教育とは〈予想する〉…

 以下は、むのたけじ(1915~2016)という新聞人が実際に学校で経験した話です。

《…ぼくの旧制中学時代(現在秋田県立横手高校にぼくは昭和二年四月から同七年三月まで在学した)のことを思いだしたので、書いてみよう。当時は上級生の下級生に対する鉄拳制裁が「質実剛健の校風助長に役立つ」としてなかば公認されていた。最上級の五年生は週一回か二回、下級生全員を雨天体操場に集め、かねて生意気だと目星をつけていた下級生をみんなの前でなぐったり蹴ったりした。あまり行きすぎないように監督するため、教師が当番制で体操場にはいってきたが、集団心理でいたけだかになっている最上級生たちは声をそろえて教師のアダナを連呼し「帰れ、帰れ」と怒鳴った。それで姿を消す教師もいたが、じっと立ちつくしている教師もいた。

旧制横手中学校
石坂洋次郎(1900-1986)

 その教師は、近ごろ見る写真ではずいぶん肥えて良いかっぷくをしているが、当時は全くやせ細っていて声も弱々しかったので「ヨガ(夜蛾)」とアダナされていた。だから、その教師が制裁の場へはいってくると、悪童達は「いまは昼だ、ヨガの出る幕じゃない、時間をまちがえるな、帰れ、帰れ」と怒鳴った。教師にとってそれは堪えがたい屈辱であったろうが、その教師は体操場の一隅に立ち続けて情景をみつめていた。石のようにだまりこくったポーズは、岩のようにきびしかった。そのとき、教師と生徒達の間には火花の散る決闘に似た何かが流れたのをぼくは思い出す。

 その教師、石坂洋次郎さんがその後たくさんの青春小説を書くことができた源泉は、あの<踏みこんだきびしさ>の中でつちかわれたものかどうか、ぼくにはわからないが、けれども、ぼくら当時の悪童連の側ではいまでも同級会を催すと、ご本人不在のところでヨガ、ヨガとよんで敬愛の話題はつきない。ぼく個人についていえば、石坂文学に心ひかれることは少ないが、国語と作文と倫理の授業を担当した「すばらしい教師・石坂洋次郎」に対する尊敬と感謝は、あれから三五年すぎた現在もかわらない。(「高校生への手紙」・65/05)

横手高校・徽章

 もう一つ。敗戦直前(1945/8)の一コマです。ここにも教育・教育者というものを考える上で大切なヒントがあるように思う。

《ヒロシマに原爆のおとされる約一週間前、私は月島方面にあった東京府立商業学校(現在の都立第三商業高校、昭和三年設立)へ講演に行った。その学校から新聞社へ「戦意高揚の講演に記者を派遣してほしい」という申し込みがあって、当時極度に少人数となっていた社会部員の中から偶然私が指名されたのであった。そのとき何を話したかをあらましおぼえている。私は、東南アジア先々への従軍体験をもとに、アジア諸民族の独立を求めてやまぬ課題は情勢がどうなろうと生きつづけると述べ、だからわれわれ日本人はたたかい抜かねばならないと説いた。日本が勝とは考えなかったが、負けることを望んでもいなかった私がそのときに若者たちに語ったことは、明白に「戦意高揚」の言葉であった》

 むのさんは中学を卒業して奉公に出ることになっていた。家計の余裕がなかったからです。「成績が優秀なんだから、上の学校に出してやれ」という篤志家の援助で東京の学校に入ることになった。(現在の)東京外国語大学卒業後に新聞記者になります。このエピソードは別の新聞社に就職していたときのことでした。

豊洲市場の近くです。

《ところが玄関まで見送ってきた校長は、質問するようでもあれば独語するようでもある口調で、「いよいよ民主主義の時代ですなあ。民主主義はこの国でどのように展開されるでしょうねえ」と行った。私はギョッとした。私は何も言わずに校長の顔を見た。ああ、じれったい、その名前が思い出せない。背の低い私の顔とほぼ同じ高さにあったその人の顔は微笑もせず緊張もしていなかった。五十を一つか二つこしたと思われるその人は、頭髪がうすく、顔のつくりは平凡で、当時だれもが着た国民服ではなく背広を着て、ネズミ色のネクタイをしめていた。その人から受けたショックは二十年たったいまもなまなましいのに、どうして名前を忘れてしまったのだろう……》

 初めて会った一人の校長の言葉は、むのさんに大きなナゾを投げかけたようです。

《ともあれ、戦時中に私が「民主主義」という単語を日本人の口から聞いたのはそれがはじめてで、それきりであったのだが、その約二週間後――私は敗戦の日の日付で勤務先に辞表を出してもう野人生活をはじめていたが、浦和市本太の麦畑の中にあったわが家へ、あの商業学校の小使さんが現在(今からほぼ55年前)なら二万円に相当する金額のはいった角封筒を持ってたずねてきた。そして「これは講演の謝礼です。……その記者(むのさん)は朝日新聞社にはとどまっていないだろう、きっとやめているだろう、と校長先生が言ってました」と言った。

 一人の教育者が初対面の俄か弁士にむかって「民主主義」を言うことができたのは、なぜであったか。なぜ私の退社を、当の私でさえ辞表を書く日までそんなことになるとは思ってもいなかったのに、彼は推断できたのか。本人から説明を聞ける機会を持たずに経過してしまったが、彼の側の説明がどうあれ、この出来事から〈教育とは、予想することだ〉という実感を私は抱いた。(「教師たちに問う」・1965/05)

 ぼくはあるとき、たまたま大きな集会(二千人くらい)で雑談をする機会を与えられた。ほとんどが若い人たちだったので、むのさんのエピソードを急いで騙りました。集会が終わった直後に、一人の青年がぼくのところに来て「おばあちゃんがむのさんの友達で、いつもむのさんの話を聞いていた。こんな場所でむのさんのことを聞くとは思ってもいなかったので感激した。早速おばあちゃんに伝えます」という。彼は秋田から上京したばかりでした。いかにもむのさんらしいなあ、いまも元気なんだと感じ入ったことがありました。その二年後だったか、むのさんは亡くなられました。

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dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)