秋深き隣は何をする人ぞ

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 「物の音散りあつまりて十月へ」(黒川路子)

 酷暑だ、台風だと、まるで何かに急かされるように、慌ただしく日時をやり過ごしているうちに、気が付けばもう十月です。まるで梅雨かと思うばかりの長雨続き、かと思えば、劣島の方々では「酷暑」「酷熱」の狂夏を思わせる「日照り続き」です。暑さ寒さも彼岸までとは、どこの国のことを言うのかと、まるで季節の移り行きが大きくずれたかのような雲行きであり、風向きでもあります。何はともあれ、十月です。上に挙げた句の趣とは全く異なるでしょうが、台風や地震、豪雨に刺激され発生した崖崩れ・土砂崩れに激しく襲われて、多くの被害者が耳にした「ものの音」、今年ほど、さまざまな凄い響き、腹の底に応えるような轟音の鳴り渡った季節もなかったかもしれません。ぼくは地鳴りも崖が崩れる音も、幸いなことに、今のところは耳にはしませんでしたが、来る日も来る日も屋根をたたき、樋から溢れ流れる執拗な雨音を嫌になるほど聞いてきた。まさに「物の音散りあつまりて十月へ」ではないかという気がしています。落ち葉が舞い落ちる、そんな細やかで清々しい音・音・音にも恵まれたくなりますね。

 「天高く馬肥ゆる秋」などと、当節は言わないのか、あるいは「食欲の秋」とも、世の中が世知辛くなるにつけ、だれも言わなくなったのか。馬でも人でも、とにかく「食欲の秋」であることに、いまでも変わりはないのでしょうか。飽食の時代といわれますが、それとは真反対の「粗衣粗食」を強いられる人も限りなくおられます。その両極が同時に存在する理由は何処にあるのでしょうか。そんな人事・世相もまた、ぼくには「ものの音」の一種に思われてくるのです。

 その「馬肥ゆ」は、さらに深い意味があったようです。古代中国では、遊牧騎馬民族である匈奴(きょうど)の襲来が、漢民族にとっては常に心配されていた。匈奴らの駆使する軍馬は夏草を満ち足りるばかりに食(は)み、いずれ、「我ら(漢民族)を襲ってくる」に違いないから、くれぐれも気を付けようではないかと心を配ったというのです。どこか、今日に通じる気配がしますがどうでしょうか。中国大陸に、どこかしらから「匈奴」がやって来るから、ここは昔の縁(えにし)で「米中同盟」の戦いの歴史を思い起こそうではないかという一幕ではあります。「天気いよいよ怪しく、日本海方面いよいよ波高し」と、当方権力者のの雄叫び・音声(おんじょう)が止まないのはどうしたことでしょうか。

◎ 天高く馬肥ゆ = 秋は空が澄みわたって高く晴れ、気候がよいので食欲も増進し、馬もよく肥える。秋がさわやかで、心身ともに心地よい季節であることの形容。秋高く馬肥ゆ。[使用例] 二人は、〈略〉至極穏やかな秋晴れの一日を、悠々として、馬を打たせ行くのであります。天高く馬肥ゆといった注文通りに、一方には海闊ひろくという偉大な景物を添えているのだから、二人の気象も、おのずから昂然として[中里介山*大菩薩峠|1913~41][解説] 中国に由来する表現で、「秋高く塞馬(さいま)肥ゆ」が「秋高く馬肥ゆ」となり、さらに「天高く馬肥ゆ(る秋)」と言い換えられて、広く使われるようになりました。秋を賛美する表現で、「秋高」「馬肥」は季語としても使われます。しかし、日本のさわやかで牧歌的イメージとは裏腹に、中国では、秋が到来すると、匈奴の軍馬が太り、変事が起こるという連想が働いていたといいます。(ことわざを知る辞典)

◎ かみな‐づき【神無月】= 〘 名詞 〙 ( 「な」は「の」の意で、「神の月」すなわち、神祭りの月の意か。俗説には、全国の神々が出雲大社に集まって、諸国が「神無しになる月」だからという ) 陰暦一〇月のこと。かんなづき。かみなしづき。かみなかりづき。《 季語・冬 》(精選版 日本国語大辞典)

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 「秋深き隣は何をする人ぞ」 芭蕉の句は「晩秋」に読まれたものでしょう。この句作の後、旬日を経ずして、彼は亡くなります。大坂の知人宅で開かれた句会への出席もかなわず、床に臥せったままで詠んだものとされます。その後、病状はさらに悪化し、遺言のような、絶世の句は「(病中吟)旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」で、弟子のひとり(呑舟)に書いてもらった。時に元禄7(1694)年10月8日、51歳でした。芭蕉自身は臨終の迫りくることを知っていたでしょうし、だから、「秋深き」は、底知れない寂しさ、寂寥感とでもいうべきものが漂っているように、ぼくなどには思われます。俳聖、畢生の「白鳥の歌((Schwanengesang)」(けったいな表現ですが)というべきものかもしれません。

 「なきがらを笠に隠すや枯尾花」は、師匠に寄り添って生きてきた宝井其角(蕉門十哲の一人)(1661~1704)の句です。「ただ壁をへだてて命運を祈る声の耳に入りけるにや、心細き夢のさめたるはとて、~旅に病で夢は枯野をかけ廻る。また、枯野を廻るゆめ心、ともせばやともうされしが、是さへ妄執ながら、風雅の上に死ん身の道を切に思ふ也、と悔まれし。8日の夜の吟なり」(其角「枯尾花」)滋賀の義仲寺に芭蕉の墓があります。

 ここで芭蕉の人生観を駄弁るつもりも能力もありません。十月だからというのではありませんけれど、このところ、あまりにも世情・世相(世間)に翻弄されすぎていたという、一種の疲労感のようなものを覚えていましたので、暫時、小休止のつもりで、文字通りの雑感・偶感を吐露したくなった次第です。そして、いつもながらの兼好さん、困ったときの兼好さんです。(左写真は滋賀の義仲寺にある「芭蕉の墓」)

 まさしく季節は秋、頃は神無月の砌(みぎり)。誰でもが「もの想う秋」となるのかどうか知りません。けれども、ぼく自身は人生の喜悦も哀歓も、まさに「晩秋」にあります。齢も体力も、はや寂滅寸前に及んでいる。ひとしお「徒然草」の各断章が身に染みるのです。例えば「神無月の頃…」(第十一段)は、その前後の段を含めて、まだまだ若い兼好さんの「物思いの秋」の産物であるとみれば、七百年後の凡人(愚人)にも、それ相応の感想も湧くというものでしょう。ひたすら各段を読んでみます。そこには、おのずからなる「人生・生活」に関する尽きせぬ反省(三省)というものが働くのではないでしょうか。

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 さて「徒然草」です。第十段から第十三段まで引用してみました。ここに、兼好法師の「住まい・生活・友人」などに関する直截な批判・感想・所見(人生観・処世論みたいなもの)が簡潔に示されているのではないでしょうか。どんな家に住んでいるか、それを一瞥すれば、住む人の「教養の有無・深浅」が知られると兼好さんは宣(のたま)われる。調和のとれた品性・人柄の人物が住まう家は、月の光までもが「ひときはしみじみと見ゆるぞかし」と、ほんとですか。けばけばしくなく、木々も草花も、見るからに風情ありげな家の姿は見ていて心安らぎ、奥ゆかしくも思われる。こういう家も人も、今も昔も貴重だったのでしょうね。

 反対に、贅を尽くして和漢折衷と狙い、庭の造作も華美を極めているのは、いかにも「見る目も苦しく、いとわびし」、これもまた、今に通じる「人物の器量」「成金趣味」に重なるようではないか。「大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ」、どんな住まいに住んでいるかを知るだけで、大方のことは知れようというもの。藤原実定という大臣(おとど)の住まいの屋根に「鳶ゐさせじとて縄をはられたりけるを、西行が見て、『鳶のゐたらんは、何かはくるしかるべき。此の殿の御心、さばかりにこそ』とて、その後は参らざりけると聞き侍る」という世間話を書いています。あるいは別の貴人は「烏のむれゐて池の蛙をとりければ、御覧じて悲しませ給ひてなん」、大事な池のカエルをカラスがとるのを主人が悲しむといけないので、「いつぞや縄をひかれたりしかば、かのためし思ひいでられ侍りしに」という、そんな話も聞いた。なんとも浅ましいし、いかにも興ざめするね、と。今でもありますね。高い塀の上に鉄条網や詩に美返し、あるいは鋭利にとがったガラス片を埋め込んでは、「宝物」を死守せんとする、その心持ち、その住人の気分はいかばかりか。

 家居(いえい)のつきづきしく、あらまほしきこそ、仮の宿りとは思へど、興あるものなれ。
よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も、ひときはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしくきららかならねど、木だちものふりて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子(すのこ)・透垣(すいがい)のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。
多くの工(たくみ)の心をつくしてみがきたて、唐の、大和の、めづらしく、えならぬ調度ども並べ置き、前栽(せんざい)の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやは、ながらへ住むべき。又、時のまの烟ともなりなんとぞ、うち見るより思はるる。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。

 後徳大寺大臣(ごとくだいじのおとど)の、寝殿に鳶(とび)ゐさせじとて縄をはられたりけるを、西行が見て、「鳶のゐたらんは、何かはくるしかるべき。此の殿の御心(みこころ)、さばかりにこそ」とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮(あやのこうじのみや)のおはします小坂殿(こさかどの)の棟に、いつぞや縄をひかれたりしかば、かのためし思ひいでられ侍りしに、誠や、「烏のむれゐて池の蛙(かえる)をとりければ、御覧じて悲しませ給ひてなん」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にもいかなる故か侍りけん。(「徒然草 第十段」)

 秋もたけなわの頃、郊外の山里に分け入った際に、「遥かなる苔の細道を踏み分けて、心細く住みなしたる庵あり」と、兼好さんは、その趣味の良さに感心する。訪れる音といえば、木の葉の溜まった懸樋(かけひ)から落ちる雫の音ばかりという。閼伽棚(仏に供える「水」「花」などを入れる器を置く棚)に季節の花の菊や紅葉などを折り散らしているところなど、いかにも住人の佇(たたず)まいを感じて、誠にいい気分がする。ところが、その庭に一本の柑子(ミカン科の小高木)がたわわに実をつけていた。住人は、その木の「周厳しく囲ひたりしこそ、少し事醒めて、この木なからましかば、と覚えしか」と、山里に住んでなお、「これはこの家のもの、取るべからず 家主」と言いたげな悪趣味・強欲を兼好さんは嘆くのです。

 神無月の頃(ころ)、来栖野(くるすの)といふ所を過ぎて、或る山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心細く住みなしたる庵(いほり)あり。木の葉に埋もるる懸樋(かけひ)の雫(しづく)ならでは、つゆ訪(おとな)ふ物無し。 閼伽棚(あかだな)に、菊・紅葉(もみじ)など折り散らしたる、さすがに住む人の有ればなるべし。
 かくても有られけるよと、あはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子(かうじ)の木の、枝もたわわに生(な)りたるが、周(まはり)厳しく囲ひたりしこそ、少し事醒(さ)めて、この木なからましかば、と覚えしか。(同署 「第十一段」)

◎ 栗栖野 (くるすの)= 京都市北区の歴史地名。北野・紫野などの平安京近郊の野のうちの一つ。平安時代初期に遊猟地としてみえ,近郊として宮廷の氷室(ひむろ)が設けられたり官窯が営まれたりしている。とくに栗栖野瓦窯は著名で,ここでの生産と思われる〈栗〉印の瓦が平安京跡からいくつか発見されていて,史跡に指定されている。中世にも近郊の勝地として親しまれたらしく,洛北七野の一つとして萩の名所でもあった。なお洛東にも栗栖野の地名がみられ(伏見区小栗栖),よく両者は混同されるが北区のそれのほうがより著名であったようだ。(改訂新版 世界大百科事典)

 以下、「第十二段」「第十三段」は読んで文章ののごとく。「同好の士」と語らえることができれば儲けものです。でもそんな人も得難いとなれば、「つゆ違はざらんと向かひ居たらんは、一人有る心地やせん」、語るべき相手はいても、気ばかり使って、その人は自分とは違うのだから、「まめやかの心の友には、遥かに隔たる所の有りぬべきぞ、侘しきや」と、古今を通じて、肝胆相照らす、そんな友人はいるものではないという心持ちは、ぼくでさえも十分にわかる。でも、まめやかの心の友には、遥かに隔たる所の有りぬべきぞ、「侘しきや」という兼好さんの心底の寂しさは、さて、ぼくの中にもあるのでしょうか。

 同じ心ならん人と、しめやかに物語して、をかしき事も、世の儚(はかな)き事も、心(うら)なく言ひ慰まんこそ嬉しかるべきに、然(さ)る人有るまじければ、つゆ違(たが)はざらんと向かひ居(ゐ)たらんは、一人有る心地やせん。
 互ひに言はんほどの事をば、げにと聞く甲斐有るものから、いささか違う所も有らん人こそ、「我は、然(さ)やは思ふ」など、争ひ憎み、「然(さ)るから、然(さ)ぞ」とも、打ち語らはば、徒然慰まめと思へど、げには、少し託(かこ)つ方も、我と等しからざらん人は、大方(おおかた)の由(よし)無し事言はん程こそ有らめ、まめやかの心の友には、遥かに隔たる所の有りぬべきぞ、侘しきや。(同署 「第十二段」)

 兼好法師の生きた時代にも「読書週間」はあったようですね、たぶん。あるいは毎週がそうだったかも。読書の楽しみは「見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰む業なる」と法師は言われます。「見ぬ世の人」とは異国の人ばかりのようで、「文選」「白氏文集」「老子」「荘子」などの「詞章」(「文字によって表現された言葉。詩歌や文章」デジタル大辞泉)は「こよなう慰む業なる」と。あるいは邦家の文章博士たちの書いた(古のは)もの、捨てがたく、それを読むと心にしみじみとしみるように思われると、重ねて「読書」の愉しみ(僥倖・ぎょうこう)を語るのでした。

  一人、燈火(ともしび)の下に、文(ふみ)を広げて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰む業なる。
 文は『文選(もんぜん)』の哀(あは)れなる巻々、『白氏の文集(はくしもんじゅう)』、『老子』の言葉、『南華(なんくわ)の篇』。この国の博士どもの書ける物も、古(いにしへ)のは、哀れなる事、多かり。(同署 「第十三段」)

◎ 徒然草 (つれづれぐさ)= 鎌倉末期の随筆。吉田兼好著。上下2巻,244段からなる。1317年(文保1)から1331年(元弘1)の間に成立したか。その間,幾つかのまとまった段が少しずつ執筆され,それが編集されて現在見るような形態になったと考えられる。それらを通じて一貫した筋はなく,連歌的ともいうべき配列方法がとられている。形式は《枕草子》を模倣しているが,内容は,作者の見聞談,感想,実用知識,有職の心得など多彩であり,仏教の厭世思想を根底にもち,人生論的色彩を濃くしている。序段〈つれづれなるままに日暮し硯に向かひて,心に映り行くよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば,あやしうこそ物狂ほしけれ〉は,書名の拠る所で,作者の執筆時の状況が示されている。(↷)

 作品の特色をいえば,まず文章表現が卓抜な点で,話題によって漢文訓読体と和文体とを使い分け,厳粛な場面,滑稽な場面等々に応じて,柔軟に語り口を変えている。しかも簡潔を旨とし,冗長に流れることがない。第2に,人間への独自な親近感,信頼感がある。美意識では都人の側に立つが,粗野な田舎人がすべて悪いとはきめつけない。しかも他人の言を多く引き,それに共感することでさりげなく自己主張に代えている。第3に,利己的ともいえるほど人それぞれの生き方の自由を認めている。そしてそこで説かれている生活の知恵は,きわめて現実的である。この随筆は貴族男子の読物として書かれたらしいが,戦乱の時期を通じて歌人,知識人たちにも愛読された。江戸時代には町人の知恵のよりどころとなり,多くの版本が刊行された。〈つれづれ〉の名を付した作品に,井原西鶴の《西鶴俗つれづれ》などがある。(改訂新版 世界大百科事典)

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