わかってくる態度

 「学問のすすめ」という短文において、作家の司馬遼太郎は興味深いことをいっています。

 《学問がある、というのは、知識があるということではない。私は語学の学校を出た。いまさらこんなことをいうのは恩師への誹謗になりそうだが、私が接した多くの語学教師は言葉の練達者であっても、べつに学問があるようなけはいはなかった。大工の徒弟が、カンナの削り方だけを教えられるようにして(つまり家の建て方は教えられずに)語学を学び、学んだところで知的要求がすこしもみたされず、ちょうど牢獄で、バケツを、あっちへもって行って水をすて、こっちへもってきて水を満たし、それを一日千回もくりかえしているような(囚人は発狂同然になるそうだが)作業であった。まったく、えらい目にあった。そういうにがい経験があるから、学問というのは知識とはちがうのだろうということで、多少の感覚はできた。

  学問というのは、態度なのである。》(司馬遼太郎「白石と松陰の場合―学問のすすめ」)

 六代将軍だった徳川家宣(いえのぶ)の政治顧問であった新井白石(はくせき)は一七〇九(宝永六)年十一月、江戸の茗荷谷(みょうがだに)の「切支丹(キリシタン)屋敷」でイタリア人宣教師シドチに会っています。鎖国時代に渡来したというので、禁を犯したかどで監禁されてしまった。その彼を白石が取り調べにあたったのは有名な話です。シドチはかろうじて日本語を話せたそうですが、だれにもその意味が通じなかった。しかし白石だけには彼のいうことがわかった。

 じつに奇妙な日本語だったが、それをじっと聴いているといくつかの法則らしい、いわば独特の調べ、特徴というものが存在することに気がついた。それをもとにして話を聴いていけば、自然に彼の日本語がわかってきたのです。(註 そこから「西洋紀聞」が生まれた)

 「このわかってくる態度というものが、学問であろう」と司馬さんはいいます。

 山口県の萩に生まれ、密航を企てたとして斬首の刑に処せられた吉田松陰(しょういん)(1830-59)。

 かれは一度も学校(藩校)に行かないで、十七歳で明倫館(藩校)の先生になります。いまならさしづめ、小・中・高・大学での教育を一切経験しないで、どこかの国立大学の教授になるようなものだったろうと司馬さんは驚嘆する。その短い生涯において、かれがとった学問の方法はまったくの「独学」だったといえます。そして、そのかなりな部分は「旅行」という学び方でした。旅に出て、多くの人に出会うことがかれの学問の内容であり方法であったのです。

 一年ほどの江戸遊学時代に四ヶ月もかけて東北旅行をはたしています。

 「松陰にとっての旅行はかれの大学のようなもので、たんなる遊山ではない。かれの文章にもあるように、この当時、東北諸藩の教養水準はきわめて高く、多くの学者がこの日本の僻陬(へきすう)の山河にすんでいる。…東北旅行は、松陰のみじかい生涯のあいだにあっては大学院の課程にあたるかとおもえるほどに収穫があった」(司馬・同前)

 日本の陽明学の開祖は中江東樹(とうじゅ)です。「わが門下に躰充(たいじゅう)とて、俊秀なる人ありて、平日疑問論難止むときなし」と、いつも師匠を質問攻めにしていたという。その「疑問論難」にむけて先生がていねいに応答して生まれたのが「翁(おきな)問答」(1649年刊)という書物でした。先生に対する「平日疑問論難止むときなし」いう弟子の態度もまた学問をなすものではなかったかとおもうのです。ここで使われている「学問」ということばは「生き方」の探求を指していたでしょう。

 先の短文を、司馬さんは次のように結ばれています。

 「この両人(白石と松陰)に共通しているのは知的好奇心の強烈さと、観察力の的確さと、思考力の柔軟さであり、その結果として文章表現がじつに明晰であったということである。さらにいえることは、両人とも学問をうけ入れて自分のなかで育てるということについての良質な態度を、天性かどうか、みごとにもっていた。学校教育という場は、学問にとって必要ではないというのは暴論だが、しかしかれらがもっていたこの態度をもたずに学校教育の場にまぎれこんでもそれは無意味であり、逆に、学校教育から離れた場所に身をおいていても、この態度さえあれば学問(その種類にもよるが)は十分にできるという例証になりうるのではないか」

●松下村塾=江戸末期、長門(ながと)萩にあった私塾。吉田松陰の叔父玉木文之進の家塾を、安政3年(1856)から松陰が主宰し、高杉晋作・伊藤博文ら明治維新に活躍した多くの人材を養成。平成27年(2015)「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。(デジタル大辞泉)この小さな「学校」は江戸末期の「松下政経塾」のごとき位置を占めていました。というより、「松下塾」が松陰のひそみに倣ったというのが正解でしょう。両者は「雲泥万里」と言うべきですが。

 知的好奇心とは「疑問論難止むときなし」という姿勢であり、じっと耳を傾けているとだんだんに「わかってくる態度」というものだということではないでしょうか。(ぼくは松陰好きではありません。偏狭なナショナリスト。時代の制約はどうしようもありませんでしたが。彼についても少し雑文を書いてみたいですね)

 子どもも大人も含めて、人のもつべき大切な資質の一つは(ひとによってとらえ方はさまざまにちがいますが)、それは相手に対して質問しつづけることだと、ぼくは考えてきました。そんな人に対して、これまた疑問でいっぱいになった相手が出会うと、そこではどんなことが生じるのでしょうか。  

投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)