「へうへうとして」水か 

 《「わけいっても わけいっても 文書の山」。俳人、種田山頭火の代表句のパロディーだ。教師がパソコンに向かう手を休め、一句したためているイラストに添えられている。教師の顔には、疲れがありありとうかがえる。そして、やはり山頭火のもじりの「しごとすがたの しぐれていくか」となる。

 この“作品”を宮崎県の小林市スクールサポートセンター発行パンフレットで見つけたとき、笑ってしまった。諧謔(かいぎゃく)がある。教師に対する客観的な視点がある。作者を探して電話した。

 同市立東方小学校事務職員、甲斐暢夫さん(42)。「夜遅くまで書類と格闘している先生を見て、お坊さんの苦行に近い、と思った。それで、僧侶だった山頭火になぞらえて……」と語ってくれた。(略)

 激しい学力論争を経て、社会は今、学校の役割の大きさを認める教育観に転換してきている。転換を実現する基盤整備が必要ではないか。》 (讀賣新聞・07/11/24)

《 山頭火が一笠一鉢に生を托する旅人になりきってから、もう何年経つであらう。彼は味取の観音堂に暫く足を停めていたが、其処をも遂に捨て、今又、歩きつゞけてゐる。彼の歩むのは、或る処へ行く事を目的として歩いてゐるのではない、歩く事その事の為に歩いてゐるのだ。彼にあっては生きるといふ事と歩くといふ事が同一語になってゐる。雲がただに歩み動き、水がただに歩み流れるが如く、彼も亦、歩まずにゐられずして歩いてゐるのだ。雲水といふ言葉の語源的の意味に於て、彼は雲水になりきってゐるのだ》(荻原井泉水「同人山頭火」昭和五年)

 「働き方改革」などいうしゃれたセリフがもてはやされていますが、人が人に交わる、そこからしか「学びあう」という心持は生まれてこないのです。どんなに理由や事情があるとはいえ、テレワークやリモート授業などとお気軽に言うけれども、いったいそこから何が生まれるんですか。子どもは学校の道具ではなく、学校こそが子どもの遊び場なんだ。遊びのなかに学ぶことが山ほどある。「分け入っても学びの山」だよ。ぼくは山頭火はよく調べました。なんでこんな「すねた坊主まがい」になったのか、わかったような気になったこともあります。人間の生涯とはわからないものという、当たりまえの感慨を学んだに過ぎなかったのですが。いずれ、彼の曲折ある「明け暮れ」を後追いしてみたい。(ところで、「青い山」、それはなんだと思いますか)

+++++++++++++++++++++

 《 へうへうとして水を味ふ   山頭火

 彼はかつて此句を寄せて来た。これが彼の全体的の姿である。

  しぐるるや死なないでゐる  山頭火

 彼はこう詠う。則ち生かされている事に合掌する心である。彼はその淋しさをしんそこまで味はつてゐながら、猶その底をぬいて味はずにはゐられないやうな、その処に彼の酒といふものがある。彼は酒によって自分を忘れようとするよりも、酒によって一層はっきりと自分を掴まうとしてゐるやうである。

  ほろほろ酔うて木の葉散る  山頭火

 ほろほろ酔うたのは木の葉か、ほろほろと散るのは山頭火か―。》(荻原井泉水・同上)

 山頭火のもっとも深い理解者であった師、それが井泉水(写真左)でした。(後掲の放哉の師でもありました)

〇1882-1940 大正-昭和時代前期の俳人。明治15年12月3日生まれ。山口県の大地主の長男。荻原井泉水(せいせんすい)に師事し,「層雲」に投句。大正14年熊本の報恩寺で出家,放浪の托鉢生活のなかで独特な自由律の俳句をつくる。のち山口県小郡(おごおり)に其中庵(ごちゅうあん)をむすぶが,遍歴をやめず昭和15年10月11日松山市一草庵で死去。59歳。早大中退。本名は正一。別号に田螺公。法名は耕畝。句集に「草木塔(そうもくとう)」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

 もう一人の「うしろすがたの」

 放浪の詩人、尾崎放哉(おさきほうさい)(1885~1926)はついにわが身一個の宇宙に自らを閉じこめてしまいました。鳥や虫と語り、月にことばをかける、それはいかにも風流ですが、あるいはまるで風狂というものであったかもしれない。孤独という以上に、孤絶の深淵にはまり込んだ、その生涯は、いうにことばもない悲しさに溢れていたのではなかったか。放哉は、やりきれない、悲しさに襲われている。

 だからこそ、ひとと交わる、ていねいに交わる、それが人の世に住む人間のまっとうな生活なのだと、放哉居士は教えてくれている。(右小豆島 尾崎放哉記念館)

 その方哉の悲しみと孤独がにじむような、いくつかの句を。

こんなよい月を一人で見て寝る

咳をしても一人

たった一人になりきって夕日

花火があがる空の方が町だよ

〇1885-1926 明治-大正時代の俳人。明治18年1月20日生まれ。大正4年荻原井泉水の「層雲」に参加。東洋生命保険をへて,11年朝鮮火災海上保険の支配人となるが,酒がもとで退職。妻とわかれ,一灯園や各地の寺で生活。14年小豆島の西光寺奥ノ院南郷庵にはいり,独居無言の生活から口語調の自由律俳句を生んだ。大正15年4月7日同庵で死去。42歳。鳥取県出身。東京帝大卒。本名は秀雄。句集に「大空」。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

++++++++++++++++++++

 ぼくは京都の友人に「一灯園」を紹介したことがありました。彼はそこまで出かけて、感じることがあり、でも入園はしなかった。すがる思い、というポーズだったかもしれない。「出家」だか「家出」だか、まあぼくにしてみれば、当てつけのような擬態に見えただけと、いう感触がありました。いまでもこの「園」の奉仕活動は続いています。(京都市山科に本部を置く)

 一代の怪人・西田天香の開設による。同園での起居顛末を題材に書かれたのが倉田百三の『出家とその弟子』でした。時世進んで、ますます盛んに、か。(https://www.ittoen.or.jp/

 放哉も一時期、一灯園に法衣・草鞋を脱いだことがありました。いまでも若い雲水や雲水亡者(失礼)が引きも切らないようです。(付属の学校もあります)どうしてか、というのは野暮天の能天気が吐くセリフであり、人それぞれが深く難儀な課題を抱えているからこその「修行」なんだと、ぼくは思うことにしている。「溺れる者は 藁をもつかむ」から、溺れるんだけどね。(右横とその上、二枚の写真は「一灯園」)

 今は朝の六時半。ぼくの起床はいつでも「日の出前」で、今頃なら四時過ぎです。(かみさんはいまだ熟睡中か、あるいは覚醒しかかっているか)たったいま家庭ごみを集積所までもっていった。家から少し坂を下ったところにある。ほぼ三百メートルほど。その坂道を上り下りしながら、「この時代にも無数の種田や放哉」がいるだろうな、人が生きていくには、あまりにも忙(せわ)しいし、孤独をかこつほかないような「世の姿(地獄相)」だから、などど意味のなさそうなことを愚考していました。 二人の「偽雲水」「雲水オタク」をつぶさに追いかけてきて、以来、自身もまた「世俗の雲水もどき」だと、自己評定したのでした。(この項はダラダラとつづくはず)(吉村昭さんに『海も暮れきる』という放哉を描いた作品があります。ご一読を)

******************************

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。