選挙権がないなら納税しない

 小社会 民権ばあさん

 日本の女性が選挙権や被選挙権といった参政権を得たのは太平洋戦争が終わった1945年。翌年の総選挙で初めてその権利を使った。漫画「サザエさん」の作者、長谷川町子さんは10年後の56年、こんな作品を描いている。/ 山頂で10周年を大喜びするサザエさん。しかし、山へ至る道には笑顔がない女性が列をなす。参政権がないまま、さまざまな制約の中で暮らしてきた明治や大正、戦前の昭和期の女性たちだ。漫画1枚で、その長い歴史を表している。

 明治時代、女性として初めて女性の参政権を求めた「民権ばあさん」こと楠瀬喜多の没後100年。その企画展が高知市の自由民権記念館で開かれている。社会見学の小学生が展示品の一つ、漫画パネルを熱心に見ていた。/ 戸主として納税の義務を負いながら、女性というだけで投票権がないのはおかしい―。喜多は男女同権を求めて現在の知事に当たる高知県令に訴えた。立志社の演説会に参加し、自由民権の考え方に共感していたのだろう。/ 訴えてから2年後、一部の自治組織で女性参政権が認められた。だが長くは続かない。終戦まで、さまざまな人が運動や活動をし、それらは苦難の連続だった。

 企画展には模擬投票コーナーがあり、子どもが票を投じていた。ある女子児童は「民権おばあちゃんは勇気があった」。短い時間ながら参政権の歴史に触れ、大切なことが心に届いていた。きょうは喜多の命日。(高知新聞・2929/10/18)

 一ツとせ~ 人の上には人ぞなき 権利にかわりはないからは コノ人じゃもの(植木枝盛「民権数え歌」)(「自由は土佐の山間より出づ」と叫んだ人。福沢諭吉の愛弟子だった)

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● 楠瀬 喜多(読み)クスノセ キタ=生年月日天保7年9月9日(1836年) 出生地土佐国弘岡(高知県) 経歴車力人夫頭袈沙丸儀平の長女。小山興人の塾で漢学を学ぶ。安政元年(1854年)土佐藩の剣道指南役楠瀬実と結婚、剣道・薙刀を学び、かたわら鎖鎌も修得した。明治7年夫と死別したのちは、時事に奔走。板垣退助に共鳴し、立志社の民権運動に参加、自ら壇上に立ち民権家壮士と共に阿波、讃岐などに遊説した。河野広中、杉田定一、頭山満などの同志の面倒を見、“人権婆さん”として知られた。晩年は潮江村の寺に託居、念仏三味の余生を送る。没年月日大正9年10月18日(新訂 政治家人名事典 明治~昭和の解説)

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 土佐というところは面白いですね。親父の故郷でもあり、ぼくも何度か通いました。長曾我部以来の、「平等」の伝統もあるのです。目上に対して、男に対して「敬語」がないというのは、それだけ「俺とおまん」の関係が成り立っていたという意味でしょう。ぼくは枝盛も好きでした。小野梓も大好きでした。

 今日は楠瀬喜多さん。ほとんど知られてはいないかもしれません。学校でも学ばないでしょう。でもそれでいいのです。学校を出てから、どこかで「出会う」方がはるかに大切ですから。試験に出るから「楠瀬喜多」と暗記されてはたまらない。今日は彼女の没後百年。このところ、LGBTQに関する話題に触れてきましたが、彼女はどういう女性だったか。「女はいつも嘘をつく」といった女性もいましたが、男も嘘をつくのを嫌になるほど見せつけられています。要するに「人間は嘘をつく動物である」ということ。それに反して、犬や猫は嘘をつかない。楠瀬喜多さん、です。

 彼女は漢学を学び、武芸も習得し、そのうえで、民権運動に奔走した人でもあります。下手な形容詞がつかないくらいに、聡明で親切で女気(男気はすっかり影を潜めてしまいましたが)あふれる女性でした。いるところにはいるんですね、こんな人が。(☜ 敗戦直後の国会)

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 「明治11年(1878年)、区会議員の選挙で「戸主として納税しているのに、女だから選挙権がないというのはおかしい。 本来義務と権利は両立するのがものの道理、選挙権がないなら納税しない。」と県に抗議。しかし県は規則だと要求を受け入れず、喜多は内務省に訴え出たのでした。 これは婦人参政権運動の初めての実力行使となり、全国紙大坂日報、東京日日新聞などでも報道されました。(以下略)」(http://www.tosa-jin.com/kita/kita.htm)

 まるで米国のソローのような人ですね。ちなみに、ソローは1817年生まれ。ニ十歳ほど歳上でした。二百年近くも前に、洋の東西の男女が権力の理不尽さや不合理に身を挺して抵抗(闘争)したというのも痛快という以上に、勇気のある行動をとったと感心します。(今では当たり前に選挙権があるからか、それをいいことに脱税する輩がいます)この地には、当時は漂流していましたが、ジョン万次郎もいました。(1827年生まれ)彼もまた、びっくりするくらいに聡明で開明的で、自立心の確かな人でもありました。(ここでちょっと、書きたくなりましたが、いずれ別の機会に)

 この駄文の目的は、土佐の「楠瀬喜多」という女性が生きて、今から百年前に亡くなった、その生涯は驚くばかり開明的な思想と信条で生き抜いた、今から見ても勇気ある人生だったということを改めて学びなおすきっかけにしたい、亡くなって百年という区切りの日に、有無定かでないぼくの向学心をゆすぶるためにもと記した次第です。これを期に、自主トレに一層励むんだ、郷司君よ。

(権力を行使してまで「弔意・黙禱」を強制しなければ墓前に額ずかれない「大勲位」より、ひっそりとささやかに、百年の後に、たった一人で「思いを馳せる」男がいるという、その機微にふさわしい人でもあったと、ぼくは愚考します)(蛇足 「民権ばあさん」という呼称、時代背景を考慮したとしても、ぼくは適切ではないといいたいね)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)