これ夏秋の遊杖にて越後の雪を見ざる事必せり

 【北斗星】寒の入りあたりから毎日、冷凍庫の中にいるような冷え込みが続く。きのうは大寒。暦の上では寒の後半に入った。しばらくは我慢の日々が続きそうだ▼東北の日本海側は今季、平年並みの積雪と予測されていた。県南が記録的大雪に見舞われた昨冬ほどではないにしろ、県内では積雪が平年の3倍という地域もある。毎朝、住民のため息が聞こえてきそうだ▼朝出掛ける前や、仕事に疲れて帰宅した後、雪寄せに追われる方も多いだろう。心がなえそうになったとき、いろいろな物が背中を押してくれることがある。〈歯を入れて雪掻(か)く力とり戻す〉。鷹巣俳句会などで句作に励み、6年前に78歳で亡くなった北秋田市の五代儀(いよぎ)恵子さんの句。「よしっ」と気合を入れる光景が目に浮かぶ▼今年に入り、県内では雪寄せに伴う事故や火災が増加している。中でも1人暮らしの高齢者宅の火災が相次ぎ、計4人が亡くなった。郡部にある実家の近所ではここ数年、高齢者の1人暮らしが目に見えて増えており、人ごととは思えない▼冬期間には寒さや足元の悪さから外出がおっくうになり、自宅に閉じこもりがちな高齢者が増える。特に1人暮らしの場合は孤独感、孤立感を強めやすいというだけに心配だ▼五代儀さんには〈雪掻きに来て母の愚痴聞いてやる〉というほほ笑ましい句もあった。じっと聞き役に徹してくれる人が身近にいることの幸せを思う。1人暮らしの人を孤立させないヒントも、ここにあるのだろう。(秋田魁新報・2022/01/21)(ヘッダーは読売新聞・2022/01/06)

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  いつ、だれから聞いた(教えられた)のかまったく思い出せませんが「天候に不満を言うな」という意味のことを、ぼくは長い間、まるで「座右の銘」のように大切にしてきました。晴れの日が続くと「雨よ降れ」といってみたり、雨が続くと「いつまで降るんだ」と文句を言うのが人情でしょうが、そうは問屋が卸してくれないのが、「自然現象」です。数日前のトンガの海底火山噴火は、被害の全容が判明していませんが、日常の生活に、相当な打撃を与えていそうです。この劣島でも、「自然災害」は年中行事の如くに、間断なく襲来し、多くの被害をもたらしているのです。

 人間の生活がないところで地震や火災が発生しても「自然災害」とは言わないでしょう。おそらくそれは、単なる自然現象の一つとみられるはずです。この地球上にも、さまざまな「自然現象」がくり返されてきましたが、それは人類の誕生以前のことであったなら、事もなく、火山の大爆発だの氷河期だの、大地震の発生などというだけで済まされてしまう。それで何の問題もないのでしょうが、事人間の生活環境に同様な事態が生じると、そこに「惨劇」「災厄」の刻印が記されるのです。

 今冬の大雪もそうでしょう。大都市やその近郊に住んでいれば、大雪に見舞われることは「閏年」みたいなもので、普段でも1センチ降っても大騒ぎするし、さらに自動車という、コンクリート製の更地だけの乗り物など、いささかの凍結でも立ち往生だし、積雪数センチで、にっちもさっちもいかなくなります。どんなに都会は「快適一番」を信条として作られているかという理由になります。しかも、その物的基盤と心的気分たるや、驚くほどに脆弱であるのです。

 ぼくは、いつでも気象予報や天気図に興味を持っています。これは小さいころからでした。明日は晴れる、あるいは雨が降るなどと、自分で判断しては、それに備えていたものでした。「日和(ひより)」や「日和見」をいう言葉と、そが表す人間の行動を知って、この傾向はさらに強くなった。風見鶏という語もありますが、やはりぼくは「日和」という言葉が好きです。荷風の随筆集に「日和下駄」というものがあります。題名に惹かれたことも事実ですね。ぼくの愛読書の一冊で、田舎者のぼくの、懐かしい東京案内になってきました。

 「東京市中散歩の記事を集めて『日和下駄』と題す。そのいはれ本文のはじめに述べ置きたれば改めてここには言はず。『日和下駄』は大正三年夏のはじめころよりおよそ一歳あまり、月々雑誌『三田文学』に連載したりしを、この度米刃堂へいじんどう主人のもとめにより改竄かいざんして一巻とはなせしなり。ここにかく起稿の年月をあきらかにしたるはこの書はん成りて世に出づる頃には、篇中記する所の市内の勝景にして、既に破壊せられて跡方もなきところすくなからざらん事を思へばなり。見ずや木造の今戸橋いまどばしはやくも変じて鉄の釣橋となり、江戸川の岸はせめんとにかためられて再び露草つゆくさの花を見ず。桜田御門外さくらだごもんそとまた芝赤羽橋むこう閑地あきちには土木の工事今まさにおこらんとするにあらずや。昨日のふち今日の瀬となる夢の世の形見を伝へて、つたなきこの小著、幸に後の日のかたり草の種ともならばなれかし。
  乙卯いつぼうの年晩秋                       荷風少史」

 「一名東京散策記」と副題された、大正初期のころの東京の記録です。これと「断腸亭日常」を合わせれば、荷風という作家は「歩いて書いた、普段着の記録者」であったことが判然とします。

 「人並はずれてせいが高い上にわたしはいつも日和下駄ひよりげたをはき蝙蝠傘こうもりがさを持って歩く。いかにく晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。これは年中湿気しっけの多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。変りやすいは男心に秋の空、それにおかみ御政事おせいじとばかりきまったものではない。春の花見頃午前ひるまえの晴天は午後ひるすぎの二時三時頃からきまって風にならねば夕方から雨になる。梅雨つゆうちは申すに及ばず。土用どようればいついかなる時驟雨しゅうう沛然はいぜんとしてきたらぬともはかりがたい。もっともこの変りやすい空模様思いがけない雨なるものは昔の小説に出て来る才子佳人がわりなきちぎりを結ぶよすがとなり、また今の世にも芝居のハネから急に降出す雨を幸いそのまま人目をつつむほろうち、しっぽり何処どこぞで濡れの場を演ずるものまたなきにしもあるまい。閑話休題それはさておき日和下駄の効能といわば何ぞそれ不意の雨のみに限らんや。天気つづきの冬の日といえども山の手一面赤土を捏返こねかえ霜解しもどけも何のその。アスフヮルト敷きつめた銀座日本橋の大通おおどおり、やたらにどぶの水をきちらす泥濘ぬかるみとて一向驚くには及ぶまい。
 わたしはかくの如く日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く」(青空文庫版)

 とみてくると、これを読むほかなくなりそうです。「蝙蝠傘と日和下駄」は荷風の必需品でした。彼は若い頃にはフランスやアメリカに遊学した経験がありますから、いろいろな意味で、東京の佇(たたず)まいとその描写には、なかなかの一家言がありました。本日は、その内容には立ち入りませんが、下駄に傘を常に伴うということから、彼もまた「天気」に必要以上に気を遣っていたということになるでしょう。そんなに長くもありませんので、まずお読みになることをお勧めします。ぼくも、そうすですが、荷風は大正初期の東京改造を「白い目」でにらんでいる風情で、今の東京に迷い出たらどうなるか、即座に死するであろうと、ぼくは断言できます。ぼくが本郷の街中から千葉に越し、さらに房総半島の山中に逃げてきたのも、都会が醸し出す、言いようのない「鬱陶しい雰囲気」でした。ぼくが都内から逃げ出したのは、今から半世紀前でしたから、荷風の心情や、いかにと思うばかりですね。

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◉大寒 (だいかん)=二十四節気の一つ。元来太陰太陽暦の 12月中 (12月後半) のことで,太陽の黄経が 300°に達した日 (太陽暦の1月 20日か 21日) から立春 (2月4日か5日) の前日までの約 15日間であるが,現行暦ではこの期間の第1日目をさす。昔中国ではこれをさらに5日を一候とする三候 (鶏始乳,鷙鳥 厲疾,水沢腹堅) に区分した。猛鳥が激しく飛び回り,沢にが堅く張りつめた厳寒の時期の意味であるが,「小寒の氷大寒に解く」といって,小寒に比べて大寒のほうが暖かいともいう。大寒の最後の日が節分で,翌日旧暦の正月を迎えるわけである。(ブリタニカ国際大百科事典)

◉ 永井荷風 ながい-かふう 1879-1959=明治-昭和時代の小説家。明治12年12月3日生まれ。永井久一郎の長男。広津柳浪(りゅうろう)の門にはいる。アメリカ,フランスに外遊,帰国後「あめりか物語」を発表する。明治43年慶大教授となり「三田文学」を創刊。大正5-6年の「腕くらべ」,昭和12年の「濹東綺譚(ぼくとうきだん)」などおおくの作品をのこす。市井に隠遁し,反時代的姿勢をつらぬいた。27年文化勲章。29年芸術院会員。昭和34年4月30日死去。79歳。東京出身。東京外国語学校(現東京外大)中退。本名は壮吉。別号に断腸亭主人,金阜山人,石南居士。作品はほかに日記「断腸亭日乗」,小説「つゆのあとさき」など。(で示達版日本人名大辞典+Plus)

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 以下は、大寒に突入したのを機に、あちこち読み散らしていたものの中から、いくつかの「言種」を、順不同に羅列しておきます。

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いきながら一つに冰る海鼠(なまこ)哉 (元禄六(1693)年冬作・松尾芭蕉) 芭蕉には「いざさらば雪見に転ぶところまで」という一句があります。貞享四(1687)年十二月作。彼には「雪」は鑑賞するであり、俳句の材料でしたね。

 鈴木牧之の「北越雪譜」です。雪が降るとはいかなることか。彼は身をもってそれを書き残したのです。

 「吾が国に雪吹ふゞきといへるは、猛風まうふう不意ふいおこりて高山平原かうざんへいげんの雪を吹散ふきちらし、その風四方にふきめぐらして寒雪かんせつ百万のとばすが如く、寸隙すんげきあひだをもゆるさずふきいるゆゑ、ましてや往来ゆきゝの人は通身みうち雪にいられて少時すこしのま半身はんしんゆきうづめられて凍死こゞえしする□、まへにもいへるがごとし。此ふゞきは晴天せいてんにもにはかにおこり、二日も三日も雪あれしてふゞきなる事あり、往来ゆきゝもこれがためにとまること毎年なり。此時にのぞん死亡しばうせしもの、雪あれのやむをまつほどのあるものゆゑ、せんかたなく雪あれををかしくわんいだす事あり。施主せしゆはいかやうにもしのぶべきが他人たのひと悃苦こまる事見るもきのどくなり、これ雪国に一ツの苦状くぢやうといふべし。われ江戸に逗留とうりうせしころ、旅宿りよしゆくのちかきあたりに死亡ありて葬式さうしきの日大あらしなるに、宿やどあるじもこれにゆくとて雨具あまぐきびしくなしながら、今日けふほとけはいかなる因果いんくわものぞや、かゝるあらしあひて人に難義なんぎをかくるほどなればとても極楽ごくらくへはゆかるまじ、などつぶやきつゝ立いづるを見て、吾が国の雪吹ふゞきくらぶればいと安しとおもへり。」と書くのは鈴木牧之です。

 芭蕉については、「芭蕉翁がおく行脚あんぎやのかへるさ越後に入り、新潟にひがたにて「海にる雨やこひしきうき身宿みやど寺泊てらどまりにて「荒海あらうみ佐渡さどよこたふ天の川」これ夏秋の遊杖いうぢやうにて越後の雪を見ざる事ひつせり」と、俳聖の「芸風」を問うているのでしょう。

 「近来も越地に遊ぶ文人墨客ぶんじんぼくかくあまたあれど、秋のすゑにいたれば雪をおそれて故郷ふるさと逃皈にげかへるゆゑ、越雪の詩哥しいかもなく紀行きかうもなし。まれには他国の人越後に雪中するも文雅ぶんがなきは筆にのこす事なし」雪に恐れをなして、冬には誰も来ないことを、牧之は嘆いています。(「北越雪譜」)(左・右の絵は牧之筆)

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◉ 鈴木牧之【すずきぼくし】=江戸後期の文人。本名儀三治。俳号秋月庵牧之。越後塩沢の縮(ちぢみ)仲買兼質屋に生まれ,家業のあいまに学問・風流に心をよせ,山東京伝ら多くの江戸文人と交遊。菅江真澄と並ぶ,江戸後期の代表的地方文人。著書《北越雪譜》,信越国境の平家谷秋山郷を探訪した記録《秋山記行》,自伝《夜職(よなべ)草》,《秋月庵発句集》など。(マイペディア)

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うす壁にづんづと寒が入りにけり(一茶)さすがに信濃の人です。粗末な「終の棲家」でしょうか、その壁にさえ寒さが貫通しているのです。独り身で、その寒さはいやがうえにも染入ったことでしょう。

凍つる夜の独酌にして豆腐汁(徳川夢声)ぼくは夢声さんは好きでしたが、この句はいかがでしょうか。

生き死にの話ぽつぽつどてら着て(川上弘美)ぼくにはよくわからない句です。情景が浮かんできませんでした。

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 これまでに、ぼくは何度も「雪かき」をしました。「雪下ろし」の真似事もしましたが、本格的に汗をかき、肝を冷やしたという経験はない。千葉でも現住地でも、何度か雪に降られましたが、生活に支障をきたすということはまず考えられません。それだけ「便利は生活」の恩恵にあずかっているというのでしょうか。先般、近郊でも降雪がありましたが、このときには停電があり、しばらくは不自由しましたが、昼間だったから、問題なく過ごせたのです。いろいろと便利になり、旧来の苦しみから解放されつつあるのは目に見えていますが、大雪による降雪、その影響で日常生活が停止せざるを得ないのは、いまでも課題となっています。コラム氏が書いているように、高齢者の独り住まいが増えてくる状況下で、雪害に遭遇することは何としても避けなければならない目下の急務です。加えて、ある意味では「猖獗を極めている」(かのような)コロナ禍の只中に閉じ込められているのです。パンデミックは、やがてエンデミックだと(期待を込めて)言われていますが、油断はできません。

 大寒から立春までが最も寒い時期とされています。天気図をみると、来週のどこかで雪が舞い降りるのか、降りしきるのか。今少しの辛抱というのでしょうかな。やがて、晴れてマスクのない、スッピンで街中に出歩くことのできる日が来るのを鶴首しているのです。それもまた、ちょっとは危険ですが、ね。ぼくは街中には用はありませんが、とにかく、多くの人々には「ストレス」が異様に重ねられていることは事実です。この抑圧状態をしのぐための暴力もまた、全開とならないように、最新の配慮と注意に心したいですね。

 今朝の二時過ぎから三時までの間、ぼくは奇妙というか驚くような経験をしていました。毎日「ラジオ深夜便」を聴きながら布団に入ります。十一時過ぎから五時まで、毎日です。大部分は眠っているのですが。ぼくはこの放送を開始以来、殆んど聴いてきました。約三十年超です。今朝は、二時過ぎから松任谷由実さんの楽曲が流れていました。十数曲だったと思う。ぼくは、彼女は嫌いではないが、特別のファンだというわけでもなかった。ところが、曲の順番は忘れましたが、流れてくる、すべての曲をぼくは歌詞まで知っていたのでした。驚きました。今まで一度だって、彼女の曲をゆっくりと、意識して観たり、聴いたりしたことがなかった。にもかかわらず、殆んどが知っている曲だったので、ぼくはびっくりするやら、目が覚めるやら、それで三時には起きてしまったのです。猫が驚いていた。

 これはどういうことだったか。おそらく、ぼくは気が付かないままで、彼女の歌を何百回も、それ以上も聞いていたことになる。いわば、刷り込まれていたのです。実に驚くべき出来事でした。おそらく、彼女はデビューして三十年以上はとっくに過ぎているでしょう。ということは、間断なくその期間、ぼくの耳には由美さんの曲が入り込んでいたのでした。こんな経験は初めてだった。その証拠に、初めて彼女の「詩」を読んで、いかにも時代がかった、古風を擬した「ことばづかい」なんだと、びっくりもしている。その意図は何なのか、ぼくには、少しわからないところですが。「過ぎし世」(という表現など)に価値を置く人でもあるのですね。しかし、その才能たるや、恐ろしいほどのものなんでしょう。ぼくは、中島みゆきさんにもいかれていましたが、才能の表され方はまったく異なる、その天稟は、およそくちがいますな。ぼくは、彼女に、今から「ハマる」んだろうか?(松任谷由実「春よ、来い」https://www.youtube.com/watch?v=gol5dFrv4Ao

*念のために、由美さんのデビューの時期を見てみました。なんと1972年、「返事はいらない」という曲で、とありました。まだ高校生だった時ですね。ちなみに、このデビュー盤は数百枚しか売れなかったという。以来半世紀、見上げたもんです。この singing lady は「怪物」のようですね。衰えることを知らないというと奇妙に聞こえますが、そんな女性を、ぼくはこれまでに何に見てきたのでしょう。貴重なことですね。

 二月四日が「立春」だ。あと二週間で、ぼくにとっては「新年」「新春」です。猫と戯れ、かみさんと緊張を失わないで、「春」を待ちたいですね。(十日ほど前に、我が家の猫が「ウグイス」を捕ってきて、家の中で解体していました。「なんと残酷なことを」と叱ったのですが、効き目があったかどうか。鴬には「かわいそうな」ことだったと、情けない気分になっていました。おそらく一瞬、気を許したんでしょうね、猫に)

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 本は旅する ー 放浪書房はヴァガボンなのだ

 【余録】旅をしながら、旅に関する本を売る。富永浩通(とみなが・ひろゆき)さん(43)が移動型古書店「放浪書房(ほうろうしょぼう)」を開いて16年になる。趣味は旅と読書。「好きなことを続けようと思ったら、こうなりました」▲運搬手段は旅行かばんからリヤカーを経て、改造ワゴン車になった。興味を持った人から声がかかると、約500冊を積んだ車で駆けつけ、広場や商店街で「開店」となる。寝泊まりも車中だ▲千葉市の実家を拠点に全国を回り、行く先々の古本屋で仕入れもする。その際、入手した地名を内側に記す。本と一緒に旅をしている気分を味わうためだ。最近では、自分の本にも旅をさせてやりたいと、愛読書を持ち込む人もいる。そうした入手経緯をネタに、購入者との会話が盛り上がる▲昨年、神奈川県茅ケ崎市で出店した際、年配の女性が随筆集を買った。女性は旅好きの夫を失ったばかりで、気分が沈みがちだった。ページを開くと「岡山から旅をして来た」本だった。「あの人が、最後に旅をしたかったのも岡山でした」と女性は笑みを浮かべた▲富永さんは目標に向かってまっしぐらに走るのが苦手だ。「理想形は鳥人間コンテストです」。とにかく楽しみながら、長く飛び続けたいらしい。かのスティーブ・ジョブズも言っている。「終着点は重要じゃない。旅の途中でどれだけ楽しいことをやり遂げているかが大事なんだ」▲本を手渡す時、富永さんは「よい旅を」と声を掛ける。旅と本が人の交流を作る。それが富永さんにとっての「財産」という。(毎日新聞・2022/01/17)(ヘッダーは文春オンライン「本の話」:https://books.bunshun.jp/articles/-/6656)

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 いろんな形態の本屋さんがあっていい。よく見たのは「移動図書館」というものでしょうが、それは行政区域内に限定されているし、本の販売はしていません。この「放浪書店」のような移動書店は、かつては各地にいくらでもあったと言えます。でも、今日では、まだまだ珍しい本屋さんということになる。ぼくはこの「本屋さん」の存在を知って、まず最小に浮かんだのは、「フーテンの寅さん」でした。ご存じ「男はつらいよ」の寅さん。どうして男がつらいのか、女はつらくないのかなどと理屈を言うのではありませんが、この「国民的人気映画」を横目で見ながら、「テキヤ商売」というものが隆盛を極めた時代を思ったりしました。その昔(戦前・1945年前までは)は、なんだって「行商」だった。その種類は多様でしたね、魚屋・八百屋・薬屋・蕎麦屋・うどん屋・パン屋・和服商い、その他数知れない商売人がこの島の東西南北を往来していたのです。そのほとんどの「行商人」から商いをしてもらったという経験をぼくはしています。半世紀ほど前までのことです。

 旅する本屋さんの「放浪書房」という屋号もいいですね。あるいは「書房・放浪」とか「方々書房」、「漂流する本屋」などもあり得るし。あってほしいですね。この劣島の人間集団の生活の基本になったのは「定住型」でしたが、まれに、そこから外れる生き方を求める人々も存在したのです。それが漂泊民。「公地公民」の制度が生まれてこの方、大多数が土地に緊縛されるのが当たり前の生活でありましたが、そうではない生き方が認められていた人々(越境する者たち)も存在したのです。この「定住と漂泊」は、古くて新しい、新しくて古い、人間の生活スタイルだったと言えます。この放浪書房の店主は、旅と本が好きだから、両方を同時にやろうとしたら「こうなった」といわれます。「商いは行商に始まり、行商に終わる」という表現があるのかどうか定かではありませんが、奈良や平安の昔からの生活の在り方を見ているような、とても「懐かしい気持ち」になります。渡り鳥、それは人間の願望でもあり、きっと帰るべき巣を持っていたのです。帰巣本能に導かれながら、許される飛翔念慮の行使だったのしょうね。この場合の本能は「まるで凧の糸」みたいなもので、時には切れてしまうこともある。これが「風来坊」です。(放浪書房:http://horoshobo.com/)

◉ ひょうはくみん【漂泊民】=さすらい人。漂泊遍歴定住定着とは,人間の二つの基本的な生活形態である。それゆえ,漂泊民といい,定住民といっても,それは絶対的なものではなく,漂泊についていえば,居所の定まらぬ漂泊,本拠地を持つ遍歴,本拠地を変更するさいの移動,さらに一時的な旅など,さまざまな形態がありうる。しかし,一個の人間にとっても人間の社会においても,またその展開される場や生業のあり方に即しても,漂泊と定住とは,対立・矛盾する生活形態であり,相異なる生活の気分,意識,思想がその中から生まれてくる。(世界大百科事典第2版)

◉ 行商= …古来,行商人は婦人が多く,古典にも販女(ひさぎめ),販婦(ひさぎめ)の名で記された。徳島県海部郡阿部村(現,由岐町)の婦人行商はイタダキ(頭上運搬にもとづく呼称)の名で知られ,カネリ(山口・島根両県),ササゲ,ボテフリ,カタギ,ザルなど,運搬法が行商人の呼称となっている点が注目される。行商の古態をさぐる指標となる事柄は,取引の時期と訪ねる相手方が,ほぼ固定しているか否かにある。…(同上)

 

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 「日本一小さいかもしれない本屋」 週末だけ開く市川のkamebooks 店主吉田さん「安心できる場に」市川市大和田のビルに一坪ほどの小さな書店「kamebooks」が週末のみ開店している。店主を務めるのは、千葉市などで古本市を主催する吉田重治さん(48)=船橋市。大好きな本に囲まれながら、安心して自分だけの時間が過ごせる居場所だ。/ 江戸川のほとりにたたずむ4階建ての年季が入ったビル。狭い階段を上がった最上階の一室。ドアを開けると、秘密基地のような約一坪(約3・3平方メートル)の空間が広がり、壁一面に新刊や古本がぎっしり並んでいる。/ 子どもの頃から本と書店が好きだったという吉田さん。自営業の傍ら3年ほど前から千葉大学近くで年に3回、古本市を主催してきた。だが、新型コロナウイルス禍で開催が困難に。「自分で場を構えるのもいいな」と思い立ち、今年10月に「日本一小さいかもしれない本屋」(吉田さん)が実現した。(以下略)(千葉日報・2020年11月5日 )

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 大学生になってから、ほぼ毎日のように、ぼくは本屋巡りをしていました。住まいは本郷にありました。「旧帝国大学」前の本郷通りには、本郷三丁目から白山あたりまで、おそらく三十軒ではきかない本屋があった。新刊本書店や古本屋もあり、なかには新古書店というものまであって、金はないけど暇がある大学新入生にはもってこいの時間つぶしになった。家の隣には仏教書で古くから知られていた山喜房書林があり、正門前には、法律専門の有斐閣もあった。毎晩のように、夕食後に出かけた。そのうち、馴染みの一軒ができた。伯父からの紹介でもあったが、ぼくはそこに何をしに行くのかと思うくらいに通いづめました。約十年、千葉に引っ越すまで、本屋通いは終わらなかった。店の人より、何がどこにあるか、よく知るようにもなっていた。わざわざ神田まで出かけることもなく、ぼくの狭い小さな要求は、ここで満たされていたのです。

 つまらない話が続きますが、ぼくは馴染みになった書店で、好きなだけの本を買い、あろうことか「支払いは都合のいい時に」という買い方を店主から許してもらった。今から半世紀以上前の、授業料が年間で三万円とか五万円の時代に、ぼくはその書店で三十万を超える借金を、常時作っていました。このほかに、本郷三丁目の駅前にあったレコード店でも、同じように好きなだけレコードを買い、「ある時払いの催促なし」という始末で、ここでも相当の借金を貯めていました。本とレコード、それに明け暮れていたのが、ぼくの本郷時代でしたね。そこに十年ほどいて、結婚(一生独身で生きようと、自分では考えていたのでしたが、「どうしても結婚してほしい」と言われ、いや、そう言ったのはぼくだったか、記憶はあいまいだ)するようなことになって、千葉に越したのでした。いうまでもなく、本屋とレコード屋の借金はきれいに支払いましたよ(少しばかり苦労はしましたけれど)。「すべては自前で」、これがぼくの金銭感覚、生活信条で、この処世訓は知らないうちに身についたという気がします。(上の写真は大船渡にある「カドベッカ書店」の案内看板)

 本の話です。ぼくのようなつまらない経験でも、話しきれないほどのネタがあるのです。千葉に移住したときには、月給をもらうようになっていましたから、学生時代よりも贅沢はできなくなりました。だから、それなりに選んで本は買っていましたが、殆んどは大学内にあった「生協の書籍部」からで、ここにもぼくはいつでもかなりの借金を抱えていました。そんなことができる時代でもあったのでしょうね。図書館で用が足りるという人もいますし、それができれば十分なんですが、ぼくは、どういうわけか、自分で持っていたいという性分なんですか、いつでも買うことにしていました。蔵書が何冊というような興味がなかったし、うんと溜まってしまえば、古書店に売るということをして、何とか許容範囲を超えない程度の本のある暮らしをしてきました。

 以前の本屋さんは(今でもあるのかもしれません)、注文した書籍は配達してくれました。月刊誌や定期刊行本はそうでしたし、注文しておけば、きっと届けてくれました。いわばアマゾンの先駆けです。これは何も本だけに限らず、多くの商品は配達が主でしたね。事前に「御用聞き」といわれる店員が注文をとりに来て、それを夕方、指定された時間に各家に配達する。移動販売だ、移動本屋であるなどというのは、はるか昔の「商売の方法」でした。それが経済の繁栄だか、精神の貧困だか知りませんが、店を大きく(あるいは小さく)構え、欲しけりゃ、店まで買いに来いという「エラそうな態度」が横行蔓延したのも、つい最近のこと、名だたる百貨店なども「宅配(外商)」が珍しくなかった。それが商いの本流だった時代が長かったんです。「お客様は神さま」という精神は滅んだのに、その「口上」ばかりが生き残って、そこでこそ買いたいという「なじみの店」を育てようとしなくなった、その終わりがすでに始まっているのでしょう。「放浪書房」はその先駆者(ではありませんが)、いわば「フロントランナー」でしょうか。しかし何のことはないんですね、昔の「商売の在り方」がよみがえってきただけなのかもしれない。つまりは「行商(商売のリアランナー)」です。

 このページの中程に出した数枚の写真の上段に見られるのが「行商」の諸形態です。半世紀前までは、いたるところで観られたし利用されていました。背中にたくさんの野菜などを背負って都心に行商に出かける女性たち。これを「カラス部隊」とか言ったように記憶しています。本郷あたりには千葉や茨城から、週の決まった日に出かけてきて、そこで店開きし、すべてを売りさばいて帰っていく。事前に注文しておくと、それも持ってくる。ぼくはこのような人たちと親しくしていました。いまでもあるのではないでしょうか。千葉に越した当時、京成電車の朝の決まった時間の電車は「行商専用」車両で、ぼくはよくその車両の近くで観察させてもらいました。時にはその車両に招かれたりしました。今もあるかどうか。写真上段左のリヤカーいっぱいの日用品を積んで歩く行商もよく見られました。リヤカーが軽トラックに代わっただけで、今も健在だし、さらに盛んになるでしょう。金魚売も豆腐も、みんな声をかけて売って歩いたんですね。ぼくが上京直後、早朝に「あっさりしんじめえ」という声で驚いたことがあります。茨城か千葉あたりから、朝ご飯用の味噌汁の具である「あさり・しじみ」売りだったという、馬鹿な話がありました。

 大きな店を構えて、「欲しいなら、ここまで来い」という時代は終わったとは言えませんが、その商売の精神は廃れたでしょう。いいことです。第一、商品知識ゼロで「モノを売る」という驚くべき所業をして、金をとっているんですから。コンビニなども、しきりに「移動販売」に躍起になっています。これは、けっして「高齢化社会」「老齢化時代」だからではなく、人と交わりながら商いを行うという、本筋の商売に戻ろうという兆候でしょう。「モノを売る」のではなく「人の気持ちを売る」「売り買いする人(知り合い)同士の付き合い」が商いであるという、廃れていた商人道がよみがえるのなら、まことに幸いであると思います。

 背中に「いくばくかの本」を背負って売り歩いた時代をぼくは知っています。荷物を下ろし、それを開けて見せられれば買いたくなるし、買えば人の温もりが感じられる、モノを大事にするというのは、それを作った人や運んだ人たちの心持を買うということにもなるのでしょう。今の時代の「チェーン店」競争は、客を大事にしているのではなく、店を大きくする、シェアを少しでも獲得する、そのための「金儲け」に鎬(しのぎ)を削るのが商売だと錯覚している(すべてではないでしょうが)、だから、そんな「金目当て商売」に利用されたくないという、意固地な気分がぼくにはあり、コンビニもファミレスもまず利用しなかった。「出前」があり、「御用聞き」があった時代、それは古く遅れた時代のことではなく、人とのつながりを大事にしたいという気持ちが表れた(対等な)人間関係の、明確な在り方だった。それは何も「商売」に限りませんね、「教育」であっても「人とのつながり」が核心部分にならなければ、教育ではなく狂育であり、虚育でしかないでしょう。

 本は放浪する、いや本に載って、人は放浪するのです。あるいは「漂泊する」のです。本の内容や著者とともに、おなじ道筋を、著者と読者という「本好き同士」として放浪する、これが読書だという気がしてきます。本が放浪するのではなく、持ち運びが自由な書物は「精神の放浪」を実現してくれるんですね。電源もいらなければ、通話相手やどこの誰だか「得体のしれない人」を相手にする必要のない、心の旅路の水先案内として、ぼくはこの上なく本を好んできたし、また好んでいるのです。アマゾンもいいし、行商もいい、どこかの本屋の「一泊◉◉円」という読み方でも、またいいですよ。いろいろな「売り方・買い方」「読み方・読まれ方」が共存する時代がよみがえってくることを楽しみにしています。 

 今でも、東南アジアの各地で、行商による商い風景が見られます(下の三枚はハノイにて)。それを「遅れている」とか「古い」と言って、ぼくたちは蔑視か軽視をしていたのではなかったか。その「遅れた」「古い」商売の方法が、この島でも復活する時代になったといえばどうでしょう。「遅れた」というのは、人間の歩行がモノを売るのに適しているスタイルであり、速度だからです。これこそが「文化(生活)」だと言いたし、それを野蛮であると言うなら、ぼくは野蛮であり続けたいね。コンビニが、地球上を席巻していますが、それが「文明」なら、なんと軽薄で薄情な生活スタイルであろうか。ぼくは「文明人」でありたくないですね、断じて。再び、三度(みたび)と「降る雪や明治は遠くなりにけり」ではありませんか、否応なく、さらにぼくたちは「江戸」へ戻っているんじゃないですか。これが「先祖返り」なんです(下の絵で書いた三枚)。「明治は遠くなったなあ」というのは、草田男さんばかりではない。人間が人間らしく生きている時と場、そんな時代や社会が、どこかにあったんだが、そこに戻れるといいね。

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 粗末にされるいのち、それは他人ごとではない

 【斜面】風をこぐ犬 一歩、また一歩。弱った脚をゆっくり前に運ぶ。近所に住む17歳の日本犬は人に例えれば90代か。日々の散歩は欠かせない。しばし立ち止まっては歩きだす。それを飼い主さんはじっと待つ。寒空に行き会うたび温かさが伝わってくる◆写真集に描かれた一匹の老犬と重なる。ベルリン在住の橋本貴雄さんは郷里福岡で働いていた16年前、事故に遭い瀕死(ひんし)の雌犬を保護した。以後写真の道を志し大阪、東京を経てドイツへと移るまで、共に暮らした12年を初の著書「風をこぐ」にまとめた◆フウと名付けられた犬は手術と治療で回復したものの、脊髄損傷で後ろ脚が利かない。排せつも自分で調節できない。散歩すればよろめき、蛇行し、尻もちをつく。前脚を使い、もがくように進んでいく。砂浜で横座りし遠くを見つめる姿は悲しげでありながら、どこか愛らしい◆やがて迎えた看(み)取り。車いすを引いて歩く姿だけが消えた公園…。撮りためてきた約1万枚の写真が残った。3年が過ぎて顧みる心の余裕が生まれ、作品化に至ったという。喪失感が迫ってくるのは終生飼養の放棄とは対極の慈しむ目線が伝わるからか◆保健所のウェブサイトに迷い犬の保護情報がある。長野市内のホームセンター敷地で先週見つかった小型犬はキャリーケースに入っていた。繁殖や販売の規制が進んでも、最期まで寄り添い遂げる準備と覚悟はできているだろうか。筆者も飼い主の一人として、向き合い方を考え続けたい。(信濃毎日新聞デジタル・2021/12/28)

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 昨秋でした、この写真集が出版された際に、早速購入しようと、注文しかけたことがありました。でも、そのまま年を越してしまった。以来ずっと、この犬(フウ)の姿が瞼に残っています。もう少し時間がたってから、注文するつもりです。どうして躊躇しているのか、訳を話せばつまらないし、また駄文に駄文を重ねてしまうので、それはしません。もう二十年以上も前に、以前に住んでいた佐倉で、娘が「怪我をしている猫がいる、車にはねられたのだと思う」といって、その猫を家に連れてきた。白黒の猫でした。後足が潰されていた。早速、よく通っていた動物病院に連れて行き、大掛かりな手術になったが、無事に退院して我が家の住人になった。その前には、耳がちぎれてしまった(多分喧嘩で)のも、同居するようになった。その段階でも、家にはすでに五人ほどが先住民(猫)として生活していました。かみさんは、いたくその子(足をなくした)を大事にし、当時よく売れていた(読まれていた)エンデというドイツの作家の「モモ」にちなんで、そのように名付けた。その子は女の子でしたが、三本の脚で、実に気の優しい猫として我が家を明るくしてくれていた。(*橋本貴雄著「風をこぐ」を出版した、書店「モ・クシュラ」のHP(http://mochuisle-books.com/)

 ある時、近所の家の庭先で「モモちゃんが亡くなっている」と連絡があり、その場に急いだが、どこにも怪我(外傷)の後もなかったから、不審死だと直感した。これは「仕方がない」と言えばその通りで、ぼくが取り分けて猫が好きではないのに、「捨てられているいのち」を思うと、何とかしたいと家に連れてくる。四六時中家に閉じ込めておくわけにはいかないので、外に出る、知らないところで「いたずら」をしているかもしれない。それをできるだけ注意しながら、猫との付き合いをしていたのです。「猫アレルギー」という人もいるし、同じことかもしれないが、「死ぬほど猫が嫌い」という方もいる。だから、そういう人に「猫がかわいそうじゃないか」といっても通じない。モモが亡くなった直後だったか、男の白猫が、真向いの家の車の下で亡くなっていると知らされた。すぐに行って、その子を引き取った。まだ体温が感じられたが、外傷も見当たらなかった。モモと同じような亡くなり方でした。(そんな亡くなり方をした猫を前にして、背中が凍るような、「ゾッとした」経験を数回はしています。

 ぼくは、これまでに、結婚した後のことですが、おそらく三十をはるかに越す猫たちといっしょに時間を過ごした。このブログ(駄文録)のどこかで書きましたが、「とにかく、猫好き」ではありません。嫌いでもないのですが、捨てられているのを見ると、我慢できなくなるのです。「捨てられているのは、ぼくだ」という、不思議な感情が湧いてくるのです。じゃあ、仲間じゃないかと、家に入れることになる。もちろん病気や避妊・去勢に関しては、かならず病院で検査をし、手術をしてからの同居でした。よく話題になる「多頭飼育」などということは考えたこともありません。不思議なことで、一つが家に来ると、立て続けに捨てられた猫に出会うということが何度もありました。ぼくはある時期は、散歩ができなくなったこともある。

 町内で「猫屋敷」などと悪評どころか、非難されてはいましたが、聞こえないふりをして、ぼくは「迷惑をかけないで」というつもりで猫との暮らしを続けたが、どうしてもよその家に入る、あるいはよその家に住み着く、そんなこともしばしばあった。だから、本人だけの好き嫌いで何とかすることは不可能で、近所に迷惑がかかるけれども少しは協力をしてもらえれば、そんな、都合のいい思いを持つことも事実で、現実には無理無体なことだと承知をしてます。佐倉に三十年。家にいた猫が、すべて亡くなって(病気や寿命が来て)、この山の中に越してきました。と、書いていくと、これもまたきりがありません。その証拠に、猫とは縁が切れたなあと思っていた矢先、かみさんが捨てられ猫、あるいは野良猫に食事を与えだしたのをみたとたん、ぼくはあきらめた(ここでも、猫と生活するんだ)。以来三年以上が経過した。早い話が、「元の木阿弥」です。さいわいに、ここは近所もまばらだし、家の周囲は林や竹藪になっているから、以前ほどは気にしないで、いっしょの生活をしている。ただ今、猫八と夫婦で、十人家族だ。先のことは考えても仕方がないと、のんきに毎日の明け暮れに齷齪しているのです。

 「風をこぐ」を注文しないままでいる理由を説明しようとしているんですが、要するに、こんな動物を観ていると、飼っていた犬・猫を捨てるやつ、けがや病気の野良たちを無視している、そんな「世間さま」に怒りが爆発しそうになるのです。野良猫を無視したからといって、だれが悪いのでもないのは、当たり前ですけれど、だれがなんとかしなければ、そんな思いも募るのです。要するに「複雑怪奇」というほどではないけれど、気持ちがすっきりしないということです。

 (まだ、駄文の続きがありますが、小休止してからにしましょう。(ただ今八時過ぎ」)朝食をとっていました。かみさんは朝寝坊で、いつもこの時間になります。猫たちは、毎朝五時には食事します)

(再開・九時半ころ) ぼくがこの問題で大きな影響を受けたのが長嶺ヤス子さんでした。放棄されていた猫を引き取り、悪戦苦闘しているというのを聴いて、ぼくは感動したのを覚えています。この人は、いろいろな活動をされていますが、核心は「舞踊家」です。もっとも先進的で先鋭で、しかも本格的なスペイン舞踊の踊り手でもある人。詳細は、どこかで調べられるとわかります。彼女は非常に早い段階から、捨てられた猫たちの世話を一人でしょっておられた方で、都内では近所迷惑と嫌がられ、一時期は房総半島に越されて、広い土地を確保されていました。現在は、郷里の福島県に百匹からの猫たちと共生しておられると言うところまでは知っていましたが、肝心の近況がわからないままで、これを書いています。彼女の公式HPは、次のURLです。ここも最近は更新されていません。(https://www.k-kikaku1996.com/yasuko/yasuko_j.html) 

 それはともかく、この人の、猫にかかわる活動に大きな影響を受けたのは事実です。ぼくはそのために生活を切り替えることもなく、普段通りの明け暮れで、猫たちと暮らしたいとだけ願っていました。今もそうです。個人の篤志や一時的な愛護の真似事ではすまされない問題であることは事実です。でも、ぼくは自分でやれる範囲で、猫と暮らすというだけで、これに関してなにか発言をする資格も気持ちもないのです。つい最近、フランスではペットショップが禁止されるという趣旨の報道がありました。次年度からだったと思います。ぼくは、当然という気がしました。またイルカや動物の見世物(ショウ)も禁じるべきでしょう。それを、金を払って見に行くという人間の気が知れないんですな。

 先日群馬のサファリパークで、虎が飼育員に噛みついて、重軽傷者が出たというニュースが報じられていました。これもぼくは止めるべきで、どうして、こんな見世物を商売にするのか、ぼくには理解できないままです。と、愚痴なのか、イライラなのか、こんなことを言っても始まらないのですが、うっぷんが募りますね。

 最初に戻って、「風をこぐ」です。この駄文を書き終わったら、一冊注文します。

 つい先日、いつもの散歩道で、三頭の犬を散歩させていた二人(夫婦だったか)に出会いました。すれ違いざまに声をかけて、「毎日散歩ですか?」と訊いた。一頭は車いすを改造したリヤカーのようなものに乗せられていた。もう一頭は、補助付きの車いすだったかに後ろ足を乗せ、前足で歩いていた。もう一頭は、見たところ障害があるようには思えなかった。この三頭の飼い主は、日課の散歩を、目の前にいるお二人に依頼しているような話ぶりでした。介護とか介助が大きな社会問題になっていますが、動物もそうですね、介助犬や盲導犬などの「介護」が時に話題にされます。人間の介護ばかりが問題になる社会ですが、当然、その仲間である「動物」の問題でもあるのですよ。犬だけに猫だけに関心を持つのではなく、とにかく手が足りないから、仕方なしに「どれか一種に」絞るほかないんですね。それを見て、「猫がよほど好きなんですね」と訊かれると、最近は、「そう、死ぬほど好きよ」ということにしている。

 「飼われていた動物」の看取りがどうなっているのか、わがことのように気になる。ぼくたち夫婦も年齢的には厳しいところですが、さて、どこまで可能か、もう少し足腰を鍛えて、付き合うことにするというばかり。我が家から移っていった猫たちが、立派に成長している「写真付きの年賀状」を数名の方からいただきました。ぼくは、そんなことはしたことがないのですが、かわいくて仕方がないという気持ちをハガキに載せるのでしょうね。あまりペットらしくなってほしくない、してほしくないというのは、ぼくのわがままかもしれない。犬は犬なり、猫は猫なり、それぞれの性に合った生き方ができるといいですね。

 何はともあれ、「動物のペット化」の時代です。この趨勢は衰える気配がありませんね。もちろん、この「ペット化される動物」の中に、人間の子どもたちも含まれています。まず、飼うとか飼いならすということは、断じて即刻止めることですね。だれであれ、どこであれ、人間がやさしく、そして強くなれるのは、「ペット化」煉獄状態に束縛されている「飼い主」根性から解放される経験があって、初めて可能なんですよ。(「私は、血統書付きの犬を飼っているの」というお嬢さん。「ぼくは猫を飼ってるんだよ、値が張ったんだぞ」というお父さん。「私どもは子どもを飼育しているんです」という▲◇学園の先生たち。こんな「言い草」が消え去るまでは、衆生というべき「生きとし生きるもの」の不幸を見なくなるのは無理ですね。ということは、いつまでたっても、あかんということか)

 犬や猫に限りません、鳥インフルに感染したと「数十万羽の鶏処分」と、この房総半島でもこんなニュースが消えることはありません。「いのちを大切に」ということが、こと改めて教育されるのは、どうしてか。人命尊重を大声でいうことは間違いではありません。でも、それだけなら「人間中心主義」であり「人間独善主義」でもあるのです。また、その「人間中心主義」の中にあってさえ、「上等人間中主義」「下等人間排除論」が息づいているのです。まさしく「修羅(阿修羅)」でありますね。ぼくたちの出発点は、ここからです。目的地は、…。いつまでも、出発点にいることを忘れたくありませんなあ。

◉ 阿修羅【あしゅら】=サンスクリットasuraの音写。修羅と略。六道の一。また,戦闘を好み,帝釈天(たいしゃくてん)と争う悪神。修羅の巷(ちまた),修羅場などの語はここから起こった。また仏教擁護の神として八部衆の一人。図像上では三面六臂(ろっぴ),忿怒(ふんぬ)の相を示す。日本では興福寺の天平期の六臂像が著名。(マイペディア)

(このことについては、まだまだ書き足りませんので、稿を改めて)

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 音楽演奏の才能ということ、改めて考えている

 ヴィヴァルディの「四季」というヴァイオリン協奏曲はこの島において、もっとも多くの愛好者を生んだ古典音楽でしょう。高校の音楽教材にも取り入れられていたと記憶しています。それがいつのころだったかよく知りませんが、それ以前にぼくは、この音楽をドイツの指揮者だったヘルムート・ヴィンシャーマン指揮のバッハゾリステン管弦楽団などで聞いていました。おそらく大学に入ったころでしたから、今から六十年近く前になります。以来、ぼくはどれくらいこの曲(だけではなく、いわゆる「バロック音楽」というものに深入りしていきました)を聴いてきたことか。数えきれないくらいの演奏家に耳を傾けて来た。ソロを担当するヴァイオリニストだけでも、おそらく百人は下らないでしょう。

 中でももっとも有名になった、いやポピュラーになったのはフェリックス・アーヨというソリストで出されたレコードでした。(➡)この合奏団は年中行事のように来日公演をしていました。ぼくは一度も行かなかったが。この「四季」は正確には「バイオリン協奏曲集《和声と創意の試み》」というヴァイオリン協奏曲の最初の四曲を言いました。「春夏秋冬」を、文字通り音楽で表したものです。そういわれればそのように聞こえてくるというのも、標題音楽のなせる業だし、人間は「暗示」というか「誘導」に引っ掛かりやすいというのでしょうか。「四季」の演奏はイ・ムジチに限るとは言わないし、だれの演奏がいいとか悪いとか、ぼくはそういうことを云々する段階をとっくに卒業したと思う。クラッシク音楽では、当たり前ですが、作曲家と演奏家は固定していないし、作品だけが独立(孤立)していて、発表当時はだれかに捧げられたかもしれないが、その後は誰が演奏(カヴァー)してもかまわない、むしろそのような扱われ方をしてきたのがクラッシック音楽でした。その作品は、ある種の「山岳」「山脈(やまなみ)」のようであり、それに登ろうという「挑戦者(演奏家)」が陸続することで、作品の幅や深さを拡大してくれるのでしょうし、そこに音楽の歴史が紡がれているのです。

 ぼくは、いまでは、演奏家が誰であるかなど、固有名にはほとんど興味がない。いわば古典音楽そのものも、生活の中のBGM(伴奏)として聞くようになった(堕落した?)からでしょう。しかし、作者が誰かが気になるようでは、作品は十分に成熟していないという、そんな勝手な感想をぼくは持っているのです。あの音楽は「私が作曲した」というのは作曲者が存命である限りでいえることで、音楽の永続性は作曲家の生命をはるかに超越するのです。作品(それがどんなものでも)を育てるのは、それを愛する、好む、そんな人々が実際にしていることです。ところが、このような作品が時代を超えて聞かれ続けるには、常に、新たな演奏による刺激を受ける必要があるでしょう。これはあらゆる音楽に妥当することではないでしょうか。決して、このことは「芸術」に限らないことです。作者の名前が消えて、作品の生命が続く、それが望ましい姿ではないか、という気もしてきます。「人生は短い 芸術は長い」(もともとはギリシャの医者・ヒポクラテスの言で、〈Ars longa, vita brevis 〉「人生は短く、医術は極め難し」から派生した)

 蛇足です。「芸術」といって、それを狭くとらえる必要もない。もとは芸術「art」は「技術」「技芸」を指して言ったものでしたから、建築であれ、機械であれ、いろいろな分野が求めた「技術」は、人間の生命をはるかに超えて用いられているということでしょう。ぼくはこの問題を考えるとき、一例として「法隆寺」を想定して考える癖が付きました。だれが作ったか、そんなことより、この木造建築は千数百年維持されてきたという歴史の長さと重みを感じさせられるのです。

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◉ 四季(ビバルディの作品)(しき)La quattro stagioni=イタリア・バロックの作曲家アントニオ・ビバルディの作品。独奏バイオリンと通奏低音付き弦楽合奏のために書いた12曲からなる協奏曲集『和声と創意への試み』Il cimento dell’armonia e dell’invenzione(作品8。1725年アムステルダム初版)のうち、第1番から第4番までが一般にこの名でよばれている。各曲は3楽章からなる典型的な独奏協奏曲の形式をとっているが、第1番から順に春、夏、秋、冬と名づけられ、四季の情景を詠んだソネットが添えてあるところが特徴である。協奏曲に標題音楽の要素を取り入れた最初の例であり、夏の雷鳴や冬に氷の上を歩く人の姿など、音による描写が至るところにみられる。そしてこの『四季』は、その生気に満ちた楽想によって人気を得、第二次世界大戦後のバロック音楽ブームの口火を切った作品でもある。なお『四季』の名をもつ音楽作品には、ハイドンオラトリオ(1801初演)、チャイコフスキーの12の小品からなるピアノ曲集(1875~76)、グラズーノフのバレエ音楽(1900初演)などがある。(ニッポニカ)

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 若い時ほど、古典音楽がなければ、夜も日も明けぬという、ぼくの狂気の状態(時代)は過ぎ去りました。今は静かに、どこかで音楽らしいものが鳴っているだけでお落ち着いてきます。だから、向き合って音楽を聴こうという機会はほとんどなくなったのですが、時には、この時代に遭遇していることもあり、youtube で思わない演奏や演奏家に遭遇することがあります。以前に聴いていた演奏家を再発見するということもあります。そんな時は、うれしいというよりは、この演奏家はすごく成長したなという驚きのほうが先に立ちます。以前に聴いたときと同じ演奏でも、そんな感じ方(「すごい演奏だ!」)をすることがあるのは、どうしたわけか。前には何も聞いていなかったということになるのかもしれませんし、その優れた面を聞き逃していたという場合もあるのでしょう。(上の記事は【Vivace 2019年7月号】から)

 十年とは言いませんが、七、八年前に聴いていた演奏家に、昨日再会し、その演奏の堂々とした姿勢に驚愕を覚えました。本日は、そのマリ・サムエルセンさんのライブ演奏(録画)の「さわり」の部分を紹介したくなったのです。それも「四季」の演奏で。その一部だけを以下のURLから聴かれたらと思います。確か一九八四年生まれだったか、だから、以前にぼくが聴いたのは、まだ三十になる前のころだったように思われます。この間の研鑽がすごかったのか、ぼくの耳が何も聞いていなかったのか、きっと何も聞こえていなかったんでしょうね。それは雑事に追われて、気持ちが荒(すさ)んでいた証拠でもあると言っておきます。再び彼女の演奏に出会えて、ぼくは健康であり、元気でいてよかったと、しみじみ感謝の念に満たされています。

 昨日は、美空ひばりさん(「柔」)でしたが、その後で、何気なしに「四季」のライブ演奏(録画)をいくつか眺めていて、マリさんにぶつかったというわけです。彼女の「現代音楽(作品)」演奏は圧巻です。ふやけたような、ちゃらい演奏が多い時代に、ある種の「爆弾」が投下されたかのように、ぼくは震撼させられました。兄はチェリストで、兄妹で演奏されていますが、これにも痺れます。

(①https://www.youtube.com/watch?v=Yu6Hr9kd-U0

(②https://www.youtube.com/watch?v=wgkLeeRh2pw)(この演奏は、彼女がしばしば演奏する現代音楽の作曲家マックス・リヒターの「編曲」を使っています。これは、今回初めて聞きましたし、この「秋・冬」は、まるで狂風と狂熱の荒れ狂う「季節」ではなかったでしょうか。おそらく、四季演奏の歴史で、初めての「異変」が起きたのかも知れません。このヴァイオリニストは、底知れない技量と音楽性と、playng spirit の持ち主のようです、大変な才能の開花が見られますね。少し大げさにものを言う癖がぼくにはあります。でも、彼女の演奏を聴いていて、すごい才能が育ったものだと、心底から驚かされているのです。山埜)

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 誰にも、言いそびれた「ごめんなさい」がある

 日本語の姓名(苗字)や地名には驚異的な多様性があります。奇名・珍名・難名・易名などなど、それこそ、それを調べるだけで年を取ってしまいそうになるくらいに、興味が尽きず、尽きない歴史の探求になるようです。ぼくは調べ魔では決してなく、実に淡泊質の部類ですが、この地名や姓名には興味をそそられてきました。もちろん、それぞれに立派ないわれや、実に安易な名付け方があります。それをどうこう言うのではなく、他者と識別(区別)できれば、用が足りたというばかりです。しかし、仮に地形や自然環境から借用したとなると、各地に似たような名前ができるのも頷けるし、それで別段困りはしないのでしょう。しかし、時には全くの別人同士が同姓同名、漢字まで同じだとなると、少しは混乱が生じるかもしれません。でも、それもまた、一つの愛嬌でしょうかな。

 今日は「後免」です。これは各地にあるようですが、ぼくが知っていて、訪れたことがあるのは高知県の後免町(現南国市)で、そこが主催している「ハガキでごめんなさい全国コンクール」という催しに立ち寄ってみたくなりました。殺伐としているのが、世の中ですが、それを認めたうえで、もう一つの世間(遊びの世界)をのぞいてみようという趣向です。「後免」については辞書の解説をご覧ください。「免」という字を含む言葉は多様ですね。現在地に移る前に住んでいた佐倉市井野に「油免」という地番名がついていました。もちろんぼくは調べました。別段珍無類ではなく、「油」(菜種油)を、何かの事情で免除されたことがあったことからつけられたのです。また、ぼくの後輩に「京免」という名字の研究者がおられます。広島出身です。由来は各種あり、ここでは省きます。

 さて、後免(ごめん)です。何年前になりますか、ぼくは高知へ行ったときに足を延ばしました。野中兼山という人に興味がり、それにかこつけて後免へ、という「ぶらり旅」でした。野中兼山は土佐藩家老で、藩政改革に辣腕をふるった。加えて朱子学に明るく、後年の山崎闇斎の師でもあった人。後免との関係では、農民に重い税負担を強いたのを、ここでは免除したとされ、そのゆかりから「ごめん」と地名に残されたと言います。電車に乗っていて、次は「後免」と耳にした時、思わず車掌を見ようとしましたが、ワンマン電車だった。「ごめんなさいコンクール」は「漫画家のやなせたかしさんの提案で、ごめん町まちづくり委員会が平成15年から行っています」と市のHPにあります。(https://www.city.nankoku.lg.jp/life/life_dtl.php?hdnKey=2307

◉ 後免(ごめん)=高知県中南部、南国(なんこく)市の中心地区。旧後免町。江戸初期に土佐藩の執政野中兼山(けんざん)が在郷町を設けたのに始まり、町の発展のために諸役(しょえき)を免じたので御免とよばれた。舟入(ふないれ)川が貫流し、近世はその河港でもあった。明治末期に高知市との間に土佐電気鉄道が敷設され、昭和初期には安芸(あき)との間に高知鉄道が開通し、香長(かちょう)平野における交通、経済の中心となった。その後、安芸との鉄道は1974年(昭和49)に廃止となったが、2002年(平成14)には安芸市の先、奈半利町まで土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線が開通した。

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 ===人には誰にも、言いそびれた「ごめんなさい」があるものです。そんな「ごめんなさい」を、素直な気持ちで、1枚のハガキに託して、私たちの町『ごめん』に送ってください」===市のHPにある趣旨です。

 以下の三作品は昨年度の入選作だそうです。主なものだけを紹介させてもらいます。(ぼくはコンクールやコンテストは嫌いです。音楽コンクールはいうまでもなく、美人コンテストなどは「以ての外」という気がしますね。このコンクールは殺気立っていない分、いいですよ、と言っておきます。「◉✖賞」というのがなかったらもっといいね。「ごめんなさい」にランクはいらないですからね。まさかこんな「ありきたり」の企画や催事はないでしょうと、甘く見ていたぼくでした。それにしても、やっぱりやるんだね。

(「いい企画」を断りもなく使ってしまいました。『ごめんんさい』」・山埜)

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 (右)結婚二十年の女性の作品。「もしかしたら、気づいているかも」というあたりがいいですね。多分、夫は知らないと、ぼくには思われます。「知らぬが仏(Ignorance is bliss.)」というではないですか。でも「仏が知らぬ」ということがあるんですか。知らぬふりをしていたのは「お富さん」、だから「お父さんはお富さんだった」かも。(左)「夫は少し天然さん」の女性。「いい関係」というか、いやちょっと「臭い関係」でしょうね。この夫婦の気持ちが、ぼくにはわかりません。というか、ぼくにはこの「天然さん」ほど「かみさん」を受け入れていないですから。自分が(おならを)しなかったことは明らか、妻がこうして(ハガキで)「白状している」のですから。それでも「(少し考えて)俺が…」という、どういうつもりだったのか。ひょっとして、同時に「じつは、俺も…」やったんだね。それを気づかない妻が「あなたのせいにしてごめんなさい!!」というのです。「私が犯人だよ…」という妻の「ハガキごめん」作品を知ったら、夫はどうするでしょうか。「俺も犯人だよ」というのかしら。結局は「キツネとタヌキの化かし合い」、それが夫婦円満の秘訣ですか。ひょっとおおおして、公然と「のろけてるんや」というのですかねえ。

 (中)仮病の女性。本当は「母は知っていた」のですよ。でも、「たまには行きたくないこともあるさ、毎日行かなくてもいいじゃん、自分(母)もそうだったし」「学校なんて、つまらないんだ」とわかった上で、それ(仮病)を受け入れてくれたんですね。これを「同病相憐れむ」といってもいいでしょ。でも、母親に使った「仮病」は、一回だけだったと思う、そうでしょ。だって「いちご一会といいますけんね」それに、しょっちゅう「仮病」を濫用していると、それは「詐欺」「虚偽」になるから、逆効果になることは決まっています。この作品の女性もきっと、(もしおられたなら)自分の子どもたちに「仮病」で心配させられているかもしれませんね。これを「仮病の万世一系」というのでしょうか。

 ちょっと気になることがありました。このコンクールで「ごめんなさい」と六十三円を使って「謝罪」しているのが女性ばかりなんです。どうしてでしょう。訳はいろいろありそうですが、ぼくの直感では「女性の作戦勝ち」「負けるが勝ち」とか、「まずは謝罪を、文句はその後に」といいますから。これは「He who fights and runs away, may live to fight another day.」であり、「韓信(かんしん)の股くぐり」なんですね。女性は男性の上手を行っていますね。

 ぼくはかみさんと「喧嘩」はよくしますが、まず「勝とうと思ったことがない」、勝つはずがないという確信からです。相撲でいうと、どの場所も十五戦全敗。だから、いつまでたっても、かみさんの前では「序の口」なんです。世の有象無象との、やむを得ない「戦い」でも、ぼくはいつだって「七勝八敗」が関の山で、勝ち越したこと、勝ち越そうとしたためしがありません。「負けるが勝ち」って、ほんとにあるんだ! 反対に「勝つは負け」っていうのも、あるんですね。「勝つと思うな 思えば負けよ ♪」といいますよ。さらに進んで、「勝ちたくない」というのが、ぼくの実感、人生は「勝ち負け」では測れないんですな。「黒白」「黒白」を付けると言いますが、いつでも人生の難問は「灰色」なんです。アナログじゃ、解決なんかしないよ。

 (美空ひばり「柔」:https://www.youtube.com/watch?v=3sL0y-bbyT8

◉ かんしん【韓信】 =の 股(また)くぐり[=が股(また)]=(韓信が、若いとき町で無頼のに辱しめられ、その股をくぐらされたが、よく忍んで後年大人物となったという故事から) 大志ある者は目前の恥を耐え忍ばなければならないという意。(精選版日本国語大辞典)(上の絵は、歌川国芳筆「韓信胯潜之図」)

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