「私」の前に「私たち」があるのだ

 《 脳の働きの基礎となるメカニズムに目をやれば、従来私たちの行動に与えられてきた説明がどれほど非現実的なものかが明らかになる。そうした説明は、意図的な行為と、それを実行するのに必要な純粋な体の動きとを分ける傾向にある。実際、非現実的という点では、ニューロンの活動を記録するために通常行われる動物実験の多くと変わりない。そのような実験では、動物(たとえばサル)は、厳密に指定されたタスクを実行するようにプログラムされた小型ロボットと見なされる。一方、与えられた食べ物などを動物が好きなときに取れるという、動物行動学的な設定でニューロンの活動を記録すれば、運動系が皮質レベルでは一つひとつの動きばかりでなく行為そのものともかかわっていることが明らかになる。考えてみてほしい。ヒトについても、まさに同じことが言えるではないか。私たちは目的もなく腕や手や口を動かすことはめったにない。手を伸ばしたり、つかんだり、噛みついたりするときには、対象物があるのが常だ。

 こうした行為は、目的指向のものであって、たんなる動きではない以上、私たちが周囲の世界を経験するときの土台を提供し、対象物が私たちに持つ当面の意味合いを、その対象物に付与する。知覚プロセスと認知プロセスと運動プロセスの間の厳密な区分は、はなはだ人為的なものだ。知覚はかつて考えられていた以上に複合的で、行動の力学の中に組み込まれているように思える。そればかりか、「行動する脳」は何よりもまず「理解する脳」なのだ。これから見ていくように、それは実際的・前概念的・前言語的な理解の形式ではあるが、だからといって、その重要性が薄れるわけではない。というのは、私たちのすばらしい認知能力の多くがそこに基礎を置くからだ 》

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コモン・マーモセットの側頭葉FST(半ミラーニューロン:他者の運動・意図にのみ反応する細胞)
神経結合を生体内で観察する生体内結合可視化技術を用いて、FSTの神経結合から前頭葉下部のミラーニューロンの位置を同定した概念図。自己の運動・意図のみに反応するニューロンは前頭葉に存在すると考えられる。(https://www.ncnp.go.jp/press/press_release151210.html

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 《 この種の理解は、ミラーニューロンの活性化にも反映されている。一九九〇年代の初頭に発見されたミラーニューロンは、私たちが他者の行為を認識するときばかりかその意図を認識するときにさえ、何をおいても自分の運動のレパートリーに依存していることを示している。物をつかむといった基本的な行為から、たとえばピアノでソナタを演奏したり、込み入ったダンスのステップを踏んだりするという、特別の技能を必要とするもっとも高度な行為に至るまで、脳はミラーニューロンのおかげで、自分が観察した動きを実際に自分自身で行える動きと照らし合わせられるし、それによって、その意味を正しく評価することもできる。(中略)私たちの脳は、いかなる種類の推理を働かせるまでもなく、運動能力のみに基づいて、他者の意図や期待や動機をたちまちのうちに理解できるのだ。

 ミラーニューロン系は、私たちが個人のみならず社会の一員として振る舞う能力の根本にある、経験の共有というものに不可欠に見える。単純なものも複雑なものも含めた模倣の形態や、学習の形態、言葉と身振りによるコミュニケーションの形態は、特定のミラー回路の活性化を前提としている。さらに、他者の情動反応を評価する私たちの能力も、ミラー特性を持つ特定の諸領域と相関関係にある。行為と同様に、情動はじかに共有される。私たちは、他者が体験している痛みや悲しみ、嫌悪感を知覚すると、自分がそうした情動を経験するときに関与するのと同じ大脳皮質領域が活性化する。

 ここから、私たちと他者をつなぐ絆がいかに強力で深く根づいたものであるかがわかる。換言すれば「私たち」を抜きにして「私」を考えるのは、奇妙この上ないのだ 》(リゾラッティ(上左写真)&シニガリア(上右写真)著『ミラーニューロン』柴田裕之訳。紀伊國屋書店、2009)

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 長い引用です。これに関しては注釈はしません。まずはくり返し読む、ぼくはそれを徹底してきました。そして、最後の「『私たち』を抜きにして『私』を考えるのは、奇妙この上ないのだ」というところで、これはだれが何と言おうとその通りだなと実感しきりでした。つまり「科学以前」の社会(集団)の不可欠な条件だったのです。これ(条件)がなければ、「社会集団」は生み出されてこなかったし、人間というか人類も、どこかの段階で絶滅していたに違いないのです。他者を理解するとなどと、ぼくたちは簡単に言いますが、その背後には神秘的でもある脳の働きが作用していたのです。その逆を考えれば、どんな事態が個人や集団に起こりえるでしょうか。

 現下のいたるところで見られる「偏見や差別」から生じている問題も、決してこのこととは無関係ではありません。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)