誤ったことの記憶を保ち…(承前)

 一人の教育者の「回想」をさらに引用します。これまでにもたくさんの教師たちの「戦時と戦後」を調べてきました。そのほとんどに認められるのは、この金沢さんに読み取れるような懺悔と反省の気分横溢した回顧録です。若かったぼくは、「いい気なものだ」という感情を隠さなかった。知りうる限り、敗戦を機に、自らの責任を痛感して教職から離れた教師はきわめて総数だった。その教師たちのこともどこかで触れるかもしれませんが、大半の教師たちの「反省と再生」の中途半端さ(気軽さ)は必ずや、再び大きな過ちを起こすことにつながるであろうという危惧の念を持たざるを得なかった。その危惧をいだかせたのは教師たちばかりではなかったのは言うまでもありません。(上の写真の「土下座」の意味が、今になってもぼくにはわからない。誰に対して、何のために「土下座」しているのか。不快です)

〇ど‐げざ【土下座】 の解説[名](スル) 1 昔、貴人の通行の際に、ひざまずいて額を低く地面にすりつけて礼をしたこと。2 申し訳ないという気持ちを表すために、地面や床にひざまずいて謝ること。「土下座して許しを請う」(デジタル大辞泉)

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 終戦の詔勅は郷里愛知県の蒲郡できいた。警備召集の通知を受けていた私はこれから後どうなるかわからないので父母と家族のいる郷里蒲郡に帰った。その時八月十五日をむかえた。(中略)「鬼畜米英」も教えた。「打ちてしやまん」も教えた。「大君のへにこそ死なめ」とも教えた。そして卒業生たちには出征のたびに激励のことばも送った。その私がどのつらさげて再び子どもたちの前に立つことができようか。政府の指導者は大いなる誤算であったとすましていられるかも知れないが、一人一人の魂に接していく教師、人間の真実に迫っていく教育、つねに真理を真理として教えていく教師が、今までのことは間違いであったと簡単に言うことは道義的にはできないのである。それが純真な子どもであればある程人間としての責任の深さに思い悩んだ。(金沢嘉一・同上)

 教科書の一部に墨を黒々と生徒に塗らせて抹殺させようとしたときは、ドーデの『月曜物語』の中にある〝最後の授業〟―プロシャに占領されて、きょう限りフランス語による授業が受けられなくなったことを悲しむ教師と生徒のことを思い出しながら、敗戦のきびしさを教えなければならなかった。子どもから戦犯と言われても仕方のない私が、その口をぬぐって子どもたちの前に立ち、日本再建の話をするなどと言うことは…と心がひけた。(同上)

 ときの政府、ときの軍部のいう通りにすることが民族の未来のために真に幸福な道であるとは思えない。人間の魂にふれていくわれわれ教師は、もっとりこうになり、もっと真実を求めるための教育をしなくてはならない。そして私自身は再びあやまちを繰り返さない教育をしなくてはならないと、自分に言いきかせるとともに子どもたちにも呼びかけていった。(同上)

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 同じ回想記のなかで金沢さんは次のようにも書いておられます。それは日本のたくさんの教師達が抱いた感懐であったろうと推察されます。

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 ちょうどそのころ、心から私を喜ばせてくれたのが憲法の草案である。

 この憲法だったらやっていける。この憲法の平和を志向する精神こそかねがね私が求めていたことである。私は幾度もこの草案を読み返してみた。これならやっていける。この憲法精神をもとにした教育こそ私が望んでいた教育である。わが半生はこの憲法精神によって生きていかなくてはならないと改めて決意したのである。

 それはまた私だけの感銘ではなく、当時の国民感情もこの憲法精神をよりどころにするところに新しく生きる日本の道を見つけ出したといえるのではなかろうか。

 当時相前後して、占領軍から民主化のために新しい勧告が出されてきたが、その中でも深い印象として残っているのは、昭和二十一年三月に来日したアメリカ教育使節団の報告書であった。そこには日本教育に新しい改革と民主主義への示唆があった。

LLLLL

 このように書いて「教師の最善の能力は、自由の空気の中においてのみ十分に現される。この空気をつくり出すことが行政官の仕事なのであって、…」というくだりを引用されています。この報告書を読んで歓喜の涙を流した教師も多かったのですね。

 《 たしかに、憲法や報告書はたくさんの教師たちに希望の光を与え、勇気を授けたにちがいない。それを否定することは私にはできないことです。でも、それが大きな支持を受けたということはまた、別の問題を露わにすることにもなったのでないか、と思うんです。 「報告書」を貫流する「自由と民主主義」を主題とする教育哲学は、旧来の軍国主義や超国家主義の教育体験者には無条件に受け容れられる素地をもっていた。そのような理念は、旧習に泥んでいた自己を裁く格好の口実となり、同時にそのような教場に教師を投げ入れた国家を断罪する武器ともなったからである。だが、無条件に受容されたということ自体、自らを厳しく問い直す確かな契機とはならなかったという点で、「民主主義の教育」理念は多くの教育関係者にとっては、戦中から戦後に移住するための「パスポート」の役目しか果たさなかったとも言えよう。民主教育を自身の存在根拠として引き受けることは、戦時下に時を過ごした多くの教師にとっては想像以上に困難な課業となったにちがいないのである。》(岡村遼司「教育改革と民主主義観」『占領と戦後改革 第4巻』所収、岩波書店、1995年)

 もちろん、このようにいえるのは歴史の後知恵に類することで、それだけのことだろうと思います。ぼくは誰彼を非難するのではない。ことさらに竹内さんを引用したのにはそれなりの理由がありました。自らが間違ったことを記憶に留めるということ、しかもそこから戦後の生き方を始めたということを厳しく受けとめたかったからです。

  いままで誤ったことの記憶を保つことが真理の方向を示す。そういう考え方。真理はこれだ、これを見よ、私はそういう考えに立たない。自分はこういうふうにしてまちがえた。それをゆっくりもう一度考えてみると、真理はこっちじゃない、こっちだろう、となるでしょう。真理をそういう方角としてとらえるというのが基本的な考え方なんです。(鶴見俊輔)

 反省ならサルでもする、というのはとんでもない誤りで、サルは反省などという惨めったらしい、嘘くさいことなんかしないですよ。「反省する」tぴいますが、実際は「させられている」のです。人間も同じじゃないですか。反省するふりをする、そのふりで「自分が騙される」んじゃないでしょうか。サルは反省なんかしない。

 なぜって、彼らは人間みたいに質の悪い過ちを犯さないからです。ざっとこの七十五年を概観してみて、なんだか出発地点に戻ったような気がしないでしょうか。国も個人も、誤ったことの記憶を忘れないこと。人間は弱い存在なんだということをDNAのレヴェルで保持したいものですね。でも時間の経過とともに、記憶の風化というのか、都合よく、具合よく「忘れる動物」でもあるんです、人間は。ここは、立派なサルになりたい。それがぼくのひそかな願い。

 原爆投下の地で、時の総理が「記念式典」で読み上げた挨拶文が心にもない、上書き作文だったと批判されています。実を言えば、反省などしてはいないのは当然で、投下した国の大統領に何よりもゴマをすって、あろうことか、あらゆる無駄遣いの元凶である「武器」を強制的に買わされてきた当人でした。憲法も遵守しないし、教育基本法も歪曲した、そんな政治家を担ぎ上げて好き放題してい来たのがこの何十年でした。頽廃のきわみです。歴史に学ぶいうのは、誰彼にできることではないのです。「矛盾、支離滅裂?大いに結構」、それが現下の政治家状況だというほかないですな。歴史を知らなければ、どんな悪行だって平気です。いのち、それってなんだという感覚です。自分以外の人間の顔が見えない(見ない)のが政治家の条件かもしれない。

 「誤ったことの記憶」を持つのは、まともな人間性や人間の感覚を失っていないひとのみに通じる「お説教」です。香港で生じているのはこの島社会で、かつて起こったことであるし、また起こりえる事でもあるのです。心にもない虚言を連ねるよりも、正直にまちがったという地点にまで立ち返る、そのための起点になるのが「敗戦の日」だと、ぼくは感じながら生きてきました。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。