「国民の誤解を招く」という無意味

 「舌の根も乾かぬうちに」と言います。「言った尻から」とも。「言葉を言い終わるか終わらないうち。前言に反したことを言ったりしたりしたときに、非難して用いる」(デジタル大辞泉)「二度と嘘はつきません」と言うか言わないうちに「嘘をつく」とはどこかの総理でした。どうやら総理というのは廉直の士では務まらないらしい。「清濁併せ呑む」というより「濁しか呑まない」輩が座る椅子なのでしょう。前総理周辺は逮捕されないらしいけど、犯罪容疑をかけられています。推定無罪というのは、こいつらには当たらない。「嘘も方便」というのが彼の人生哲学(というものがあれば、の話)そのものだった。嘘が生活の糧だった。

 さて、現総理です。なんというべきか、ぼくには言葉がない。総理になるべくしてなった人材か。「いずれ野に咲け蓮華草」といって、立つ場、座る場、咲き誇る場という、わが身に見合った居場所があるのです。表に出てはいけない人、裏が似合う人物、そういう人もきっといるのに、いきなり、裏住まいの格好をして表に出てきた、誰もかれも驚くし、何より本人が驚かなければなるまいに。「嘘つき」「前言翻し」がいとも簡単にできるのが条件の「総理の椅子」、この二代三代で、実に棄損されてしまったチェアーですね。前・現両総理も「言葉に誠実が乗らない」という点では、第一人者でしょう。

 「口から出まかせ」「言葉遊び」にかぎる、その場しのぎの放言だからです。その意味ではじゅうぶんに資格はある。ぼくらの求める器とは無関係です。なんとも珍しいタイプです。君は嘘をついているだろうと指摘され、色を成して怒る。図星だからです。なんども、この嘘がバレバレの瞬間を、ぼくはモニターで観ました。悲しいかな、嘘に塗れた人々よ。証拠があるのか、というけれど、自分は証拠を持たないで断言し、「説明できない」と開き直る。度し難いですね。まるで「暴力団」が国会や官邸を乗っ取ったという驚天動地の事態です。

 前総理が検察の呼び出しを前に、事前学習(弁護士やらを交えて予習、「傾向と対策」を練っている)に余念がないのに、現総理は(エビデンスとやらは皆無なのに)、やたら自信をもって「政権運営」遊びをやらかしている最中、親分に呼ばれたのか、銀座の焼き肉店で「ご会食」に及んだ。go toは一旦停止、会食は自粛などと利いた風な口をきいた、その「舌の根も乾かぬうちに」、赤坂へ銀座へと会食に余念がないのです。理屈も公約も「お手の物」でしたが、どっこい、今回はちょっとしくじったのかな。言い訳をするなんざあ、前総理といい勝負。だから八年近くも「夫婦」気取りだったんだ。言い訳も出まかせ、ですが。

 ぼくは暇潰しに、各地の新聞のコラムを漁りました。立ち読みだったが、まあ、「総理の反省の弁解(自己正当化)」に「文句」や「批判・非難」が殺到していた。約二十紙ほどの中から、ふたつばかりを紹介します。まずはご当地(出身地)、秋田です。「予言者、故郷に入れられず」と言いますが、この人物の場合は「嘘つき、故郷に入れられず」ですね。生憎でした。

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北斗星 目上の人に意見することは難しい。今も昔もそれは変わらないだろう。勇気が要るし、そもそも気が重い。ところが意見するのが専門のお役所が中国にあった。「諫院(かんいん)」といい、千年ほど前のことだ▼「諫(いさ)める」という語を冠したこの官庁は意気盛んな者たちを任用した。大臣を批判するのが仕事だ。批判された側は言論によって正面から向き合った。実際には派閥抗争の手段になったが、大臣の暴走を抑える働きがあったという▼異論を受け入れない政治は時にとんでもない方向に突き進む。だが、しっかりとした批判勢力があって修正できれば良い政治につなげられる。諫院の仕組みを考えた人々にはそんな考えがあったのだろう▼この人の周りに諫言(かんげん)の士はいないのか。政権発足から3カ月が過ぎた菅義偉首相だ。新型コロナウイルス対策で後手後手に回り「Go To トラベル」の全国一時停止を表明、年末年始の慎重な行動を国民に求めた。その同じ日に15人程度の懇談会、8人でのステーキ会食に参加していた▼政府は5人以上の会食の感染リスクを指摘。菅首相は会話時にマスクを着ける「マスク会食」を呼び掛けている。その当人が指針に従わなかった。国民に協力を求めながら、自分はほごにする。そこに見えるのは言行不一致以外の何物でもない▼諫める人の姿が見えない政治はどこに向かうのか。「忠言は耳に逆らえども行いに利あり」という。大きな器にならなければ忠言する者も出てこない。(秋田魁新報・12月19日付)

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 「魁(さきがけ)」さん、ちょっと冷たいね、というのではありません。「異論を受け入れない政治は時にとんでもない方向に突き進む。だが、しっかりとした批判勢力があって修正できれば良い政治につなげられる」ということがわかっていらっしゃるなら、どうして実践されないのか。諫院は、他所にあるのではない。お宅らですよ、と「魁」さんと各地の新聞に「声を小にして」言いたいね。諫めるのは君だし、今なんだと。この愚かなガースーさん、人民を舐めたらあかんぞと言ってしまえよ、とペンの人々に言いたいね。

 「目上の人の過失などを指摘して忠告すること。また、その言葉。『誠意をもって主君に諫言する』)(デジタル大辞泉)つまり「諫言」しなければならないのは、周りの人間、それも年下(とは限らない)です。今も昔も、「要諫言」はバカ殿(志村さんは、もういない)に決まっていました。「殿、お待ち下され」「他人の目があります」「世間が許さない」というのは、元は取り巻きだけど、そんな人間がいるはずがない。群がって「店の出入り」を監視(諫言じゃない)していた記者さん、なぜ諫(いさ)めなかったのか。「だって、自分らも取り巻きなんだもん」。「さきがけ」の舌鋒だか筆法も、同郷の誼(よしみ)で鈍りましたか。

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 水や空 もうお静かに

 聞くたびに首をかしげる「釈明の定番」がいくつかある。例えば、不祥事を起こした当事者や組織のトップが言う「遺憾に思う」。ああ残念だ-とは、どこか人ごとのようで、肝心の「ごめんなさい」をやり過ごす方便のようでもある▲「皆さんに誤解を与えた」という釈明も、首をかしげる定番だろう。誤解とは事実や相手の真意を「誤って解すること」だから、意味を取り違えているのは「皆さん」、つまり私たちということになる▲新型コロナの感染が広がり、政府は5人以上の会食に注意を促しているが、菅義偉首相は8人で会食した。「国民の誤解を招くという意味では真摯(しんし)に反省している」と首相は語ったが、さて、私たち国民は何かを誤解し、取り違えているのだろうか▲あえて「誤解」の意味を察すれば、会食の場の感染対策はばっちりで、批判には当たらないのに君らは取り違えている-と、そういうことかもしれない▲だとしても政府の呼び掛けとは明らかに一致しない。反省の弁を述べた直後、“はしご会食”に向かったらしいが、首相の言う「誤解」の意味もよく分からなければ、「反省」の意味も分からない▲「真摯に反省」とは、その場をやり過ごす方便なのかどうか。国民に「静かな年末年始を」と言うご当人の“お騒がせ”は、もうお開きに。(徹)(長崎新聞・2020/12/19)

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 「水や空」さんにも言いたい。「国民が誤解した」のは店に行ったことではないんです。「私は国民諸君とは違う」「私は選良」「庶民じゃないんだ、俺は」ということを、庶民にもわかるように明言しなかったから、誤解された。会食はいいんだ、何人でも。「庶民は四人」までといったが、言い方が徹底しなかったから「誤解を与えた」と。さらにいえば、「ガースー」はできる政治家だと、国民に誤解を与えていたと。だから「真摯に反省」と言ったんです。「支持率七十%」という、とんでもない高い数字をいただき、それを自分は「誤解して」しまい、国民は強く支持してくれていると思っていた、少々の悪さも許してくれるだろうと誤解していた。そんなこと(「できる政治家」「人柄が信じられる政治家」)はありはしない、それをはっきりと国民に云うべきだったが、言いそびれていた。

 つじつまの合わない行動などと言われるが、「所詮、私はこんな程度」と明確にメッセージを出さなかったのが「国民の誤解を招く因」となったとしたら、それは「申し訳ない、間違いでした」と反省(カンニングペーパーを読みながら)しただけの話。ホントはバカなんですが、利口の振りをして「誤解を招いた」なら、「真摯に反省」というのでしょう。同じことをくりかえします、この手の人たちは。しかし、「誤解を与えたのなら、それを受け取った方がいけないんだ」というのが本音。バカも極まれりです。カンニング紙がなければ、「謝罪の振り」もできない。カンニング人生もまた、一つの流儀。政界では流行るんですね。

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 (中略)動画中継サイトでの「ガースー」あいさつ、高級ステーキ店での大人数での会食には批判の嵐で、首相は“自縄自縛”状態。ご自身の危機管理が、まるでなっていない。周囲にいさめる者がいないのも情けない。/ 大寒波襲来で、さらに冷え込む日本列島。今こそ温もりのある政治が欲しい。(恵)(奈良新聞・「国原譜」・2020.12.18)

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 「国原譜」氏。お気持ちはわかるが「ないものはねだれないし、ねだってはいけない」、当人に重圧がかかる(はずもないけど)か、ようするに「蛙の面に✖✖」ですよ。相手がまともな感覚の持ち主と、相手を過大に評価している(誤解ですよ)が、そもそも「人間観察」ができていません。また、ガースーに言われるよ、「国民の誤解を招くという意味では真摯(しんし)に反省している」って。あれを「まとも」とみなすこと自体が、がそもそもお門違いです。「まともなセンス」の持ち主が政治家になりますか。こういう事例は、国原の歴史には出ていなかったのか。「今こそ温もりのある政治が欲しい」と、なんという恐ろしい暴言を吐くのですか。温もりは暖房機やカイロで得るものです。政治には暖房効果なんかあるものか。人民を塗炭の苦しみに突き落とし、身ぐるみをはぎ取る「山賊もどき」なんですよ。「温もりの政治」なら、タヒチかどこか、まず南方ですよ。

 という次第で、暇がなくなってきました。いくつものコラムを立ち読みしましたが、何かが足りませんね。ハタと思いついた、憎しみ、軽蔑がまったく足りないのです。自分たちを軽蔑している人間にオベンチャラだって、気が狂いましたか。下手な同情をかけるから、奴らは「つけあがる」「足元を見る」ですよ。まず再販制という疑似餌に食らいつかないこと、そんな呪文みたいな「お為ごかし」から解放されなければ。いい記事、いい新聞ならどんなに高い値段でも読み手はいます。その証拠に、ぼくは新聞購読という惰性はとっくに脱しました。ネット新聞でじゅうぶん。(申しわけない、まだ会員ではなく、読み代を払っていません)

 言わねばならぬことがなく、言いたいことを無理にでも探して、字面をそろえ、マス目を埋めているだけじゃないですか、そんな昔ながらの新聞紙上の風情・風儀をぼくは感じるのです。「辞めなさい、ガースー」という主張はどこにも見られない。ネット記事では、管見ですが、たった一つ「救国内閣を」というのがありました、「ヤメケン(辞め検」弁護士」が書かれていました。前歴を猛省しているんですね。ぼくも彼に倣って、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、と「自主トレ」に励みます。ゆっくりと、穏やかに。

 靴の上から痒いところを掻こうなんて、効き目はないし、まず横着・ズボラですよ。「総理、裸ですよ」と、なぜ言わないか、それは自分も裸だからです。高望みも、ないものねだりも、ぼくはしない。年寄りの生活にお節介は止めてくれ、それだけですよ、望むのは。新聞会社さん、数多の記者さん、取り巻きなんか止めることですよ。言わねばならぬことをいう。狙い撃ちにされる、それっ、と応援部隊が集まります、かならず。嘘だと思われるなら、やってごらんなさい。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)