「分ける」から「育てる」に逆流

 「いつだったか新聞の家庭欄に載った、とても興味ある投書を読んだことがあります。/ 結婚している女性の投書でしたが、夫はたいへん本が好きである。何かというと、すぐに本を買ってくる。ただ、全然読まない。積んでおくだけなので、家中いまや本だらけだ。夫の買い求めてきた本を、女性は読んだことがない。自分はたくさん本を読むと思うが、読むときは図書館から借りてきて読む。つまり、こういうことです。夫は本を買うが、読まない。自分は本を買わないが、読む。」(長田弘「失いたくない言葉」『読書からはじまる』所収。NHK出版刊、2001)

  「本を読む」と「本を好む」とはちがうというのでしょう。夫は読みもしない本をせっせと買ってくる。妻は買わないけど、図書館から借りてせっせと読む。もっとわかりやすくいえば「本を買う」と「本を読む」とはちがうことなんだという話。本に対するふたりの姿勢のもっともちがうところはどこにあるのでしょう。「活字離れ」や「読書ぎらいの若者」の増大を嘆いてみてもしかたがないわけです。ぼくにも身に覚えがあります。高校卒業まではまともに本を読まなかった。国語の授業のコマ切れ感が身についてしまっていたから、本は五十分読んだら閉じるというけったいな習慣が出来上がっていたのだ。

 目的意識もなく大学に入ったが、本だけは読もうと決めていた。ぼくには「本の世界」は未知の領域だった。文京区本郷に住み、毎晩のように本屋(古本屋も多かった)に通い詰めました。気が付いたら、相当な借金をしていた。これと同じことがレコードに関しても起こっていた。地下鉄の本郷三丁目駅前のレコード屋で毎月のように新しいレコードを買った。ここでも借金がたまりました。何年分かの授業料に匹敵する大きな金額だった。なに、払えなければ、売ればいいやという気分でいた。おかげで、ぼくは自分流の本読み・レコード聴きになっていました。どこかで書いたような気がしますが、この当時、平櫛田中という彫刻(木彫)家は九十歳をはるかに超えていましたが、自宅の裏庭に三十年分の木材を寝かせていたという話を聞いたか読んだかして、たいそう興奮したことを覚えています(右写真)。いまだに、二十年分くらいの未読の本を積んでいます。いや、寝かせてあります。先憂(借金の支払い)後楽(読書の楽しみ)ですね。

 元に戻ります。「読む」と「買う」といいましたが、今日もっぱら勢いのあるのが「買う」という行為。まさに何でも買う。それは所有するということです。一時的であれ永続的であれ、買って所有する、所有するために買うのです。「買う」も行為なら「読む」も行為ですけど、このふたつの行為はあきらかにことなっています。どのようにことなっているか。わかりやすい例になるかどうか、一例をあげてみます。

 ここにトマトを求めるひとがいます。Aさんはスーパーかコンビニかでトマトを買う。それに対して、Bさんはじぶんの家でトマトの苗木を植えて、それからトマトを収穫したいと望んでいる。本をめぐるふたつの行為のちがいは、いうならばこんなところにあるのではないでしょうか。

 十人が同じ本を買う、十人が同じ本を読む。ここまでくれば、「買う」と「読む」のちがいは明らかになりませんか。買うなら、どこで買おうがたいしたちがいはない。それ(本という情報)を所有するのが動機なんだから、十人の行為に差はない、いっしょです。ところが、その本を読むとなると、それぞれの読み方がありますから、いっしょということにはならない。Bさんの読み方とCさんの読解とはちがう。

 長田さんは、先の夫婦の本に対する嗜好のちがいを「生産・製造」と「物流・流通」のちがいに例えています。

 「今日の暮らしをささえている仕組みというのは、大雑把に言えば、モノを生産し、製造する。そして生産され、製造されたモノが物流し、流通していって、日々の土台というべきものをつくっている。その伝で言うと、読書というのは生産・製造に似ています。そして、情報というのは物流・流通に似ています。(中略)/ 簡単に言ってしまえば、読書というのは「育てる」文化なのです。対して、情報というのは本質的に「分ける」文化です。(同上)

 たとえば、コンビニエンス・ストア。それが担っているのは、人びとの日常のかたちをなす「分ける」文化です。コンビニにあるのは、八百屋にあるもの、魚屋にあるものとは違う、すべてできあがったもの、つくられたものです。コンビニに代表されるのは、できあがったもの、つくられたものを分けていく文化のかたちです。コンビニエンスは、もともと便利、便益、便宜という意味の言葉ですが、そうした便利、便益、便宜であるコンビニエンスを、どのようして、どれだけもたらすことができるかということこそ「分ける」文化の眼目です。(長田弘)

 コンビニが感染病さながらに、この小さな島に蔓延してきました。およそ半世紀前に拡張期が始まります。おそらく列島全域には約6万件に届こうかという店舗が林立しています(2018年現在)。長田さんが指摘されるように、そのコンビニにあるのは「すべてできあがったもの、つくられたもの」ばかりです。つまり、材料や原料を買ってきて自分で作る(料理・調理する)のではなく、買ったままで食べられる「中食」文化(?)が猖獗を究めているというのでしょう。自分で食事を作れない、作らない人が満ちあふれている時代、それが「分ける」文化大流行時代の実相です。

 ここまで来ると、どなたもお気づきになるでしょう。

 日本の学校は「教育界のコンビニ」であったというのです。「分ける」文化の魁(さきがけ)であったかも知れません。どんな問題でも自分の頭で考え、自分の言葉で表現する必要性はまったくない。すべて出来合いの「符丁・符号」を教師から、金を払って買う。教師が販売する商品(符丁や符号)は全国一律、いやそこまではいかなくとも、似たようなモノです。セブンイレブン系もあれば、ローソン系もあるし、山崎系もサンクス系もあるというわけです。味や値段に若干のちがいがあっても、ようするに出来合いであるという点ではまったく同じです。面倒な作業はいっさいなし。金さえ出せば、商品は手に入る。それを所有すれば、当座の生活の間に合う、つまり、入試や普段のテストに役に立つかどうか、それが問題なんです。でもそれだけです。コンビニのコンビニたる所以は、保存が利かないということ。その点では食品でも「符丁や符号」(学校で与えられた・買った「情報・知識」)でも事情は同じです。

 社会が「育てる」文化を、もはや手間暇かけて育てられなくなっているのです。「二一世紀になった途端に、いままでずっと技術文明にささえられてきた社会が直面することになったのは、『分ける』文化の未来と可能性とは裏腹の、『育てる』文化の困難と衰退です」(同上)(右の写真は、ある私立校で「コンビニ」が併設された時のものです)

 「育てる」ではなくて「分ける」、これこそが学校の任務だった。でも本家筋のコンビニにも異端者が現れてきました。唯々諾々と命じられたままにはなりたくないという経営者(オーナー)が出現してきたのです。これからは、コンビニ本来の、という意味は、お客主体の、店舗経営がかならず実行されて行くでしょう。もちろん経営者主体でもなければなりません。二十四時間頑張れますか、という愚問がいまさらのように胸に刺さる方面が多いのではないでしょうか。

 ならば、分家筋の学校も「分ける」ではない、「育てる」方向にはっきりと舵を切る必要に迫られてきます(もうとっくの昔に求められていたんですが)。はたして、その道に、いまから行けますか。それとも「分ける」に留まっていますか。

 元来、食料も教養も「自給自足(self-sufficiency)」が相場でした。産業化社会が生み出されてきた結果、専門家とか技術者と言われる階層が求められ、それらが「分ける」社会を作り出したのです。その余波で、「育てる」は脇に追いやられた。だから、元に戻るだけの話です。自給自走で賄えない分、互いに交換すればいいじゃないですか、となる。リスタートです。すでに先を歩いている先行者の後ろ姿も見え隠れしています。ー かうして生きてはゐる木の芽や草の芽や(山頭火)

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