怪誕不経・詭計多端の徒ではないか

 青空に映える…「旅するチョウ」アサギマダラ、今年も高知に 香美市の香北自然公園で優雅に舞う 「旅するチョウ」と呼ばれるアサギマダラが、今年も香美市香北町美良布の「香北の自然公園」にやってきた。優雅に舞う姿を訪れた人たちが楽しんでいる。/アサギマダラは、春から夏にかけて本州を北上し、秋に南下する大型のチョウ。飛来地として知られる同公園でも毎年、コバノフジバカマが見頃を迎えるこの時期に集まってくる。/今年は市香北支所が今月上旬から飛来を確認。16日は2匹がひらりと舞ったり、花に止まって羽を休めたり。初めて見に来たという高知市の会社員、福元美智子さん(54)は「茶色と薄い水色の取り合わせが大好き。青空に映えそう」と喜んでいた。/例年、飛来は今月下旬がピーク。午前10時から昼過ぎにかけて見られることが多いという。(田村萌奈)(ヘッダー写真「コバノフジバカマで羽を休めるアサギマダラ(香美市の香北の自然公園)」も)(高知新聞・2026/10/17) 

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 ぼくが生まれた能登半島の中島という土地にいたのは昭和28年ころまでだったと思う。この辺りの記憶は不確かなまま。しかし、そこで過ごした十年近くの歳月は、ぼくに「自然愛好」の気質をとても深く養ってくれたと思う。もちろん、それは「戦争」による、ある種の「疎開」だったわけで、何もなければぼくは京都で育っていたと思う。今では七尾市に編入された「中島・熊木村」は一面が田んぼと低い山があるばかりで、暇があれば、ぼくは山に遊び、平野で遊んだ。ご多分に漏れず、蜻蛉や蝶々、それに蝉や蟲など、数えられないほどの昆虫に接していた。

 これはある時期から、ぼくの中に芽生えた空想だが、あるいはその当時、ぼくは「アサギマダラ」を眼にしていたのではなったか、と。当時は、昆虫に関する知識も全く持たず、目の前を飛び回る虫たちを追いかけ、カブトムシやクワガタなどの昆をがまるで遊び友達のようにしてもてあそんでいたでしょう。もちろん、川魚も手で取り竿で釣ることを覚えていた。

 京都に移住しても、相変わらずの「野生児」「自然人」だったと思う。学校は就学期に間に合わせるだけの存在で、ほとんどは近所の丘や山に登り続けていた。もちろん昆虫にも関心は示していたでしょうが、それを捕獲してどうこうしようという気はなかった。見て楽しむ、ただそれだけ。もし、ぼくにいささかの関心が昆虫類にあったならば、この「幻の旅する蝶々」に魅入られたかもしれないと、今でも振り返って残念に思うばかりです。しかし、現在地の房総半島の僻陬の地にもさまざま昆虫たちがいる。思わない時に「赤とんぼ」に出会ってうれしくなったり、アゲハやモンキチョウ、モンシロチョウの飛来を飽かずに眺めていたりするのですから、ぼくの中には「自分は昆虫だ」というほのかな意識がまだ残っているのかもしれません。

 「旅する蝶々」も、この数年は各地へ飛来する個体数が大きく減少しているといいます。考えられる理由のひとつに「夏季の超高温」が挙げられています。熱中症で死亡する人が出るような事態です。何年もしないうちに、この蝶の劣島への「旅」が見られなくなるのではないかという心配もあります。あらゆる最近・卯ウィルス類や昆虫類もいなくなった環境で、人間が健康に・安全に暮らしていけるのでしょうか。今から半世紀以上も前にアメリカの海洋生物学者が「沈黙の春」という一冊の本を発表し、大きな問題を世界に投げかけました。それは「殺虫剤(DDT」」による想像を超えた被害の拡大に警鐘を鳴らしたものでした。当時から、事態が好転してきたとはとても思われないこの世紀、「沈黙の春夏秋冬」にならない保証はどこにもないのではと、余計な心配もしている。

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◎ アサギマダラ(あさぎまだら / 浅黄斑蝶)(chestnut tiger)[学] Parantica sita= 昆虫綱鱗翅(りんし)目マダラチョウ科に属するチョウ。日本では北海道から沖縄諸島に至る全土に発見される。北海道、東北地方などの寒冷地では、例外的な場合を除いて夏に少数の個体が発見されるのみであるが、これはより南方地域からの移動個体、あるいは移動個体による一時的な発生と考えられる。西南日本では夏季に山の頂上に群飛することが多い。日本以外では朝鮮半島、台湾、中国から西北ヒマラヤにわたって分布する。はねの開張は90~100ミリメートル程度で大形。雌雄の色彩や斑紋(はんもん)は同様であるが、雄では後ろばねの後方に表裏ともに黒斑状をなす光沢のない性標があり、これによって雌雄は容易に見分けられる。西南日本では5月ごろから11月ごろまで成虫の飛翔(ひしょう)をみるが、奄美(あまみ)諸島や沖縄諸島では冬を挟んで秋から春にかけて多く、夏季にはほとんどその姿をみない。飛び方は緩く、各種の草花に集まる。幼虫の食草はカモメズル、キジョラン、サクラランなどのガガイモ科植物である。アサギマダラは九州以北の日本本土に土着する唯一のマダラチョウ科の代表であるが、吐噶喇(とから)列島以南の南西諸島にはさらにリュウキュウアサギマダラ、カバマダラ、スジグロカバマダラ、オオゴマダラの4種の土着種がある。なお、マダラチョウ科のチョウは東南アジア地域より迷チョウとして日本に飛来するものが多く、現在まで日本、とくに南西諸島で発見されたものはマルバネルリマダラなど17種にのぼる。(日本大百科全書(ニッポニカ)

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⁂「週のはじめに愚考する」(141)~ 世界のマーケット状況を見ていると、金融危機や経済破綻(危機)がどこからともなく、同時進行的にやってきそうな雲行きです。そして、この国では、あってなきがごとき「政治」の怠慢と無作為で、日々の暮らしに庶民は痛めつけられています。いわゆる「インフレ増税」で、円安や物価高に対して、むしろ積極的にそれを促すようなふざけた政治政策をとっているのです。財源もないのに「減税」をぶち上げる、どこからその財源を都合するのかと不信を投げかければ「ご心配には及ばない」と、年初に言い、この十月にも同じセリフをくりかえす、一貫した張ったりと不真面目さ。そして、ある与党の幹部は、これから「財源探しに懸命に努力する」といっている始末。政治の無作為(不作為)といいますが、ここまでひどいとなると、これはまさに「政治不在」です。

【日報抄】国会議員1期目の34歳は、怖いもの知らずだったのかもしれない。1995年3月の衆議院外務委員会で、高市早苗議員は日本の戦争責任を巡る反省について語った。「少なくとも私自身は当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもない」▼首相となった今、同じことは言うまいが、終戦の日に反省や不戦の言葉は口にしなかった。国や組織を代表する者の責任を思う。直接の当事者ではないという論理は通用しないだろう▼2022年の工場火災で6人の死者を出した三幸製菓の元幹部が在宅起訴された。起訴を受け、事故後に外部から迎えられた現社長が遺族を訪ね、改めて謝罪した。癒えない悲しみに触れ、災禍を繰り返さぬという誓いを固めたと信じたい▼多くの従業員を抱える企業としての責任の重みが問われる裁判になる。6人の命を奪ったのは失火だが、三幸製菓の工場では火災が相次いでいた。19年から20年にかけ、本紙が記事化しただけで3件の工場火災があった▼火災が連続した後、今回被告となった当時の最高経営責任者が本紙インタビューに答えていた。「安全対策を徹底して見直した。安全を第一に生産体制の整備に努めていく」。さらに「従業員を大切にする」とも▼その1年7カ月後に取り返しのつかない火災が起きた。何と空疎な言葉の羅列だったか。それを責めたいわけではない。人それぞれ負うべき責任を生易しく考えてはならないのだと、かみしめる。(新潟日報・2026/10/18)

 「触らぬ神に祟(たた)りなし」という。本当でしょうか。いや、それはどういうことなのでしょうか。「物事にかかわりあわなければ、災いをこうむることもない。やっかいな相手にはよけいな口出しや手出しをしないほうがよいというたとえ」(ことわざを知る辞典)同じような表現に「触り三百」「雉も鳴かずば打たれまい」などがありますね。ここで言いたいことは、素人が「政治に口出しするものではない」ということについて、一言、物申すだけの話です。今般の農水大臣」の「更迭」に際して、首相は「任命責任を重く受け止めている」と何度も軽々しく発言していました。「重く受け止める」と、軽く言い放つ、無神経ですよ。

 この御仁は、いったいだれのために「政治」をしているつもりなんでしょうか。どう見ても、国民全体の奉仕者という感覚・意識は皆無でしょう。「国や組織を代表する者の責任を思う。直接の当事者ではないという論理は通用しないだろう」(「日報抄」)と、コラム氏は、その驚くべき首相の無思慮を指摘しています。一昨日の国会審議で、三十年前の「少なくとも私自身は、(戦争の)当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております」という発言を問われた。「今も同じか」と訊かれ、「戦後70年の安倍談話の通り、未来の世代に責任を負わせてはならない思いだ」と答弁しました。この国に「戦争責任はない」という趣旨で「戦争の惨禍を、二度と繰り返させない」(「終戦記念日」本年8月15日)という「詭弁」を発したのが現首相でした。

 誰に向けての「詭弁(sophistry)」だったでしょうか。まるで「ミーちゃんハーちゃん」の域を一寸も出ていない、謬論だったとぼくは断言します。朝鮮半島を侵略支配(植民地化)したのも、中国の領土だった地域に「満州国」を興したのもこの国でした。「戦前のファシズム国家」日本は、「戦後の日本」とは違うとでも言いたのでしょうか。(真顔)でこんな主張をする、驚くべき能天気たちが至る所に存在しています。たぶん、当たり前の感覚があれば、奈良時代の「大化の改新(645年(皇極天皇4年))」以降、どう呼ばれようが、この国は一貫して「日本」だった。この総理大臣は昨年11月7日の衆議院予算委員会の「台湾有事発言」の際に「中国北京政府が云々」と発言していました。いかなる歴史認識か、訊くまでもなく、無知を曝したものだったと思う。(詳細は省略)《・北京政府(北洋政府)時期: 1913年 〜 1928年)(・国民党政府(国民政府)時期: 1925年(広州で発足)〜 1948年(その後は台湾)》

 歴史認識「反省なんかしておりません」 過去の発言問われた首相は…  「反省なんかしておりません」――。先の戦争についての高市早苗首相の過去の発言をめぐり、16日の参院予算委員会で立憲民主党の辻元清美氏が問いただした。植民地支配と侵略への反省とおわびを盛り込んだ戦後50年の村山談話についても、認識が問われた。
 約30年前の1995年、新人議員だった高市氏は衆院外務委員会で「少なくとも私自身は、(戦争の)当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております」と発言した。
 辻元氏はこの発言を取り上げ、「考えは変わったか」と質問。首相は「日々、成長している」と答えた。どう変わったのかと問われると「戦後70年の安倍談話の通り、未来の世代に責任を負わせてはならない思いだ」と語った。
 村山談話についての認識も問われた。首相は2005年、月刊誌「正論」で村山談話について「この不見識な見解をこのまま放置するならば、『犯罪国家の国民』として子孫を縛りつけることになる」と批判。さらに党政調会長だった13年、「侵略という文言を入れているのはしっくりきていない」と否定的な考えを示していた。
 この日、辻元氏から村山談話を継承するかと問われ、首相は「歴代内閣の立場は今後も揺るぎない。村山談話も当然含まれる」と語った。(朝日新聞・2026/10/17)

 《首相は2005年、月刊誌「正論」で村山談話について「この不見識な見解をこのまま放置するならば、『犯罪国家の国民』として子孫を縛りつけることになる」と批判。さらに党政調会長だった13年、「侵略という文言を入れているのはしっくりきていない」と否定的な考えを示していた。》(上掲・朝日新聞)このような「昔の発言」をどうこう言われても、「私の二十年前の発言には責任を取れない」とでもいうのでしょうか。更迭された大臣が「一議員時代の発言には、ここ(大臣の立場》でコメントはできない」という、虚仮の一念のような「愚論」を繰り返したが、それと同日の段。「(虚仮とは)思慮の浅いこと。愚かなこと。また、その人」(デジタル大辞泉)一晩寝たのだから、前日の「言動」には「責任」は取れないと、どの口が言うのだろうか。「歴史」に対する無知・無感覚・無神経が、どれほど恐ろしいか、日を見るより明らかです。「過去」についての意識を持たない人間と、ぼくたちはいかに付き合うか、その困難ささを痛感するのです。もっというなら、「約束」できない人間の無責任さにどんな態度がとれるのでしょうか。(いうも愚かですが、一人の非政治的人間の政治的発言です。致し方なく「発言している」と弁解めきますが)

 「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(村山内閣総理大臣談話)


 先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。(平成7年8月15日)

⁂ 怪誕不経(かいたんふけい)=「奇怪なでたらめ。(「誕」は嘘の意)」(デジタル大辞泉)つまりは出鱈目で、常軌を逸すること    ⁂ 詭計多端(きけいたたん)= 「人をだまし、おとしいれようとする計略。偽計」(デジタル大辞泉)人をだます計略をたくさんもっていること

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言うに事欠いて、粗忽な言い訳の羅列

 天の川に見守られ 高知県土佐町―ぽとり秋色
 
 月明かりのない澄んだ夜空に、天の川がきらめいている。無数の星の下で、棚田の輪郭がぼんやりと浮かび上がった。
 地平線付近より上にある、肉眼で見える星の数は約3千個とか。はるか昔に放たれ、今夜届いた小さな光が稲穂を照らしている。
 標高400~500メートルにある土佐町高須の棚田は稲刈りの真っ最中。田んぼは黄色から土の色に少しずつ置き換わっていく。
 西から延びた天の川は、天頂付近を通って反対の東へ。棚田の営みを見守るように、巨大なアーチをつくっていた。(森本敦士)(高知新聞・2026/10/16)(ヘッダー写真も)

(右写真「約900メートルにわたってコスモスが咲き誇る鳥取県岩美町浦富の「コスモスロード」が見頃を迎えている。ピンク色や白色の花が秋風に揺れ、散歩に訪れた人たちの目を楽しませている。10月下旬まで」日本海新聞・2026/10/16)                      (写真左下「500万本のコスモスが咲き誇る 秋風に揺れる色とりどりの花が見ごろ 約7ヘクタールに広がる兵庫県内最大級のコスモス園 兵庫・丹波市」関西テレビ・2026/10/11)

 例年であれば、拙宅から遠くない箇所で、いくらも見られるコスモスの花盛り。秋風に揺れ、秋雨に濡れて、なお凛とした姿を崩さない、この植物の強靭さ。日本原産ではありませんが、ぼくの好きな花の上位に今も位置しています。本日の「ヘッダー写真」は土佐の高須の街の上空。「標高400~500メートルにある土佐町高須の棚田は稲刈りの真っ最中。田んぼは黄色から土の色に少しずつ置き換わっていく」(高知新聞)

 「天高く、馬肥ゆる秋」でしょうか。「秋の夜長を鳴き通す」多くの蟲の声」にも季節の移り変わりを教えられています。

 年にほんの数回、拙宅上空でも「天の川」を見ることはある。しかし、これほどあからさまにくっきりと見えることはまずないのは、房総半島の真ん中にある、きわめて低い山の上だといっても、空気は汚染されているということでしょう。何枚かの、この数日に間に撮影された写真に、心を洗われています。土佐町の地には棚田の稲穂、天には澄み渡った夜空の「天の川(milky way)」、何んともしんみり感傷的になりそうですが、なかなか、そういうわけには行かないのは、心中心穏やかならぬ「杞憂」が蟠(わだかま)っているからでしょうか。杞憂という語。古代中国で、杞の国の人が、あまりの心配事に天が崩れ落ちるのではないかと憂慮したという、それほど大袈裟に「心配する必要のないことをあれこれ心配すること。取り越し苦労。杞人の憂え」(デジタル大辞泉)を指します。

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 小生の「心配事」は地震が来るのではないか(昨日昼過ぎ、こんな山中の一軒家にも、どこかでけたたましく鳴り続ける「緊急地震速報」の音、慌ててネットの情報を調べたが、要領を得ませんでした。直後にそれは誤報だとわかる)、集中豪雨に振られるのではないか、猫が帰ってこない等々、まるで心配しても始まらない、あるいはつまらないことばかりですが、それでも心の憂さを重くすることには違いありません。そして、よせばいいのに、国会中継を見てしまい、さらに「杞憂」は重くなるばかりです。

 日本の首相が先進国首脳会議(10月2日)を「ずる」して「さぼった」という事件。理由は、「当日急に日程が設定された」と(SNS)で嘘をつき、実はオンライン会議に参加するための「器機の準備」が間に合わなかったと(嘘を)いう。主催国のフランスは、早くから、会議開催の通知をしていたのに、彼女は初めから出る気がなかったがための「虚言」でした。「首脳会議」に出るのが「首脳」なにの、「代理出席が華」だったから、出てもらったという。「高市早苗首相は16日の参院予算委員会で、先進7カ国(G7)首脳による2日夜のテレビ会議を欠席した理由について説明した。会議の開催時間が直前まで分からず、回線の接続、設定のために業者を手配するには時間が間に合わなかったと強調。「米国と欧州の間の問題だったので、代理出席でいいという話を受けた」とも語った」(時事通信・2026/10/16)

 G7は、何かと異論はあろうが、今のところ政治経済を議論する「外交」上の「世界の真ん中」で、その真ん中で「咲き誇りたい」と、一年前には狼煙を上げたのに、今ではすっかり「怖気づいて」、あろうことか「ずる休み」、質の悪い「登校拒否」みたいなものか。要は、自分が世界で相手にされないことを知ってしまったから、自業自得でしたが、だったらば、首相をお辞めなさいなと、ぼくはいいたいね。

 農水大臣を庇(かば)い続けたのも「わたしのやなちゃん」だったからですが、火の粉が自分に振りかかりそうになると、あっさりと「首を切る(更迭)」という醜い態度を世間に晒しました。「更迭した」のに「辞表を受け取った」と偽装する性悪さですね。あれもこれもと、危機管理能力に著しく欠けると問われて、「高市早苗首相は16日の参院予算委員会で、自身の危機管理を巡り『24時間、常に公用のスマートフォンをそばに置き、夜は最大音量にして横になっている』とアピールした。『危機管理には私は力を入れている』とも主張した」(時事通信・2026/10/16)これが首相のありのまま。「(道路予算を削ったという農水大臣の)発言は本当に不適切で、本当にダサい」と。当たり前の感受性(常識)も能力(判断力)もない人間が総理の椅子に座っている、これが杞憂でなくてなんとする、そんな心境に、ぼくはあります。「信なくば立たず」と、この人もいう。あなたが行う政治に国民が信頼を置いていない・置かないなら、国は立ちいかない・立ちいっていない、そういう事情を知ってか知らずか、目もくれないで、あらぬことを口走る。

 「私は女性だから、男性よりもお化粧するのに時間がかかる」とか。「『朝は入浴し、朝食の支度と後片付けをし、化粧も。男性の首相より3~4時間余分に時間を使っているかもしれない』。首相が14日の衆院予算委員会で、国会での長時間に及ぶ審議の負担を問われ、『国家像について腰を据えて戦略的に考える時間を取るのは簡単ではない』と吐露した」(時事通信・2026/10/14)一連の「破廉恥な発言」は、よく言えば、「懸命に仕事に励んでいる」という「弁明・弁解」であるし、悪く言えば「そういう屁理屈を言わねば、自分の頑張りぶりを主張できないという焦り(アリバイ作り)」という、この人の嘘と強情がもたらしている「偽装人生」のいくばくかの発現だったと思う。「世界で通用しない」から「内弁慶」でやり過ごそうとするのでしょうけれど、いくら何でも(化けの皮・厚化粧)」が剥がれているんじゃないですか。言うに事欠いて、まさに「寝言」の羅列に聞こえますね、ぼくには。一刻も早くお辞めなさるがいい。現状の言動は「正気の沙汰ではない(This is utterly insane.)」と断言しておきます。

 (蛇足1 これがボクシングなら、完全に「TKO」でしょう。あるいは「KO」寸前です。見ていて気の毒だし、言い訳のオンパレードでは醜さしか見えてきません。誰か、「タオルを投げ入れて(throw in the towel)」と、いいたくなります。それでも辞めないと、人命にかかわる。ここでこそ、危機管理能力を受け見ながらも示すべきです)(蛇足2 タイトルに「粗忽な言い訳」と表現しました。「粗忽=そ‐こつ【粗×忽/×楚×忽】[名・形動]1軽はずみなこと。そそっかしいこと。また、そのさま。軽率。2不注意なために引き起こしたあやまち。そそう。3唐突でぶしつけなこと。失礼なこと。また、そのさま」(デジタル大辞泉)そのことごとくに、首相の場合は「弁解」やら「言い訳」やら。きつく詰(なじ)られると「即座にキレる」、というおまけつき)

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腐っても国会議員です、という矜持

【新生面】「信なくば立たず」 弟子が政治の要を質問すると、孔子は軍備と食と信頼であると答えた。そのうち、どうしても諦めないといけないとなればどれか、と重ねて尋ねられ、まず挙げたのは軍備、次に食、一番大事なのは為政者への民の信頼で、これがなければ国は成り立たない、と。論語にある成句「信なくば立たず」の由来である▼その要の上位二つ、食をつかさどる大臣の信頼失墜だから当然の措置だろう。予算カット発言をした簗和生農相が更迭された▼なお気になるのは、これをただの失言劇として幕引きしようとする思惑が見えることだ。国会で高市早苗首相は「何もしていないのに、地元で自分を大きく見せようとした」と簗氏を評したが、発言対象となった自治体は実際に予算が減った。当然、何かした結果と疑われる▼簗氏は自民党の派閥裏金事件で処分歴がある。首相は「2回の選挙を通じ、有権者から国政に送り出してもらった」と閣僚起用は問題ないとしていたが、先の衆院選では比例復活だった。地元から十分な信任を受けていたわけではない▼内閣改造直後の全国世論調査でも「裏金閣僚は不適切」との回答が66%を占めた。首相は2月の施政方針演説で「政治への信頼回復」を掲げていたのに、今国会の所信表明演説では言及しなかった▼「政策転換を前に、皆さまに信を問うべきと考えた。『信なくば立たず』だ」と、踏み切った解散で大勝を得た。その結果を過信し、くすぶっていた政治不信を軽視したことが、今回の問題の背景ではないか。(熊本日日新聞・2026/10/16)

 「信なくば立たず(Without the trust of the people, there can be no government.)」人が人を信じられなければ、そこに望ましい人間関係が成り立つはずもないでしょう。当たり前に過ぎます。親子の関係、教師と生徒との関係、もちろん、友だち同士との仲においても、この「信」「信頼」が醸し出されなければ、ただの人と人の集まり。まるで、交差点で信号待ちしている群衆・集団のような、通い合うものがない他人同士です。この「信」は、もちろん中国儒教のもっとも重要な道徳価値で、あえて一言で言い表すなら「うそのないこと。まこと。誠実」という、ある種の人間関係を結ぶ潤滑油、あるいは、できるだけ摩擦をとり除く「仲立ち」となる空気のようなものでしょう。たがいに、その関係に流れる、信頼できる「空気」のようなものとも言っていいでしょう。

 ところが、この言葉ほど多くの政治家に好かれているものはないでしょう。それだけ「国民に信頼されていない」ことをだれよりも知っているからであり、この言葉はとても「口当たり」(「耳障り」ですね、ぼくには)がいいというか、誰でも遣い勝手がいいのでしょうね。金はかからないし、覚える厄介もない。しかし、その「真意」「中身」は想像以上に深く、内容まではよくわからない、わかっていないといっておきます。おそらく、望ましい、「あるべき政治」を語ろうとするような政治家なら、猫も杓子もこの言葉を引用します。政治家が何よりも好きなのは「お金」でしょうけれど、その次にこの言葉が来るほどに、誰彼なしに使っています。。ほとんどの政治家(だと自分で思いこんでいる者)は例外なく、「信なくば立たず」というが、その意味を体現したり、十分に意を汲んでいる政治家はまずいないんじゃないでしょうか。自分は他人から「信頼されている」と、思い込まなければ「私は政治家です」とは、恥ずかしくて言えないでしょう。

 どういうことでしょう。今風にとらえなおすなら、国民の信頼が得られないような政治なら、国そのものが成り立っていかない、そういうことでしょう。この国の現状を見れば、まさに「信なくば立たず」(「信がないから、国はうまくいっていない)であることは、どんなに馬鹿な人間でも(ぼくでさえも)わかろうというもの。しかし、この言葉を乱用する政治家は、たぶん、国は成り立っていると、国民の信頼を得ていると思い込んでいる・勘違いしているのではないでしょうか。そんな国民の政治への信頼を壊しているのが、ある特定の政治家、例えば「Y大臣」だったりなどと、そんな程度の考えでいるから、不心得者さえ切って捨てれば、国民の信頼は回復すると錯覚するのでしょう。「政治不信」は「政治家不信」であり、政治に従事する「人間不信」そのものを示しているでしょう。

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 本日の熊日のコラム「新生面」がとても秀逸だと読んだのは、単純に「愚かな大臣の首を挿げ替えたから」、一件落着とはせず、そんな大臣に重責を担わせた軽薄な存在(首相)にも物申す、記者(コラムニスト)のはっきりとした姿勢が見られたからでした。❶「予算カット発言をした簗和生農相が更迭された」❷「気になるのは、これをただの失言劇として幕引きしようとする思惑が見えることだ」➌「高市早苗首相は『何もしていないのに、地元で自分を大きく見せようとした』と簗氏を評した」❹「発言対象となった自治体は実際に予算が減った」❺「簗氏は自民党の派閥裏金事件で処分歴がある」❻「首相は『2回の選挙を通じ、有権者から国政に送り出してもらった』と閣僚起用は問題ないとしていた」❼「先の衆院選では比例復活だった。地元から十分な信任を受けていたわけではない」➑「内閣改造直後の全国世論調査でも「裏金閣僚は不適切」との回答が66%を占めた」➒首相は2月の施政方針演説で『政治への信頼回復』を掲げていたのに、今国会の所信表明演説では言及しなかった」と、「信なくば立たず」という状況を地震が体現してきた、いくつもの「前科」がありました。きりがないのでいちいちを挙げませんけれど、数々の不適切な政治判断・言動をほしいままにしてきたのは、当の総理大臣だった。国民の意向を、ことごとく裏切ってきた人でした。しかるに、国民もおめでたいのであって、「裏切られている」という自覚がなさすぎるのです。

 口を開けば、「任命責任(responsibility for the appointment)は重く受け止める」と軽々しく言って、受け止めないで流すだけです。言った尻から、口を拭う。「《盗み食いの後、口をふいて素知らぬ顔をする意から》何か悪いことをしていながら素知らぬふりをする。また、知っていながら知らないふりをする」(デジタル大辞泉)という厚顔無恥ぶりはどうでしょう。「私のやなちゃん」「私の知恵袋」を公言・多言していて、辞めさせる気は毛頭なかった。黙っていれば事は終わると、実に主権者を舐め切ったた態度に終始していた。それが一転、自分の判断に対して世論の風向きが変わる、自分に形勢不利となると、手の平を返したように「(予算カット発言が)事実であるとしたら本当に不適切なもので本当にダサいと思います」と、前言を翻し、「私のやなちゃん」を突き放したのでした。 「事実であるなら」とあいまいな表現を使っているものの、「事実」だから当の大臣は憔悴しているにもかかわらず、「お鉢」が自分に回ってこないような、用心することには長(た)けているのだ。信頼もへちまもない、利用できなくなれば切って捨てる、実に薄情の鉄面皮でした。「恥知らずで、厚かましいこと。また、その人や、そのさま。厚顔」(デジタル大辞泉)と、辞書そのものを体得している人物でした。

 子貢問政。子曰、足食、足兵、民信之矣。子貢曰、必不得已而去、於斯三者何先。曰、去兵。子貢曰、必不得已而去、於斯二者何先。曰、去食。自古皆有死。民無信不立(「論語」「顔淵第十二7」)

 (子貢政を問ふ。子曰く、食を足し、兵を足し、民之を信にすと。子貢曰く、必ず已むことを得ずして去らば、斯の三者に於て何をか先にせんと。曰く、兵を去らんと。子貢曰く、必ず已むことを得ずして去らば、斯の二者に於て何をか先にせんと。曰く、食を去らん。古より皆死有り。民信無くんば立たずと。)

 国を守り、食量を確保することは大事なことですが、どんな人間だって死を免れることができないのです。だとするなら、軍備よりも食糧よりも、何よりも「民の信頼」こそが政治にとって、政治家にとって大切なものではないかと、師(孔子)は語られた、これは単に政治家個人の資質や能力の重要性を指摘したのではなく、一国の人民が政治・政治家に信頼を置かないようでは、その国は治まらないと言ったのであって、支持率がどれだけあろうが、政治家がどれほどのパフォーマンスを示そうが、その国では犯罪が絶えない、地域社会が壊れる、人間同士の関係がうまく成立しない、それこそが、政治に信頼がないという証しではないでしょうか。

 何度も引用した「鼓腹撃壌」という話。もちろん、それは「神話」「(伝説)の類です。でも、少なくとも善政・悪政の区別は言い当てているし、その「哲学」をぼくたちは失うべきではないと思っているのです。いわば、政治哲学であり、政治実践の鏡のような逸話です。

 「日出而作、日入而息。鑿井而飲、耕田食。帝力何有於我哉」

 ◎ こふく‐げきじょう‥ゲキジャウ【鼓腹撃壌】= 〘 名詞 〙 ( 中国、堯帝の時、一老人が腹鼓(はらつづみ)をうち、大地をたたいて歌い、堯の徳をたたえたという「帝王世紀」などにみえる故事から ) 政治がゆきとどき、人々が太平を楽しむさま。[初出の実例]「鼓腹撃壌之民、舞二於紫陌一」(出典:経国集(827)二〇)[その他の文献]〔十八史略‐五帝・帝堯陶唐氏〕(精選版 日本国語大辞典)

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 現首相はしばしば「これは私の矜持(きょうじ)」という表現を用いる。その語意は「《慣用読みで「きんじ」とも》自分のの能力を優れたものとして誇る気持ち。自負。プライド」(デジタル大辞泉)とある。どんな人だって「自負心(pride)」がなければ生きることは困難になるでしょうが、この首相程度の人間が、ことさらに「矜持」「矜持」と強弁すると、嘘くさく思われるし、底が浅いと感じてしまう、つまりは「お里が知れる(thoughtless)」、まさかの無知が透けて見えるのです。加えてこの人の賢明でないところは「間違いを認めない」「決して謝ろうとはしない」「嘘を吐(つ)くことを政治信条にしている」という、見たくないところばかりが見え見えです。「君は愚かだ」と、首に鈴をつける人もいないし、いたとしてもそれを受け入れないでしょう。それほどに厄介な、「独りよがり(Self-centered)」の御仁です。

 今回の問題は、けっして一人の「暴言大臣」云々の話ではないことはだれにもわかるでしょう。しばしば、彼女の支持率の高さが言われます。でも、彼女に会ったことも見たこともない人間たちが、あの人は「いい、悪い」「好き、嫌い」といって、さて、アイドル選びの人気投票にはなるでしょうが、まるでその昔の天気予報、あるいは八卦見(はっけみ)で、当たるも八卦、当たらぬも八卦です。そんなものに、政治家もぼくたちも振り回される必要はないのではないですか。それこそ、「ダメなものはダメ」というしかない事柄でしょう。この手の胡散臭い人間に「国を盗られた」としたら、やはり、その程度の「国民」にふさわしい、似合った「首相」ということになるでしょう。<A prime minister who is in line with the level of the people>それもまた、デモクラシーのもたらす政治と政治家の姿でしょう。

 かくして政治は地に堕ち、政道は廃れる。政治家はいるけれども、利権や地位や金に恋々、この国の実情を憂える人民の心が休まるときはまず訪れないようです。「痩せても枯れても(どんなに落ちぶれようとも、いかに衰えても)、私は国会議員(代議士)である」「腐っても政治家だ」という「矜持」「職業倫理」、それこそ「五分の魂」を堅持している人材はどこかにいるのでしょうか。いないのでしょうか。

 (*蛇足 「嘘つけ」といわれそうですが、ぼくは元来が「非政治的人間」だと思ってきました。でも、あまりにもひどい現実の政治が、ぼく自身の私的な部分に侵入してくるなら、それを払いのけることぐらいはします。今日の政治状況はどうでしょう。「税金」を勝手に右し左するという政治ゴロが横溢・横行しているなら、それに無関心ではいられない、ただそれだけの理由で、政治談議を繰り返しているというお粗末さです。ご寛恕を願う次第)

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行政がより不安をあおっていいのか

 〈ニュースあなた発〉

 「アケロー、アケロー、アケロー」「あけろ!あけろよ~!」「アクベシ!アクベシ!」「やばいやばいやばい」──。東京都文京区が発送した国民健康保険料の督促状を入れた封筒に、これでもかと目を引く言葉が並ぶ。受け取った40代の自営業男性から「不快だし、不安をあおられる。なぜこんな封筒になったのか調べてほしい」と東京新聞に依頼が寄せられた。文京区がデザインに込めた意図とは──。(小倉貞俊、写真も)
◆「行政がより不安をあおっていいのか」
 男性は個人で飲食店を営んでいる。納付期限に間に合わず、9月下旬にこの封筒が自宅に届いた。「(動画上に視聴者のコメントが流れる)ニコニコ動画の画面のようなデザインで『何?』と思わず目を疑った」
文京区から男性に届いた督促状の封筒。「あけろ!あけろよ~!」などの文字が所狭しと並ぶ
 半年前に届いた封筒には多数の「目」が描かれ、過去には時限爆弾を思わせる絵柄もあったという。「奇抜にして、他の郵便物に紛れないようにするためだとは分かる」とした上で、「でも、本当に生活に困窮している人や、精神的に追い詰められている人も多い。行政がより不安をあおっていいのか」といぶかしむ。
 区国保年金課に聞くと、目立つ封筒を使い始めたのは2019年という。2015年からカラフルな封筒を取り入れていた区税務課を参考にした。担当者は「督促状を見落とし、延滞金や財産の差し押さえにつながらないよう、目にとめてもらいたかった」と狙いを話す。
 国民健康保険料の滞納 納付期限の翌日から延滞金が発生する。法律上、督促状を発した日から10日を経過した日までに完納しない場合、差し押さえなどの滞納処分の対象となる。事情に応じて分割納付や猶予などの制度もあり、実際の差し押さえは滞納者の経済状況や納付相談の状況なども踏まえて行われる。(以下略)(ヘッダー写真も「文京区から男性に届いた督促状の封筒。「あけろ!あけろよ~!」などの文字が所狭しと並ぶ)(東京新聞・2026/10/14)

 劣島の頽落(たいらく)は急かつ深となって進行しているようです。これは一例ですので、他の自治体にも同じように、目を覆いたくなるような、穴があったら入りたくなるような、「荒唐無稽(こうとうむけい)」な行政事務に事欠かないし、かかる「荒唐無稽(「言動に根拠がなく、現実味のないこと。また、そのさま」デジタル大辞泉)を生み出している吏員は、たぶん、「最高学府」という名のつく教育機関で「最低教育」を享受してきたのではないでしょうか。その昔、ぼくは「最高学府」に入るために上京し、「最低教育」に呻吟しつつ、その貴重な十年間を文京区本郷で棲息(生息・栖息)していたことがあります。区役所までは徒歩何分でした。柔道の講道館も野球の後楽園球場も遊園地まで、その一角には隣接していました。もと水戸藩邸の跡地でした。

 当時はそれほどに愚かしい区制が敷かれていたとは思わなかったが、ぼくが住んでいた家宅の大家が歯科医兼文京区議だったので、「おやおや」という気分を味わったことがありました。家の前は旧帝国大学で、先ごろ次期学長に、投票結果が2位だった女性が多くの応援団の支持を得て「ガラスの天井」を破ってもらい、今もなお、その「正当性」をめぐって揉めているのですから、そんなところか、という想いも強くあります。その隣には本藤署もあり、若い日、ぼくは世話に(なりたくなかったが)なったこともある。それにしても、役所は、何を血迷って、こんな文書を作り、しかも、税金を使ってまでして、該当者に配達するんでしょうか。「役者馬鹿」という表現はいい意味で使われていましたが、ここでは、正真正銘の「役所馬鹿」といいたくなりませんか。

 国民健康保険料の督促状を送りつけるような「輩」は、まともでもなければろくでもない、人間の屑とでも考えていなければ、こんな破廉恥は行われるはずもないでしょう。ぼくは房総半島の山の中から、また「問い合わせの電話」(あるいはメール)を出す羽目になっているのです。このような悪態をつく、あるいは罵詈雑言に当たるような添え書きを付した封筒を投函した役所の吏員には何の「お咎め」もないのでしょうか。この耳で聞いてみなければ。付言するなら、かかる封筒をもらって驚いた人に対して、「文句を言うな」「お前が保険料を納めないから、こうなるんだ」という、役所の能天気たちを応援・支持する「夜郎自大(やろうじだい)」の輩も確実にいるのです。「夜郎」とは漢の時代、その西南地方にいた異民族を指す。「《昔、夜郎が漢の強さを知らずに自分の勢力を誇ったところから》自分の力量を知らずにいばること。また、そのさま。夜郎大」(デジタル大辞泉)思い付きでいうのですけれど、ぼくの見立てでは、役所(親方・日の丸)を背中に背負って、市民に難癖をつけ、まるで「虫けら」(弱者)のごとくに扱うその姿、またその吏員の思慮の欠けた暴力を、大声で応援する輩たちも、これもまた、「夜郎自大」であるというほかありません。「虎の威を借る狐」なんでしょうか。

 この国や社会が、とてつもなくはげしく堕落頽廃している「現実」を、ぼくは嘆くのでも無関心になっているのでもありません。大なり小なり、この「夜郎自大」が闊歩してまき散らす「埃(ほこり)」もあるいは時には「火の粉」も、ぼくごとき山中の住人にも降りかかってくる。だまって身に降りかかるままにされる、謂(い)われはないのです。「一寸の虫にも五分の魂」みたいな、誇りを持っていたいもの。(役所からの「督促状」、まるで左の張り紙のような気持ち悪さがありませんか)

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えっ、こんなことで驚くんですか

 定期試験で「替え玉」、金銭授受も発覚 大学が懲戒処分し、注意喚起

山梨学院大学(甲府市)が学生らに対して、他人になりすまして授業や定期試験を受ける「替え玉」行為への注意を促すメールを送っていたことがわかった。学生間で金銭の授受もあったとして、規定に基づき懲戒処分を行ったとしている。
 大学側が10月7日付で送ったメールによると、今年度に入り、替え玉行為が複数確認されたという。「極めて悪質な学業不正であることを強く認識し、依頼することはもちろん、友人から打診されても絶対に引き受けないように」と学生に注意を呼びかけている。
 関係者によると、注意喚起のメールは、日本語のほか、英語と中国語でも配信されたという。朝日新聞は山梨学院大にメールの内容や不正行為の詳細について問い合わせたが、広報担当者は「本件については、回答を差し控える。お答えできる内容はない」などとコメントした。(ヘッダー写真「大学が学生に送った注意喚起のメール」も)(朝日新聞・2026/10/14)

 政治や政治家の「現実」を見ていると、もはや手の施しようはないのだと、一人の主権者でもあるぼくは「諦念(諦めの境地)」とも「お手上げ」とも「観念」とも「辟易」とも「降参」とも感じるし、あるいは「慨嘆(憂い嘆くこと)」し、「慷慨( 悪い風潮・不正の横行を怒り嘆くこと)」し、そして今では、そんな感情を通り越して、なるようになれ、好きにするがいいと思うことにしています。それほどに、「政治」や「政治家」の性悪さは「堂に入る(見上げた)」」ものだということでしょう。よくもこれほどと、その「立派さ」をほめたたえる気はありませんが、いうならば「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」なんですな。「同類のすることは、その方面の者にはすぐわかるというたとえ」(デジタル大辞泉)ということです。余りにも「蛇の道」が多すぎる社会ですかね、劣島は。

 そして今また、ある一つの私立大学の「学生諸君へ」の「注意喚起」でした。その心は「もっとうまくやりなさい」という忠告・指示だったかもしれないと、ぼくなどは勘ぐってしまいます。何を今更、という想いもあるし、わかってはいたが、これほど酷(ひど)いとはという「大学側の驚愕と、優しい決意」の表れだったかもしれません。こんなことを言えば、非難囂々(ごうごう)かもしれませんが、今どき、学生は「真摯」「誠実」「素直」(であれ)などと考える人はいないでしょうし、一度学生時代を経験をした人なら、その「実際の姿」は火を見るよりも明らかです。「誰だってやってるじゃん」「そんなことに目くじらを立てるのは、ダサすぎるさ」とでも言っておきましょうか。ことはY学院だけのことではなく、単に「右代表」として報じられたのでしょう。(それにしても、これで卒業までに要する授業料等は数百万円に上るでしょう。この痴愚・痴態を見ていると、「大学は「失業対策事業か」と勘違いしてしまいそうです)

 とんでもないことを駄弁っていると受け取られそうですが、そうではありません。大学側も、「学生の所業」を認めているのです。今回は目に余っただけという話でしょう。「極めて悪質な学業不正であることを強く認識し、依頼することはもちろん、友人から打診されても絶対に引き受けないように」と忠告していますが、考えようによっては「そこそこの、あるいは良質な学業不正ならば大いに行うべし」と奨励しているようにも思われます。まさに「交通違反者」の撲滅を口にはするけれど、そんなことはあり得ない相談と、それこそ、「諦念」している「警察・公安委員会」のような立場に置かれているのじゃないでしょうか、大学は。新聞社が大学に問い合わせたのに「本件については、回答を差し控える。お答えできる内容はない」という返答だったという。理解できないですね。「お応えできる内容はない」というのは、よほどの悪辣な所業だったか、どこでも行われている「通常の悪行」だったが、学生の大半、あるいは大学自体もかかわっていたというのかもしれません。

 ぼくは半世紀近くも教師の真似事をしていましたから、こんな惨憺たる状況は嫌になるほど知っていましたし、今だって、大学や学生の(つまりは、大学という、一つの世間の)体質はいささかも変わっていないことも確信しています。昔からいうでしょう、「勝てば官軍、負ければ賊軍(最終的に勝った(評価された)方が正義になる)」と。これは日本社会の「醇風美俗」に類することでしょう。「何が何でも勝たねばならぬ」とされる生き方の推奨です。「(醇風美俗とは)すなおで人情の厚い、美しい風俗・風習」(デジタル大辞泉)とされます。外国人がこの国や社会の美点に驚嘆するのも「相互扶助」「相身互い身」という、助け合いの精神でした。「情けは人の為ならず」とも言います。困った人、助けを求める人がいれば、やれる・できる範囲で「助ける」「手を貸す」ということです。この日常的行為に「金銭」が絡むと政治になります。政治は無償の行為ではないからです。

 あまたある大学から「学生による不正」を追放するとどうなるか、確実に「学生不在」、大学は「無人の荒野」になること請け合いです。今はどうか知りませんが、ぼくが勤め人をしていたころ、多くの教師は授業を面倒な業務と考えていたと思われ(これで授業をしなければ、「ここは天国」だ)、至る所で「休講掲示板」が林立していました。授業を休む(さぼる)教師が多すぎるので、その名を一覧で掲示していました。中には「無断でさぼる」無礼者もいた。学生の学業不正を詰(なじ)る、譴責(けんせき)する前に、給料を取っている教師の「怠業」「泥棒行為」をこそ、戒めなければならないと、ぼくは若いころは悲憤していましたけれど、途中からは諦めて、我が道を歩くことに徹底しました。「他人は他人、自分は自分」と。

 「学業不正」とは。代返・代筆・カンニング・替え玉受験その他、無数にあるでしょう。それぞれに「金」が絡むのが目に余ったのがY学院だったということでしょうか。でも他の大学はどうでしょう。目に余りはしないが、耳にも鼻にも余っているかもしれないが、大学は大様に構え、お目こぼしをしているのではないでしょうか。「それが大学というところだ」と、ね。少子化の波をもろにかぶっている大学は枚挙にいとまなしで、学生定員の2割3割の充足率がやっとのところもあれば、早々と閉鎖を決めたところも数多あります。ぼくは三十年以上も前から、「大学の役割は終わった」といい続けていました。大学というところは「学業(授業など)」本位だと思っていたら、いつのまにか「学業不正」が主流になったということなんですね。

 この社会の学校教育は、それこそ粒粒辛苦して、喘ぎあえぎしながら、結局は、今あるような殺伐とした、あるいは腐敗堕落の巣窟のような学舎状況に至りました。ここから立ち直るのは並大抵の努力や精進では間に合わない気もします。これは老人の愚痴にも聞こえるでしょうし、偏見の塊に見えるでしょう。でも、現実に「学校は死んでいる(School is dead.)」というほかない事態が至る所に現れているのですから、愚痴であろうが偏見であろうが、一片の心理(蓋然性)をついているように、ぼくは勝手に考えている。「君は大学に行ったのに、どうしてそんなに賢いのか?」という人間が存在するのは奇跡のようだし。「あなたは大学に行かなかったのに、どうしてそんなに愚かなの?」といいたくなる人間が多すぎるのも、この国や社会の学校教育のしからしむるところ(当然の帰結)かもしれません。

(追記 前日は成しました都内公立小学校勤務の女性教員が校長の「セクハラ・パワハラ」に困って、小生に「相談」のメールを送ってきた件。昨夜、電話で話をし、とりあえずは、断固、「校長の非行」を許さないと、当の人間(校長)に言い続けること、その傍らで、いくつかの作戦を立てるという話になりました。はっきりした「決着」はまだですが、「付きまとい」は止んでいるらしい。教委に申請した「転任願い」について、教委は「申請理由が『病気』なら認める」とさ。「校長のセクハラ容疑」では何の都合が悪いんでしょうか。「体面(appearance)」かな。仲間を切るに忍びないというのかしらね。ここにも「ダサい連」が屯(たむろ)しているんだな)

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校長先生、そんなんでいいんですか

 教員不祥事に専門知見活用 心理的特性に着目、横浜 

 教員による児童生徒への盗撮や性暴力などの不祥事が全国で後を絶たない。横浜市教育委員会はこれに歯止めをかけようと、行動経済学に基づいた対策に取り組んでいる。人間の心理的な特性に着目した「ナッジ」と呼ばれる知見を、専門家の助言も受けて活用。自治体の不祥事対策に取り入れる例は珍しいという。(共同通信=桂田さくら)
 ナッジは「軽く肘でつつく」「背中をちょっと押す」といった意味の英語。そこから派生し、自発的に望ましい行動を選択できるように環境や情報提供を工夫して後押しする手法を指す。/すぐ忘れる人間の特性を踏まえ、教員のパソコンに「あなたの『気づく力』が、子どもを守ります」などのメッセージを定期的に表示。自分で決めたルールは守りたくなる心理を利用し、教員自らが考えた文言で、子どもと向き合う姿勢を宣言するポスターを学校内に掲示している。
 横浜市に助言した大阪大の大竹文雄特任教授(行動経済学)は、不適切行為をしないよう文書で通知する従来の対応は効果が薄いと指摘。「分かっていてもやってしまうのが一番の問題。自ら宣言することで、子どもたちの視線を意識するのは効果的だ」と語る。
 横浜市教委では2024年、教員の性加害事件公判で組織的な傍聴妨害が発覚。2025年には教員グループの盗撮画像共有事件で市立小の教員が逮捕された。相次ぐ深刻な不祥事を受け、組織体制を強化するとともに、ナッジの活用を決めた。/新設された法務ガバナンス室の原田智室長は「さまざまな知見を生かしながら、ガバナンス強化に全力で取り組む」と期待を込めた。(共同通信・2026/10/11)(ヘッダー写真「教員のパソコンに定期的に表示されるメッセージの例(横浜市教育委員会提供」)(右下も)

 昨日の夕刻に、一通のメールがありました。開いてみたのはかなり時間がたってからでしたが、中身はなかなかに深刻にも思えました。担当していたゼミの卒業生で、都内の公立小学校の教師をしておられる人から。メールは私信でもありますので全文引用はできません。推して知るべしで、スケベな管理職の「パワハラ」「セクハラ」(まがいだろうと思うが)に該当するような「事件・事故」に遭遇しているというものでした。「1学期末に校長のセクハラ寄りのパワハラ(LINEのアドレスをしつこく、最終的に校長室に呼び出して聞き出し、勤務時間外に連絡してくる)がありまして…」「大学時代から、先生(註 小生のこと)の下で人権について勉強してきたつもりだったので『ダメなことはダメ』だし、今後同じことで苦しむ人が出ないようにという気持ちで全力で戦っておりますが、校長の処分や改心にはほど遠い感じなので絶望しつつ自力での暴力などに訴えないよう、今後の気の持ちようをご教授いただけますと幸いです。」というようなことでした。簡単にメールで応答できる事柄でもないし、今晩でも電話をかけるということにして、少し時・間を置きました。

 「校長」は管理職であり、いろいろな理屈をつけて、「パワハラまがい」「セクハラまがい」をするのでしょう。メールの主は女性で、なかなかの「人物(頑固・負けず嫌い)」とぼくは見ていましたし、今回のメールにも、その性格ははっきりと表れていました。要するに、かかる事態に遭って、彼女はまさに「八方塞がり」だということです。相談すべき管理職が「屑」の助平ですし、これを校長にするくらいですから、教育委員会も真面目に対応するはずもないでしょう。訴えが事実なら、それは「個人の問題」「なかったことにしたい」という、例によって例のごとく、無責任。教員組合も、あってなきがごとし、です。

 さて、どうするか。訴えてきたのが卒業生ですから、まず「事実関係」をはっきりさせたい。数々の問題行動や発言のことごとを「記録・保存しておくこと」などは、昨日の段階で伝えておきました。事と次第では、大事になるかもしれませんし、場合によってはマスコミの知るところとなるかもしれない(「通報」するかもしれないと彼女は書いていました)。今年の四月に着任したばかりで、子どもとの関係は良好だという。着任早々に、こんな屑管理職に絡まれて、誠に気の毒の限りですが、彼女は、早々と「転任申請」を出したという。

 こんな腐った輩には「ナッジ」はいささかも効き目はないでしょう。「ひじでそっと突く」くらいで目を覚ますはずもないでしょうから、「肘鉄砲を喰らわす(to jab someone with one’s elbow)」くらいのことをしなければならない。彼女への応答も、その口です。辞表を書いて、洗いざらい公表して、直ちに辞職するのも手ですが、この「屑校長」には効き目はないかもしれませんし、逃げ出すのは負けることに等しいと、彼女なら判断するでしょう。「校長の処分や改心にはほど遠い感じなので絶望しつつ自力での暴力などに訴えないよう」、その方法(自制する方法)を教授してくれというお願いでしたから、前後を間違えれば「暴力沙汰」になるかも。それでもいいのですが、さて、どうしたものかと愚考しながら、今「駄文」を綴っている。「Kさんよ、そいつと面会する時は、いつだって握っている拳(こぶし)を開くんだよ」

◎ ナッジ(nudge)=行動科学などで、命令や強い注意などを用いずに、人々の自発的な行動を起こさせる手法のこと。例えば、「間隔を取って並べ」と指示しなくても、床に印をつけておけば、その印ごとに立とうとする意識が働き、自然に間隔を取った列ができる。[補説]原義は、人をひじで軽くつついて、そっと知らせること。(デジタル大辞泉) ◎ nudge1(nʌ́dʒ)[動]1 (他)(自)ひじでそっと突く,軽く押す;(人の)注意を引く;(ある状態などに)近づく.2 (他)〈人を〉(うまく言い含めて)(…に)もっていく≪in,into,toward≫.nudge nudge wink wink あれですよ,あれ(◆性的話題などをほのめかすときに用いる).━━[名]〔通例a ~〕(ひじで)そっと押すこと,軽い一突き.núdger[名] nudge2(nʌ́dʒ)[動](他)(自)(…に)うるさくせがむ,文句を言う.━━[名]口うるさい人,不平家.(「プログレッシブ英和中辞典(第5版)」)

 公表されている不祥事のほとんどは、教員と生徒との問題です。教員同士、あるいは管理職と教員との理不尽で道理に外れた関係はあまり明らかにされないのは、ぼくの勘繰りでは「もみ消し(示談を含む)」が横行しているからだと思っています。児童・生徒と教師の問題は、間に親たちも存在・介在しますから、簡単には「なかったことにはできない」でしょう。ぼくは、管理職(すべてが校長)と子どもの親との不倫問題や、同じ学校の教員へのセクハラ・パワハラの事例をいくつも知っています。当事者(教員)から、知らされたからでした。今回も、そのような一件・一例ではありますが、まるで、自分の問題のように腹が立ちます。(もちろん、メールでの訴えが事実であるかどうかを、最初に確認する必要があります。当然ですが、公益通報者保護法(制度)を適用すること、弁護士との相談は欠かせません)それにしても、日本の学校には問題がありすぎます。「問題群の中に学校がある」といいたいほどですな。

 数日前に都内で30年ぶりに遭った卒業生たちの中の一人も山梨県で、それこそ針の筵に座らされているような教師生活の「苦衷・苦悩」の実態を話されていました。授業内容のいちいちに干渉する、そんな校長や教頭がエラそうな振る舞いをしているようでは、ますます学校は死んでしまうでしょう。若いころに、米国の教師だった人の「学校は死んでいる」(原題が<School is Dead: An Alternative in Education>著者はエヴァレット・ライマー(Everett Reimer、1971年刊)、それを本当に熟読したことを覚えています。この手の学校教育批判本は、今に及んで、至る所で公刊されています。それほどに「学校教育」は「非人間教育」に特化しているという証明でもあるでしょう。メールをくれたKさんに相談されて、ぼくは十分に対応できるかどうか、まったく覚束(かくそく)はありません。(ライマーについては、早い段階でこの駄文録の中で触れています)

 「小人閑居して不善をなす(Idle hands do the devil’s work.)」すべてとは言いませんけれど、多くの管理職者は早い段階から、「子どもの教育・成長」に興味・関心を失うから、管理職(校長や教頭に)になりたがるんだと思う。授業・子ども、つまるところは教育が嫌いなんですよ、きっと。

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