世に従へば、身、苦し

 「すべて、世の中のありにくく、わが身と栖との、はかなく、あだなるさま、また、かくのごとし。いはむや、所により、身のほどにしたがひつつ、心を悩ますことは、あげて計(かぞ)ふべからず」

 世の中はおしなべて住みづらいし、この身も住まいもはかなく、むなしい限りだ。まして住むところや、身過ぎの明け暮れにはなにかと心悩ましいことばかりであり、そのような心痛は数えればきりはないほどにある。

平清盛(1180-1239)

 長明が出生以来の変転はいずれも本文中に記されているが、生誕直後の保元・平治の乱(1156、59年)に始まり、安元の大火(1177年」、治承の竜巻(1180年)、福原遷都(1180年)、養和の飢饉(1182-3年)と、この十年ほどの災厄は凄まじいものがあった。いかな人間でもこの天変地異の連続に心穏やかでなくなるどころか、暗澹たる心地がしたでしょう。自分を生んでくれた母の所在も安否も不明であり、たった一人の身内であった父も二十歳前に亡くなっている。父は下賀茂神社の「正禰宜惣官」だった。身寄りのない独り身に長明は深い孤独を託(かこ)っていたか。

下賀茂神社・糺の森(境内の一角にマンションが)

「世に従へば、身、苦し。従はねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心休むべき」

「すべて、あられぬ世を念じすぐしつつ、心をなやませる事、三十余年なり。その間、折り折りのたがひめ、おのづから、みじかき運をさとりぬ。

 すなはち、五十の春をむかへて、家を出で、世を背けり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず、何につけてか執をとどめん。

 むなしく大原山の雲にふして、また五かへりの春秋をなん経にける」

 遥かな昔、ぼくたちの想像を絶するような「有為転変」の時とところに生活を重ねた長明の人生苦はいかほどであったろうか。天変地異に慄き、定職らしいものを持たない、身の丈に合わせるほかない見過ぎ世過ぎも心痛の重しにこそなれ、一日として安閑たる時はなかったように見えます。しかし、それはまた僕たちの時代の生活苦であり、苦悩・苦汁の種であることに変わりはないとも言えます。「朝に死に、夕に生まれるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける」

 世の習いに素直であれば、義理や人情に縛られよう。また世の中に背を向けて生きるには、よほど気が張る。あるいは狂気じみてもくるだろう。どこかしかるべき土地でなんなりと仕事をしてわが身がしばらくでも休まる心地を得たいものだ、という気弱な(?)心境になっていた。

 長明は五十を前にして、神職「禰宜」に就こうとしたことがありました。もともとは神官の家の出であったが、後ろ盾はなく、なにかと苦労してきた時でもありました。

 若くして和歌や音楽には才能を示していた長明は後鳥羽上皇の支持を得ていた。「新古今集」を編むための選者に推された(和歌所寄人)こともある。詳細は省くとして、そのころ、鴨河合社(=下賀茂神社境内「糺の森」にあった)の禰宜に席が空き、それを求めて、長明は曽祖父が兄弟同士であった一人の縁者と争ったが、いろいろな誹謗などもあり、後鳥羽院の推薦もむなしく、長明は外れてしまった。後鳥羽院は見かねて、であったと思われますが、別口の神職を用意したが、今度は彼がこれを断った。

後鳥羽院(1180-1239)

 この三十年、生きにくい世の中を渡りながら、いつも苦心惨憺してきたが、五十になって街中の家を出て、世の中に背中を向けることにした。妻子もいないので縛られるものは何もない。無職の身であれば、なにに執心することがあろう。この時代、官位も高くなく、後ろ盾もない独り身には、生きるによしなしで、まるで背伸びをして(あるいは強がって)生きている風情がします。 

 世上言われるように、長明は「無常」を感じ、「超俗」に走る人ではなかったというのが本当らしい。世をはかなんで出家し、山中深くに住まいするという「風狂」の影は彼には見えない。大原というのは都(宮処)の北部ですが、御所からは指呼の距離、おそらく都の街区を彼はいつも見つめ続けていたにちがいありません。今に見ておれ…。

 機を見て敏であったとはいえませんが、世事に鈍感であったとも思えない。「世を背(そむ)けり」とはいうが、声がかかれば一目散に駆け降りる心算はあったように思われます。いつのころか、彼は鎌倉まで実朝に会いに出かけています。長明没の三年後に実朝は暗殺されますが、京・鎌倉は長明にとっては生きる縁となっていたはずです。修羅場の人といえば、いいすぎでしょうか。

大原三山遠望

「むなしく大原山の雲にふして、また五かへりの春秋をなん経にける」心ならずも大原山の雲の下に住み、すでに五年も過ごしてしまった。(この「大原」の所在については異論もあるが、今は京の北部、三千院(天台宗派)のある地とする。貴顕紳士の別宅や別荘があった)当時にあって、この地は一つの「世間」であったし、長明が選んだ理由は明らかではありませんけれども、人跡未踏の地ではないという条件を彼は維持したにちがいないのです。

勝持寺の桜

 (蛇足 「大原」にはもう一つの候補地があります。北山に対して西山、「大原野」といわれています。嵐山の南西方にあり、そこには勝持寺(別名「花の寺」)がある。ここは西行ゆかりの寺でもあります。「春風の花を散らすとみる夢はさめても胸のさわぐなりけり」(西行)「西行桜」がありました。今はどうですか。寺の西方は長岡(京)であり、南には桂離宮があります。姉二人がそれぞれの地に居住しています。ぼくは中学生のころ、長岡の姉に会うためにしばしば大原野を通ったことを思い出します。さらに近くには在原業平の墓所とされる地もあります。業平ゆかりの十輪寺も健在です。はたして長明はこの地に住んだか。隠棲には似合わない風景ですがね。北山大原より、ぼくの好みは西山大原野です。)

 大原の「雲間」にいた五年の間、彼は何をしていたのか。歌を詠むことは続けていました。「新古今集」の成立はこの時期(1205年)で、神職任官事件の一年前です。彼の歌は十首が採用されています。世間とは没交渉ではなかったといえるでしょう。あちらこちらを、長明は足しげくといっていいほどに渉猟しているのです。いったい何を求めてだったか。

「すべて、世の中のありにくく…」「世に従へば、身、苦し…」「すべて、あられぬ世を念じ…」

 まるで世の中を呪わんばかりの、この苦衷や苦悩の漂白は長明のどこから生まれ、何に由来するのでしょうか。「家を出て、世を背(そむ)けり」というのは、彼の偽りない心情の吐露であった。すすんで家を出たのではなく、だから世を捨てたのではなかったのです。「世が世ならば」という見果てぬ夢物語は、五十(耳順)前の夜ごとの習いになっていたとぼくには思われてきます。

唐木さん

 彼は「世を捨てた人」ではなく、「世が捨てた人」だったとも言えます。

 ― ちょっと休憩です。ここまできて、若いころに耽読した唐木順三さん(1904-1980)の『無用者の系譜』を思い出しました。(一瞬の間に、二十歳時代に引き戻されました。唐木さんが本郷「赤門」のそばで立小便していたのを目撃したことがある。少し呑んでいる風でしたが。「良寛」や「一休」の著者が…と驚いたね、驚くに値しないか。(無駄話了)どうして「唐木」と分かったか。当時ぼくは彼に入れあげていたので、「尊顔」は知っていました。半世紀以上も昔のつまらぬ出来事)

 世に受け入れられない怨みに悶えた末の大原入りだったといえるのではないか。

 門閥も誇れず、位階も貧しい、それならば、と「歌詠み」に一縷(る)の望みをかけたが、ここでも門閥制度が侵入を禁じた。音楽の世界にも一門の壁が厚く、長明の住める世界ではなくなっていたのです。あらゆるところで幅を利かせていたのが門閥(家柄)、位階であった。それらは一連の門外漢封じの「注連縄(しめなわ)」だったといいたい。諭吉に倣って「門閥制度は親の仇でござる」といえばいえたのです。

 「たまゆらも心休むべき」土地を探し求めていた時期でした。彼は足しげく住処にふさわしそうな土地を求めて逍遥、あるいは跋扈したにちがいありません。もちろん、今日のように不動産屋さんはなかった。これは「駅近物件」ですなどと紹介してくれる人もいない時代でした。「大原」が北であれ西であれ、「たましきの都」に半日もかからずに帰れる距離にあったことを思えば、よほど長明は都を離れたくなかったはずだといえます。

 (「たまゆら」はアニメにあらず。「玉響」と書き、勾玉の擦れ合う間、一瞬を意味する)「たまゆら」が存外長期になるのも世の常です。(「無常」、それは長明には似合わない)

投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。