ぼくはこう生きている、君はどうか

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 「われわれは、怠け者なので、固定というものを常に求めてるんです。固定がほしいんです。だいたい一〇〇年前から、明治国家という固定のなかでわれわれは暮らしてたんです。教育勅語というのが、一年に何回も読まれて、暗唱しなければいけなかった。それをもとにつくられた、小学校、中学校、高校、大学までもがそうで、その学校制度の中でギューッと、狭窄衣みたいなものです。この固定がたいへんうれしかった。固定が安定だったんです」

 「この固定には便利なところがあって、固定しておくとものすごく能率があがる。ですから、幕末のときには自然科学なんて知らなかった日本人は、わずか、二、三〇年のうちに自然科学、技術の学習をやりとげて、これは嘘なんだけれども、日露戦争の後には、「世界の五大国になった」、第一次世界大戦の後には、「いまや世界の三大国になった」という。これは嘘ですよ。そういうことを教えて自分をだませるくらいになった。それは、固定による学習ができたからです。固定してないと、心は遊んでまして、そんなに学習はできないですよ」(鶴見俊輔「その他の関係」)

 「成績は、裏側で転向能力 学校などなかった時代から人間の教育はつづいている。そこにかえって教育を考えるほうがいい。どのようにひろくとらえても、教育されない力というものはのこる。それは教育をはじきかえす野生の力である。教育者のおもわくどおりに、生徒の力をためなおすことはむずかしいし、そういう努力をすることは、のぞましい教育ではない。教育と反教育の相互交渉の場を、のこすほうがいい。のこすなと言っても、のこるのだから、はじめから予測にいれておいて計画をたてるようにしたい」(同『教育再定義への試み』)

 「動物の社会だと、負けたほうが尻尾を垂れて、そこで和解が成立するんだけどね。そういうルールが子供たちになくなっているんですよ。そこが怖いと思うんです」(鶴見・重松対談『ぼくはこう生きている、君はどうか』)

 「教師が教師であることによって、尊敬されるべきだと考えている教師は、教育をになう条件を現代では失っている。親が親であることによって、尊敬されなくてはならないという考えも、現代では考えなおす必要がある。/ 生徒の前に、自分自身をもっと前に出す方法を考えたらどうだろう」(『教育再定義への試み』)

 「教える側に立つ人間も自分の弱点は必ず明らかにする。そうでないと本当の教育にはならないんです」(『ぼくはこう生きている、君はどうか』)

 「子どもが自分の手持ちのいろいろな材料をつかい、自分で考えぬいて新しい世界を開くという道があると思いますが、それをすべてつぶすところから教育がはじまるとしたら、いったい人間の創造性はどうなるのですか。つねに教師がそばについていて正しい答を教えてくれる、なんてありえない。

 四十、五十、六十、七十歳にもなって、教師から教えてもらうのですか?いつも判断をだれか他人に預けるということは、結局、判断を官僚に預ける、政府に預けるということになってしまう。とすると、人民主権(主権在民)とは、いったいどうなるのでか?」(「冷たい管理主義」)

 「言葉だけに意味があると考えているのが、学校教育の考え方なんだけども、それから手を離さなければ、学校に来るまで、どういうふうにして子が育ってきたかが、わからないわけ。つまり環境とのやりとりなんですよ。千年も千五百年も前から、そのことは認知されていたんですよ。つまり自然記号の問題。昔の家だと、老人に天気のことを聞く。今日の天気はどうなのか。雲の形を見るとか、四季を感じるとか、そういう意味の取り方があるわけですね。これは老人がひじょうにすぐれているんだけども、赤ん坊にもあるわけです。

 赤ん坊は、物と生物と人間の区別がはっきりしないですよ。いま、覚えているのは、カステラが来たら、私の子供はそれに対してしきりにおじぎをしていたね(笑)。カステラということはわかるから、いいものだと思うわけだ。だからおじぎをしているわけなんだ。それが普通でしょう。そこから出発するんですよ。そのことからしか意味の自然な成長はないんです。そのことを忘れちゃって、学校で何か教えるというのは、基本的に歪めてますね」(鶴見俊輔対談集「未来におきたいものは」)

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 明治時代以来の、この島社会の政治と教育にかかわる歴史を概観しただけでも、ずいぶんと堅苦しい(偏頗な)ものでした。例えていえば、学校教育は政治の手下だったとしか思えないところがありました。いまもまた、そんな狭苦しいところに学校ははまり込んでいるし、そこから脱け出ようとしているとも見えない。気の毒なのは子どもたちであり、本来なら、もっと自分の可能性を伸ばすことが出来るはずであり、自分にそのような才能があったのかと自らが驚くような場面があったはずなのに、相も変わらず「優劣競争」に明け暮れているのです。子どもが望んだのではないし、教師もそんな無機質な仕事を自分に課したいとは考えもしないだろうに。個々の子どもが競わされ、学校同士が競い合い、地方もまた、他地方との競争の波にさらわれている。と考えてくると、国自体が他国と「国力」をめぐる競争に一喜一憂しているのです。

 ぼくごときが言うことでもないのですが、この社会はいろいうろな意味で、三流国か四流国がいいところだし、それのどこに不満・不足があるのか、ぼくには見当もつかない。(誤解されるといやなのではっきり言っておきます。ぼくは何事によらず「等級」づけすることをまったく好まない。いちじるしくぼくの性分に反するからです。ここで三等国などと言っているのは、一番になろうとするな、身の丈に合った位置を求めればいい、それだけの事なんです。身の程を弁えて、齷齪しないで生きるのが何よりだ、と)明治の人だった漱石が一等国になりたがる日本人を「皮相上滑りの開化」に走る「劣等文明国」と詰ったことでしたが、今日も相変わらず、もっと質も悪くなってしまったが、「皮相上滑りの開化」は続いているし、やはり「列強の一員」を切望しているかに見えてきます。

 それは精神の素寒貧な政治家や経済人(金がありそうですが、それは中央銀行が、終日輪転機を回し続けて刷り上げている「紙幣」の山であって、この始末はだれにもできない類のものです)が高望みしているのであり、そんな無責任な輩とは異なって、地に足を付けて生きていこうとする人民(庶民)はけっして背伸びも高望みもしない、地道に生きる術を忘れない日常生活の流儀で糸口をつかもうとしているのです。

 鶴見俊輔という稀有な存在が後生に暗示しまた明示した、この「国の愚かさ」「権力の暴虐性」は始末に負えないものだということを再確認するための教科書となっているのが、ただ今現在の社会・政治状況なんですね。歴史はくりかえさないが、歴史に登場する個人は何度でも間違えるし、過去の人々と同じような間違いを犯し続けるのです。ここに、要路の人間が歴史から真面目に学ぼうとしないという、最大の暗部・恥部が例証されているでしょう。漱石の時代にあった「西洋」というお手本(坂の上の雲だったか)は跡形もなく、今や行方不明になっています。何処にも模倣すべき標本、先達がないという地点に、この島も立たされているのです。いったい、どこを目指していくのでしょうか。ぼくたち自身が問われているのです。

 誕生日でも命日でもないのに、まして彼の親戚でもない赤の他人ですのに、親父やお袋とは別次元で、なぜか鶴見俊輔さんの事が懐かしく思い出されています。ほんの数回しかお逢いできなかったが、鶴見さんからはたくさんのことを指し示されたと勝手にぼくは思ってきました。鶴見さんの(同志社)大学時代のゼミ生が先輩として、ぼくにたくさんのことを教えてくれたし、鶴見さんの哲学の「間口と奥行き」を手に取るように明かしてくれた。この人は熊本の出身で、謹厳な方だった。今でも深く感謝しています。この駄文・雑文の集積を「ブログまがいに仕立て上げたらどうか」、若い友人からそそのかされて始めたのが、昨年の一月二十二日。「コロナウィルス」が話題になりかけたころでした。

 だから、いろいろなめぐり合わせで、ちょうど「一周忌」であり、「一周年」です。こんな駄文ばかりをよくも続けたなと、我ながら呆れています。誰かに読んでもらいたいという厚かましい心づもりは微塵もなかったし、今に至るもそれはありません。まるで孤独な作業の繰り返しでした。感慨に浸るのでも、もちろんありません。むしろ、ぼくの腹中の虫は怒髪天を衝かんばかりに、怒り狂っているのが、手に取るように分かります。その腹立ちにも適度につきあいながら、しかし、ひたすら「自主トレ」、記憶力のトレーニング、その一事だけが狙いでした。「年間自主トレ」の継続、これが行方定めない旅の羅針盤でもありました。その効果はまだ不分明です。あるのかないのか、今少し継続しなければ、結果に表れないということでしょう。

 これまでに七十数年、取り立てて何かをするわけでもなく、漫然と生きてきた、という内心の諦観は否定できません。悪を犯さなかったとはいいませんがが、権力者ほどの大悪はするはずもなかった。ぼくがどんなに大きな悪をしたとしても、彼・彼女らほどの悪はなしえないということは明らかです。(この数年の政治的犯罪、まさかここに来て、こんな愚劣な政治芝居を見せられようとは)悪いことはしなかったが、それに比例するかのように、いいことだって何もしなかったというほかありません。ここまで生きてきて、可もなく不可もなくと、わが生に判定を下すのはお門違いです。多くの人の足手纏であったことは隠しようもないし、迷惑のかけ放しでここまで来たというのも本当です。せめて、散り行く際は音もなく、山間の桜花か老いた鶯のように、人知れず隠れることにしようと決めてはいるのです。

 ただいま「人生の折り返し点」、などと言えば、なんとど厚かましい、年寄め、と怒声まじりに誹謗されるのは目に見えていますから、それは言わないでおきます。だから「思想の折り返し点」とでも言っておきます。それぐらいのことは言いたいものだと、まだまだ学ぶ意欲は衰えてはいないんです。でも、現実には老い先わずかの、人里離れた路傍にて、さてどうしますかという思案投げ首の只中にあるという自覚は働いています。これまで読み散らしてきた、いくばくかの本の内容・中味は、いったいどこに消えたのか。記憶もろとも霧消してしまいました。あるいは、ぼくが気づかないところにすっかり保存されているのだろうか。まさか、という気もします。「駄文」記載一年を期して、忘れ物をとりもどす(回収する)ために、また当てもない徒歩の旅を続けることになるのでしょう。

 窓あけて窓いつぱいの春   うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする(山頭火「草木塔」所収)

 

 「ぼくはこう生きている、君はどうか」と、いつでも誰かに問われているという想いで、ぼくは生きてきました。そのように、問われて、ぼくはどう答えたか。「なんとか自分の脚で歩いて、ようやく生きているよ。これから何かがよく見えてくるから、躓いたり、転んだりしなくなる、そんな希望を持ちながら」と胸の内では答えていました。「何かがよく見えてくる」と口から出まかせのように言いましたが、なに、自分の脚で歩き、他人と競争なんかしないで、自分流の生活を作っていく、競争を強いる場所には立ち入らない、その程度の心づけでありました。

 他人と優劣を競う、そんな生き方を止めれば、きっと何かがよく見えてくるという、確信はなかったけれど、道端の草花や昆虫の気配が一層よく感じられたことは確かでした。もっとはっきりいうなら、優劣の彼方へと、ぼくは方向を変えたのでした。それはきっと、高校を卒業するころのことでしたね。もちろん、それ以前は成績を競う少年であったというのではない。成績は振るわなかったし、それを苦にしてはいなかったのですが、それでもいつかは少しはいい成績をとってやるぞという負けん気があったのでしょう。

 でも、それ(負けん気)もある「小さな出来事」で消えてしまうようになりました。(この「小さな出来事」については、いつか書くつもりです。つまらんことですが)それで、ぼくは「点取り」競争というアリーナから退場しようと決めたのです。「ぼくはこう生きている、君はどうか」という問いに向かって、胸を張って答えられるものではなかった。それさえも「生き方(のよしあし・優劣)競争」に思えたからです。「優劣の彼方」は、ぼくの気持ちの中にあったのが、はっきりと見えたと言ったらどうでしょう。

 もっと端的に言えば、ぼくはこれからは「負け犬」でいこう、「負け犬の遠吠え」で結構だと、すっきり自分に言うことができたのでした。「勝ち犬」がいるなら、このぼくは「負け犬」の側に立つ。まあ、その程度の通路の変更でした。今もこの通路(舗装はしていない)を外れない、緩やかな歩行が続いているような気がします。「野良イヌ」とか「野良ネコ」といいますが、それは「桜の園」にいる犬(ノラ)などではなく、人間どもからは足蹴にされ、石さえ投げられるような存在ですが、ぼくはそれでいこうと心おきなく野良性を愛し始めたのですね。野生、あるいは野蛮であることに恥じることのない生き方を模索し始めたのでした。

 大寒の日に記す。(2021/01/20)

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