新聞記者人生29年もいまだ「これを上回る表現書けない」 驚嘆の一文遺した人に戦争が強いた悲しみ (八幡一男)
新聞記者を29年間務めてきて、いまだに「これを上回る表現は書けない」と思う一文がある。作家や名記者の文章ではない。私の祖母が終戦直後、疎開先で詠んだ短歌だ。
〈くすぶる薪(まき) 焚(た)きて釜かけ 嫁の身は 田面(たも)の薄氷(うすらひ) 踏みつ涙す〉
海軍士官と結婚した祖母は、広島県呉市に住んでいた。空襲が激化していた1945年6月、子どもたちを連れて鳥取県へ。夫方の親族を頼った。/親族が歓迎したとは思えない。終戦直前には四女が3歳で急逝している。食糧難が続く戦後の2月、追い詰められた心境を歌に込めた。/祖父はのちに復員したが、戦争で多くの部下を失い、苦悩した。
〈病み籠(こも)る夫へ沈丁(じんちょう)一枝切る〉
私はおばあちゃんっ子で、近所ということもあり、幼い頃は毎日のように遊びに行った。祖母は、子どもをかたどった人形を和紙でよく作っていた。/傘寿の記念で作られた人形の写真集に、祖母が短文を寄せている。/〈わが子達の幼なかった頃、戦争でとてもつらいくらしをしていたことのいろいろを思いおこし、かわいらしく着飾ることもいっしょに遊んでやることも無く、まして季節の行事を楽しむゆとりなど全く持てなかったことを悔みつつ、この平和がいついつまでも続きますようにと〉
ひざに座る幼い私に祖母は戦争を語らなかった。なぜ人形を作り続けたのか。やっと分かった。/祖母は22年前、94歳で他界した。戦争が人にどれだけの悲しみを強いるのか、手元に遺る人形を見るたびに、考え込む。(京都新聞・2026/09/05)

小学校の高学年時代、ぼくは毎日のように「ごはん」を薪で炊く役目を果たしていました。おふくろに言われて買い物に出かけ、帰ってきて米を研いで「竈(かまど)」に火を入れて炊いていた時期があった。家族はそれぞれが仕事をしていたので、役目が回ってきただけだったが、それを嫌だとは思ったこともなかった。やがて、「電気釜」が普及するようになってからは「飯炊き」からは解放されましたが、その代わりに「風呂焚き」が与えられた。こちらは薪ではなく、多くは石炭だったと思う、これも嫌いではなかった。風呂の脇野を加減しながら、その時には「文庫本」などを読んでいたと思う。中学生になったばかりの頃でした。こんな「家事」まがいは少しも嫌ではなかった。掃除も洗濯もほとんど自分でする癖がついてしまったのだ。洗濯機や掃除機の普及は、こんな面倒なs業からもぼくを解放してくれたのだった。

上の記事に書かれている記者氏の「祖母」はたぶん、1910年ころのお生まれだと思われます。とすると、ぼくの親父とほぼ同年(父は1911年生まれ)でした。改めて、父親の成人時代を想像してみる。たぶん、父は戦争にはいかなかった。その理由は聞いたことがなかった。招集されても当然の年齢だったのに、ぼくには不思議だった。このことに限らず、彼は自分のことはほとんど話さなかった。聞くまでもなく…、そんな思いでぼくは親を見ていた。おふくろもあまり過去を語らなかった。今から見れば奇妙な両親だったと思うが、自分は自分のやることに目いっぱいで、そんなことに関心がわかなかったのかもしれません。まあ、今どきとは異なって、親子関係は、存外「淡泊」が受け入れられていたのかもしれません。誰に聞いたか、父の弟は「戦死」したという。
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対米英戦争ではどれほどの犠牲者が出たのだろうか。日本人の戦死者は310万人ともいわれ、そのうちの約4分1が民間人だった。兵士の死は230万人で、そのうちの6割が「餓死(starvation)」だという記録を知って、ぼくは驚愕したものでした。当たり前の食料も備えなくて「戦争」に駆り立て、招集する、これが「国」のすることでした。軍事・軍属の戦死者には国家は「賠償」をしたが、爆撃その他で、犠牲になった民間人は放置されたままでした。つい先ごろ、民間人犠牲者にも「補償を」という長く続けられている裁判の結果がいくつも出ました。ところが、国家が起こした「戦争」犠牲者の不幸を「国家機関(裁判所)」が裁くのだから、さもありなんですね。「戦争では国民みんなが、何かしら被害に遭った。憲法はその被害の救済を想定していない。だから、みんなで我慢すべきだ」という「戦争被害受任論」という決まり文句で、この問題を切り捨ててきました。(【そもそも解説】「『戦争被害受忍論』とは 民間人補償を阻んできた壁」:朝日新聞・2025年5月9日)(https://www.asahi.com/articles/AST584FSGT58UTIL006M.html)
「多くの判決が「戦争被害受忍(じゅにん)論」を理由に請求を退けてきた。「国の存亡にかかわる非常事態にあって、戦争の犠牲や損害は国民が等しく受忍しなければならない。これに対する補償は憲法が全く予想していない」との論理で、つまり「戦争という非常事態だからみな我慢しなさい」というものだ」「実は、例外がいくつもある。軍人・軍属やその遺族には、講和条約発効(1952年)の直後に恩給や遺族年金が復活。これまで総額60兆円以上が給付されてきた。民間人でも、軍需工場の従業員や原爆被爆者らには救済する仕組みがある。だが、空襲や沖縄戦などでの民間人被害者で、補償を長年求めながら認められていない例が多い」「東京大空襲の民間被害者が国を提訴した訴訟では、2012年に東京高裁が原告敗訴の判決を出しつつ、「原告らが旧軍人軍属との間に不公平を感じ、一般戦争被害者にも救済や援護を与えるのが国の責務とする主張は理解できる」と指摘した。1980年代以降の判決では「受忍論」だけでなく、補償のための立法は国会の裁量で判断すべきだとする「立法裁量論」にも言及するようになっている」(朝日新聞・同上)

「戦争犠牲者」問題を無視(棚上げして)、国家は当たり前の顏で国民に何かと強いることを今もなお続けています。早くから、ぼくは「国家」というものを信用しない人間になったのは、今考えても不思議です。誰に教えられたのでもなく、反国家主義などという教条(イデオロギー)に被(かぶ)れたのでもありませんが、いつしか、いわば「アナーキスト」になっていたとも言えます。国民の一人としての「義務」は果たす。でもその「義務」が想定外の狂気に満ちたものであるなら、きっと反対する。それだけのものです。
国家という機関・機構を使って「権力者」が何かと指図するのですが、そこに危険な兆候(人権蹂躙)があれば、断固として反対する。「権力、我において何おかあらんや」今日ただ今の、ぼくの「鼓腹撃壌」であります。(有老人、含哺鼓腹、撃壌而歌曰、「日出而作、日入而息。鑿井而飲、耕田食。帝力何有於我哉」:「鼓腹撃壌」「十八史略」所収)まっとうに政治がおこなわれていれば、自分は日の出とともに働き、日の入りと同時に休む。井戸を掘って飲み、田を耕して食す。そうであるなら、「王の権力など、自分に何の関係がある者か」という状況に、いささかもそぐわなければ、さて、この老人は、どうするか。それは現実のぼくの立ち場ではないか)
上掲の「記事」戻ります。記者氏の祖母君は紙人形を作ることに精を出していたという。「〈わが子達の幼なかった頃、戦争でとてもつらいくらしをしていたことのいろいろを思いおこし、かわいらしく着飾ることもいっしょに遊んでやることも無く、まして季節の行事を楽しむゆとりなど全く持てなかったことを悔みつつ、この平和がいついつまでも続きますようにと〉、このような言葉を残されている。政治家は言うまでもなく、敗戦時もまた、ほとんどの国民は国家のいうがままに働き、戦後復興に身を捧げてきたと思う。「戦争」はむごいし、無意味でもあるでしょう。「戦争の大義」など、どこを探してもあるはずもない。名分のない戦争を仕掛けられた側には「正当防衛」という道が許されるでしょうから、もし、どこかの国が理不尽にも侵略行為をしなければ、おのずからに「戦端は開かれぬ」ということになります。現下の戦争当事国の振る舞いを見ていると、已むに已まれず戦争に傾いたというのではなく、権力者の欲望・保身だけが、その多くの理由を占めていると、ぼくなどには見える。
不幸なことだが、この島国の愚かしい為政者は「戦争をしたがっている」風を見せている。いたずらに勇ましい言辞を吐き、さも戦端を交えるかのように、ある特定国を刺激している。でも、現実の戦争になるなどと、誰もが思っていないのに。憲法を変え、軍備を整え、兵隊を増強して、さて「どこと戦争をするのですか」と訊かれて、答えに窮するのではないでしょうか。友好国と勝手に思い込んでいる国からは「袖にされかかっている」のに、気が付かない。「戦争が個々人にどれだけの悲しみを強いるのか、手元に遺る人形を見るたびに、考え込む」と,記者は書く、一記者のいだくような、当たり前(尋常)の感情を持たないままで人間になろうとしている政治家を見ると、ぼくは、この国の行く末には「暗雲」だけが立ち込めているように思われるのです。その昔、一人の作家は「坂の上の雲」を追いかける、若い国人の情熱を、深い同情を以て「小説」に描いたことがありました。でも坂を上りつめれば、下らなければなりません。今、ぼくたちは、ある種の「戦前」にあります。「坂の下の泥濘(ぬかるみ)」をどこまで歩けばいいのでしょうか。
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- 「くすぶる薪 焚きて釜かけ 嫁の身は…」

- 自分の脳で考える力を、自分で育てる

- 「考えない葦」のように人間は考える

- 合従連衡は「右・左」と組む数合わせ

- 「備えあれども憂いは残る」だね

- It never rains but it pours.

































