全員「アイスクリーム」に賛成、「宿題」に反対

 【南風録】アメリカの小学校で、先生がいきなり幾つかの言葉を挙げ、子どもたちに賛否を尋ねた。好き嫌いで判断したのだろう。全員が「アイスクリーム」に賛成し、「宿題」には反対だった。▼先生はそれぞれの言葉には続きがあると告げる。アイスは「ニンニク入り」、宿題は「週末はなくす」。情報をよく確認せず判断すればだまされると教える授業だ。政治心理学者の川上和久さんが主権者教育の一例として自著で紹介している。▼日本でも5年前の「18歳選挙権」の導入を契機に、学校現場で実践的な主権者教育が本格化した。模擬投票などを行う選挙管理委員会の出前授業を活用し、政治や社会の課題を自分の事として捉え行動できる人材の育成を目指している。▼ただ、コロナ禍が水を差す。総務省によると、出前授業を実施した選管は昨年度、前の年から2割強減った。「密」の回避が求められる中、生徒を集めにくかったようだ。▼先日の本紙ひろば欄に、自民党総裁選に興味を持つ高校生の様子をつづった高校教員の投稿が載った。「国のリーダーを決める選挙に直接参加できないことへの違和感は大きいようだ」。根付きつつある主権者意識が垣間見えた気がした。▼きょう結果が出る総裁選で選出されるのは、事実上の次の首相である。保身や派閥の思惑に左右されることなく政策でこそ選ぶべきだ。多くの主権者が見つめている。(南日本新聞・2021/09/29)

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 いかにも「旧聞」ではないですか、という型落ちを引っ張り出してきました。いまさら何を言うつもりかと訝られることは間違いありません。このところ、各紙のコラムを、左見右見しながら読んでいて、この「新聞コラム」の顔つきは、なんとも奇妙ですね、何年も何十年もほとんど変わらないということに、少々辟易してきたのです。そんなことはとっくの昔に気付いてはいました。でも、いっかな画期的な「コラム調」「コラム節」「コラム風」が表れそうにないのはどうしたことか、自分の駄文を棚に上げて少しばかり胃が痛みだしているのです。

 その形式や起承転結の転ばせ方、あるいは、最後には取ってつけたような教訓調の訓示タイプや非難風の体言止め、などなど。「南風録」氏には申し訳ありませんが、恰好の事例として使わせていただきます。「アイスクリーム」と「宿題」という言葉だけで、何を問うたのでしょうか。二つの言葉のどちらが好きですか、あるいは嫌いですか、だったか。そんなことは聞くまでもないじゃないですか。この逸話を引用した川上さんとかいう人にも問題があるかもしれません。人(教師)の話を最後まで聞きなさいと言うお説教だったら、もう少し気の利いた例話を使うべきでしょう。「情報をよく確認せず判断すればだまされると教える授業だ」というし、「主権者教育」の一例だという。ホントですか、この程度の例題を出して「主権者教育」もあったものではありません。だから、アメリカでは「とんでもない大統領」が選ばれるというのでしょうか。法ん報は語るに落ちています。子どもを尊敬していない教育は「教育の名に値しない」、質の悪い「悪ふざけ」「ごっこ遊び」だな。

 主権者教育というのは、選挙(投票)目当てに行われる教育などでは決してないはず。この島の十八歳選挙権導入の問題が、懸案であった時代が懐かしい。実際にそれを導入してみると、十代や二十代の「投票率」がやたらに低いという。ぼくは、当然と思っています。簡単に言えば、「二者択ー」に難ありです、「A候補かB候補」と迫られるのが嫌なんでしょうね。ところが、質の悪い大人たちは(おのれのことを棚に上げて)、出されたものに好き嫌いを言ってはいけないとか何とか、呆れますよ、だって三十代や四十代の「投票率」だって立派なものとは言い難いからです。候補者が悪いから、といえば一件落着か。いや、それは違うでしょうね。面倒だから言わないが、選挙法(小選挙区比例代表制)がよろしくないのが一つ、さらにいえば、やたらに候補者が「出馬しない(できない)」ような、べらぼうな供託金の調達問題。その他いくつかありますが、ようするに、既成政党が談合して作る「法律」が諸悪の根源ですね。

 例えば、二世や三世議員の続出問題一つとっても、これを何とかしようという魂胆・気概が現行議員連中からまったく出てきません。選挙地盤が百年も変わらないなどというのは、もうすでに、政治家が「稼業・家業」であることを世間が認めていることです。区割りをいじって、一票の格差を小さくすると言いますが、もっと根本の問題は、出身地(出生地ではない)問題のまやかしを「即刻改めろ」、そんなコラムを書いてください。生まれは東京で、育ちも東京、現住所も東京、それでいて各地の選挙区から出られるという奇天烈さと人民を誑(たぶら)かすというタヌキ芝居、事実、これに「非を鳴らす」コラムを読んだことがございません。「たった一日で百万円」の、過般のお手盛り騒動はどうなったか。とにかく、何処のコラム(新聞社)も扱っているから、それには、取りあえず触れるが、目立たないようにという姿勢は一貫しています。そんなことばかりに神経を使っているから、ついに、この島社会は「時代おくれ」になったんですね。(「目立たぬように はしゃがぬように / 似合わぬことは無理をせず/ 人の心を見つめつづける/ 時代おくれの男(ぶんや)になりたい」)

 「国のリーダーを決める選挙に直接参加できないことへの違和感は大きいようだ」と、伝聞担当教師、それを受けて、「根付きつつある主権者意識が垣間見えた気がした」という、間接話法の感性コラム氏の言い分なんか、じつに「紋切り型(stereotyped)」ではないでしょうか。このような目立たない「ウソ」というか「一見まじめ風」が、人を誤り国を誤る、というほどのもんでもありませんね。相当の昔に、ぼくは各新聞の「社説」は「盲腸である」と書いたことがあります。あっても無用というが、なければ前か後ろかがわからないから、いまのところは必要です、というようなフザケタものでした。それなりに反響がありましたが、それにしても、どうということもなかった。その証拠に「百年一日」のように、線路と同じように「社説」も続いていますからね。(本日は、内村鑑三と吉本隆明の(二つの)「ヨブ記講演」に関して雑文を書こうとしていましたが、気分が乗らない、その反動(虫の居所加減)で【南風録】に八つ当たりのような具合になりました。ご免んなさい、記者さん。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。