気兼ねなく雑談を…

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。世中にある人と栖と、又かくのごとし。 
 
 たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き卑しき人のすまひは、世々を経て尽きせぬ物なれど、是をまことかと尋 ぬれば、昔しありし家はまれなり。或は去年焼けて今年作れり。或は大家滅びて小家となる。住む人も是に同じ。所もかはらず、人も多かれど、古見し人は二三十人が中に、わづかに 一人二人なり。朝に死に、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。(『方丈記』)(右の写真は保津川と渡月橋)

 上に掲げた文章はぼくの生活の「まくら言葉(枕詞)」になってきました。「よどみに浮かぶうたかた(泡沫)」はわが命の姿。それはいつも流されゆくばかりで「久しくとゞまりたるためしなし」鴨長明(1155-1216)にもまた世俗の塵埃にまみれた前半生があったように思います。「たましき都」の下鴨河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)に押されるも一族の反対にあい、遁世。ちと気短であったか。後鳥羽上皇や源実朝の知遇を得たからこその挫折は彼を人間嫌いにしたのでしょうか。京の郊外「大原」の里に赴きしばしの休憩。後に伏見近郊の日野に隠棲します。そこにちいさな庵を立て、それを根城に「方丈記」(1212年)を著し、無情と無常をふかく掘り下げ、人生のはかなさを内省。わが身の「水泡」のごとき姿を凝視した。(右上の写真は日野山方丈庵旧跡碑)

 いつの世にも、だれにもひとしくせまる人生の苦しみは避けがたい宿命ではないでしょうか。彼が生きた平安末から鎌倉初期の時代相はどんなものだったか、天災人災の阿鼻叫喚が彼の文章(随筆)で活写されています。それをよくよく考えれば、ぼくたちの生きる時代もまた「久しくとゞまりたるためしなし」と首肯されるはずです。

 明治初期「時世時節は変わろとままよ」と拗ねたのは三州(屋根瓦の生産地)吉良の仁吉さん。(ここに彼が出てくる必然性はなし。ぼくが仁吉好きというだけ、これもまた「水泡」だ)彼は清水(山本)次郎長の兄弟分だった。若くして(享年28だったか)三重県の荒神山にてやくざの出入りで倒れた。ぼくは二代目広沢虎造師の浪曲で少年(小学生)の魂を揺すられました。どこのだれにも、たった一人だけの「人生劇場」は開幕されているのです。観衆の多少はまず意味はなし。「義理がすたればこの世は闇だ」「吉良の仁吉は男じゃないか」と泣きながら書いたのは佐藤惣之助氏。曲は古賀政男氏。歌うは亡き村田英雄さん。これもまた一つの「方丈記」だとぼくは思っているのです。

 長明も仁吉もぼくも…、命あるものはすべからく、いつの世にも変わらぬ small world に生き死にしているということです。「朝に死に、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける」水泡に帰するとは、世の習いであり、すべては露命を免れることはかなわぬ夢だと思い知らされるのです。それを知って生きるのと、委細構わずこの世の春をつかみ取ろうとする人生、ぼくらはどちらをも選ぶことができますが、行きつく先は変わらないようにぼくには思われます。君はどう生きる(?)「偉くなりたいか」「金持ちになりたいか」さて、どうする。

 「私は貝になりたい」と呟きながら刑場に消えた一人の民衆(C級戦犯として)もいました。(初の劇化は1958年、主演はフランキー堺さん)ぼくはこの映画を今なお鮮明に記憶している。「理不尽」という語を知った最初だったか。主人公の豊松は、今度生まれてくるとき「私は貝になりたい」といいつつ、死刑台の階段を昇って行った。同じ戦争裁判で「A級戦犯」とされた人物が、釈放された後しばらくしてアジア東海の島の総理大臣になったとさ。(この人の孫が現ソーリ)2008年には中居正広さんとゴクセンの仲間由紀恵両人主演でテレビドラマ化。浜松だったか、床屋さんをしていた豊松は招集され、戦時中上官(天皇に偽装)の命令で米軍捕虜を銃剣で傷つけた。実際は殺してはいなかった。だが殺害の罪で絞首刑となった。(実話をもとにドラマ化されたもの)

 このブログはぼくの「なんでも雑記帳」であり、「ガラクタ駄文集」であり、「しまりない雑談録」にすぎない。いい年をした人間がするのも恥ずかしい、自己弁護に終始する類の自省の字か、それとも世をはかなむふりをしたかのような辞世の辞に等しいものです。ひとさまにお見せする・お読みいただくような代物ではまったくありません。万が一お目に留まった方がいたら、不幸この上ない災厄で、まことに相すまないと深くお詫びするほかないものです。早速に弁解がましく言えば、ぼくひとりのイタズラ帳なんです。悪しからず。

 何ほどのこともなしえず、齢●●を過ぎました。少なくとも長明さんよりいささかの長命ですけれども、恥ずかしながら年齢だけは五十歩百歩です。彼から学び、他から学び、生き物すべてから学んできた、ぼくのささやかな経験の吐露、録(と)ろ、そんな程度の代物だと自身は考え、世にはやる「自撮り」ならぬ「辞録り」(ぼくの造語ー「言葉遊び」)の悪戯です。あるいは「年寄りの冷や水」の風狂かもしれぬ。何事においても「遊び」が欠けているのが今の世です。遊びの中に学びがあり、学びの中にも遊びがある、という具合に首尾よく「辞録り」ができるか。か細くも小さな声で、密やかに小心者の子守歌(ひかれ者の小唄=刑場にひかれていくものが「平気を装い」口にする小唄。転じて強がり、負け惜しみの犬鳴ですな。)を口ずさみたいというのがただいまの小望ですね。

 小唄を一曲二曲。初めの五・七・五は芭蕉先生からの借用ですね。梅若はお墓で、二人でそこまでしっぽりと舟で行こうじゃないか。向島(隅田川の東岸)はぼくの遊歩道、かつては。長明寺桜もちが今も繁盛。そこは荷風さんの『墨東奇譚』の世界でした。「お雪さん」はさぞ麗しい女性でしたろう。ぼくの知り合いの数学者が花街向島に住んでいます。粋な先生ですよ。それにしても冬場の「屋根船」は怖いですね。濃厚××とか。くれぐれも注意おさおさ怠らず、おたがいに。二曲目はいかがですか。ないものねだりとはこれをいうんですね。色気と品性はコンビになるんですかな。そのうえで「冷淡」じゃないと、いまどきそんなお方がおりますかいな、という夢のまた夢物語。まさに歌の世界。

 いざさらば 雪見に転ぶところまで
 連れてゆこうの向島 梅若かけて屋根船の
 粋な世界じゃないかいな

 ほどほどに色気もあって品も良く
 さりとて冷たくない人に
 逢ってみたいような春の宵

 渡世の義理も欠いたままで、ぼくはここまで生きてきました。「不義理よ、今夜もありがとう」と唄うのがこのところの習慣になりました。いわばぼくの「持ち歌」、カラオケとやらには縁がありませんが。人並みに糊口をしのぐためにある職に就きましたが、そこでもぼくは平凡。凡庸であることをみずからに言いきかせてやり過ごしてきました。ぼくの周りにはわれは知識人なり、文化人なりと自称する人がいつもいましたから、畢竟、その反対側にぼくは身を寄せればいいんだという見当で当座をしのいできたといえます。自分の位置はいつも人から離れて、というものでした。以来、つるまないのが信条(性癖)になったようです。そこから学んだのは「汝自身を知れ」とソクラテス張りの処世術のようなものでした。つまり、知らないものは知らない、自分に正直であるにかぎるということです。素直と正直、お前はどっちを取るか、変な例ですが、そう問われれば、ぼくは迷わずに「正直」に手を出した。はたして「一以貫之」だったかどうかは自信がありません。

 つたない生き方から、知ったかぶりをしない人間こそ、ぼくはなりたかったわけではないが、それが「知識人」なのだといっていいのじゃないか、という呪文じみた戒めを得ました。幼気な子どもこそ知識人なんだ。物知りや嘘つきとは無縁です。知識人=英知のある人です。ホントにいないですね。「正直」だけがその条件だと考えてきました。生来の学校嫌いが教師の真似事をするのには土台無理がありました。やむを得ず、無理だと自覚して若い人たちとつきあってきたのですが、そこで学んだのはもっぱらぼくでした。この雑文帳を種にしてかかる中途半端な経験やなまかじりの知識まがいを安売りしようと、貧相な店を張った次第です。営業時間は気の向くままという出鱈目です。いつ開店しいつ閉店するか、行き当たりバッタリ(場当たり)。「本日休業」「本日は休肝日」がつづくであろうことをあらかじめお断りしておきます。

 ここではぼくはこれでも店主であり、同時にお客でもあるという「売ったり買ったり」の一人二役、へんてこな「呑み屋」商売です。酒飲みが外で飲むのはカネがかかるからと自分で呑み屋をはじめた。ある時は主人になって酒と肴を用意し、ある時は客になって酒と肴をいただく。「同じ金子(きんす)」が行ったり来たり。落語にありますが、まあ、そんなアキナイ(自転車操業)が繁盛する気遣いがないのは先刻承知です。じゃあ、暖簾をかけましょうか。それとも、…。

(お断り このブログ中に使用される資料・史料のほとんど(特に写真やイラスト)には当然に著作権が存在します。本来なら、使用願を出し許可を得る必要があります。そうすべきであることをぼくは認めますが、このブログの性格上、つまりは商用に資するものではないという点、あくまでも個人の範囲で利用するものである点などを考慮して、現段階では「無断借用」することをお断りし、同時に関係者に、そのことをお許しを願う次第です)(ブログ作成者)(2020年1月22日)

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