ホメラレモセズ クニモサレズ

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 平民肯種徳施恵、便是無位的公相。士夫徒貪権市寵、竟成有爵的乞人。(『菜根譚 』前集 九三)

 (平民も肯(あえ)て徳を種(う)え恵を施さば、便(すなわ)ちれ無位的の公相なり。

  士夫も徒(いたずら)に権を貪り寵を市(う)らば、竟(つい)に有爵の乞人(きつじん)となる。)

(無位無官の人でも、自らすすんで世に徳を植え人に恵みを施すなら、それはもう無冠の宰相である。(これに反して)、高位高官の人でも、ただ権勢をむさぼり求め人に恩を売るだけでは、それはもう、衣冠をつけた乞食も同然である)

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 明の時代がどのようなものだったか、ぼくはつまびらかにできない。年表風に言えば、洪武帝に始まり(1368)、宦官時代を経て、最後の崇禎帝の自殺で終わる(1644)とされる。はじめ南京が首府で、そのご永楽帝により北京に移された。『水滸伝』『三国志演義』『金瓶梅』など、まさに文学方面は爛熟時代でした。『菜根譚』の著者である洪自誠は履歴経歴が明らかではなさそうです。かろうじて明代後期の人(1573-1619)とされる。

 箴言の内容は、読んでの通りで、平民(名もなき人)でも徳を積み、恩恵を他に及ぼせば、「無冠の宰相」であるが、高位高官の者でありながら、権力欲ばかりを膨らませ他人に恩着せがましいばかりでは、それは衣冠を着けた「乞食」というほかないのだ。このような人間はいつの時代でもどんな地域でも腐るほどいるし、あるいはなかなか見つけられないほどの貴重な人材でもあるのです。

 我らの時代も、またしかりです。世上、権威をかさにして威張り散らす人間ばかりかといえば、そうではない。貧者の一灯とかいって、まず困窮している人を照らし潤すことを義務にしているような人もいるのです。宮沢賢治という人の「雨ニモ負ケズ」はそのような人の代表格だともいえそうです。

 都内のある「夜間中学校(識字学級)」で賢治のこの詩を教材にした授業を見たことがあります。生徒は高齢者ばかりでした。「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」のくだりで、「四合とは食いすぎじゃろ」「ゆっくりと咀嚼して食べれば、胃にはいいよ」などとあらぬ方向に授業は展開してゆきました。これもまた、生きた授業だと実感したことがありました。「雨ニモ」のこの部分は、まさしく「菜根譚」ではありませんか。ファーストフーゴじゃダメなんですね。(← 京都在の中国家庭料理店)

 世に知られないで善行を重ねるというような、生半可ではできないことをやり通す人を、『菜根譚』の著者はしばしば偉人・賢人として称揚ています。それだけ、そんな奇特な人が少ないのが世の常であるということであり、でもかならず身近にいるはずだという願いのようなものが痛感されてきます。洪自誠その人が、あるいはそういう人だったかもしれないのです。世に隠れた偉人、これを「隠者」と呼びます。ぼくは若いころに、「隠者の夕暮れ」という本をむさぼり読んだ経験があります。著者はペスタロッチーという人でした。今でも文庫本で読むことができます。彼については、機会を改めて書いてみたいと、前から考えていました。大変な人でした。これぞ、隠れた聖人だった。(翻訳者は高位高官でしたが、ぼくには尊敬できなかった。小声で)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)