引き続き、感染リスクが高い行動を…

新型コロナウイルス感染症対策
10月29日、新型コロナウイルス感染症に関する現在の状況とこれまでに得られた科学的知見について、新たに10の知識としてとりまとめました。
新型コロナウイルス感染症の発生をさらに抑えるためには、1人ひとりが最新の知識を身につけて正しく対策を行っていただくことが何よりも重要です。
ぜひご覧下さい。
感染リスクが高まる「5つの場面」
これまでの感染拡大の経験から、感染リスクが高い行動や場面が明らかになってきました。
一方で、屋外で歩いたり、十分に換気がされている公共交通機関での感染は限定的と考えられます。
新型コロナウイルス感染症の伝播は、主に「クラスター」を介して拡大することが分かっています。
これまでのクラスター分析で得られた知見から、
・感染リスクが高まる「5つの場面」
・感染リスクを下げながら会食を楽しむ工夫
が新型コロナウイルス感染症対策分科会により提言としてまとめられました。
国民のみなさまには、引き続き、感染リスクが高い行動を避けていただき、クラスター連鎖を抑えて、
感染拡大防止にご協力をお願いします。(https://corona.go.jp/proposal/)

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 国家が威信をかけて対策を練って、ようやくにして提示したのが、以上の愚策です。これはまともな感受性を持った並の大人でも、恐縮するほどの、じつに恥いる提言です。無意味な冗談をいわないでくれ、とぼくはいまさらのように切り捨てたいね。「三人寄れば文殊の知恵」というのに、それ以上集まれば、「衆愚の悪知恵」となるのはなぜでしょうか。

 「一人一人が最新の知識を身につけて正しく対策をおこなっていただくことが何よりも重要です」という。これこそが「自助」というものですか。「自助」一本やり「政治」は何もしないという意味です。命を失おうと、自助の行きつく先のことだから、なんとも打つ手がありませんと、「見放し宣言」しているのです。愚人が何人集まっても「愚人の衆」でしかないのですが、なんという情けない状況が内閣府の核心部で生じているのでしょうか。税金をたらふく使って「感染者」を急増させているし、いったい誰を救済するために愚策の山を築いてきたのでしょうか。ぼくは「日本人をやめたい」とつくづく感じ入っているのです。

 コロナ禍に目を奪われている間に、じつは眼をそちらに向けさせられている間にと言った方が正確ですが、別の方面でとんでもない事態がかなりな程度に進んでいるのです。この雑文では書きませんが、きっと、気が付いたら、この島は「別国の持ち物」になってしまうのです。いたるところで「売国行為 (treason)」が充満しており、主役(痴事や市腸や宦僚)たちは暗躍ならぬ明躍をしているのです。「大阪都構想」はいったい何だったか、いまなおそれは終わっていないどころか、さらに新たな展開が目論まれています。だれが大阪を壊し、外国に魂を売ろうとしてきたのか、売ろうとしているのか。IR構想も、なかなか死んではいないのです。この「内幕」はきっと東京でも開かれています。やがて見ることになりそうですが、そのときは幕となっているのに違いない。

 「悪い奴ほどよく眠る」という映画がありました。(黒澤明監督、三船敏郎主演。1960年)巨悪は熟睡するというか爆睡するのです。その陰で、いじめら(抑圧さ)れている小人(人民)は「不眠症」「うつ病」に極度に悩ませられているのです。「自助」「自己責任」を強弁し、権力を恣にして、島の中枢から腐敗させてきたのです。政治家の役割とはという垂訓を駄弁る場合ではなさそうです。暴力を振りかざそうとするのではありません。ぼくたちに認められている「権利」を十二分に発揮することから、薄汚い輩によって、汚染された政治から、自らの誠意を救い出し、我が意を貫徹したいと熱望するのです。(上に書きかけた事情については、近い時期に述べてみたいと考えています)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)