問題は選ぶ人、選ばれる人、どっち?

【有明抄】慣用読み憧憬に「しょうけい」とルビを振った小欄を見た女性から「ずっと『どうけい』と読んでいた」と電話をもらった。広辞苑で「どうけい」を引くと、〈(正しくはショウケイ)あこがれること〉とある。「どうけい」は慣用読みで、現在はどちらも使われている◆同じように、慣用読みが浸透した言葉に「捏造(ねつぞう)」がある。広辞苑は〈(デツゾウの慣用読み)事実でない事を事実のようにこしらえること〉と解説している。いまは「ねつぞう」が一般的で、高市早苗経済安全保障担当相も「ねつぞう」と何度も口にした◆放送法の「政治的公平」に関する総務省の行政文書を巡り、国会では真贋(しんがん)論争が続いている。文書は2014~15年、当時の総務相だった高市氏が法解釈の変更に関わっていた状況が記載されている。政治的公平が政治の介入でどうにでもなるなら、自由な言論は危うくなる◆不都合な文書を捏造で片付けることは許されないし、高市氏の主張通りならば行政の信頼が揺らぐ。高市氏は「信用しないなら、もう質問しないでほしい」と開き直って注意を受けたが、関与を全面否定する主張は変えていない◆事実はどうなのか。森友・加計学園や桜を見る会など、釈然としないまま過ぎていく問題が多い。こうした幕引きが慣用になれば、憧憬どころか政治への失望ばかりが広がる。(知)(佐賀新聞・2023/03/21)(ヘッダーは「メリーゴーランド」:https://adventure.lotteworld.com/jpn/enjoy/attrctn/view.do?detailsKey=1189)

 「憧憬」は「しょうけい)でも「どうけい」でもかまわない。「憧」は強くあこがれることで、「憬」にも似たような意味がある。二つ合わせて強くあこがれるの意となるでしょう。「しょう」は「憧」の漢音、「どう」は呉音です。中国の時代色が出ているのが、この島の歴史です。どちらに読んでも間違いではなく、それをどれか一つに決めるのは、余計なことだし、言葉を弄ぶものというべきかもしれない。「ことば」に関して言わねばならぬことはありますが、ここでは割愛。「どうけい」とよんでいたのが、「しょうけい」によみかえて、はたしてその人の感覚・感情が変わるものでしょうか。(この手の二重読みの「字」「辞」は腐るほどあります)

 漢字の読み書きをテストして「◯✕」をつけるというのは、愚かしいですね。突飛ではなく、それなりに読み書きできればいいんですよ。

 さて、本題です。「捏造」流行りですね。「捏造」の「捏」は「デツ」と読み、「ネツ」とも読ませる。訓では「つくる」「こねる」とある。その意は「(土などを)手でこねる」から、「こじつける」や「でっち上げる」などにつながる。粘土を「捏(こ)ね上げる」などという。あるいは、コンクリートを作るとき、砂とセメントをかき混ぜ、水を加えて「一つ」になるように繰り返しこねることを指します。「造」はつくる。ご丁寧にも、繰り返し捏ね上げて、まったく違うものを作り上げること、つまりは「でっち上げ」です。捏造は「でつぞう」と読んでいた。その初源を尋ねれば、一つの読みであったかもしれないが、いずれも陶器を作る際の手作業を指して、デツ・ネツと言われています。「こねる、にぎる、おさえる、ひねる、みな土器の器形を作ることをいう」(「字通)参照)とあります。

 ぼくは国会での論議を何度かネットで見ています。この「放送法」の「政治的公平」問題に関し、すでに早い段階(発覚した初日に)で「事実をまげて、事実でないと『捏造』しているのは大臣だ」と書いています。「親分」がいなくなったので、これさいわいとこれまでの「うさを晴らす」(憂さ晴らし)、官僚たちの魂胆が見えていました。おのれの部下である官僚に「忌み嫌われた」のかもしれない。それ程に「居丈高」の「女丈夫」を装っていたのかもしれませんし、それに楯突けなかった積年の恨みや辛(つら)みが官僚たちに山積していたのです。

 放送法の要は、これも当たり前の判断でいいのであって、「政治的公平」を破る、破りかねないのは政治権力だから、放送人は夢々、油断なさるなということです。それ以外に解釈の余地はない。憲法は「権力の横暴・暴走」を制止するための、人民が用いる「制御装置」ですが、それを知ってか知らずか、権力の側にいる輩が、自分の都合のいいように「改正する」と言い出す始末。野球の審判が「自分はルールブック」であると宣言し、好き放題に野球の試合を牛耳るようなもの。笑止千万の域を超えて、付ける薬がないほどの「最低政治」「傍若無人政治」が罷り通ってきたのです。その付着物・寄生虫のようなものが「捏造発言」大臣だった。問い詰められて、その挙げ句に「私が信じられないなら、もう答弁しないでくれ」というお粗末。これをそのまま見逃す手はないでしょうに。この場面を中継で眺めながら、権力亡者はクズだし、それには「性差」はないと痛感した次第。

 個々の政治家を評価する興味も能力もない。壊れかかっている、わが脳細胞を無駄に使いたくないのです。残り僅かを、細心の注意を払って維持したいのに、こんな不埒な問題に引っかかりましたな。足を取られ、手を取られ、目を奪われ、最期に脳細胞を無駄に費消していしまいかねないので、この問題も、ここでうち止め。この某女性大臣が辞めても、代わりはいくらでもいるのですから、浜の真砂か五右衛門かと言いたくなります。

 政治の舞台は、洋の東西を問わず「茶番」です。「底の見えすいた、下手な芝居。ばかげた振る舞い。茶番劇」(デジタル大辞泉)ロシアの大統領に「逮捕状」が出たという。誰がどのようにして捕まえるのかという「茶番」。いや、実は捕まえられないのだという「大茶番」だ。米国の前大統領が「逮捕」(本日)されると、当人が告知。助けるために再度の「議会襲撃」を煽りはしないか。思いつきの「戦争ごっこ」には「殺戮」がついて回っているのだから、とにかく「逮捕」を願うばかりですね。米前大統領は「売春疑惑」で逃げ切れていない。支払いに選挙資金を使ったとかいう疑い。現大統領親子にも、何かと疑惑がついて回っている。

 究極の政治は、困っている、助けを求める人々に「救いの手」を差し伸べること、それだけのことなのに、国防費に「四十兆」を遥かに超える税金が、なぜ要るんですか、と愚問を発したい。嘘で始まり、嘘で終わる人生もつまらないだろうし、政治家だって、時には誠意をもって事に当たりたいだろうに。そう思うのは素人の証拠か。政治にカネがかかるんだ、誰もがそういうから、きっとそうなんだろうと「諦め」る有権者が選挙で政治家を選ぶんですから、どうしたらいいんだろうね。「この世は全て茶番だよ」と、マツコがいうか。君も「茶番」か。「猿芝居」ってのもあるし、さ。

_________________________________

 すべてがアルゴリズム化される時代だ

 賛否両論のある「チャットGPT(Generative Pre-trained Transformer)」。公開されてから半年も経たない段階で議論百出です。これに似たプログラムはいたるところですでに使われている。この AI の「凄さ」「怖さ」は、似て非なる他のものとは桁が違うようです。ぼくは「人工知能」に興味を持っていないし、それが世の中に蔓延るのも好まない人間です。しかし、好みの問題ではなく、広範に、かつ深く浸透していくのが「進化現象(renovation)」です。ぼくは便利を何よりも優先したような生活(生き方)を選ぼうとはしないままで、八十年近くまで生きてきました。だから、携帯電話が流行りだした頃から、見向きもしないで今に至っています。「便利(convenience)」は「不便(inconvenience)」を排除することから生まれます。排除は除去を意味しません。一時的に不便を抑制・抑圧しているに過ぎない、いわば、不便を、押入れかどこかに隠しているだけなんですね。

 不便と便利は諸刃の剣のようで、両者は背中合わせであり、どちらか片一方だけを所有(利用)することは出来ない相談です。限りなく便利な時代は、恐ろしく不便な時代でもあるのです。オール電化住宅は「便利」がワンセットで家になっているものでしょう。でも、電源に不都合が生じると、不便極まりない箱でしかないものになる。ぼくたちの依拠し、必要としている便利は、そんなものです。あえて言えば、「砂上の楼閣(House of Cards on the Sand)」みたいなもので、なにも起こらなければ結構だし、一旦なにかが起これば、ご破産になるような代物でもある。

 「人工知能(artificial intelligence (略 AI)」とは人間の生産物です。「(人工の) artificial」「〔人造の〕man-made」という言語が示しているとおり、どんなものでも人間が作り出したものだから、正しいことがあれば間違いもある。「正誤はセット」なのであって、「誤」を排除することは不可能でしょう。それが「人工」ということ。原子爆弾はどうでしょう。悪意・善意の有無にかかわらず、作られたら使いたくなる、使うために作る、それが人間の「欲求に根ざした性(さが)」ではないでしょうか。「核爆弾」の現実はどうなっているか。「便利」とは、一面では人間が「手を汚さない」ことを可能にするものです。あるいは人間の身体的・精神的能力を無用にするものでしょう。人間のロボット化、です。人間がロボットになることでもあり、人間の代用にロボットがなるという意味でもあります。味気ないことではないかな。

 強大な時代の趨勢に背(そむ)きましょうというのではありません。一面では、究極の「人工知能」でもあるだろう「チャット GPT」 で変わるのは「人間の生活」ではなく、「人間性」「人間のあり方)そのものだという感想、あるいは直感を持っている。自分の脳がそっくり不要になるような場面が想定されているのです。でも、ここで長考します。自分の脳細胞をそっくり他人に支配されてしまうことを、ぼくたちは、早い段階から経験させられてきました。この劣島の学校教育の方法は、まさに「チャットGPT」の教育版だったからです。何をするにもしないにも、学校教育(教師)の与えたもの(学校智)が判断してくれる、それが「成績優秀」の代名詞となってこなかったでしょうか。「なぜ、人を殺してはいけないのか」と問われ、「先生がいけないと教えてくれたから」と答える。教師もまた、「チャット GPT」 の「洗礼」を受け、「先鞭」をつけてきた人でした。これが歴史であり伝統だというのはどうでしょう。

 「剽窃」とか「盗作」は問題視されます。しかし「丸暗記」「無批判」は褒められこそすれ、非難されてはこなかった。「チャット GPT」 は、凄いことは凄いが、「暗記型」能力の一典型であるのです。覚えるべき「元手」「資本」は誰かのものです。

 以下に挙げたパックンの記事の全文をお読みになることを進めます。「パックンはどんな人ですか?」という問いの表現を変えるだけで、「チャットGPT」によって、何通りもの「パックン像」が作られます。裁判や学校のレポートには格好の装置(アプリ)ですね。同じ問を出すと、まったく同じ答えが出てきます。「GPT」による「判決」は、裁判官を不要にするでしょうし、教師の機能(仕事)の何割かは削減されるでしょう。それはいいことか、悪いことか。偽りの問いを出しても、真面目に答えてくれるというのは、怖いこと。ぼくは、このような「チャット GPT」型反応にすでに何度か遭遇しているような気になっています。「よくある質問」には、同じ答えが返されます。人間の音声そのものと錯誤させる電話が何度も耳に届いていますから。オレオレ詐欺も集団強盗も、一種の「アルゴリズム」を使っているんじゃないですか。「模倣」「受容」「保守主義」時代は、「アルゴリズムの天下」「デジタル万能」だと言えそうじゃないかな。つまりは「先例」「前例」が幅をきかしているんだな。

++++++++++++++++++++++++++

<パックンが自分のことを話題のチャットGPTで調べたら、AIの恐ろしさが垣間見えました。AIの全面導入に踏み切っていいものか、チャットGPTと一緒に検討しました>  AIってKOWAI!/ 始めまして。藤森慎吾とともに「レイザーラモン」というコンビを組んでいるパックンです。初耳ですか? 僕もです!/ でも、今話題の対話型人工知能、チャットGPT(ChatGPT)に「パックンは誰ですか?」と問うと、こんな情報が出てくるのだ。「お笑い芸人、俳優、タレントとして1990年代半ばから日本で活動している」など、正しい経歴も伝えてくれるが、その上で「2002年にはテレビドラマアカデミー賞の外国人タレント賞を、2003年には東京国際ドラマフェスティバルの最優秀タレント賞を受賞している」などと、空想の功績も創作してくれる。「こぼれイクラ飯」に負けないほどの「盛り方」だ。下手したら、人工知能で忖度まで学習できたのかな?/ もう有名な話だが、チャットGPTは真実とウソを見分けられない。良い・悪いも分からない。計算も間違えるし、凡ミスもする。なぜなら、チャットGPTのAIは、人間がこれまで書いた膨大な量の文章を参考に「この文脈の中では、次はこんな単語が来そうだ……」と推測を繰り返しながら自らの文章力を高める研究を重ねただけのものだから。つまり、真実じゃなくても、正確じゃなくても、倫理・道徳に反していても「文章として一番自然そうな言葉の羅列」を提供しているだけだ。僕のプロフィールでもなんでも、アルゴリズムに合った文章ならフィクションでも構わないってこと。(⤵)

チャットGPTは自分の「脳内」の矛盾もあまり気にしないようだ。聞き方を変えると、同じはずの情報でも答えがガラッと変わる。「僕は有名人のパックンです。僕の情報を教えてください」と、再度聞いたところ、今度はこうきた:「日本のテレビ番組やバラエティ番組でおなじみのお笑い芸人、パックンマックンとして知られる小島よしおさんですね」。違う! そんなの関係ない! そんなの関係ない!(中略)/ 人間を守るために開発されたAIが人間を滅亡させようとする。意識を持ったAIが自己防衛のために人間と対峙する。自己利益を求めるAIが人間をだまして利用する。などなど、ホラー気味なあらすじのSF映画や小説が多い。ゆくゆくはわれわれもそんな危険性も心配しないといけないが、今我々が目撃しているAI革命はそこまで極端な展開を見せていない。AIは意識も人格ももっていないし、人間と対立する構図にはなっていない。/ だが、シンプルで悪気の無いAIでも上記のような甚大なリスクを伴っているのだ。革命が起きる前にその対策を考えないといけないと、僕は思う。情報のソースや信ぴょう性、画像や映像の制作者の確認。公平な富の分配。AIの悪用防止。個人の経済的、社会的、精神的な安定保障。インターネットを維持可能なビジネスモデル。これらを構築できるまでは、AIの全面導入を遅らせるべきではないか。パンドラの箱の中身は見えている。急いで開けなくてもいいのでは?(⤵)

もちろん、AIの導入を遅らせることは、技術的進歩や競争力の損失につながる可能性があるため、必ずしも最善の選択肢ではありません。代わりに、AIの開発や使用に関する適切な規制や監督を行い、リスクを軽減することが重要です。また、AIの開発や使用に対して意識を高め、倫理的な考え方を重視することも大切です……。(⤵)

ちなみに、最後の段落は、チャットGPTが書いたものだ。怖っ!  「チャットGPTが反社の手下になったら、どうする?(パックン)」https://www.newsweekjapan.jp/pakkun/2023/03/gpt_1.php

● アルゴリズム(algorithm)= ある特定の問題を解いたり、課題を解決したりするための計算手順や処理手順のこと。これを図式化したものがフローチャートであり、コンピューターで処理するための具体的な手順を記述したものがプログラムである。イランの数学者・天文学者、アル=フワーリズミーにちなむ。(デジタル大辞泉)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

 徒然日乗(140~146)

◯ 2023/03/19・日 = 昨日の続きのような。ぼくの悪癖の一つでもあります。朝からSP (ストピ)に狂っています。音楽を、いろいろな意味味で、それは解放したものと捉えたい。入場料を払い、定められた座席に座ったまま、ひたすら舞台上の演奏家に耳目を集中することが、求められる聴衆の資質だったものを(クラッシックの場合)、とにかく、路上や街中に拠点を据えて(時にはゲリラ的に場所を変えながら)ライブ演奏、聴衆の大半は、通りがかりの人々(strangers)です。今日の都会などでは、とかくの制約・規則があるにも関わらず、朝から夜まで、各地各所で路上(街角)ライブが行われています。欧米でも盛んな演奏形態が、この島でも認知されてかなり時間が経つ。それと並行して、従来の演奏会形式も廃れてはいません。しかし、ぼくの予感では「近代建築」に鎧われた華美なホールでのバッハやモーツアルト、あるいはベートベンやブラームスの演奏は、やがて姿を消すに違いない。あるいは国立演芸場のように、国家の援助や保護をさらに受け入れて、保存されるべき「芸術」(博物館化)となるだろう。なんのことはない。街角ライブこそが、この島(に限らない)の歴史に刻まれてきた、「演芸」「芸能」の発表の形式だったのです。それ故に、ここにおいても、ある種の「後退」「先祖返り」を果たしつつあるのではないかと思う。(徒然日乗・146)

◯ 2023/03/18・土=一人の女性ピアニストの演奏に惹きつけられた。いわゆるストリートピアニスト(SP)と称されるのでしょう。詳しくはわかりませんが、埼玉県在住らしい。「いいしょう」さん。奈良県(田舎だと、本人がいう)出身。主に歌謡曲やJ.Pops、あるいは洋楽(カーペンターズやビートルズなど)がレパートリーで、各地の「ストリートピアノ」の鍵盤をていねいに辿られているようです。▼ 何年か前は、フラッシュ・モブなるものが流行していた(今も続いていると思う)、今日では路上音楽家が、市民権を得ているのか、たくさんの奏者と聴衆がいるようだ。いいしょうさんは、腕前もプロで、立派に独自性が発揮されていた。なんと二時間以上も、彼女の「演奏」(YouTube)を聴き漁った。(徒然日乗・145)

◯2023/03/17・金 =  20度前後の高温が続いていましたが、それでも朝晩になると冷え込みが強い。夕方になると、どうしても暖房用にストーブを使う。春分の日が彼岸に中日。明日は彼岸の入りです。最近は墓参りもしていない。コロナ禍が収束したのかどうか、ぼくには判断が付きかねるし、相当な規模でインフルエンザが流行っているという。念には念を入れてというが、さて、それでどうするのかという問題は残されたままだ。ワクチン接種の効果と、反作用(未接種者の感染が少ないという)を照らし合わせると、どういうことになるのか。夫婦ともに未接種だ。(徒然日乗・144)

◯ 2023/03/16・木 =  早朝から悪戦苦闘して、一時間半ほど、ようやく♂二つをケージに入れ、病院に連れて行く。去勢手術のためである。午後に実施し、夕方に引き取りに行くことに。午後一時ころに病院から電話があり、「マダニが猫の体に発生中。院内の、他の犬や猫に感染すると困るので、マダニ退治の薬を使いたい」との連絡。このことは予想していたので「ぜひお願いします」「迷惑をかけて、申し訳ありません」と謝罪。温度が異様に高くなったので、野外ではマダニが発生したことはわかっていたが、まず「手術」とばかり、この猫たちにはまだ使っていなかった。他の猫の半分くらいは使用済み。マダニ」は怖いもので、近近年では人間が猫からマダニを移されたり、直接マダニに感染して死亡した例がいくつも報告されている。房総半島でも最近農家の人の感染死の報告があった。マダニ退治には高額の薬品「フロントランナー」が使われており、拙宅もそう。4週間に一回使うことにしている。数が多いので、何かと出費がかさむが、致し方ない。夕方、手術済みの二匹を引き取りに。残りは一つになった。なかなか捕まえるのが大変な「カンベ」君が最後に残っている。(徒然日乗・143)

◯ 2023/03/15・水 =  ほとんど毎日のように買い物に行く。猫の食料と人間の食材と。初めの頃は、大きなスーパーに通っていたが、ぼくはこのところ、こじんまりとしたスーパーに決めている。混んでいないし、レジ待ちもないから。とにかく人混みが嫌いだから、できるだけ空いている店に行くことにしている。品物は変わらないし、値段は、物によってはこちらのほうが安いものもあるから、なおさら、繁盛している店には行かない。時々、「繁盛店」という看板のラ-アメンや町中華などのYTを見るが、偉いものですね。何事によらず、客商売というのは大変だと、いつも痛感する。一気に繁盛して、一気に寂れるのはどうか。ぼくは、少食だし、酒も呑まなくなったので、このようなお店に行くことはない。近所の蕎麦屋や寿司屋にはしばしば通っていたが、コロナ禍で、まず行かなくなった。それが終わっても、猫がひしめいている状態では家を開けることが出来ない。外食はまず無理ですね。(徒然日乗・142)

◯ 2023/03/14・火 =  ネットで国会中継を見る。憲法は「政治権力の暴走」を阻止するためのものであり、国民の権利を守るための武器であるのに、それを「腐敗権力」は、自らの意のままに変更できるという、バカ丸出しの「憲法改正論」を展開してきた。それとまったく同様に「放送法」は、自民党のような腐敗した権力が「放送」に介入しないための、政治権力への抑制・排除を養成したもの、それが「政治的に公平であること」という四条の真意。腐った権力が自らに敵対するための番組を作ることを禁止すると曲解しただけ。そのような暴力に、どうして放送界は抵抗しないのか、ぼくには解せない。つまり、放送界の上層部は、権力と徒党を組むことに意を砕いている証拠だ。翼賛の度はさらに深まっている。(徒然日乗・141)

◯ 2023/03/13・月 = 確定申告の書類を作成して、税務署ではなく、役場に提出に行く。その前に、マイナンバー(本人用)と免許証を、コンビニでコピー。「本人確認」のためという。面倒なことになっている。ネット上での申告もあるけれど、アプリを入れるのは無料ではないと知って以来、それを使う気がしない。役場に着いて、かみさんの住民票を取る。申告書には彼女のマイナンバーが求められているからだ。(かみさんは、物忘れがひどくなりモノの整理がだんだんに杜撰になっている)準備を整えて、書類を提出した。これまでに何度申告してきたか。何度やっても嫌だな。しかし、しなければみすみす「税金」を取られる(奪われる)から、それは絶対に認められないので、嫌ではあるが、申告をしてきた。この後、何回続くのか。(徒然日乗・140)

______________________________________

 あのころのことを忘れていないか

【国原譜】の折り込みチラシを見ていたら、買い取りのオーディオの中に所有のスピーカーがあった。買ったのは10年以上も前だが、半値以上の価格が提示されている。◆普通の電機製品なら10年以上前の商品に価値がつくことは、ほとんどないだろう。趣味性の高い音楽関係ならではだ。このスピーカーは気に入っているので売却するつもりはないが。◆認知症で入院している知人女性の話。自室に閉じこもり気味だったが、音楽のリハビリに反応を示し、懐かしの音楽を聴きながら思い出話を語るようになったという。◆新型コロナ感染防止のため好きなカラオケを自粛していた高齢者の中には、仲間と交流できず、「コロナ鬱」になった人も多いようだ。今後は徐々に解消されそう。◆このように音楽が人に与える影響は大きい。趣味、精神の安定、生きがい、文化、コミュニケーションの手段。音楽嫌いではない限り、音楽は人間の心の糧に。◆先日、奈良フィルハーモニー管弦楽団演奏会のパンフを見て法人会員の少なさに驚いた。音楽文化を理解しない企業は一流とはいえない。(栄)(奈良新聞DIGITAL・2023/03/19)

 昨日の午後から、今朝まで、どれだけ聞いているか。一人の女性ピアニストの street piano 演奏です。場所はさまざまで、茨城や奈良などの駅に置かれているピアノを弾いていることもありました。何度か耳にし目にしていたが、ゆっくりと立ち止まって聴いたことがなかった、すっかりはまってしまった感があります。おそらくは、小さい頃からピアノを弾いていたと思われますが、なにかのきっかけで、クラシックは止めて、もっぱら JPops や歌謡曲などがメインになったのでしょうか。詳しいことはわからないが、プロの弾き手と見受けます。何枚かの CD も出されていたり、リサイタル・ライブ(?)もやられているようです。奈良県の出身で、なにかがしたくて、親元を飛び出したと言われている。現在は埼玉県所沢近辺が拠点のようで、所沢駅のピアノをよく引かれているように思われます。

 これまでにも何度か触れましたが、ぼくは歌謡曲もクラシックも、何でも聴いてきました。バッハから都はるみまでと、昔は言っていましたが、今ではジャンルを問わずと言っておきたい。ネットが普及しだした頃、盛んに「フラッシュ・モブ」なる路上(街頭)演奏や演奏会がアップされていたし、それにかなり惹きつけられていました。今でもやられているようですが、最近は「路上ライブ」が大流行という状況にあります。ぼくは、それを見ながら暇をつぶしている。この「いいしょう」さんは、「ストピ(ストリートピアニスト)」と言っていいのでしょうか。かなり鍛錬されている方だと思う。あるいは、相当に名を知られている方で、知らないのはぼくばかり、そういうことかもしれない。立派な演奏会場にはそぐわない、開放(解放)されたピアノの声が聞こえてきます。

 street piano は欧米でも盛んに行われている。決して見下した表現ではなく「大道芸」の一種だろう。戦前までは各地で「門付芸人」と言われて、盲目の三味線語りがおられた。有名なのは「瞽女(ごぜ)」でした。あるいは、高橋竹山さんなどは典型でした。何度か、彼のライブに出かけて心を打たれた。東北や北陸に多く見られたもので、今も亡くなった友人がこれらの記録を残すために何枚かのレコードにまとめて、世に出したことがあります。大道芸、あるいは吟遊詩人(a wandering minstrel)ならぬ、放浪ピアニスト、そんな感じがすると、ぼくはとても嬉しくなる。その昔、しばしばクラシックの「演奏会」に出かけていました。いかにも上品ぶった装いで、なんとも堅苦しいものがほとんどでした。音楽は文字通り「喜怒哀楽」の表現の一つで、それが「裃(かみしも)」をつけて演じ、聴くものになっていた。ぼくにはそぐわないものだったという気がしていた。今でももちろんクラッシクは廃れてはいないのでしょうが、ぼく流に言うなら、すべてとは言わないが、多くは「博物館所蔵品」の如きものではないですか。演奏会そのものが、遠くない将来に「歌舞伎」のような「無形文化財」として保存されることによって生き残れないのではないかと愚考しています。(歌舞伎だって、ことの始まりは、京都三条の鴨川堤で、出雲の阿国が待ったと言われている。遊芸の根っこになったものだったろう。文化・芸術(文芸)の解放が出発点にあった。それが、時の権力と結びつくことで囲われれものになっていたのです。庶民の芸、庶人の文化だったものですから、それが時代を遥かに隔てて、街中や駅中に生まれても、一向に違和感はない。

 そこへ行くと、ストリート・ピアノは、今日あまり見かけなくなった「流しのギター弾き」のようなものでもあるのではないか。ぼくの後輩に、作曲も演奏も歌唱もやる音楽家の K 君がいます。今でもどこかで路上ライブをしているのか、あるいはぼくが知らないが、その筋では名が売れた音楽家になっているのか。ある時、彼は、ぼくのところに来て、「ビッグになりたい」と言われた。名が売れるのは「交通事故に遭うみたいなもの」「それは、危険ですよ」といったことがあった。彼は納得しなかったが、今でも、ぼくはそう思っている。名を売る、名が売れるというのは、「名は商品(売り買いの交換品)である」ということ、商品はいずれ消耗品として消えゆく運命にある。それでもという覚悟に反対する理由を、ぼくは持たない。言いたかったのは、いつしか自分の存念が通らなくなり、やがては不本意を託(かこ)つことになるかもしれないという「老婆心」ならぬ「老爺心」の発する言でした。

 「いいしょう」さんはどうでしょう。彼女の YouTube を見ていると、カメラワークもプロで、どうも「相方(あいかた)」さん(ギタリスト)が撮られているらしい。本格的で、まさに「芸術」の粋・域に達していると思う。加えて、何よりもぼくが感心するのは、演奏中に流される彼女の「紡ぎ出される言葉」が、とても地についているというか、自らの音楽の感覚にピッタリ重なっているという感想を持ちます。あえて言えば、やはり「吟遊詩人」ですね。

 *「人生を変えたストリートピアノ」(①https://www.youtube.com/watch?v=ODYvFranuRQ&ab_channel)(②https://www.youtube.com/watch?v=BnVu__eybEQ&ab_channel

 上の演奏①②に関して。コメント欄に書かれているものも、演奏者に引けを取らずに「素敵」なもの、率直なものでした。その一つ・二つを拝借しておきます。

①「やっと見つけた、テクニックで弾く人より、心から弾く人優しく響く」️「今まで感じた事の無い様な入混ざった感情が湧いてきました 何か忘れてきた様な、新しい何かを探してる様な 見つめ直すのにとてもいい曲ですね」① 

②「初めまして。今日初めて見させてもらいました。 寂しそうなピアノに命を吹き掛けてる様な優しいメロディ そして流れるメッセージにも感動しちゃぃ泣いてしまってました。 心が温まる演奏素敵です」「人に感動を与えられる貴方は 素晴らしい方です。こらからも音楽の素晴らしさを伝えて下さい。応援してます」

 教室(教育実践の場)と同じで、そこに学び合う経験が生まれれば、どこであっても、そこが「教室(meeting room)」です。同じように、ピアノが置かれていて、それを弾く人がいれば、そこが演奏会場。それをどんなふうに聴こうが、それは聴き手の好みです。上にも書いた「ビッグになる」「名が売れる」というのは、行き(生き)方が狭められるということであり、言い換えれば、自由を剥奪されることになるんでしょうね。ぼくには「籠の鳥の自由」はいらなかった、とどこかで「ストピ」をしているかもしれない、若い友人の K 君(→)に、いまからでも届けたい、余計な一言です。もうかれこれ十年ですかね、彼と一別以来。「いいしょう」(井伊翔子?)さんの演奏がこれからも、いまと同じような気持ちで聴きたいし、聴けるといいですね。ここにも「人生の流儀」のひとつがあります。コバケンさんにも、どこか(ネットであれ)でお目にかかれるような予感がしています。多彩に音楽を(囚われ状態から)解放するための、多くの「吟(弾)遊詩人たち」のご健闘を祈ります。

__________________________________

 捨てる人あり、捨てなくてもという人あり

【編集日記】彼岸の入り 幼い頃の記憶はどこまでたどれるものだろうと、自分の来し方を思い返すことがある。中学、小学生の頃までなら何とかさかのぼれるものの、その先になると段々とぼやけてくる▼映像作家の萩原朔美さんが、古い物から大切な人の記憶が鮮やかによみがえるさまを、エッセー「段ボールの中身」に書いている。捨てようか取っておこうか一切迷わずに捨てる性格の萩原さんが、なんでも捨てずに取っておく母親と同居することになり、ごみとの格闘が始まる▼やがて、主(あるじ)のいなくなった母親の部屋を片付けているとき、数個の段ボール箱を見つけた。中には萩原さんの小学生時代からの、いたずら書きや学芸会で舞台に立つ姿などあらゆるものが整理、保存されていた。「私は沢山(たくさん)の自分を発見した」と記し母親に思いをはせる▼幼い頃の写真を手にしたとき、一緒に納まっている人にとどまらず、向こう側で写真を撮ってくれた人の存在が呼び起こされることがある。何げない物にも、関わった人たちが一緒に織り込まれている▼大切な存在だった人を思い起こせば、その当時の自分に出会うこともある。話し足りなかったことを伝え、静かに手を合わせてもいい。きょうは彼岸の入り。(福島民友新聞・2023/03/18)

【編集日記】捨てなくとも いまは七十二候の「桃始笑(ももはじめてさく)」をちょうど過ぎた時期。桃の花の咲き始める様子がほほ笑むように見えることから「笑」の字が当てられている。季節のわずかな移ろいにも心を寄せる、日本人の感性を表す言葉だ▼わが家の花瓶の桃はすでに満開を迎えている。水を吸いやすいよう枝の下部に十字の切れ込みを入れ、毎日水を取り換えて1カ月余り。朝起きたら、前日までのつぼみが淡いピンクの花びらを広げていた▼じつはこの枝、知り合いの果樹農家で山積みにされていた剪定(せんてい)枝。「捨てるか風呂の燃料にする」というのを分けてもらい、初めて育ててみた。おかげで殺風景な部屋に春の華やかさが漂っている▼本県の2020年度の1人当たりのごみ排出量は2年連続で全国ワースト2位だった。震災がきっかけになった面はあるにせよ、なかなか下位を抜け出せない。本紙「窓」欄には減量に対する意識の低さを指摘する声が複数寄せられている▼最近はリサイクルのほか、廃棄ビニール傘をバッグに作り替えたりするアップサイクルが注目されている。捨てていたものを工夫して生かしてみる。案外楽しいし、得した気分にもなれる。次は何に挑戦しようかな。(福島民友新聞・2023/03/17)

 春の彼岸の入りです(3月18日~24日)。実に正直ですね、天候は。昨日までは初夏を思わせる陽気が、一転して「寒の戻り」というのか、雪すら降りそうな寒さです。いつでも思い浮かべるのは「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」という句です。子規が詠んだとされますが、明治25年11月、母と妹を東京に呼び寄せ、根岸で同居を始めます。実際には、この「彼岸の入りに寒いのは」は、母の言葉。それを子規が拝借したものでした。「お彼岸だというのに、寒いね」(子規)「毎年よ、彼岸の入りに寒いのは」(母八重)という顛末。毎年のように彼岸には「お墓参り」をしましたが、このところ、コロナ禍もあって、無精を決め込んでいます。

 珍しいこともあります。本日は福島民友新聞のコラムを二編。まるで「季語」のような内容が気になったからです。「暑さ寒さも彼岸まで」とは誰が言ったものか。江戸時代の本には、すでに諺(ことわざ)として出ています。すくなくとも、今年の春の彼岸の入りは、子規の母親の言うように「寒い」こと、冬に逆戻りのようです。開花した「ソメイヨシノ」は、早まったと悔しがっているでしょう。桜についても、少しばかり駄弁りたいのを堪(こら)えています。拙宅にも十本ほどの桜木がいろいろと取り混ぜて植えられている。すべて、移住してきてから植えたもの。開花には、まだ少し間がありそう。

 コラムのテーマは「捨てる」「捨てなくても」です。生きているといつかしらものが溜まる。手に負えないくらいに溜まる。それもこれも、定住という住まい方が原因でしょう。引っ越しを繰り返す人は溜めないし、溜まる前に越す。溜まらないために移住する、そんなところでしょう。ぼくは、これまでに六回移り住みました。多いのか少ないのか。それでも、気がつけば、嫌になるほどもの(本)が溜まっていました。ヤドカリだったらよかったのに、そんな思いが今更のように強くします。半分は道楽、半分は商売道具、そのようにして溜め込んだ本の数は万に達している。一度、大掛かりな整理をしたのですが、気がつけば、元の木阿弥です。それ以外は、物品はそんなにない。

 

 元々写真は嫌いだったのは、親譲り、だから、見るべき写真は殆どない。一種の「形見」のようにして思い出す縁(よすが)にするは事欠ききます。 「私は沢山(たくさん)の自分を発見した」という経験はまったくない。これは「彼岸」だからというのではなく、いつかおふくろに、「五歳くらいまでの自分」はどんな子どもだったか、ゆっくり聞いてみたいとしきりに思った時期がありました。もちろん、そんなことは訊きもしなかったし、時々の自分を知るにつけ、幼少の頃がどうであったかは歴然としている。

 「大切な存在だった人を思い起こせば、その当時の自分に出会うこともある。話し足りなかったことを伝え、静かに手を合わせてもいい」とコラム氏は書く。ぼくには、絶えてない経験です。大切な人はたくさんいましたが、折に触れて思い出すことはあっても、「その当時の自分」を発見することなんかないのです。天邪鬼ですね。思い出すというのは「歴史」ではなく、歴史を超えることでしょう。めったにないことですけれど、なにかの折に小学校の卒業アルバムを見ることがありました。五十年も六十年も前の自分と同級生が写っている。

 それを眺めると、ぼくの記憶は一気に半世紀前に遡(さかのぼ)る。その後に生きられた時間をすべて忘れて、「小学生」になるのです。誰とどんな話をしたか、そんなことはどうでもいい。喧嘩した連中も写り込んでいる。それも今はすべて「お蔵入り」です。ぼくには「彼岸」とは、こちら側(此岸)が存在ししている(ある)のだから、向こう側(彼岸)もあるに違いないというだけの想像裏の物語です。そこには美しい「蓮の花」が咲き匂っているのかどうか。(右上の写真は日比谷花壇から。彼岸に合わせて、この花屋さんに三件分の「花の贈り物」を注文しました)。

● 彼岸=〘名〙① (pāramitā 波羅蜜多を漢語として意訳した「到彼岸」の略) 仏語。絶対の、完全な境地、悟りの境界に至る修行。また、その悟りの境地。生きているこの世を此岸(しがん)として、目標となる境界をかなたに置いたもの。〔勝鬘経義疏(611)〕 〔大智度論‐一二〕② 春秋二季の彼岸会(ひがんえ)。また、その法要の七日間。俳諧では、秋の彼岸を「後の彼岸」「秋の彼岸」という。《季・春》③ 向こう側の岸。転じて、(こちら側の)人間的な世界に対して、それを超越した世界をいう。⇔此岸(しがん)。④ 植物「ひがんざくら(彼岸桜)」の略。(精選版日本国語大辞典)

 よく使われる流行り言葉に「断捨離」というのがあります。曰く因縁は、下記に引用しておいた辞書に譲ります。要らないものは溜めない、溜まったものは思い切り捨てる、物欲しそうな顔をしないこと。要諦は「物事に執着しないこと」です。この「断捨離」は商標登録されているということですから、物事に執着しないのは、どんなに困難であるか、この登録者は、その見本でもあるのでしょう。いわば、物事の「ストーカー」である執心を捨てなさいという。ぼくたちは、どんな些細なものでも「我が所有」にしたくなるのですね。

 大学卒業後、ある都内の大学の教員になった。そこに図書館司書だったと思うが、吉田さんという方がおられた。その父親が詩人の吉田一穂さんでした。「難解の三乗」くらいの難しさが詩になっているような文人だった。ぼくは何度か挑戦したが、弾き返された。ある時、その詩人の書斎らしいものを写真で見た。小さな文机が一丁、それきりで、書棚はおろか、一冊の本もなかった。仰天したことを覚えている。それを紹介していたのが(記憶違いかも知れないが)、音楽評論家の吉田秀和さんだった。こんな空間で仕事をしている、そんな人はどこにもいなかったし、むしろその反対に、これみよがしに書籍で溢れる書斎の真ん中で写真のポーズを取っている人ばかりだったから、正しく、驚天動地の経験をした。息子さんも難解な文を書いておられたようでした。この「断捨離」に徹するような生活の仕方、それは西洋にもあります。むしろ、ぼくにはこちらの方が親しい。「ミニマリスト」という言葉が示す「生活の流儀」でもあります。断捨離と似て非なるものかもしれませんが。

 断捨離やミニマリストという現象は、きわめて今日的風景でもあるでしょう。ことさらにそう言われるのは、「豊かに暮らす」ためには物をたくさん所有するという現実の生活態度の徹底ぶりを証明しているかもしれない。それはしかし、生活の貧しさを表しはしても、豊かさを示すとはとても考えられません。「方丈記」の作者の鴨長明はミニマリストでしたし、方丈庵はプレハブだった。持ち運びが容易だったのです。だから、ある時期からの長命さんは「ホームレス」と言ってもいいような生き方をしていました。リヤカーに家財道具と「家」を積んで、何度か宿替えをしています。ホームレスとは、文字通りに「住む家を持たない」生活者を言います。究極の生活スタイルだと思う。家を持たないのに「宿借り」があります。俗に「居候」でしょう。自分では家を持たないけれども、住む場所を誰かに借りる(厄介になる)人です。「居候三杯目にはそっと出し」という川柳がありますが、肩身が狭いのが相場でした。そこへ行くと「ホームレス」は納税の義務(強制)もなく、その日を暮らすという意味では、気が楽だともいえそうです。しかし、この節、世知辛い時代というものは酷いもので、この「ホームレス」を寒風吹きすさぶ街中に放り出すんですね。「家なし人」を抹殺しかねない時代であり社会です。

 「桃始笑(ももはじめてさく)」とばかり、果樹農家にあった桃の剪定枝をもらってきて、少し工夫をこらして花瓶に活ける。それが一ヶ月余も保ったというのですから、コラムの記事にしたくなる気持ちはわかります。「捨てていたものを工夫して生かしてみる。案外楽しいし、得した気分にもなれる。次は何に挑戦しようかな」と、期待されているのがよくわかります。「最近はリサイクルのほか、廃棄ビニール傘をバッグに作り替えたりするアップサイクルが注目されている」と言われています。ぼくの愚想はあまり美しいものでもないのが残念ですが、福島には捨て置かれて、行き場に困っているものがたくさんあります。「核燃料デブリ」「汚染土」「汚染水」「崩壊家屋」、その他、さまざまなものが捨て置かれている。少し工夫し、そこから楽しみが味わえ、得した気分になれるかどうか、直ちには分かり難いが、「次の挑戦」はこれだとなりませんでしょうか。もっと直截に言うなら、「福島原発」そのものを「活かす」「活ける」花瓶を作りませんか。常日頃から、ぼくも、ない知恵を絞っている問題(課題)です。(二年前の七月三日に発生した「熱海土砂崩壊」の中から放射性物質が発見されたという。以下の記事を参照)

 熱海盛り土、内部から放射性物質 福島由来か、大規模土石流の起点 静岡県熱海市で2021年7月に発生した大規模土石流を巡り、静岡大の北村晃寿教授(地質学)は17日、土砂崩落の起点となった土地に残った盛り土の内部から放射性セシウムが検出されたと明らかにした。11年3月に起きた東京電力福島第1原発事故で飛散したものとみられるという。/ 北村氏は静岡市内で記者会見し、地表から約2メートル下層で放射性セシウムが検出されたと説明。「11年3月以降も盛り土が続いていたことになる」と指摘した。/ 11年2月に起点の土地を取得した「ZENホールディングス」元代表取締役麦島善光氏は「盛り土のことは知らず、敷地に木を植えただけだ」と繰り返し主張していた。(東京新聞・2023/03/17)

● 断捨離=モノへの執着を捨て不要なモノを減らすことにより、生活の質の向上・心の平穏・運気向上などを得ようとする考え方のこと。2009年刊行の『新・片づけ術「断捨離」』(やましたひでこ著、マガジンハウス)により提案された。断捨離はヨガの「断行・捨行・離行」から生まれた言葉で、「断」は入ってくる要らないモノを断つこと、「捨」は家にあるガラクタを捨てること、「離」はモノへの執着から離れることを表す。本書の刊行時から注目を浴び、16年4月時点で、やましたの著書は累計300万部を突破し、断捨離の公式メールマガジン登録者は8万2000人になっている。なお「断捨離」は、やましたひでこの登録商標となっている。(知恵蔵ミニ)

● ミニマリスト= 持ち物をできるだけ減らし、必要最小限の物だけで暮らす人。自分にとって本当に必要な物だけを持つことでかえって豊かに生きられるという考え方で、大量生産・大量消費の現代社会において、新しく生まれたライフスタイルである。「最小限の」という意味のミニマル(minimal)から派生した造語。物を持たずに暮らす人の意味では、2010年前後から海外で使われるようになり、その後日本でも広まったと見られる。何を持ち何を持たないかは人それぞれだが、少ない服を制服のように着回したり、一つの物を様々な用途に使ったりするほか、誰かと共有したり借りたりすることで、自分が所有する物を厳選している点が共通している。少ない物で豊かに暮らすという考え方自体は、環境問題の深刻化などを背景に以前からあった。近年は、物だけでなく多くの情報が流通する中で、たくさんの物を手に入れても満たされなかったり、多くの物に埋もれて必要な物が見えなくなったりして生きづらさを感じる人たちが増え、自分にとって本当に大事な物を見極めて必要な物だけを取り込むことで楽に生きたいと共感が広がっているようだ。必要な物だけを持つミニマリストの思想は、10年頃から流行した整理法「断捨離(だんしゃり)」などにも通じる考え方と言える。(同上)

__________________________________

 

 AI は人間の模造、人間の限界が露出する

【滴一滴】単語を組み合わせて調べるインターネット検索の方法が変わるのでは、と注目されている。マイクロソフトが投資する米国企業が開発した自動応答ソフト「チャットGPT」である。日本語の質問にも答えてくれる▼「世界一年俸の高いサッカー選手は?」『2021年はメッシ選手でした』「メッシ選手のようになれるかな?」『適切な訓練を積み重ね、自身の目標を達成することは可能です』▼「実は私は50歳過ぎなのですが…」『健康を維持し、情熱を注げば、自分なりに技術を向上できるでしょう』。知識が豊富で、あいまいな問いに巧みに応じる。回答に気遣いまで感じられる▼同様のソフトは米グーグルや中国の百度(バイドゥ)も発表した。ただ、中国ではある新興企業のソフトが、公開後程なく停止されたという▼「中国の経済成長は勢いを欠き、環境汚染が深刻だ」などと答えたのが原因とみられる。国民の不満を代弁されては困るのか、中国政府は必要に応じて「倫理面の対応」を取ると警告している▼冒頭の米国製ソフトに「あなたの倫理面の問題は?」と尋ねてみた。『AI(人工知能)は人間の判断を模倣するので人間の偏見を反映することがあります。AIが感情を持つようになれば、問題はさらに深刻になる可能性もあります』。鋭い自己分析に空恐ろしさを覚えた。(山陽新聞digital・2023/03/16 )

 情報BOX:チャットGPTとは何か、その活用方法は (ロイター編集)[5日 ロイター] – 最先端技術における人工知能(AI)利用が急速な進展を続けている。米サンフランシスコの企業オープンAIが作ったチャットボット「チャットGPT」は11月30日から一般公開され、無料で試せるようになった。チャットボットとは、ユーザーの入力に反応して人間のように会話するソフトウエア・アプリケーションだ。/ オープンAIのサム・アルトマン共同創業者兼最高経営責任者(CEO)によると、公開から1週間で100万人を超えるユーザーがチャットGPTとの会話を試みている。  ◎オープンAIの所有者はだれか、イーロン・マスク氏は関係しているか 研究開発企業のオープンAIは2015年、シリコンバレーの投資家サム・アルトマン氏と富豪イーロン・マスク氏によって非営利企業として設立された。ベンチャーキャピタリストのピーター・ティール氏など、他にも数人が出資している。19年には外部から投資を受け入れるため、関連する営利企業を設立した。/ 最近ツイッターを買収したマスク氏は、18年にオープンAIの取締役会から外れているが、流行のチャットGPTについてこのほど「恐ろしいほど良い」とツイートした。/ マスク氏はその後のツイートで、オープンAIがツイッターのデータベースをAIの「訓練」に使っていることが分かったため、同社によるデータベースへのアクセスを一時的に中止したと明かしている。 (⤵)

◎オープンAIの仕組み オープンAIはチャットGPTのモデルについて、「人間のフィードバックによる学習強化(RLHF)」という機械学習技術を用いて訓練されており、会話をシミュレーションし、追加質問に答え、間違いを認め、不正確な前提には異議を唱え、不適切な要求は拒否すると説明している。/ 初期開発においては、AIトレーナーがユーザーとAIアシスタントによる会話を演じてみせることで、モデルに情報を提供した。今回公開されたチャットGPTのバージョンは、ユーザーの質問を理解し、人間が書く会話文体に似せた文章で深い答えを返すようになっている。 ◎何に使えるか チャットGPTのような道具は、デジタルマーケティング、オンラインコンテンツのクリエーション、カスタマーサービスにおける質問への回答などに実用できる可能性がある。一部のユーザーは、コードのバグ(欠陥)を修正するのにも役立つことを発見した。/ チャットGPTは人間の会話形式をまねて幅広い質問に答えることができる。 ◎問題はあるか 多くのAI関連イノベーションと同様、チャットGPTにも心配な点はある。オープンAIが認めている通り、「まことしやかに聞こえるが、不正確もしくは理にかなっていない答え」を返す傾向がある。これは修正の難度が高い点だという。/ AI技術はまた、人種、性、文化などを巡る社会的偏見を固定させかねない。アルファベット傘下のグーグルやアマゾン・ドット・コムなどの巨大IT企業は以前、AIを使って試したプロジェクトの一部が「倫理的に危うい」ものであり、限界があったと認めている。複数の企業では、AIが引き起こした混乱を修正するのに人間が介在する必要が生じた。/ こうした懸念はあるものの、AI研究は依然として魅力的だ。調査会社ピッチブックのデータによると、AI開発・運営企業に対するベンチャーキャピタル投資は昨年130億ドル近くに増加し、今年も10月までに60億ドルに達した。(Siddharth K記者)(Reuters:https://jp.reuters.com/article/explainer-chatgpt-idJPKBN2SQ0AZ

 判決にAI利用で波紋 「チャットGPT」に疑問の声も―コロンビア 【サンパウロ時事】南米コロンビア北部のカルタヘナの裁判所判事が、人工知能(AI)を組み込み利用者の質問に自動で答えるツール「チャットGPT」を判決文作成に使用し、波紋を広げている。地元各メディアが2日伝えた。同国では訴訟手続きでのIT利用が法で認められている。/ 裁判では、自閉症の子供を持つ親が保険医療サービス企業に対し、治療の自己負担金や手数料などの免除を要請。1月31日の判決は、親側の主張を認めた。この判決を下したフアン・パディジャ判事はメディアに対し、時間節約のためにチャットGPTを利用したことを明かした。/ 判事はチャットGPTに「自閉症の未成年の治療で、手数料は免除されるべきか」「手数料は医療サービスを受ける障害となるか」などと質問。チャットGPTは、法令などの論拠を挙げ「シ(イエス)」と回答したという。/ パディジャ判事は「こうしたツールを使うことが、裁判官の怠慢には当たらない。判決は自律的判断に委ねられる」と強調。その上で「AIは判決の一連の文章を組み立てるのに役立つ」とメリットを説いた。/ 一方、AIに詳しいロサリオ大准教授で弁護士のフアン・グティエレス氏は、パディジャ判事と同様の質問をチャットGPTに行ったところ、別の結論が出たと主張。「チャットGPTは正しくない返答をすることもよくあり、真実と虚構を見分けられない」と信頼性に疑問を呈した上で、「判事に対する早急なデジタル教育が求められている」と警鐘を鳴らした。(時事通信・2023/02/04)(https://www.jiji.com/jc/article?k=2023020400371&g=int)

GGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGG 

 もう二十年以上も前になると思う。ゼミ生の一人が「AI 人工知能」に関する卒業論文を提出。ぼくが出した「成績判定は不合格」でした。今から思えば、内容がほとんど他者の著作からの「引用」だったからです。まさしく「AI トーク」だったのです。他人の頭で考えられたものをそっくり自分のものにするということがいいことかどうか、一概には言えません。宗教などのかなりな部分は、「教祖」の「お筆先」のようなもので、それを真に受けるというので信仰が成り立つのでしょう。この「チャットGPT」にも、それに似たところがあります。もっとも似ているのは、チェスや碁・将棋のソフトです。しばしばプロの棋士などとの勝負が話題になります。勝ったり負けたりで、話題には事欠きませんが、それを人間同士がするから面白いのであって、はたしてAI の助けを借りたら、どうなるのでしょう。学生のレポートなどは、実に早い段階から、他人の文章の剽窃が横行していたし、今日では手に負えない勢いでそれが蔓延しているでしょう。大学教育の崩壊です。それを今更どうこう言ってもはじまりませんね。

 問題は多岐にわたります。そのいちいちを論(あげつら)うことはしない。要は、人間が人間でなくなる度合いが並外れて大きくなる時代に、ぼくたちは巡り合わせているということ。ぼくの持論で「人間は言葉で(から)出来ている」という口癖があります。その「人間」をそっくり模倣して「AI」が代用してくれるのですから、便利で楽だと言えば、これほどのものはなかったでしょう。ガソリンエンジン車が電気自動車に入れ替わるみたいで、道具の交換のようでもある。もちろん、現下のAI の進展状況を否定するのではありません。ぼくが否定しようがどうしようが、展開するものはその方向へ行くのです。また、何事にも両面というものがあって、利用すべき方面では大いに促進されるべきであるというのは当然です。ただ、これまでも「文明の深化・進化」を閲(けみ)すると、悪い面にも相当な影響が及ぶことは避けられないのを恐れる気もある。自動車は便利な道具です、しかし、それは殺人の凶器にもなる。もちろん、それを用いる「人間」そのものの問題ではありますが。

 文明というものが栄えれば栄えるほどに、人類(人間集団)が衰えるのは避けられなかったことは多くの歴史が示しています。知的になるというのは、自分の頭で考えるのではないというそんな時節が到来して久しい。野生や野蛮という「自然性」を失うことが、すなわち「文明人」の資格になるというなら、間違いなしに、世に文明人は溢れることになります。人智(知恵)も人間性(徳性)も具有しないで「人間」であることが可能な時代とも言えるでしょう。ぼくは悲観しているのではない。それが「必然」だと想えばこそ、そこにどの様に入り込むかを愚考するばかりです。昨日、少し触れたヴァレリーが遭遇したのも、このような「人間性の危機」だったと言えるでしょう。「自動運転」自動車に乗り、人工知能でレポート(手紙)を書き、AI を忍ばせて他者と会話する。面白いという段階を通り越して、「人間集団の危機」「人類の危機」にぼくたちは脅迫されているのではないですか。

 卒論を書いたK 君には「先見の明」があったのでしょう。逆に言えば、ぼくには予見も予想もできなかったことを、彼は問題にしていたともいえます。その彼は、ただ今は自衛隊の幹部になていると聞いている。パイロットになりたかったので自衛愛に入ったが、身体検査に引っかかり、飛行士を諦め、そのまま幹部候補生になったそうです。その自衛隊も、「ボタン戦争」時代に入っています。まるで時刻を合わせるようにスイッチをおし、殺戮するのが今日的戦争でしょう。AI というもののもっとも活躍する場が、人間性否定や人間存在の価値破壊の現場であるというのは、なんだかとても象徴的ではないでしょうか。「人間の脳細胞」が、ごっそり・そっくり「半導体パネル」に取って代わられる時代、それは徐々にではあれ、かなり進んでいるのではないですか。この先、どういう進み行になるか、ぼくには想像する元気がないのです。人間の知的な面や道徳的な面、あるいは他者に対する尊敬の念の備わった感情というもの、それらが日進月歩の「AI 化」と足並みをそろえて、逆方向に突き進んでいく、つまりは「劣化」「退化」していくさまが、まるで幻燈(スライド)一枚一枚のように、ぼくの網膜にゆっくりと映し出されているのが見えるようです。

 時勢の横暴・暴力というものを痛感しています。「人間は空っぽ」だから、外からの命令によって、どんなことでもするのでしょう。(以下の文書出典:https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/330530)

__________________________________

 

 想えば遠くへ来たもんだ、と言うけれど

【水や空】背中の景色 湖に浮かべたボートをこぐように人は後ろ向きに未来へ入る。フランスの詩人バレリーの言葉という。ボートをこぐ人が見るのは通り過ぎた風景ばかりで、ボートが向かう先、未来の景色は見えていない▲詩人の言葉ほど格調高くはないが、先は読めないものだとつくづく思う。マスク着用は人それぞれの判断で-という時が来たが、今更ながら個人的な「マスク問題」に突き当たる。コロナ禍の初めに買った数箱が今も自宅の隅に眠ったままで、すっかり持て余している▲その頃はマスク不足で、店先で見つけては手に入れていたが、着けていると耳が痛くなる。やがて掛けひもが柔らかいマスクが登場し、先に買った分は出番を失う…▲「不足」のはずが、3年後には「余剰」の物と化す。背中の未来はまるで見えていなかった▲振り返れば、全世帯に配られた「アベノマスク」は大量に余り、政府は処分に手を焼いた。3年前、大阪市長が医療現場で不足する防護服の代わりに雨がっぱを募ったが、集まりすぎて持て余した。はやる気持ち、勇み足は時に「余剰」を生む▲3年前、手作りマスクを地域のお年寄りに配る動きが盛んだった。雨がっぱもそうだが、不足は「余剰」だけでなく「心遣い」も呼び寄せた。小舟から見た美しい景色をいま一度、思い起こす。(徹)(長崎新聞・2023/03/16)

 

 「呼び水」という。ぼくはしばしば、それを、有形無形のかたちで使います。いくつかの解釈(説明)がありますが、辞書には次のように出ています。「 1 ポンプの水が出ないとき、またはポンプで揚水するとき、水を導くために外部から入れてポンプ胴内に満たす水。誘い水。 ある事柄をひきおこす、きっかけ。誘い水。「不用意な発言が議会混乱の―となる」 漬物の漬け水の上がり方をよくするために加える塩水」(デジタル大辞泉)もちろん、もともとは、水くみポンプなどの用水不足を補うために上から注入される水のことです。このポンプは、今ではすっかり見られなくなったようですが、とてもおもしろい機械仕掛けのもので、幼い頃には拙宅でも、井戸水と共用で、手押しポンプを使っていました。

 その「呼び水」です。もう何年も、ほぼ毎日、ぼくは地方紙を含めた新聞の「コラム」に目を通してきました。理由は単純です。書かれている内容に刺激を受けたいという、その一存です。何十人の記者がいくつかのテーマについて、その知性を傾けるのですから、ぼくのようなやわな精神でも、どこかしらから大いなる「刺激」や「啓発」を受けるのは当たり前ということでしょう。いくらポンプの柄を上下したところで、一向に水が上に揚がってこないことがあるように、ぼくの渇水状態の脳細胞も、そのままではうんともすんとも反応しないとうことが年柄年中あります。そんなときに、格好の刺激剤として、知的な「呼び水」として、各紙のコラムを使わせてもらうという段取りです。もちろん、ひたすら読むだけというのがいいのですが、駄文を綴ることに、脳細胞(記憶力)の鈍化と老化を同時に防止しようという欲張った願いがあってことですから、まるで向こう見ずの暴挙ともいえます。

 本日のコラムの中で、ぼくの脳細胞への「呼び水)」となったのは固有名詞です。「バレリー」。それこそ、大学入学の頃から三十前まで、わからなくても読んだ。時には歯がたたないことを百も承知で、フランス語で読もうとさえした。無謀とはこのことでした。邦訳されているものはほとんど読んだと思う。当時(今も、か)フランス書籍の輸入元も兼ねていた「白水社」という出版社が都内神田にあり、間を置かずにそこに出かけていっては、読めもしないのになんやかやと物色していました。(ヴァレリーと表記していたので、そのままに使います)おそらく、一種の「知識人カブレ」「ジンマシン」が、当時のぼくには起こっていたのかもしれません。この本は誰それが読んでおられたとか、アンリ・ゲオンの「モーツアルト」は誰々が買われていきましたと、その時代の高名な学者や文人の名前が本屋の社員から次々に出てきました。そのカブレは、それ程長くは続かなかった。ぼくはやがて、日本の「歴史」「文化史」に興味や関心を移したからでした。その張本人は柳田國男さんだった。

 ぼくは、一時期、ヴァレリーを暇にあかせて読んでいました。何がわかったか、今から考えてもとても怪しい。しかし、読んだ(つもり)という事実ばかりは残った。ぼくは修士論文のタイトルを「ジャン・ジャック・ルッソオの方法への序説」としたが、それはヴァレリーの「レオナルド・ダ・ビンチの方法への序説」からの剽窃だった。ぼくの論文の内容はお粗末で、話にはならないものだったが、ルッソオをひたすら読んだという経験には満たされるものがあった言っておきます。コラム氏が書かれている「湖に浮かべたボートをこぐように人は後ろ向きに未来へ入る」という表現は、ヴァレリーの何という本に出てくるか、まったく記憶にない。しかしヴァレリーなら、そんな言い方をするだろうとは思う。ボートを漕ぐ人は進行方向に背を向けている。しかし、過ぎゆく景色は手にとるようにわかる。それが「生きる」ということじゃないですかと言ったのかもわかりません。

 大きな視点で「歴史」を見れば、ある事柄をすでに経験してしまった人もいれば、今経験中の人もいる。これから経験しようとするものもいます。世代間の経験の違いと言えるかもしれず、時代の違いであるとも言えそうです。本当にしばしば、今から三十年ほど前、ぼくの先輩(二十歳以上も年上の人)たちはさかんに「まるで、時代(今)は戦前のようだ」と話されていた。戦時経験をされた方々だったから、時代感覚を直感していたに違いありません。しかし,若輩のぼくは「そんな事があるものか」という反発・反感のようなものを抱いていました。今から見れば、ぼくの「鈍感」「愚かさ」の証明になるのですが、「戦時」の未経験者は、後ろ向きに漕ぐボートの上から、よそ見をしていたに違いない。あるいは後ろ向きになっていたのかも。だから「年寄は」というふうには感じたことはなかったが、「まるで、戦前のようだ」という景色にお目にかかったことがなかったものにとって、過ぎ去る前景の中に「歴史」、これからぼくたちが生きていく「歴史」が遠く近く見えていたはずだったのだと、今になって思い知る。そんな愚かな経験から、ぼくは「今は、新たな戦前なのだ」という地点に立つようになったのです。

 「ボートをこぐ人が見るのは通り過ぎた風景ばかりで、ボートが向かう先、未来の景色は見えていない」とヴァレリーに倣って、記者がいうのでしょうか。「過去」にあるのは過ぎ去ったことばかりであるのは、そのとおりです。でも、その「過ぎ去ったこと」の中に「現在」も「未来」もあるとは考えられないのでしょう。「現在」というのは「過去と未来の逢着の場(接点)」です。過去と未来が相接する瞬間、それが「現在」だとは考えられないのはどうしてでしょう。「現在」という一瞬の時の場は「永遠」でもあると、どこかでヴァレリー言っていそうです。「時は永遠の鏡である」といったのはアランでした。アランという思想家もまた、過ぎ去る景色の中に現在や未来を見通していた人だったと、ぼくは懐かしく思い出します。

 若さに任せて、無駄な時間を随分と読書に費やしたという気がします。ヴァレリーを読むというのはその典型ではなかったか。格好よく言うなら、一種の「青春の彷徨」だった。でも「彷徨」は青春時代の専売ではなかったことは、その後の人生が示しています。成年の放浪もあり、熟年の彷徨もあったでしょう。それが今では、老年の放浪、いや老人の徘徊ですね。自分がどこに向かっているのか、さっぱりわからないのです。前を向いているのか、後ろを向いているのかさえも判然としない。まさに、過去と未来が渾然一体となっている「現在」に深沈しているのではないかと、われながら愚かしい感想を抱いている。昨日も触れました、渡辺一夫さんにもヴァレリーに関しての文章がいくつもあったと記憶している。独特の諧謔と皮肉を重ねたかでの「人生の真贋」を語られていました。「寛容は不寛容に対して、寛容でありえるか」などという問い掛けをされたこともあった。「敗戦日記」を熟読したことがもります。時代の悪に対して、あるいは政治の愚かさに対して、痛烈な言葉の礫が飛び交っていました。また、「狂気」についてというエッセーもありました。いずれもヴァレリーに連なる趣のものだったという印象が残っています。

 本日は「呼び水」の一例を示したもので、「アベノマスク」や「大阪の雨合羽」にはいささかの興味もありません。呼び水に使う水はどこから来ているのか、考えてみれば、組み上げる水は地下水であり、それはいたるところから集まっているもので、なんとも不可思議な感に襲われます。いろいろな水は混合されており、あるいは「海水」のごとく、西洋と東洋も一つながりであるのかもしれないという気もしてきます。まあ、一種の「幻想」ではありますが。だから、この年になるまで、随分遠くまで歩いてきたものだという感想を持ちますが、いや、実は生まれてこの方、ほとんど居場所は変わっていないという気もしてくるのです。

● バレリー(Paul Valéry)(1871―1945)= フランスの詩人,評論家,思想家。地中海の港町セート生れ。マラルメの門下に入る。創作の意識的方法論を述べた評論《レオナルド・ダ・ビンチの方法への序説》と小説《テスト氏との一夜》(1896年)を発表後,突然筆を捨て深い思索生活に沈潜する。1917年女性の夢から目ざめへの意識を歌った長詩《若きパルク》を発表,詩集《魅惑》に収められた詩がこれに続き,象徴主義の最後を飾る大詩人とうたわれる。1925年アカデミー会員となり,ヨーロッパ各地で講演,フランスの知性を代表する存在となる。文学,哲学,政治などにわたる分析的精神に貫かれた文芸批評を書き,これが《バリエテ》5巻となる。その他未完の遺作の戯曲《わがファウスト》,生涯書き続けられた覚書《カイエ》など。ド・ゴール政府により国葬。(ニッポニカ)

____________________________________