* 私はあらゆる戦争に断固反対する!(I am resolutely opposed to all wars!)
* 米国政府は国際法・国連憲章に違反するイランへの攻撃を直ちに停止せよ!(The U.S. government must immediately cease its attacks on Iran, which violate international law and the UN Charter!)
* 日本政府は違法な侵略戦争を続ける米国の尻馬に乗るな!(The Japanese government must not ride on the coattails of the United States, which continues its illegal war of aggression!)(空爆開始・2026/02/28~米国が撤退するまで・????)
「喉元過ぎれば、熱さを忘れる(Once the danger is past, the pain is forgotten.)」といわれますが、自分の喉を通ったのではないから、熱さもへちまもあるものかと、「戦う宰相」を筆頭に、喜び勇んで(と思われる)アメリカの尻を舐(な)めているのです。考えるまでもなく、アメリカもまた、尾籠な趣味を持ったものだと思うばかり。「これ、日本よ!みっともないことは止めないか」と叱るならいざ知らず、舐められて、余計に気分が高揚しているのですから、「腐ってもアメリカ」というのですか? 世界の鼻つまみ者になっているうちはいいけれど、今では手当たり次第に「人殺し」を続ける、「狂気に支配された国(A nation ruled by madness)」になってしまった。どうしてでしょうか。
一人が狂えば、みんなが狂うという、それは本当なんですな(It’s really true that if one person goes mad, everyone goes mad.)。日本政府は武器輸出の原則を無にして、殺傷力のある武器を飯のタネにするという、これまた狂気の沙汰を演じています。国会審議・論議はどこに行ったのでしょう。狂い猛った内閣だけで物事を決めるという、独裁政権をだれが許したのか。有権者は「胸に」「頭に」手を置いて、篤と考える必要があります。もちろんぼくも、です。20年前、まだ「羹(あつもの)に懲(こ)りていた」時代、外務省は「武器の供給源とならず、武器の売買で利益を得ない」と殊勝なことを言っていた。さらにその30年も前に、時の外務大臣は「たとえ何がしかの外貨の黒字が稼げるとしても、我が国は兵器の輸出で金を稼ぐほど落ちぶれていない」 「もう少し高い理想を持った国として今後も続けていくべきなのだろう」(後の首相・宮澤喜一発言・1976年5月)と敗戦国の「矜持(五分の魂)」を持ち出していました。
ぼくは、この時代の「風潮」「トレンド」に水を差す気は毛頭ありませんけれど、人間が生み出したロボットが、驚くべき働きをするからといって、仰天はしない人間です。一度に大量の荷物を運びたいという人間の欲望は、驚異的な展開を示して、それこそ多様な「運搬機器類」を生み出しました。「必要は発明の母だ(Necessity is the mother of invention.)」というそうです。その時「父親」は誰だったか、父は何をしたのか、それが答えられてこなかった問題です。よく指摘されるのが、「偶然」が父だったという言説です。たまたま、偶然から「素晴らしい発明」が生まれた、「必要が偶然」とが「番(つがい)」になって、新たな発明が成就したとされる。あるいは「怠惰」が、「必要」に一目ぼれして、ついに新規の発明に導いたともいわれます。そうかもしれないし、そではないかもしれません。唐突に聞こえそうでしょうが、ぼくなら「人間が人間であることに耐えられなくなったから」とでも答えるでしょう。「便利」を求め、「不便」を目の敵にして、ついには「人間性」が破綻をきたしかけている、それが「ロボット横行の時代」なのでしょうか。
「人間の感情」は複雑怪奇です。ある人を「死ぬほど好きだ」といって、「死ぬ」のは自分ではないことが多いでしょ。「好きなのに、口では嫌いだ」といってしまうこともあります。これを「二律背反」現象と名付けたらどうでしょう。「させていただく」というのは表面のこと、内面では「しかたがない、やってやるよ」という場合が多いというのは、あまりいい傾向ではないですね。つまり、表現も人間も、できるだけ「角が立たない」ようにと、摩擦(friction)の少ない人間(社会)関係を望んでいるのでしょう。でも、摩擦がなければ、物は動かないのが道理なんですが。ロボットが活躍する社会や時代は、否応なしに「人間性の危機(crisis of Humanity)」の時代でもあるのです。
どうして危機なのか。「人間の条件(The Human Condition)」が徐々に、あるいは大幅に失われているにもかかわらず、人間自身がその「欠如」に、嬉々として加担・同調しているからです。