
【談話室】▼▽山形市出身の教育者無着成恭(むちゃくせいきょう)さんの青春は戦争のただ中にあった。山形中学時代は群馬県の軍需工場に動員された。師範学校に入ってからは庄内に赴き、燃料油の原料となる松の根を掘った。終戦の日も庄内で迎えた。▼▽戦後、価値観は百八十度変わる。それまで18年、軍国教育を叩(たた)き込まれていた無着さんは気付いた。「自分の生き方は自分で考える時代になった。その力を子どもにつけてやるのが教育だ」。赴任先の山元中(上山市)で実践した成果は学級文集「山びこ学校」に結実した。▼▽俳優渡辺えりさんの父正治(まさじ)さんも教師として同じ時代を生き、山形市で95年の生涯を閉じた。会葬者に手渡した「お礼の言葉」でえりさんが綴(つづ)っていた。父は東京の軍需工場で働き、九死に一生を得る。終戦後は教育の大切さに思い至り働きながら山形大に入り先生となる。▼▽教え子たちを愛した分、慕われもした。「尊敬する人」として1位シュバイツァー、2位は渡辺先生と挙げられたほどだった。「格差や差別のない平和な世の中を希求していた」とえりさん。戦中戦後を生き抜いた人々の軌跡は、未来への道標ともなる。忘れてはなるまい。(山形新聞・2022/05/22)

「本題に入る」前にといいいたいところですが、そもそも「本題」が、これまで書き散らされてきた駄文にはないものですから、何をどこから、どこまで駄弁っても構わないという勝手な方針を立ててやってきました。入り口もなければ出口もない、やめがかろうじてかぶさっているの孕みたいな、殺法請けいな場面ですね。各地の新聞コラムに毎日目を通し、ああでもないこうでもないといいながら、好き放題に読み飛ばしている。記者の方々には相済まないと、反省やら感謝やらを感じつつ、それにしてもわずか五、六百字ほどの文章に、苦心惨憺の跡が見えると、ぼくはそれだけで感じ入ってしまいます。
山形新聞のコラム「談話室」、このタイトルがいいですね。談話とか談話室という雰囲気が、なんだか余裕を与えてくれそうで、気分までゆったりしてくる気がするのです。ラウンジとかチャット、あるいはトークなどと、いかにも気軽に話し合えるというその雰囲気が好ましい印象を与えてくれます。さて、その「談話」の内容ですが、教師あるいは教育者の思い出の寄ってくるところ、か。ある異国の思想家は「教室」は meeting place といいました。言いえて妙だと、ぼくは感心しました。教室は話し合いの場、異なる意見同士がそれを持ち寄って、さらによりよいものにしていくば、それが談話室ですね。この島社会の学校、あるいは教室が、実際に「談話室」だったら、さぞかし楽しみももっとあったでしょうね。ミルクはいかがですか、と先生が伺いを立てる。ブラックにしてくださいと、子どもたち。でも現実には「教室」は「教えるところ」「教えられるところ」、ミルクどころじゃないんだね。

この駄文録では、これまでに何度も無着成恭氏については触れてきました。戦後の学校教育の中でも忘れられない教師の一人だったことは間違いありません。その仕事の内容や評価に関してはさまざまな意見があります。ぼく個人は、大いに評価するものです。だからと言って、そのすべてが「ブラボー」だというのではない。俗に「毀誉褒貶」ということを言います。つまりは「ほめたりけなしたりすること」を指し、まさしく口さがない「世間の評判」を言うのでしょう。師範学校を出て、生まれた村の隣の中学校の教師になります。戦後の新制中学校の「社会科」教師でした。「山びこ学校」は、その中学校三年間の教師と生徒の「格闘」「共同」のあかしとして記録されたものでした。その場q限りの真剣勝負で、再び同じことはできない相談でしたね。出版当時、村や家庭の「恥部を晒した」と散々の非難が浴びせられた。しかし、地元以外ではびっくりするような高い評価を得たのでした。子どもの「詩」が文部大臣賞を受賞するというおまけもついて、「やまびこ」は全国各地に響き渡りました。その後の無着さんは、あるいは別の人生を歩かれたともいえます。それに関してはここでは述べません。(教育・授業は一瞬で終わる。後に何が残されるか、誰にも分らない、そんな玄妙な付き合いが教育なんですね。一瞬の邂逅こそが、求められる仕事なんですね)
教師の仕事(その中核は授業です)をどのように見るか、その見方は簡単なことではありません。いや想像以上に困難な事柄に類します。これは特に教師に限りませんが、すべての人に評価されるということはあり得ない。たった一人の子どもの中に、その後の人生にかかわる「大事」を刻したなら、それだけでも優れた仕事だともいえます。教師の仕事は授業だけではありませんが、少なくともその授業の中で子どもたちに何事かが生じたなら、それはそれで、仕事を成しえた人間(教師)の冥利ともいえることなのでしょう。成績が上がる、受験に成功するというのも、教師の助力があったからこそともいえますが、そんなところに「仕事の核心」があるとは思えないのです。

教師の仕事にかかわって、もっとも重要なものとなった言葉は、「出会い(encounter・begegnen・rencontrer)」というものだと、ぼくは思ってきました。いろいろな「出会い」がありますが、教師にとっても子どもにとっても「一期一会」というものなのかもしれない、そう考えると、仇やおろそかには教師はできないと、ぼくは腰砕けになったのでした。「一生に一度だけの機会。生涯に一度限りであること。生涯に一回しかないと考えて、そのことに専念する意。もと茶道の心得を表した語で、どの茶会でも一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くすべきことをいう」(デジタル大辞泉)ということになるのでしょうか。何かを教えるなどということなどではなく、もっといわく言い難い「出会い」や「交流」がそこに生まれる。時には、ほんの一瞬の出会いであったかもしれないのに、それが生涯の方向を決める縁(よすが)になるということもあるのです。
「出会い」というのは、出会い頭という語もあるように、思いがけずぶつかり合う、予期しないで、行き合うということでしょう。他人が万端準備をしていない限り、ほとんどの「出会い」は文字通りに「エンカウンター(encounter)」です。「〈思わぬ相手と〉遭遇する 〈人と〉(偶然)出くわす」(デジタル大辞泉)が原義です。入学して同じクラスになり、そこで初めて付き合いが始まるという具合です。友人だった人が、保育園に入ったときに一緒になった女の子と結婚した。以来七十数年を経て、いまだに仲良く共同生活をしている。こんなことがあるのです。付き合いの長さが尊いというのではなく、「出会い」「付き合い」の質の問題なんですね。
ぼくにも若干の経験がありますが、どんな教師が担任になるのか、なんどか担任との「出会い」の記憶が残されているのです。その学校の、その時期に行かなければまず「出会わない」、そんな人々との「出会い」があるのです。無着さんの最初の印象は、実に強烈であったと多くの元生徒たちが証言しています。もちろん、生涯を左右されるような「出会い」だった人も少なくなかったし、その反対もいたことは事実です。(この間の事情については、佐野眞一著「遠い『山びこ』」(新潮文庫)に詳しく描かれています)

どのような「出会い方」をするか、当事者を含めて、だれにもわかりません。教職の怖さと凄さはここにあるともいえます。面倒は避けますが、教師は「何かを教える・伝える」、しかし、それ以上のものが「教えられる・伝えられる」のです。教師は当たり前のこと(知識)を与えたかもしれないが、子どもの側は、それを教師の想像も及ばない深さで受け入れるということはいくらもあるでしょう。もちろん、その反対も数限りありません。「教師の一言が、自分を救ってくれた」と、卒業後何年も経って、殺人事件を犯した青年が獄中で述懐しています。

これはどこかで触れていますが、「遺愛集」を残した(書いた)死刑囚の島秋人さんの言です。担当教師は、そのことをすっかり忘れていたが、ある時突然、当人から「手紙」が届いて、島さんの境涯を知ることになる。学校にはほとんど行けず、知能に遅滞を見せていた島さんでしたが、絵の時間に「君の構図だけはいいぞ」と教師から言われた、その思いを監獄に入ってしみじみと想起するのです。ありきたりの(当たり前に考えられている)出会いや付き合いではない、常軌を逸したともいえそうな「出会い」が果たされる、その可能性をはらんでいるのが「教職」ではないでしょうか。
渡辺えりさんの父君について、ぼくは知るところはありません。しかし、その教職における仕事ぶりは、「山びこ学校」と比較できない、唯一性・独自性を持っていたのでしょう。このような父上につながる渡辺さんを羨ましくも思うのです。「格差や差別のない平和な世の中を希求していた」と父のことを語る娘。この願い(希求)が実現したかどうかではなく、そのような姿勢・態度(思想)を持ち続けたというところに敬意を表したい。その志(こころざし)を壮としたい、というところでしょう。もちろん、すべての教師はそれぞれに、自らの思いを持ちづけているだろうし、持って教職に就いたのでしょう。しかし、さまざまな「制約」「悪条件」がそれを許さないのも、現実だというべきです。近年、教職を志望する人が減少しているのは、世の中の何を示しているのか。教職の魅力が失せた理由はどこにあるのか。それは政治の問題であり、経済の問題でもありますが、人と人が「出会う」ということの意味合いが著しく阻害されていることも無縁ではないように、ぼくは考えています。

ぼくは教師失格でしたから、教師や教職についていささかたりともものは言えないのです。しかし、教職に限定しないで、「出会い」「交流」ということを考えるなら、そこには未知との遭遇が満載されていると、ぼく自身の経験から学びました。「この子はこの程度」という見くびった評価は死んでも下せないし、「この人間はダメだ」と、いかなる行状を見たとしても、「それを言っちゃあ、おしまいよ!」と、ぼくは寅さんになります。「足したり引いたりする」部分だけを重んじる、あるいは無知を謗るだけの教育は、おそらく「教育」ではないのでしょう。「そんなものは、消えてなくなれー」という地点から、おそらく何事かが始まる。それをぼくは「教育だ」といってきたように思います。
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