、ぼくの人生には奇跡に近い「歴史」の一面で、互いに年齢相応に丸くもならず、労(いた)わり心を強くすることもなく、いろいろな面で、「突っ張り合い」「老いておいてますます盛ん(意固地)」を競うというのですから、一面では、それもまた互いに「身が持たない」というのが正直な感想、いや実感ですね。
蕪村の句、「身の秋や今宵をしのぶ翌(あす)もあり」とは、まるでわがことのように感じたりします。何歳ころの句でしょうか。まさしく、日々これ「身の秋や」ということ、それが老残というのでしょうか。
「稲づまや浪もてゆへる秋津しま」、これも蕪村作です。絵にしても句にしても、とにかく「雄大」「雄渾」という容量の大きさが蕪村の魅力でもあるでしょうか。「稲づま」は「稲妻(電)」です。「《稲の夫(つま)の意。稲の結実期に多く起こるので、これによって稲が実ると考えられていた》」(デジタル大辞泉)「雷光/紫電・雷電」と別称します。その昔、怖いもののベストフォーに「地震・雷・火事・親父」と讃えられました。今では「怖い親父」は絶滅しましたが、三傑は残ったままで、この劣島といわず地球域内に猛威を振るっています。

その「稲づまや」です。劣島縦横に雷光一閃、秋津しま、つまりは日本劣島を大波小波で、一つに結わえるの構図です。雄大といえば雄大、蕪村の器量をも示した一句ではないでしょうか。彼の意図は別の意味で、「波もてゆえる」という一大現象は、方々で現実のものとなっています。江戸の昔には水没する車はなかったが、それだけ、文明が遅れていたというのではないのでしょう。むしろ、時代とともに人身惑溺の度が過ぎるようになったと、ぼくは見ています。便利は不便でもあるのだ、と。もう一句。「門を出れば我も行く人秋のくれ」蕪村の句であるような、ないような、寂しさが横溢していそうな雰囲気があります。「秋」だからこそ、そんな風情が漂っていませんか。
++++++++++

長谷川かな女氏の「長月の空に亡びん国人あり」の句。年々、その思いはぼくのような蛮人にも痛感されてきます。今もなお、日々、「亡びん国」「亡ぼさん国」は後を絶ちません。江戸時代を言うのではありませんが、文明の進化・開発は、正直に言うなら、「野蛮の燃え盛り」を指すといえますし、それであればこそ、時代とともに人間社会は「劣情」「野卑」を催す輩ばかりになりにけり、そうではないでしょうか。
かな女さんの生涯にもぼくはいささかの興味を持っています。夫君・富田零余子(れいよし)ともども虚子門下にありましたが、師に向かう姿勢はかなり違っていたと思う。あるいは虚子なにするものぞ、という気概も、かな女さんにはあったかに思われます。
「ほとゝぎす女はものゝ文秘めて」の句があります。これを師匠(虚子)は取り違えた風情の「解説」を残している。言いたいことまでいうつもりはないけれど、「私(かな女)の句は、いわば寸止め」、そんな姿勢がありませんか。男尊女卑をものともしない女性とまでは言いませんが、「秘すれば花」の、奥を捕まえられなかった虚子の立つ「男女観」もまた、今に続くものがあります。「虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯」(杉田久女)、かな女よ久女両者館には「火花」が飛んでいたかもしれません。それに感染した師は、久女さんを破門してしまいます。
・長月の空に亡びん国人あり 長谷川かな女 ・菊月の日向に細き雨至る 三田きえ子
・長月は十六夜といはで哀れなり 正岡子規
◎ 長谷川かな女(はせがわかなじょ)(1887―1969)= 俳人。本名かな。東京・日本橋の商家に生まれる。1909年(明治42)富田零余子(れいよし)を夫に迎え、夫婦ともども高浜虚子(きょし)に師事し、『ホトトギス』婦人俳句会の草創期に加わり、女流俳句隆昌(りゅうしょう)に寄与した。20年(大正9)以降零余子創刊の『枯野』を助けてこれに拠(よ)り、零余子没し『枯野』廃刊後、30年(昭和5)『水明』を創刊主宰した。近代女流俳人の草分けであり、その第一人者。『竜胆(りんどう)』(1929)、『雨月(うげつ)』(1939)などの句集のほか、随筆の著書も多い。(日本大百科全書(ニッポニカ))

◎ 杉田久女(すぎたひさじょ)(1890―1946)= 俳人。鹿児島県生まれ。本名赤堀久子。幼時沖縄、台湾に過ごし、東京女高師附属お茶の水高女を卒業、1909年(明治42)画家杉田宇内と結婚、夫が福岡県小倉(こくら)中学の図画教師となったため、小倉に移り住む。初め小説家を志望したが、断念して『ホトトギス』に投句、激しい個性をもった天才的な作風が注目をひいた。32年(昭和7)俳誌『花衣』を創刊したが5号で廃刊、才気と勝気の性格が災いして36年『ホトトギス』同人から除名され、不遇のうちに没。没後『杉田久女句集』(1952)、『久女文集』(1967)などが刊行された。(日本大百科全書(ニッポニカ))
◎ 与謝蕪村 (よさ‐ぶそん)(1716-1784)= 江戸時代中期の俳人,画家。享保(きょうほう)元年生まれ。20歳ごろ江戸にでて早野巴人(はじん)(夜半亭宋阿)に俳諧をまなぶ。師の死後は関東,奥州を遊歴し,宝暦元年京都にうつる。写実性,浪漫性,叙情性にとむ俳風で中興期俳壇の中心的存在となる。晩年は蕉風(しょうふう)復興を提唱。画家としては文人画を大成,代表作に池大雅との合作「十便十宜図」がある。天明3年12月25日死去。68歳。摂津東成郡(大阪府)出身。本姓は谷口。俳号は別に夜半亭,紫狐庵など。著作に俳体詩「春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)」,句日記「新花摘(しんはなつみ)」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

先日、見るともなく、ネット上を暇つぶしに彷徨(さまよ)っていた時、入学以来、何んと半世紀を過ごした学校の近所に行きつきました。ぼくはそんなに熱心にその近傍を歩きはしませんでしたが、それでも、二軒か三軒の、よく通った呑み屋や寿司屋はありました。懐かしいという思いは当然ありますが、それ以上に店構えは同じでもいるべき人がそこにいないことが瞬間でわかるという寂しさが募るのでした。ヘッダー写真は、「おでん」屋さん。ぼくが通っていたころ、通いの職人さんだった人が、今ではすっかり亭主(経営者)になって、貫禄までついているのに、ある種の安堵もしましたが、前の経営者だった女性の不在が直感されたのには、残念なことだった。ご存命なら120歳くらいだったでしょうか。「樽酒(白雪だったか)」が売りでしたね。
現在地に越してきて間もなく、ぼくは酒も煙草もすっかり止めてしまいました。止めてみれば、何のこともないというもので、あんなに金と時間を無駄にしてと、ある種の慙愧の念も伴うのでしょうが、それでも、酒・煙草によって得たもの(もちろん失ったものも多い)は、貴重だったでしょうか。それもこれも、煙や酔い(酩酊)のように、やがては雲散霧消してしまいますが、その中でも一縷の心持は消え残っていると思ったりします。房総の、この地に来て以来、かみさんのせいもあって、たくさんの猫たちと、雑居でしょうね、決して同居というものではありません。猫との付き合いが旺盛になると、当然のことながら、人間との交際は滞りがちになります。二人一緒に家を空けることさえできません。

以前は頻繁に出かけては「食事」「音楽会」、その他を楽しんだものでしたが、今はそれもできかくなりました。それでも、たまに誰かが訪ねてくださると、おいしい「お寿司」を取り寄せたりしては、旬の味を堪能してはいます。なんの楽しみもありませんが、まあ、往く夏来る秋をいくばくかでも味わいたいものです。昨日は居住地の「町長選挙」でした。現職が圧勝の結果は、予定通り。かくして、この小さな町はより小さくなる道をまっしぐらに邁進しています。㋇1日現在、町人口は6012人。引っ越し当時、2014年段階では7586人でした。先日役場に出向いた折、職員さんに「6千人を割ったら、号砲を上げてくれ」と頼んでいおきました。とっくに割っているでしょうが。まさしく「消滅不可避地区」であります)
~~~~~~~~~~~~
IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII