「この街にLBGTはいません」宣言 なにそれっ?

 LGBTフリーゾーンの街!? 「ようこそ」ではなく「排除」の印 
不寛容が広がるポーランドの未来は・・・

 2020年6月、ポーランドの与党「法と正義(PiS)」の候補として再選を狙っていたドゥダ大統領は、選挙中の演説で「LGBTは共産主義よりも危険なイデオロギーである」と発言し、同性婚および同性カップルの養子受け入れの禁止と、「キリスト教に基づく伝統的な家族観を守るため」として、教育機関でLGBTについて教えることを禁止する法案を実現すると宣言しました。/ LGBT差別を政治的なプロパガンダとして利用し、同性婚に反対する国民からの票を取りつけたドゥタ大統領は、8月の大統領選で対立候補との僅かな票差で再選を果たしました。

 再選直後、LGBTの権利に不寛容な姿勢をとる政府に抗議し、1人のLGBT活動家がワルシャワ市内の銅像にレインボー フラッグを掛けました。しかし、すぐさま逮捕されてしまいます。逮捕に抗議するために行われたデモでは、参加者に対する警察の暴力行為が多発し、48人もが逮捕される事態に発展。ポーランド国内でのLGBT当事者や支援団体、活動家に対する警察の弾圧行為の強まりを世界に知らしめる出来事となりました。(中略)

 「LGBTフリーゾーン」

 ポーランド南部で「LGBTフリーゾーン」を宣言する自治体が増え、LGBT差別が地方でも広がっています。「LGBTフリーゾーン」とは、「この街にLGBTはいません」という意味。/ 自治体によってLGBTという特定の人たちを排除することが宣言され、多様性が否定され、差別や偏見が助長されているのです。「LGBTフリーゾーン」を宣言した自治体の人口をあわせると、ポーランド全人口の3分の1になることから、LGBTに対する弾圧が増している現状を見てとることができます。(中略)

 ドゥダ大統領の就任式で、複数の下院議員たちがそれぞれの衣服でレインボーを表現し、就任式の出席者席をレインボーカラーに染めました。LGBTに差別的なドゥダ大統領の政策に対する批判と、LGBTの人たちへの連帯の意を表明したのです。このパフォーマンスはSNSを中心に瞬く間に拡散され、ポーランドのLGBTの人たちからは「勇気づけられた」「ポーランドでも希望を持ち続ける理由ができた」との声がSNS上で寄せられました。

 国外からもポーランドのLGBTの人たちへの連帯が行動で示されています。例えば、欧州連合(EU)は、「自由、民主主義、人権の尊重」を理念とするEUの価値に相容れないとして、「LGBTフリーゾーン」を宣言した6つの自治体への経済支援を拒否することを決定しています。また、2020年9月、日本を含む50カ国の大使がポーランド政府に対する公開書簡で、LGBT差別の終息と人権の尊重を訴えかけました。(以下略)(https://www.amnesty.or.jp/lp/lbg/about/lgbt_newsblog_06.html)

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 一昨日、ベルギーの副首相について記しました。(「この方、そんなに有名なんですか?」)欧州においても、事態は一進一退です。進めようとすれば後退する力が働きます。ニュージーランド議会で「同性婚を認める法案」の採決に際して、モーリス・ウィリアムソン議員のいわれたように、「この法案は関係ある人には素晴らしいものですが、関係ない人には、今まで通りの人生が続くだけです」ということが理屈では理解できそうでも、情念においては納得できない、そんな人がたくさんいます。賛成か反対かではなく、明瞭な人権なんだということもまた、認めがたいと主張する人々もいます。これは闘いだけれども、勝ち負けを争うのではなく、人権というものがいかなる性格なのか、それを身をもって知る(気づく)、そのための自己との格闘です。この格闘こそ、「意識」の働きであって、けっして情念や感覚からのものではないのです。

 ぼくがこの問題を何度も取り上げようとするのは、それは「人権」という観点でしかとらえられない問題であるということをこれまでの生活においてくり返し学んできたからです。ぼくはLBGTに当てはまらない人間であろうという自覚を持っている(つもりです)。でもそれだから、性的傾向は「男か女か」の二者択一しかありえないという了見はまったくもち合わせていない。LGBTをことさらに取り上げて議論しようというのでもないのです。この島にも「幾多の差別事象」があったし、現在もあり続けています。歴史の経過をたどれば、まるで賽の河原の石積みのように、積んでは壊し、壊しては積むという果てしない無限運動のように見えますが、五十年前、百年前はどうであったかという視点を自らのうちに持てば、遅々としているけれども「確実に前に向かって進んでいる」という実感をぼくは疑わないのです。それが「人権問題」です。

 東京都足立区議会の議員のような「自論」(それを認めれば、「足立区がなくなる」)が出てくること自体、問題が顕在化している(してきた)という証明でもあるのです。歴史の闇に隠されていた事柄は無数にあったし、今もあるでしょう。それが時代における人々の「意識」の変化とともに表面化してきているのです。一人が鎖国をし、地域が鎖国をし、一国が鎖国をすることが可能な時代でなくなったことを、ぼくは歓迎しています。問題の所在を探ることから始めたいと、そのための材料は多い方がいいのではないですか。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。