solemn list of people whose lives…

By John Grippe Published May 23, 2020 Updated May 24, 2020, 2:10 a.m. 
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Instead of the articles, photographs or graphics that normally appear on the front page of The New York Times, on Sunday, there is just a list: a long, solemn list of people whose lives were lost to the coronavirus pandemic.
 
As the death toll from Covid-19 in the United States approaches 100,000, a number expected to be reached in the coming days, editors at The Times have been planning how to mark the grim milestone.
 
Simone Landon, assistant editor of the Graphics desk, wanted to represent the number in a way that conveyed both the vastness and the variety of lives lost.

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 米紙ニューヨーク・タイムズは、24日付の1面を新型コロナウイルスによる死者の名前や年齢などで埋めた。見出しは「米国の死者数10万人に近づく 計り知れない喪失」。米国の死者数は約9万7000人(23日現在)で10万人に近づいているが、失われた一人一人の命の重みを伝えるために異例の取り組みをした。

 同紙が23日夕、公式ツイッターなどに紙面の画像を投稿した。記事では名前、年齢とともに「新年度の初日には孫たちに歌を歌って聞かせた」など、故人の人柄も紹介した。中面も含めて1000人分を掲載したが、「ここに掲載した1000人は全体の1%に過ぎない。誰一人としてただの数字ではない」と訴えている。

 同紙が紙面製作の背景を説明した記事(電子版)によると、死者数が10万人に近づく中でどのような紙面を製作するか編集局で議論。死者数を「点」で描く方法もあったが「亡くなった人がどんな人生を生き、それがこの国にとってどんな意味を持つのかを伝えることはできない」(グラフィック担当者)と考えたという。数百人分の写真を掲載する案も検討されたが、最終的に活字だけの案が採用された。【ニューヨーク隅俊之】(毎日新聞2020年5月24日)

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 国内で新型コロナウイルスの感染確認が続いている。各自治体などによると、23日は午後10時までに24人の感染が確認され、累計は46都道府県で1万6357人となった。死者は11人増えて計825人となった。「密閉」「密集」「密接」の「3密」回避など、一人ひとりの感染防止の取り組みが重要となる。

 なお、前日午後10時より後に明らかになった感染者と死者は当日の新規分には含めていない。クルーズ船は横浜港で検疫が行われた「ダイヤモンド・プリンセス」。国内感染者の累計には長崎のクルーズ船(149人)と検疫官など(10人)を含んでいる。 (日経新聞・2020/5/23 22:41更新)

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 ここに日米の三紙(最新のもの)を挙げておきます。彼我の優劣を示すためではない。新聞に寄せるぼくの希望や期待、それは儚いまでに空しいことだったと、並みいる新聞の購読を中断して久しくなるのも、決して故ないことではありませんでした。多くはありませんが、友人や知人に新聞人がいます。でも書かれた記事を読む気力もなくなったのでした。新聞もまた企業であることを失念しているのではありません。しかし、と思う。政治家や官僚の嘘もごまかしも見逃し、はてはあからさまな犯罪行為さえも等閑に臥すような劣島の新聞人の堕落や退廃ははてもないものと、ぼくは早々に見切ってしまいました。つい数日前、たまたま露見したに過ぎないが、権力とのおぞましいばかりの癒着・馴れあい。

 作日、NYTの紙面を見て、ぼくは見透かされたように感じました。なにをか。人の死は数字ではない。このことを年来の微意として抱きつづけてきました。交通事故死者数、自殺者数として、すべての数量化を抵抗なく受け入れさせられることに、いちいち抵抗していたのでした。死者数 3 は、それを越えた、それぞれの人生を生きた歴史を語る者の死であるべきだとぼくは愚考してきました。まるで気圧や風速、あるいは雨量の如くに数字化する意図は何だろうと訝り、端からか改められないのはなぜかと。理屈は言うまい。言われることは百も承知しています。見透かされたと、ぼくが一驚した理由もそこにあります。

 「亡くなった人がどんな人生を生き、それがこの国にとってどんな意味を持つのかを伝える」という難題に果敢に挑戦した、挑戦しようと試みたと、ぼくは直感・直観したのです。生きた人の足跡や笑顔、人柄を「新聞人」として記事にする、最良の方法は何かと議論を重ねたに違いありません。三紙のどれが良いか悪いかという問題ではなく、思い半ばで死に掴まれた人、一人一人の代弁者であろうとする姿勢をこそ、ぼくは待望していたのでした。 

 「正気は統計的なものではない」という意味のことを言ったのはジョージ・オーエル(George Orwell 1903-1950)でした。数字で表せないもの、数字を越えたものの中にこそ、いくつもの意味や生活が籠められているのです。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)