つかず離れず四十年、気になる関係

 異化と同化について

 《…福田定良は法政大学に行って林達夫に接するのだけれども、どうしてもあわないんだな。一生懸命勉強して、林達夫の教えたものをいくらか学ぶんだけれども、いまにいたるまでほとんど四十年たっているんですが、どうしても林達夫の歩いた道というか、その学問には納得できないんです。…つまり、自分が同化できない相手というのは、えらいのかもしれないですよ。それにつかず離れず、つまり四十年、気になる相手であったわけですね。しかし、これは自分の学風ではないと、いま自分が五十過ぎて思い定めるわけだけれども、その自覚に達せるのは林達夫の影響なんですよ。そこのあたりにわたしは感心したなあ》(鶴見俊輔座談『学ぶとは何だろうか』)

 ある種の教育(者)には同化を促すよりも異化(反発)をひきおこしてしまうことがあるのでしょう。あんな教師のいうことなんか聞くものかとか、親父の顔を見るのもいやだ、という具合に。これもまた一つの教育です。同化教育とは別種の教育なんですね。ここで問題となるのは、同化教育一辺倒でもいけないし、異化する(反発を招く)教育だけでも駄目なんじゃないかということです。異化・同化両々あいまって、というのがいいのじゃないか。教育というよりは人との交わりの問題だと思うんですけれども、ある時期に強烈な感化・影響を受けて、それが自分の生涯を決めるほどのものだったということがあるでしょ。その反対に、どうにも我慢できないくらいいやな教師に出逢うこともあります。どちらも一回かぎりのものなのかもしれないんです。この関係が持続することはきわめてまれだと思います。ここに教育、ことに学校教育の限界、また救いもがありますね。

 卒業してしまえば、それで終わり。それをこえて関係がつづくということはまずありません。これも考えてみれば不思議な話です。教師と生徒が教室や学校のなかだけに縛られない交流というものがもっとあってもいいし、それがいかにして可能かという道を探ることも、教育の重要な意味なのではないか。このことに関して、鶴見俊輔さんが教師と生徒の一つの関係のありようを話されたとみていい。異化か同化か、それが問題なのではなく、異化と同化をあわせもつ関係というか、異化と同化がまるであざなえるなわのごとくに、からみあいながら相互交渉を重ねていった一つのケースを話されているんです。

(福田定良さんには独特の雰囲気がありました。飄々というか、悠揚迫らずというか。ぼくはほとんどのものを読んだといえるかもしれません。いつでも肩ひじは張っておられなかったように生きた方でした。その師であった林達夫さんにもいろいろと学ぶことができました。ある種の「教養」の瑞々しさといってもいいかもしれません。博学多識、博覧強記とはこんな人の事を言うのだと、若い時に遥か彼方を眺めるように、まじめに読んだことでした)

 これはまことにまれな場合であるかもしれません。一代の碩学、林達夫に接して、しかもその内部にまで入りこむことができなかった、これまた哲学の徒である福田定良。つかず離れず四十年、これくらいの交渉、それも同化一辺倒でもなく、異化作用だけでも続くはずもないのです、 「それはほんとうの意味での交渉があったということ」だと鶴見さんはいわれます。このような交渉の持続が「人間の教育」だといわれるのじゃありませんか。  

 それは学校教育では望むべくもないということになるのでしょうか。教育にも人間的要素があるのだということを願うのなら、これくらいの時間をかけてその成果というものをつむぎだすことが大切じゃないか。教えられつづけて、期限(卒業)がくればお終いというのでは、あまりにもあっけないという気もします。また、だからといってだれかれにも、福田と林のような関係を期待することもできない。では、どうすればいいのかという具体的な問題に直面しますが、鶴見さんの話をもう少し聞いてみましょう。

 《つまり、同化というのは、なんとなく壇の上に立って直線的に教えるでしょう。異化というのは反発してはじき合っちゃうわけだけれども、同化と異化をともにふくむような相互交渉というのか、それはある時間をともにしなければ、なかなかそういう教育効果というのはあらわれないんですよ。どちらが教育するかわからないけれど、ある時間をとおしての成熟ですね》(同上)

 同化と異化を同時に含む関係(つきあい)、あるいは親子の関係に近いかもしれない。ぼくには親父とのつながりにおいて、この微妙な結びつきがわかるように思えます。親子だからできて、他人同士だから不可能であるとは言わない、福田・林関係は特例であるにしても、そのような寄りながら離れながらという、そんな関係は決して稀ではないようにも考えているのです。教え、教えられるという交々の交わりがどうすれば可能か。作為が働くとも思えないし、自然に生まれるというものなのか。いや、はじめはぎこちなかったけれど、時間の経過に応じて、つかず離れずの関係が滋味を帯びてくるのかもしれません。ぼくは、一人の人間と可能な限り長くつきあう、その中に教育というものが生まれてくるのだといい続けてきました。あるいは、そこに生まれるのが「教育である」と。

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●福田定良 1917-2002 昭和後期-平成時代の哲学者。大正6年4月6日生まれ。昭和21年法大教授。徴用労働者として南方戦線に投入された体験記「めもらびりあ―戦争と哲学と私」を23年に発表。45年の学園闘争で大学をやめる。だれもができる哲学を主張,生活者の感覚に根ざした哲学を追求した。平成14年12月11日死去。85歳。東京出身。法大卒。本名は瀬川行有。著作に「民衆と演芸」「仕事の哲学」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

●林達夫 1896-1984 昭和時代の評論家。明治29年11月20日生まれ。昭和4年から岩波書店の「思想」を編集。戦後は中央公論社出版局長などをへて平凡社「世界大百科事典」編集長をつとめる。すぐれた識見とひろい視野をもつ啓蒙(けいもう)家として活躍。31年明大教授。昭和59年4月25日死去。87歳。東京出身。京都帝大卒。著作に「歴史の暮方(くれがた)」「共産主義的人間」など。【格言など】政治くらい,人の善意を翻弄し,実践的勇気を悪用するものはない(「新しき幕明き」) (デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)