
【国原譜】お寺の前にある掲示板。張り出された言葉に思わず立ち止まったことがある人も多いだろう。そんな言葉を対象に優秀作を選ぶのが「お寺の掲示板大賞」だ。◆掲示板の写真をツイッターなどに投稿してもらって選考する。「家族と過ごすこと 親から愛されること 今生きていること 当たり前なんてない 目を覚ませ」。始まった2018年の投稿で、長崎県の長壽寺で撮影された。◆先日、親戚の法事で導師が語った法話も「当たり前」のありがたさだった。闘病の末に若くして亡くなった医師井村和清さんが残した言葉を、遺著「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」から読み上げた。◆「あたりまえ こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう」。故人と別れて日も浅い四十九日の法要で、参列者の心に染みた。◆発生から12年となった東日本大震災は、各地で犠牲者の追悼行事が開かれた。2月末現在の死者は1万5900人、不明者も2523人に上る。◆お寺の掲示板には「今、いのちがあなたを生きている」ともあった。3月11日は「当たり前」の日常をかみ締める日でもある。(増)(奈良新聞DIGITAL・2023/03/12)

「掲示板」というのは、一名「伝言板」とも受け取れるかもしれません。今の時代に、とても有効だとは思われないとみなされるのですが、どっこい、「掲示板」は生きているとでもいうのか、アナログ(直筆がよろしい)がアナログ(板やボード)の上に載っているのをアナログ(人の目)が見て、感じる。そこには、一瞬とは言え、人間であることの証明がなされているのではないかと、ぼくなどは感じ入ってしまうのです。お寺や教会の「掲示板」は、幼い頃から馴染みでしたね。そこには交通標語でもなければ、電文でもない、あるいは「私小説」や「詩」などではない、真正(真性)の人間臭い言葉が認められると、ぼくはなんだか、少しばかり賢くなったような気がしたものです。長ずるにつれ、世の中の仕組み、お坊さんや牧師さん(宗教家)の誠らしさやいかがわしさがわかりだすと、もう「掲示板」は【募金箱】のような味気ない姿に見えてくるようになりました。「地獄の沙汰も金次第」「教会の外に救いなし」と言われれば、「なんという下劣」と嘆じるばかりだった。宗教に関して、ぼくは孤立派を任じてきました。

久しぶりの「国原譜」です。この国原の新聞は「どうして冴えないのかなあ」と失礼なことを考えたりしていたのですが、奈良なら、今をトキメク「元総務大臣」と、なんだか懐かしくなった次第。政治ゴミ問題(要するに、自民党の「高市潰し」を官僚も参画して企んだということ)という美しくない話は脇へ捨てておいて、「当たり前」のありがたさについて、です。「家族と過ごすこと 親から愛されること 今生きていること 当たり前なんてない 目を覚ませ」と訴える掲示板。「当たり前」をどのようなものとして受け止めるかによって、「当たり前」は「当たり前ではない」ことにもなりますし、それが「当たり前だ」ということに気がつくのは「当たり前でなくなった」時でしかないのも事実でしょう。しかし、よく読んでみると、「親から愛されること」「今を生きていること」が「当たり前だと思いこんでいる」その感覚が、すでに狂っていると言えそうです。当節に限らない「幼児虐待」は親の愛情からの仕業なんかではないでしょう。さまざまなところで「親の暴力」が剥き出しになっている時代の様相を、ぼくたちは胸を痛めながら見せられている。「虐待を受けているのはぼくだ」という感情を抜きにして、その暴力の場面を想像することができない。「信者(宗教)二世」の訴えがどんなに人権を無視されたものの告発であるかに思いが及ばない「親」がいるとは、「親に愛されるのは子ども」「親は子を愛するもの」という通念を突き破っているのではないでしょうか。

「当たり前」問題の殆どは「人間関係」から生じています。教師と子どもの関係でも「当たり前」は崩されています。親子関係以上に、教師・生徒関係は不愉快なものに堕しています。あるいは男女(夫婦・恋人などの)関係においても、同じような「暴力」や「人権侵害」が蔓延(はびこ)っているのは、そこに「当たり前」という常識が介在しないものになっているという現実があります。
「あたりまえ こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう」と訴える亡き父の叫びは、健康を失った挙げ句の「悟り」だったかもしれません。「当たり前」を感じる感覚を失ってしまうと、ぼくたちは「当たり前」は平凡であり、退屈なものとみなしているのかもわかりません。ぼく自身に引きつけて考えると、いくらでも思い当たるフシはありますから。まだ高校生だった頃、三島由紀夫という作家の「多くの人は非凡を目指して、平凡になる。だが、平凡を徹底すれば、非凡になるのだ」という箴言とでもいうのか、それに惹きつけられたことがあります。しかし、そんな事をいうことすらが、実は「平凡」を嫌って「非凡」を評価する陳腐な思想だった、と気がついたのはかなり後年のことでした。平凡と非凡を並べ、優と劣を並べる(比較する)こと自体が、どこか「優越感」の披瀝・誇示ではなかったかと、今では受け取っている。

奈良新聞のコラム氏の地元のお寺の掲示板だったのでしょうか。「今、いのちがあなたを生きている」と書いてあったという(本願寺系)。書かれていることは、理解するには簡単ではなさそうですね。「いのちをあなたが生きている」ともいえます。「生きている」も「いのち」も、「あなた」と一体だということでしょう。あるいは密接不離の関係にあるとも言えそうです。両者は離れることはない、「一体」なのだから。とすると、死ぬというのは、どういうことか、それは、人それぞれが感受することじゃないですか。ぼくの出番ではないし、それは考えて結論が得られるものでもなさそうですからね。ちゅうとはんぱですけれ、「いのちがあなたがを生きている」と「いのちをあなたが生きている」と並べてもて、ぼくが言えるのは、「いのち」はつながっているということ。あなたと私のいのちがつながっているということです。いのちは個人の所有物ではないということでもあります。
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