(Thievesの)連帯と結束力を表すシンボルにする

 【越山若水】米国の政治学者ジェラルド・カーティスさんは、日本の政治を長らく研究してきた人である。自著「ジャパン・ストーリー」(日経BP)では、二つの東京五輪について考察している▼文章題は「楽観の64年、悲観の2020年」。1964年の五輪は、第2次大戦で荒廃した日本の経済復興と技術力を世界に知らしめる機会だった。池田勇人首相が掲げた「所得倍増計画」も短期で達成するなど高度成長期の真っただ中。人々は未来に楽観的だった▼一方、20年五輪を取り巻く状況は全く異なる。90年代のバブル崩壊でデフレの罠(わな)に陥り、政府のてこ入れも効果なし。将来の期待感は希薄で、悲観的な空気が漂う。ただ経済的な指標はともかく、助け合い精神や清潔さ、暴力犯罪の少なさなどは世界が認めるところ▼だから今回の五輪は、日本がもっと多様で開放的、真の共生社会を目指す契機にしてほしいと応援する。なるほどと首肯はしても、この文章は新型コロナウイルスで延期が決定する前のもの。コロナ第3波の脅威が高まる中、国内では開催そのものへの不安が根強い▼国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長が来日し菅義偉首相と会談した。来夏の東京五輪は「人類の連帯と結束力を表すシンボルにする」と意気込むが、国民としては大仰なスローガンよりも、安全・安心を確保する具体策こそ知りたい。「福井新聞「越山若水」・2020年11月17日 )

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 IOCのい会長が来日して、延期された五輪開催について何かと言っているような言っていないような、曖昧なパフォーマンスを繰り広げています。半世紀以上をまたいで、二度目の開催が決まった五輪でしたが、余計なことを、という感情をぼくはずっと持ち続けています。コロナ禍に襲われる前から、五輪は特定の人間や企業などの売名・買収の巣窟であり、「集(たか)りの山」でしかないと考えていたからです。その考えは今も変わりません。前回の五輪の時期は、ぼくが上京したのに重なっていました。河川が掘り起こされ、埋め立てられ、地下鉄工事が道路を占拠しつつ、その他の道路工事も至るところで大騒ぎで、わが日常生活を阻害していた。細かいところは省きますが、都内はいずこも「ただ今普請中」の看板を掲げたような顛末でしたが、その実、ぼく個人の感覚では「ただ今不信中」だった。

 もちろん、五輪開催に躍起になっていたのは「政治の季節(日米安保問題という政治闘争)」に恐懼した政治・経済の一味軍団が、それを中和するためにか、あるいは癒すためにか、それとも庶民の目を誤魔化すためにだったか、そのような幾多の狙いを以て待望されたのだったでしょう。今回はどうか。原発事故の後始末もそっちのけで、魑魅魍魎もどきの有象無象が暗躍・明躍した結果、賄賂まで使って招致した手前、なんとか開催にこぎつけたというのが実態だったと思う。さてすったもんだの挙句に「コロナ」が舞い降りたのでした。それでもなお、「一億総力戦」かどうか知りませんが、官民(特定の政治家・官僚軍と特定の民間企業群)挙げて「開催」をごり押ししようとしているのです。たとえ何万死のうとも、辞められません、勝つまではというわけです。民草は、「泣く子と地頭」には勝てないというひそみにならっていえば、「貪る政治家と食い潰す企業家」には負けるしかないやん、とお手上げ状態なんです。

(この「熱狂人だけで開催」はどうです?)
(この「万博連」も合流五輪で?)

 「人類の連帯と結束力を表すシンボルにする」、「コロナに勝った証」などと、屁理屈や御託を並べていますが、そのどちらも世界の現実からはまことに遊離、離反していることなどお構いなしです。感染者数六千万人目前、死者数百三十万人超。とにかく開催さえできれば、それで本望という無残な醜態をさらし続けているばかりです。観客を減らし、参加国を減らし、実施種目を減らし、開催日程を減らし、三蜜を避け、検疫を完璧に実施する上でなら、なんとか「開催」できるかもしれない。(もちろん、関係者以外は外出禁止は当然です)例えば、参加国は「コロナ化を免れた国のみ(とすれば、日本は除外)(数か国あるか)」、参加人数も「百人程度」で、日程も、せいぜいが三日かぎり、しかも「無観客」で。それでも「人類の連帯と結束力を表すシンボルにする」という所期の目的は達成される(はずがない)。

 アスリートはもちろん、参加自由にして、どうしても開催したい参加したいという政治家や関係者、経済人や中間中抜き業者の「酷暑の祭典」とする案はどうでしょう。「綱引き」「パン食い競争」「椅子取りゲーム」「(凧あげならぬ)カツアゲ」「中抜き競争」「飛び入り」などなど、実施種目は数知らず、この祭典終了後、政治家も官僚もあるいは企業などのブリゲートは「永久追放」と行きたいね。理由はドーピングならぬ、五輪憲章に違反するたくさんのルール無視の廉で、です。

 五輪開催なんか、ぼくにはまったく関心も何もありません。ひたすら、「日々是好日」を冀うばかりです。政治家は吐いて捨てるほどいますし、五右衛門の辞世の句じゃないですが、「政治家の種は尽きない」というのが相場です。それほど「家業」「お家芸」にしたいような職業なんですな、政治「家」は。でも生物遺伝子の原理には勝てないわけもあって、歴世の代はより劣勢になるのが避けられない。好みでいえば、(正当な判断を歪めるけれども)時代が降るにつれて「小物」「劣悪」「下劣」「不熟」「醜悪」になるのはどうしてですか。「起業」する努力も才能も金子も看板も後援会もいらないのですから、そこにいるだけで当選が保障される。だからさ、ひたすら衰えるばかりです。ならば、当人に責任があるというのも、あるい酷かね。冗談言うな、人民の辛酸をこそ慮るべしだよ。(五輪開催に係る税金は十兆円を越えるか)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。