弱さを隠さない、それが強いことの根拠だ

【金口木舌】ザ・ドリフターズのリーダーを務めたいかりや長介さんのドラマでの台詞(せりふ)である。「人間は元々弱い生き物なんです それなのに心の苦しみから逃れようとして強くなろうとする」▼定評ある名脇役だった。台詞にも力がある。強くなると自分の痛みに鈍感となり「人の痛みにも鈍感になる」。そして「自分が強いと錯覚した人間は他人を攻撃」する▼自分を過信し、鈍感になったのか。市民団体などが杉田水脈衆院議員のブログ記事などを「差別扇動のヘイトスピーチ」と認めるよう国へ求め、5万筆以上の署名を添えた▼読み返すたびに胸が潰(つぶ)れる。2016年に国連女性差別撤廃委員会へ参加した女性らを「チマ・チョゴリやアイヌの民族衣装のコスプレおばさん」と投稿。18年には性的少数者らを「生産性がない」と雑誌へ寄稿した。今も差別と認めていない▼いかりやさんの台詞はこう続く。「弱い者が手を取り合い、生きていく社会こそが素晴らしい」。人を傷つける空疎な強さは社会を荒(すさ)ませてしまう。国民の代表が勘違いしてはいけない。(琉球新報・2023/02/23)(上写真は毎日新聞)

【社説】杉田水脈政務官 差別容認議員、なぜ起用 性的少数者(LGBT)への差別や偏見をあおる投稿や、性犯罪被害を訴える女性を「うそつき」呼ばわりする発言をしてきた自民党の杉田水脈(みお)衆院議員(比例中国)が、先日の内閣改造で総務政務官に起用された。/ 社会人としての資質さえ疑われる人をなぜ、内閣の一員にする必要があったのか。岸田文雄首相の掲げる「多様性を尊重する社会」にも逆行している。/ 疑問や批判の声が上がるのも当然だろう。岸田政権は差別発言を容認している、との印象を国内外に与えかねない。深刻に受け止める必要がある。 / 性的少数者差別の寄稿は2018年、月刊誌に掲載された。「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるのか。彼ら彼女らは子どもをつくらない、つまり『生産性』がない」と持論を展開した。/ 性的指向や性自認にかかわらず、誰もが人間として尊重されなければならない。それを否定するのは、ヘイトスピーチ(憎悪表現)と変わらない。/ 20年には、性暴力被害に関する党の会議で「女性はいくらでもうそをつけますから」と述べた。謝罪と議員辞職を求める署名集めがインターネットで広がり、短期間で10万筆を超えた。強い批判の表れだろう。/ 同年の衆院本会議では、夫婦別姓を選べず悩む男女の例を紹介した野党の質問に「だったら結婚しなくていい」とやじを飛ばした。/ いずれも、国民の「選良」としてふさわしい言動とは到底言えない。さらに問題なのは、本人に差別意識や反省が乏しいことだ。先週の総務政務官の就任会見でも「過去に多様性を否定したことも、性的マイノリティーの方々を差別したこともない」と白々しくも言い切った。

 自民党の甘い処分が増長させているのではないか。「生産性なし」寄稿の際、当時の二階俊博幹事長は「人それぞれ政治的な立場、いろんな人生観がある」と事実上の不問に。「うそつき」問題でも、発言の5日後にようやく、下村博文政調会長が口頭注意しただけだった。政府や党の見解とは食い違う発言にもかかわらず、なぜ厳しい処分は下さなかったのだろう。/ 安倍晋三元首相との近さが指摘されている。中国比例ブロックで厚遇されたのも、それが理由だろう。もともと日本維新の会や次世代の党の所属で、その時から「女性差別は日本には存在しない」「男女平等は、絶対に実現し得ない、反道徳の妄想だ」などと主張していた。/ 内閣のメンバーで資質が疑われるのは杉田氏だけではない。文部科学副大臣に起用された簗和生(やな・かずお)衆院議員は昨年、自民党の会合で性的少数者に関し「生物学上、種の保存に背く。生物学の根幹にあらがう」旨の発言をした。多様性尊重の政権目標が薄っぺらに見える人事だ。/ 日本政府は、性的少数者への差別を法律で禁じるよう国連から14年にも勧告された。しかし進んではいない。欧州連合(EU)全加盟国や米国の多くの州で、性的少数者への差別禁止法が制定されているのに比べ、対応の遅れが際立っている。/ もはや、差別容認発言をした議員個人の問題ではなくなっている。問われているのは、岸田首相の見識や任命責任だ。今すぐやめさせるべきである。(中国新聞デジタル・2022/08/23)(上写真はNHK)

杉田政務官が辞表 「年末の節目」総務相「本人が決断」 松本剛明総務相は27日、総務省内で記者団の取材に応じ、性的少数者を巡る過去の不適切な表現が批判された杉田水脈総務政務官(衆院比例中国)が辞表を提出したと明らかにした。8月の就任後、過去の差別的な言動が波紋を広げ資質が問題視されていた。/ 松本氏は「政府の一員として迷惑をかけてはいけないと考え、判断したという報告だった。本人の決断を受け止めた」と述べた。/ 杉田氏は省内で記者団に「2022年度第2次補正予算が成立し、年末の節目というタイミングで辞表を提出した」と話した。(中国新聞デジタル・2022/12/27)

 本日の駄文を綴る発端はコラム氏が書かれているチョーさんの「セリフ」です。「人間は元々弱い生き物なんです それなのに心の苦しみから逃れようとして強くなろうとする」、強くなったつもりになると、自他の感情に対して鈍感になる。「自分が強いと錯覚した人間は他人を攻撃」する。本当に強い人間は他人を攻撃なんかしないのに、です。ぼくは腹の底から「自分の弱さを隠さない」「自分の弱さを自覚する」ということを徹底しようとしてきました。まだまだ不十分だという自覚がある、だから「弱い自分」に見合った生き方をしようと精進しているつもりです。そこからの結論というものでもありませんが、「自分の弱さを知り抜いた、その事実(感覚)が、その人の強さなんだ」と言いたいですね。弱いこと、足りないところがあること、欠点いっぱいの人間だと知れば知るほど、それを矯(た)めしたいという意欲が湧いてくるといいのですが。弱さに堪えきれずに、多くの人は弱さを隠す「代用品」を探し、求めるのでしょう。まるで「虎の威を借りる狐」みたいに。狐は自分で、虎は「権威」なんだな。

 その第一は「高学歴」というか、世評に高い学歴を得ることに賭けます。悪いことに学校教育はその「高学暦競争」に拍車をかける。評価の高い学歴を得たら、同じ自分に変わりがないのに、自分が偉くなったと「錯覚」するのは避けられない。第二に、「高い身分」に就くことで、自分は偉くなったと大きな誤解をするのも避けられない。「高い身分」といいますが、今は身分社会ではありませんから「高い(とみなされている)地位」といえばどうでしょう。多くは「☓☓長」と呼ばれる地位です。会長・社長・村長・市長などのように。それから「先生」と呼ばれる職に就くことが、第三です。「(議員)先生」とか「校長先生」と、他人から呼ばれると(どうだ、偉いんだぞ)という気になりやすい人が実に多い。先生は偉くもなんともない。単に早く、先に生まれただけの人。それだけのことです。だから、ぼくの前には無限・無数の「先生」がいる。年上(年長者)である「先生」に対して、ぼくは後から遅れてきたものです、それを「後生(こうせい)」という。先生と後生、これが実際の意味です。先生まれと後生まれ。「子曰、後生畏るべし。焉(いづく)んぞ、來者(後世の人)の今に如(し)かざるを知らんや」(論語、子罕)

 そして、チョーさんの決め台詞「弱い者が手を取り合い、生きていく社会こそが素晴らしい」もちろん、これは芝居のセリフだから、間違わないように。問題は「偏見と差別」問題でした。「差別発言」をした。それを追求され、撤回し謝罪する、これで一件落着か。発言を取り消したけれども、発言した「事実」は消えない、これをどうしますか? しばしば差別発言と指摘されても撤回しない輩がいます。これを確信犯というのでしょう。ここまで来ると、その発言は犯罪行為だし、取り消しても済まない性格のものといえます。杉田某の場合はこれに当たる。手に負えないとはこのこと。彼女には、ある種の使命感、弱者を打ち叩くという使命があり、その役割を果たしている限り、身は守られる(仲間が支える)という直感があるのでしょうよ。またこの女人を推挙したのは故元総理。(散々のことをしでかして「どうだ、俺は偉いのだ」と虚勢を張っていたと思う。「弱い犬ほどよく吠える」というのは嘘、弱かろうと強かろうと「吠える」のが犬です。そこへ行くと人間は違う。「弱い人間ほど、自分を偉く見せたがる」「弱いから、強がる」のだ。こんな連中が寄って集って「政権の座」を死守している。件の杉田某は、その典型です。彼女は弱い、弱すぎる、だから虚勢を張りすぎるんですね。

 弱い人間が弱い人間を差別したり攻撃してどうするんですか。「目くそ鼻くそ」(「目糞鼻糞う」「汚い目やにが、鼻くそを汚いと言って笑う。自分の欠点には気がつかないで、他人のことをあざ笑うたとえ」(デジタル大辞泉)、「五十歩百歩」(《戦闘の際に50歩逃げた者が100歩逃げた者を臆病だと笑ったが、逃げたことには変わりはないという「孟子」梁恵王上の寓話から》少しの違いはあっても、本質的には同じであるということ。似たり寄ったり」(同上)「大同小異」といいたいし、「どんぐりの背くらべ」じゃありませんかと言ってみたくなる。実につまらんことですが。。

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 もちろん、この駄文には結論はない。弱いものが、もっと弱い存在とみなすものをイジメてどうするんですか。170センチが168センチを「ちび」と罵るような「哀れさ」がありますが、要は、それが「哀れだ」と気がつくかつかないか。気がつかなければ、いろいろと算段して気づかせることでしょうね。「偏見と差別」が政治の領域に生じ易いのは「権力」と関係しています。政治権力に近けれな近いほど「強い」という錯覚も大きい。だから、どうするか。ぼくは徒党を組むことが大嫌いです。一人は弱い。そんな弱い人間が「夫婦」になっても、弱さは減らない。弱いからこそ、いがみ合うのでしょう。でも弱い人間が百人集まって「徒党を組む」と、弱い一人ひとりは強くなったという錯覚に陥る。ここが肝心なところでしょうね。人間関係は数学の計算ではありませんから、「弱い(マイナス)」と「弱い(マイナス)」を足しても、掛けても「強い」(プラス)にはならないんだということ、これを忘れないことですな。「偏見と差別」にかかわる特効薬はない。自分は「無知」であるという自覚があればこそ、少しでも賢くなろうという気も起こるというもの。それがなければ、手に負えません。仮に、人間が強さを得ることがあると言えるなら、それは自分の欠点(弱さ)を隠さないこと、それ以外に「強さ」はないね。自分が弱い人間であることを知るにはどうしたらいいか。Do Little.ですね。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)