手を空にのばせば我も五月の木

 もう五月も終わり近くです。「いろいろなことがあり皐月末」(無骨)、ですね。春は曙(あけぼの)がことのほか趣があって、「夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、 ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし」と書くのは清少納言(康保3年頃〈966年頃〉 – 万寿2年頃〈1025年頃〉)。千年の後の今はどうか。春も夏もあったものかは。降れば土砂降り、晴れれば日照り、昼と夜の境もないくらいに、煌々と灯りがともり、そのエネルギーがまるで限界がないほどに乱用される始末。まさに天変地異野人際のうち続く世界にぼくたちは住んでいます。住んでいるというのではなく、それこそ、身を粉に出んばかりに「齷齪・偓促(あくせく)」しているんですね。

 「齷」は「あく・こせつ(く)」、こせこせするという。「齪」は「さく・せく・しゅく・つつし(む)です。「偓促」の「偓」は「あく・かか(わる)」で、物事にこだわる、こせこせするの意。「促」は「そく・うなが(す)」で、その意は「せかせる」「せわしい」という。日がな一日、何もしないで息だけをしているつもりでも、何かに急き立てられ、こせこせしている自分を見て、可哀想になります。身の置き所はどこにあるのか。

 少し前に「ハナミズキ」という歌(一青窈さんの作詞作曲)を紹介したことがあります。「空を押し上げて 手を伸ばす君 五月のこと」このイントロ部分が妙に聞きたくなって、自分でも驚いている。

 きっかけはプロ野球チームの監督起こした娘への暴行事件を知ったこと。その報道を知った瞬間に、この曲がぼくの中に流れたのでした。今では全く興味を失ったプロ野球ですが、この「家庭内暴力」には驚きました。それをとやかく論じる資格がぼくにあるとは思いません。でも、と思う。つくづく思うのです。京都南丹市の児童殺害事件は「本当のお父さんでもないのに」と息子に詰(はじ)られたて「カッとなって」(つまりは「キレた」挙句)の殺害だったとされます。今回は有名なプロ野球チームの監督が「娘に盾突かれて(悪態をつかれて)」、カッとなって暴行に奔ったというのです。いかなる理由があれ、「暴力はいけない」と世の訳知りたちは言います。「そうかい?」とぼくは思う。いかなることがあっても戦争はダメだ、と言われる。なにを言ってるんだと思う。「正当防衛」というものが認められなければ人間社会は終わる。単に強いものだけがノサバルことによって、です。

 他人の家庭のことはぼくにはわからない。だからそれをとやかく言えた義理ではないと思っています。「いま父から暴力を受けている」「どうしたらいいか、教えて、チャッピー」と、「18歳の長女が対話型の生成人工知能(AI)『チャットGPT』に相談し、その答えに沿って児童相談所へ通報、警察が動いた」と報じられていました。ぼくも驚いた一人だったかもしれません。とっさの瞬間に、「チャッピー」に尋ねるという習慣が出来上がっているのでしょうか。母親や、妹もいたと思うのですが、とにかく「チャッピー」だったとするなら、多くの家庭では「スマホの中のカウンセラー」「スマホこそが友達」、それが救いの神のようになっているんですかね。

【梵語】チャッピーのお言葉 長女への暴行容疑で逮捕、釈放、監督辞任と、立て続けに目を引くニュース速報が流れた。プロ野球巨人の阿部慎之助監督である。同じか、それ以上に多くの人を驚かせたのは、18歳の長女が対話型の生成人工知能(AI)「チャットGPT」に相談し、その答えに沿って児童相談所へ通報、警察が動いたことではないか▼まだ分からないこともあり、今回の件はいったん置くとして、若者らが「チャッピー」と呼ぶAIが、話し相手として相当に浸透しているのは間違いない▼民間の調査で、小中生の約半分は「死にたい」「消えたい」気持ちの相談先にAIを選んでいた。18歳から29歳に「AIを人間に例えたら」と問うたところ、社会人は「カウンセラー」、学生は「友達」との答えが最多だったという▼AIは蓄積した対話のデータを基に、利用者に合った即答を示すため、自分を理解してくれていると感じやすいらしい▼ただ、その心地よさに依存し、生身の人を避けるといった弊害も言われる。米国ではAIに没頭して誘導され、自死や親の殺害に至ったとされる事件が続く▼環境学者の枝広淳子さんは、簡単に結論を出さず「わからなさの中にとどまり続ける能力」が、人間の成長や新たな発想につながると説く。確かにチャッピーにはないだろう。(京都新聞・2026/05/27)

 緊急避難的に児童相談所に、当の本人から連絡が入ったら、当然のように「警察」につながるのは規則があるからでしょう。まして、「暴行の進行形」だった場合はなおさらに緊急に連絡がつけられるのは、児相の果たすべき義務の履行だったでしょう。問題は、どうして「チャッピーに」助けを求めたのかという点にあるのかもしれません。ぼくはスマホを持たないし、パソコンを使って駄文を作っているだけの人間です。そのパソコンにも最近は、あの手この手を駆使して「AI」が登場し、「いつでも、どんなことでも相談に乗りますぜ」と、しきりに誘いを掛けたりします。詳細は調べていないので無理解のままですが「Geminiに相談」とうバナーがいつの間にかアドレスバーに張り付いている。「チャットを開始」とか何とか。以前にも書いたと思いますが、いずれAIが今以上にパソコンに入り込んでしまうと、(ぼくにとって)極めて不都合になります。そうなれば、ぼくはパソコン使用そのものを止めることを決めています。たぶん、今はもう「カウントダウン」に入っている段階です。

 要するに、ことほど左様に、まるで勝手にパソコンが操作されているのではないかと思うことがしばしばです。京都新聞の【梵語】の結論は陳腐である以上に、何を言ってるんですかという半端なものだったとぼくには思われました。「環境学者の枝広淳子さんは、簡単に結論を出さず「わからなさの中にとどまり続ける能力」が、人間の成長や新たな発想につながると説く」と、いかにも専門家そのものの「卓説」を紹介している。それはその通りで、「急(せ)いては事を仕損じる」ということもある。でも、この暴力進行形の渦中にある人間(長女)からすれば、「簡単に結論を出さす」「わからなさのなかにとどまり続ける能力」ってどんな能力ですか?、と聞き返したくなります。まさか、「殴られ続けなさい」というのではないでしょ。だったら、その能力はいかにして育つのでしょうか。育てられるのでしょうか。

 「怒りと怒り」がぶつかっている、まさに「情念」の争いです。そんな緊急時に悠長なことは言っておられません。ぼくはいつだって、「握っている拳を開け」といってきました。拳を全開したままでは、人間は怒れないのだ。これは哲学や道徳の問題ではなく、生理学の問題です。口を開いたままで「i:」という発音をしてみようと想定してごらん、きっとそれは「e:」という発音に近くなり、唇は閉じられそうになるはず。必要な行動がとれる体勢というものがあるのです。「腹を立てたままで、怒っている自分とは和解はできない」んですね。ぼくは自分でも呆れるほど「短気(quick temper)」です。あるいは「瞬間湯沸かし(instant water heater)」と同定されても仕方がない人間と、欠点の強さを自覚しています。そんなぼくでも、「握った拳を開く」ことぐらいはできそうで、その訓練をかなりしてきたと思う。「怒りの情念からの解放」、これこそが、ぼくには何よりも大切な生きる術(すべ)でしたから。

 この監督にはいくつもの不幸(不運)が重なっていました。チームが負け続けていたこと(4連敗中)。選手が思うように働いてくれない運の悪さ。翌日からは「両リーグの交流戦」だから、心機一転の「家庭内飲酒」でしたが、これもよくなかった。そしてその悶々の中での「娘たちの喧嘩」が隣で発生していた。拳を開けない監督は「カーッとなって」どなったら、予想外に、娘から「逆襲」を受けた。(敬遠のサインで)打者を塁に出せと指示したのに、あろうことか相手バッターに「ホームラン」を打たれてしまったという場面。酒が入っていたし、「高めに外せ」と言っていただろうと、キャッチャーに文句を言ったら、逆に言い返された(反抗された)。事の顛末は、終わってみれば「お粗末くん」の限りです。

 怒りに襲われたままにしておくと、「辞める必要のなかった監督を投げ出す羽目になる」という教訓は残りました。「握っている腰を開こう」、そして「五月の青空を見上げ」ようか。「君と好きな人が 百年続きますように」(「ハナミズキ)」

(余話ながら 「チャッピー」は今のところは純然たる辞書(「答えてくれる」電子辞書)、つまりは「TOOL」でしょう。しかし、AIのもう一面が「AGENT」、行為の主体であるという実態です。むしろ、こちらの方がはるかにすごい勢いで開発されています。一般の家庭にも入る時期は遠くないでしょう。今回の「DV」は、父親対長女の「情念同士」の戦いでしたが、やがて、そこにAIが加勢する時期が来るかもしれません)

(*表題句は飯田晴さん。昭和29年(1954)千葉生まれ、千葉県八千代市在住)

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教育は、不当な支配に服することなく

 「教育の中立性」を犯しているという廉(かど)で、個別の学校を批判・非難し、措置命令を出し、あるいは認可取り消しにまで発展することはこれまでになかったこと。今回の事案に限って、文科省・文科大臣は何を勘違いしたのでしょうか。「沖縄平和学習」という名目で修学旅行を沖縄に選んでいる学校をいくつも知っているし、中には沖縄出身の教師の引率で毎年のように出かけている都下の中学校の恒例行事もよく話に聞いていました。今回特に問題になったのは、修学旅行の「平和学習の地」が辺野古に建設中の基地周辺だったこと、あろうことか、その平和学習の最中に乗船していたボートが転覆して、不幸にも2名がなくなったこと(内、1名は高校生)、加えて、平和学習の機会を提供した団体が無許可で船を運航していたこと、並びにそこは基地建設反対運動主体(根拠地)でもあったことなどなど、さまざな問題点が一気に明らかになったのでした。いったい、なが問題なのか、十分に理解・解明されないままで、政治判断が下されたということに、小さくない驚きを感じてしまいます。

 (有体に言うなら、事故死を勿怪の幸いとして、苦々しい「基地建設反対運動」団体を潰したいという、政権与党の圧力に「不倫文科大臣」が屈したという図ではないか。これを「奇貨(「利用すれば思わぬ利益を得られそうな事柄・機会」デジタル大辞泉)として、最大限に悪用したのだ。こういえば、不謹慎の誹りを受けるでしょうが、「よくぞ犠牲者が出たものだ」と言いたげでもあると、ぼくは思っている。D高校とその「平和学習」が不当な支配を受けたのだ。戦争のためだけに使われる、無駄な工事を批判することが「政治的中立」を犯すという、笑止千万をどうしますか)

 今次の事故で、いったい何が問題だったか。あるいは問題とすべきだったか。これまでにも明らかにされた部分はあるし、さらに問題の詳細な検討を必要とするものもあるでしょう。この段階で、何よりも、文科大臣が「同校の辺野古での学習が政治的活動を禁じる教育基本法14条2項違反だと断じ、学校法人同志社などに指導通知を発出したと発言した」点にあるのは否定できません。これと似たような「政治活動」とみなされる教育を実践している学校は、これ以外にもいくらもあるし、件の私立高校は、これまでにも辺野古での平和学習をプログラムに取り込んでいました。にもかかわらず、今回の事案だけを取り上げる根拠は何だったのでしょうか。

 「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない」という教育基本法制定の趣旨は、前川喜平氏が指摘されている(「本音のコラム」)ように、「この条項は本来教育者自身の自律のための規範である」というべきで、今次の事件(事故)をもって法律違反の判断を下すこと自体、政治的に大きな問題を含んでいるとしなければなりません。教育基本法制定(昭和22年)以来初めての「適用」であるというのですから、なおさら、どうして? という疑念は残ります。法制定以来八十年、この条文の適用がなかったのはなぜでしょうか。あるいは今回はじめて「適用された理由」は何だったのでしょうか。

 (そもそも、憲法や教育基本法などは、国家権力が個別の国民や学校・教師を訴えることは想定していません。誤解されるのを粗油地でいうなら、政治権力の側の不作為や作為に憲法違反や教育基本法違反の恐れがあることを想定して、そうならないための「防衛線」を張るという性質のものです。時雄首相や防衛大臣が憲法九条を改正して、自衛隊を国軍にするのだという憲法改正を口にすること自体、ある意味では「憲法遵守義務」違反に当たるでしょう。「第九十九條 天皇又は攝政及び國務大臣、國會議員、裁判󠄁官その他の公󠄁務員は、この憲󠄁法を尊󠄁重し擁護する義務を負ふ。」(日本国憲法)

◎ チャールズ・D. ラミス(Charles Douglas Lummis)(1936 - )= 米国の日本研究者。元・津田塾大学教授。サンフランシスコ生まれ。1958年海兵隊入隊、’60年占領軍として来日。除隊後、奈良に生活しはじめ、さらに斉藤靖子との出会いが日本理解を深めた。のちに京都や東京、アメリカで日本研究を進める。カリフォルニア大学サンタクロース校、西ワシントン州立大学、フェアヘーブン大に勤め、’75年娘の誕生で、日本に腰を落ち着ける決心し、津田準大学教授に就く。’69年以来「AMPO:Japan-Asia Quarterly Review」の編集・発行に関与。’71年カリフォルニア大学バークレー校で博士号取得。主著に「イデオロギーとしての英会話」(’76年)、「内なる外国―「菊と刀」再考」(’81年)など。(20世紀西洋人名事典)

【本音のコラム】文科相の教育基本法違反 前川喜平(現代教育行政研究会代表) 22日の記者会見で松本洋平文部科学相は、同志社国際高校の研修旅行中に辺野古沖で起きた事故に関し、同校の辺野古での学習が政治的活動を禁じる教育基本法14条2項違反だと断じ、学校法人同志社などに指導通知を発出したと発言した。しかし、この条項は本来教育者自身の自律のための規範である。▼むしろこの大臣発言と指導通知こそ、教育に対する不当な支配を禁じる教育基本法16条1項違反だと考えるべきだ。政治学習や平和学習の取り組みを抑え込むために、不幸な事故を政治利用したのだと言ってよい。▼そもそも文科省が同志社に「現地調査」を行ったのが変だった。学校管理下の児童生徒の死亡事故は毎年数十件起きているが、通常文科省は直接の調査は行わない。磐越道で起きた北越高校の部活遠征中の事故でも「現地調査」は行っていない。同志社を狙い撃ちしたのは、事故が辺野古で起きたからだ。背後には政権の政治的な意図が働いていると見るべきだ。▼政治学習や平和学習は、教育基本法が教育の目的とする「平和で民主的な国家及び社会の形成者」の育成に不可欠の学習だ。そこには現実の政治への批判が当然含まれる。その批判を封じるために政権が持ち出すのが「政治的中立性」という言葉なのだ。そんな合法性を装った不当な支配にひるんではいけない。(東京新聞・2026/05/24)
【斜面】辺野古の海 美しいエメラルドグリーンの海が印象的だった。沖縄本島の北部、辺野古を取材で訪ねたのは文化部記者だった2005年春。沖合に宜野湾市の米軍普天間飛行場を移設する計画に反対する住民らの座り込みは、既に8年を過ぎていた◆那覇防衛施設局(当時)が建てた海上のやぐらの上での座り込みも続いていた。参加した浦添市出身の大学生の話が忘れられない。施設局の作業船で部品の交換に来た高齢の作業員が、小声で話しかけてきた。「あなたはウチナーンチュ(沖縄人)か」◆同郷と知って、作業員はこう話した。持病があるが息子の結納金のために働いている―。移設に携わる人も反対する人もウチナーンチュだ。大学生は涙が止まらなかった。計画が持ち上がった1997年以来、地元は国策に引き裂かれてきた。そして今年3月、重大事故が起きた◆辺野古沖で平和学習中の小型船が転覆し、京都の高校2年の女子生徒と船長が亡くなった。船は抗議活動に使われていたものだ。運航団体も、学校側も安全管理があまりにおろそかだった。実態解明を徹底した上で厳しく責任が問われなくてはならない◆一方で、なぜ抗議活動が30年近くに及んでいるのか。移設を巡り沖縄は繰り返し「ノー」と意思表示し、7年前の県民投票は反対が賛成を圧倒した。それでも政府は応えない。沖縄の民意が無視され続けるのはなぜなのか。本土の私たちが問われるべき、この事故のもう一つの核心である。(信濃毎日新聞・2026/05/27

(*ヘッダー写真:沖縄テレビ放送・2026/05/06)(https://news.yahoo.co.jp/articles/33c31e97dce5da5f24e0e6a76e94dc94d096a919

(⁂文科省・同志社国際高校に教育基本法違反の見解)(https://www.qab.co.jp/news/20260525294484.html)                                (⁂辺野古の事故から1ヵ月 遺族が伝える「note」)(https://www.qab.co.jp/news/20260416290581.html

【近口木舌】歴史を捻じ曲げてきたのは 「サイタサイタ サクラガ サイタ」「ヘイタイサン ススメ ススメ」。教科書でこう学び、兵隊に憧れた子どもたちの命は、沖縄戦で使い捨てにされた▼この体験から殉国美談にあらがった元学徒たち。中山きくさん(享年94)は、2007年の「集団自決」(強制集団死)を巡る教科書検定意見の撤回を求める県民大会で共同代表となった。「元全学徒の会」もたびたび問題を訴えてきた▼文部科学省が政治的中立に反すると同志社国際高校を指導した。しかし、政治的意図で沖縄戦の史実をねじ曲げたのは文科省ではないか。1982年の教科書検定で住民虐殺の記述を全面削除した。2007年の検定意見も官邸主導▼「沖縄の苦悩を全く顧みない、歴史認識を欠いた心ない行為を繰り返してきた」。沖縄を切り離した「屈辱の日」を「主権回復の日」として政府が祝った13年前の4月28日、中山さんが発した言葉を思い返す▼第32軍が首里を放棄し、南部撤退したのは81年前のきょう。住民の命を再びないがしろにしてはならぬという訴えを無駄にはしまい。歴史の実相をゆがめず伝えていく意を強くしている。(琉球新報・2026/05/27)

 これまでにも同高校は、平和学習のコースとして辺野古基地建設問題を扱い、同地に学習の機会を設定していました。今回のような「死亡事故」が起こらなかったのは、幸いなことでしたし、だから文科省も問題視しなかった(問題にできなかった)というべきなのではないでしょうか。文科省の判断によると、これまでも、同校は「教育の政治的中立を犯していた」のは事実だったのだから、なぜ、今回だけ、それを問題にし、立ち入り調査(現地調査)までしたのか。理由は明白でしょう。「文部科学省が政治的中立に反すると同志社国際高校を指導した。しかし、政治的意図で沖縄戦の史実をねじ曲げたのは文科省ではないか。1982年の教科書検定で住民虐殺の記述を全面削除した」(「金口木舌」)のは事実でしょう。恣意的に今回の「是正措置」を出した文科省こそが、「不当な支配」を犯したというべきではないかと思う。文科省の「勧告」に類する措置は「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり…」(教育基本法第十六条)とある、法の趣旨にあからさまに違反しているのではないか。(亡くなられた方に心からの哀悼の意を称します)

(政治教育)第十四条 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。
2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。

(教育行政)第十六条 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
2 国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。
3 地方公共団体は、その地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない。
4 国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。(教育基本法)

 死亡事故が起きてしまったことに関しては、詳細にその原因究明を果たし、再発の防止を何よりも図らなければならないのは言うまでもない。当然、その責任の所在を明らかにすることは避けられません。取り返しのつかない結果を招いたのですから、それを不問に付すことはできない。まずはそれだけの問題解決を図ったうえで、「政治的中立性」違反を理由にする文科省(政権の干渉)の「不当な支配」にこそ、ぼくたちは注意を向けるべきでしょう。さらに「(教育行政の名による)偏向教育」を重ねようとする政治支配が学校教育を一層抑圧する方向に歩を進めることは疑えないのです。ただでさえ委縮している学校教育が、さらにあらぬ方向に曲げられる恐れを感じるがゆえに、この「不当な支配」問題を深くとらえなおす必要がありそうです。(左図は下掲の西日本新聞による)

参考資料 「辺野古学習に「政治的な偏り」 文科省が教育基本法違反と初認定 同志社に是正指導 沖縄県名護市辺野古沖で船2隻が転覆し、同志社国際高(京都)の女子生徒ら2人が死亡した事故で、文部科学省は22日、米軍普天間飛行場の辺野古移設への抗議船に生徒を乗せ、特定の見方に偏った教育をしたのは政治的活動を禁じる教育基本法に反するとして、高校を運営する学校法人同志社(同)に是正を指導した。安全管理も「著しく不適切」だと指摘した。文科省によると、政治的中立性を巡り同法違反を認定するのは初めて。/国が個別の教育内容に関して中立性を欠いたとの見解を示したことに、専門家から学校現場の萎縮を招きかねないとの懸念も出ている。/一方、船が事業登録していなかったとして内閣府沖縄総合事務局は22日、海上運送法違反容疑で死亡した金井創船長(71)を刑事告発した。/文科省は、辺野古移設の学習で、生徒を乗せる船が抗議船だと複数の教員が認識していたことや、生徒に多面的見解を十分に提示しなかったのは問題があると判断。「特定の見方・考え方に偏った取り扱いだった」と認定した。事前下見をせず、船に教員が同乗しなかった点は安全上の重大な判断ミスだとした。(↷)

 法人への指導通知では、安全対策の強化や辺野古学習の是正に加え、遺族や生徒への丁寧な説明も求めた。文科省は近く全国の学校を対象に、教育活動の実施状況が適切かどうかを調査する。松本洋平文科相は22日の閣議後記者会見で「ガバナンスに問題があり、法人や学校の責任は極めて重い」と語った。/学校法人同志社はウェブサイトで「心よりおわび申し上げる。極めて重大な責任を痛感している」と謝罪し、同志社国際高も「重く受け止める」とするコメントを公表した。高校を所管する京都府の西脇隆俊知事は、助成金の減額を示唆した。/文科省は4月24日に学校法人に聞き取り調査を実施し、京都府と連携して安全管理体制や経緯を確認していた。/事故は3月16日に発生。「ヘリ基地反対協議会」が運航する2隻のうち金井船長の「不屈」が転覆。救助に向かったとされる「平和丸」も転覆し、この船に乗っていた武石知華さん(17)が死亡した(以下略)」(西日本新聞・2026/05/23)

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若葉して手のひらほどの山の寺

 表題句は漱石作。同じく「若葉」の季語では「荒滝や満山の若葉皆震ふ」とも詠んでいます。「草枕」「二百十日」などでも示されたように、作家には山や緑や草などに寄せる深い愛情・親和があったと思われます。にもかかわらず、その「緑」に関して、彼には驚くような逸話がたくさんありました。その一つ。正岡子規と出会った頃(大学予備門の入学試験で出会った)、二人で東京近郊(早稲田辺り)を歩いていた。明治二十年代だったか。季節は今時分だったでしょう。早稲田田んぼなどと称されたように鶴巻町近くにはたくさんの田には稲が伸び始めていた。漱石は子規に「この緑は何だ?」と尋ねたという。漱石は江戸っ子だった(から知らなかったのか)。子規は「これは稲(の苗)、お米になるやつだ」と教えたようだが、それを知らなかった漱石に驚嘆したと、書いている。

 とにかく、百年前の初夏もまた、鮮やかな緑、明るい緑で都市近郊も満たされていたに違いありません。生きとし生きるものには格好の季節到来といえるかもしれません。小学校唱歌「若葉」が発表されたのは昭和17年2月。作詞松永みやお(まつなが・みやお)。(1902~1988)、作曲平岡均之(ひらおか・きんし)(1901-1976)。まさに、この国が戦争にかかりきりになっていた時期でした。この唱歌が登場した背景に、戦争が色濃く刻印されていたといえば、笑われるでしょうか。興ざめするので、これ以上は詮索しません。

 (でも、余談としてちょっとだけ触れる。 「鳥居をつつみ わら屋をかくし」「田はたをうずめ 野山をおおい」と豊かな緑を謳っているのでしょう。でも「かくす」「つつむ」「うずめる」「おおう」という一連の言葉が妙に気になりませんか。この両者には、戦時中の「唱歌」で、戦争の色が滲(にじ)でものもありました、当たり前ですが)

 しかし、「戦時中に、こんなに長閑な」といわれるような歌はたくさん作られていました。歌は、応用が利くというか、勇ましいばかりが効果を発揮するものではないでしょう。ぼくはよく「言葉が旗になる」「歌が旗になる」といいます。一致団結の呪(まじな)いみたいな、ある種の麻薬のような効き目が「言葉」や「歌」にはあります。「この指とまれ」という類ですね。あからさまな「戦意高揚」でなくても、日本のよさ、故郷の美しさを謳いあげることは、心を一つにする抜群の効果があるのではないでしょうか。この若葉は、たぶん「緑のシェルター」に擬せられたんですね。

(⁂ 「若葉」東京放送児童合唱団)https://www.youtube.com/watch?v=gLuKxJs-SWE&list=RDgLuKxJs-SWE&start_radio=1)     (⁂ 「若葉」フォレスタ)https://www.youtube.com/watch?v=am69fKnGz1s&list=RDam69fKnGz1s&start_radio=1

「若葉」(初等科音楽・二)

あざやかなみどりよ
あかるいみどりよ
鳥居をつつみ
わら屋をかくし
かおる かおる
若葉がかおる


さわやかなみどりよ
ゆたかなみどりよ
田はたをうずめ
野山をおおい
そよぐ そよぐ
若葉がそよぐ

 つまらない思い出話をしましょうか。大学の3年か4年生の時(1966-7年ころ )、学内は大荒れで、ほとんど授業もできない日々が続きました。そんな中で、学部当局は大きな講堂に学生を集め、闘争(授業ボイコット)の収拾(授業再開)を図ろうとしました。その手段として、学生担当の教員が壇上に立って、大学の校歌を謳おうではないかと、アカペラで、自らが歌い出したことがあります。ぼくも一人の学生として講堂内にいましたが、歌う気がなかった。結局、ほとんどの学生は「歌うことを拒否」して、学部当局の愚かな集会作戦は失敗に終わった。その時に、「校歌」を謳えば心は一つになると、無考えに突出した教師の無様さ・無能さに、ぼくは慨嘆したものでした。まったく「効果」はなかった。その瞬間にも、「こんな大学に入るなんて、いったいお前はどうしていたんだ」という慙愧の念が湧きだしました)

 国歌斉唱という掛け声で、起立して歌う・歌わせることで「国民(集団)の心を一つに」できるという、アナクロニズムが透けて見えます。「国旗損壊罪」とか言っていますね。各々がた(政治家諸君)、あなた方が大事に思っているふりをしている「国旗」とか「国歌」に照らして恥ずかしくない政治をしているんですかと、ぼくは逆に、投げ返してやりたいと思う。国歌損壊罪の中には「お子様ランチの日章旗」は含まないと、政権与党は、まじめに法案原案(前段階)の中に書いているという、ビックりするような、隠しようのないグロテスクさです。そんなこんなの趣旨や「時代背景」を十分に考量しても、なお「若葉」は、さわやかないい歌ということになるでしょうか。

 (政治と政治家の愚劣さを示す一例。京都の私立高校生が修学旅行で沖縄に出かけ、辺野古の海岸で乗船した小舟が転覆し、高校生と船長の2人が死亡した事件がありました。それについて現文科大臣は「高校側は教育基本法違反である」と、その是正(政治的中立性)を求めたという報道がありました。教育基本法を犯しているのは「文科大臣」その人であって、「政治的中立性」に著しく反していますよ、あの不倫事件は。この手の非道徳人間が文科大臣とは、これいかに。ここでも「バカは死ななきゃなおらない」を謳わなければ、ね)

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 話題は急展開します。本日の高知新聞コラム「小社会」です。こういう職人が活躍しているというのを知ると、当方まで嬉しくなりますね。「高知市であった4月の市で40代のお兄さんが、カシの丸太を座って見つめていた。日高村の製材業の3代目。『2年待った。久しく出んかったのよカシが』」「一本一本の木の個性と向きあうのが大事だと、兄さんは語る。『めんどくさい仕事です』」こんな言葉を聴くのは何年ぶりでしょうか。京都にいたころ、小・中学校の同級生には「製材」が家業の人が何人もいました。ぼくはそんな友人の家に行って、日がな製材用の鋸(のこぎり)が回って、木材が製材される様子を見ていて飽きなかったし、どこかで家を建てていると、これも飽きずに眺めるのが大好きでした。つまりは「木材好き」だったんですね。時には「大工さん」になることを夢見ていたこともありました。

 コラム氏の結びには全く同感を覚えるばかりです。「一本一本の木の個性と向きあうのが大事だと、兄さんは語る。『めんどくさい仕事です』。侵攻、グローバリズム、果てなき物価高騰と、錯乱する時世に、ただ静かに、生かす手を考え、木目を読んでいる人がいる。なぜだか心洗われる」ぼくは、ここに出ているような、職人が木材を見つめる眼差しに、教師が子どもを凝視する姿を早い段階から感じ取っていました。「一本一本の個性と向き合う」とは、なんという大事な、しかも優しい心使いであり、視線であることでしょうか。唱歌「若葉」にも同じような視線や心遣いが感じられるでしょうか。

【小社会】静かに木を読む シイ、ホオノキ、アスナロ、モモザクラ、ミズメザクラ…。木の水分が多い初夏5月。季節外れの原木市ではあるのだが、それでもラインアップは面白い。◆中を割ってみないと分からない、「ばくち」の世界。だから木にまつわる仕事人は勝負勘が大事らしい。とはいえ、日々の作業は実に繊細。◆高知市であった4月の市で40代のお兄さんが、カシの丸太を座って見つめていた。日高村の製材業の3代目。「2年待った。久しく出んかったのよカシが」。本をめくるように木をなぞる。競りが始まると、「虫がいるね」と指摘した。よく見ると針先のごとき穴が。これも駆け引きだ。程よく安く落札し、兄さんの「よしっ」という、心の声が聞こえてきそうだ。◆業界は長年、テンションの上がる話題がない。昨今の米、イスラエルの空爆に端を発する中東の混迷はことさら深刻だ。「ナフサ不足で、木材の結束バンドすらないんだから」◆さて買ったカシは―。梅雨明けまで丸太で干し、盤にしてさらに干し、「一回ねじくれさせて」から、サイズを落として材にする。最後は何に化ける? 「船の櫂(かい)とか」。へー、と思わず声が出た。◆一本一本の木の個性と向きあうのが大事だと、兄さんは語る。「めんどくさい仕事です」。侵攻、グローバリズム、果てなき物価高騰と、錯乱する時世に、ただ静かに、生かす手を考え、木目を読んでいる人がいる。なぜだか心洗われる。(高知新聞・2026/05/26)

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明易き絶滅鳥類図鑑かな(矢島渚男)

 余りにも美しい景色に思われましたので、写真を使わせてもらいました。「お見事!」と、図らずも声を上げてしましました。(くどいようですが、本当に素晴らしい写真だったとぼくには思われたので、新聞社に電話をかけて、写真を撮影された方に「いい写真を見られたことのお礼を伝えてください」と頼んだほど)一方では、乱獲や理屈をつけて害鳥退治などと称して、ついには絶滅、そして貴重な卵を育て、雛を孵(かえ)し、一人前のコウノトリ(学名はCiconia ciconia)に育てる。それを天然記念物に指定し、大事に保護して、大いに繁殖が進み、…。

 またまた、増えすぎたといって乱獲、絶滅。こんな愚かしい、悪魔的な愚行のくり返しをしてきたのが人間だったかもしれません。人口減少も、それによく似た足跡をたどってきたと思う。絶滅にいたる道は戦争ですよ。産んで育てて、殺して絶滅寸前。考えるまでもなく、人間という種族は残酷でもありますね。その一員であることをぼくたち自身は忘れてならないでしょう。コウノトリの神秘的美しさは、本来、人間種族にも備わってるんでしょうがね。(キリスト教の一派に、人類の誕生から破滅までのくり返しの歴史、おそらく数百回を数えるのだという説を唱えるものがあるほどに、人間の愚かしさには極まりないのですね)

 いすみにコウノトリ飛来 1年半ぶり、2羽確認は初めて いすみ市に5月、国の特別天然記念物コウノトリ2羽が飛来した。23日は田植え後の水田に一緒に入り、餌を探すなどの姿が見られた。離れた位置から住民らが静かに見守っていた。市によると、市内飛来は約1年半ぶり。一度に2羽が確認されたのは、市の把握する2014年以降で初めて。
 市農林課などによると、1羽は個体識別の足環(あしわ)の情報から、25年4月に茨城県行方市の人工巣塔で生まれ、同6月に巣立った雄。もう1羽は足環が付いておらず、性別も不明。5月上旬から場所を変えて同じ個体とみられる2羽が目撃されている。
 いすみ市は自然と共生する里づくりを掲げ、有機農業などの取り組みを推進している。担当者は「貴重な野生生物が飛来してくれるのは喜ばしいこと。2羽が雄雌のペアかは分からないけれど、このまま居着いてくれたら」と期待を示した。
 同課によると、14~24年の飛来は全て1羽。前回は24年11~12月ごろに確認された。(橋本ひとみ)(千葉日報・2026/05/24)(ヘッダー写真も)

こう‐の‐とりこふ‥【鸛】〘 名詞 ① コウノトリ科の鳥。全長一一〇センチメートル、翼開張二メートルに達する。体は純白で翼の大部分は光沢ある黒色。カエル、魚などを主食とし、マツその他の高木の樹頂に営巣。古来「松上の鶴」と表現されるようにツルとしばしば混同されるが、あしが赤く、頭頂部は赤くないことで区別できる。鸛鶴(こうづる)ともいう。アジア東部に分布し、日本ではかつては各地で繁殖していたが、明治以降に激減し、いまは冬季に大陸から渡来するのみ。特別天然記念物。ヨーロッパ産の亜種はシュバシコウといい、子を守る愛情の深い鳥とされ、また、人間の赤ん坊を運んでくるという伝説がある。鴻(こう)。〔書言字考節用集(1717)〕② コウノトリ科の鳥の総称。脚と頸が長く、比較的頭と嘴の大きな、大形の鳥。水辺や草原にすみ、小動物を主食とする。アフリカ、アジアの熱帯に最も多く、世界に一七種を産する。日本にはコウノトリのほか、稀にナベコウが渡来(精選版)日本国語大辞典)

鴻巣(こうのす)の地名の由来と鴻神社 「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、また、一時この近辺に国府関連の施設があり、荒川や元荒川などを利用した水運も盛んだったと推測されることから、「国府の洲 こくふのす」が「こうのす」となり、後に「こうのとり」の伝説から「鴻巣」の字をあてるようになったと思われます。
 国府のことを「こう」と呼ぶのは、他の地名(国府台[こうのだい]、国府津[こうづ]など)からも類推され、国府のお宮を国府宮(こうのみや)と呼ぶのは、愛知県稲沢市にある尾張大国霊神社、別名国府宮(こうのみや)など、全国でも例があります。
 このことからこうのとりのお宮「鴻の宮」は「国府の宮(こうのみや)」であったのではないでしょうか。※笠原直使主(かさはらのあたいおみ)6世紀に活躍した豪族で行田市の埼玉古墳群の中の稲荷山古墳にまつられています。そこから出土した大和朝廷から拝領したとされる金象眼銘の鉄剣は国宝に指定されています。鴻神社は氷川社・雷電社・熊野社をはじめ、多くの神々をまつる鴻巣総鎮守で社殿の脇にそびえる大いちょうの下、四季折々に様々な祭りが行われます。(鴻巣総鎮守 鴻神社)(https://www.koujinja.or.jp/legend/

 兵庫県豊岡といえば、今では「コウノトリの里」としてよく知られています。時々、ぼくはこのサイトに寄り道して、しばし見惚れていることがあります。佐渡の鴇(とき)と双璧をなす、鳥の町でもあります。今もおられるかどうか、数年前に、この施設にロシア人の女性が働いていました。彼女は熱心に鳥の世話をし、その心優しさに打たれたことがありました。ある日の夕食、子どもと一笑に夕飯を食べようとして、「お母さん、今日はどんな料理なの」と子どもが尋ねたところ、彼女はもじもじして堪えづらそうんしていましたが、買ってきたたものを見ると、なんと「焼き鳥」でした。「こんばんは、ヤキトリがおかずです」と言った、その時の彼女の表情が忘れられません。(豊岡市H.P.:https://www.city.toyooka.lg.jp/

*表題句は矢島渚男さん作(1934~ )。長野県丸子町まれ。県内高校教師などを務めた。ぼくは、この俳人の全貌を全く知らないままで生きて言いました。大学時代には作家の大江健三郎さんと同期だったという。句中の「明け易き」は「明易(あけやす)」、「明け易し」で、夏の季語。「短夜(みじかよ)」に同じか。

そばがらをこぼす枕の明け易き(山口青邨)                                                                             
・みしか夜のにわかにあけるけしき哉(子規) 
・短夜の寺ただ白き花ばかり(飯田龍太)などなど。 

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馬鹿は死ななきゃ治らない

 3日前の読売新聞「社説」を読んで、咄嗟に「虚報(Fake)」だと受け止めました。あるいは「4月1日」だったのかとカレンダーを見直したほどでしたよ。「ナフサ供給問題 企業や家計の不安を直視せよ」と、この現首相応援団長新聞が政府(監督)に注文を付けた格好だ。ポテチのカルビーがナフサ不足を想定して白黒袋に代替すると報じた際に、政権党の幹部(名前は知ってっています)は「売名行為だ」といった、こういう嫌な表現を直ちに使える政治家って、どういう奴なんでしょう。この読売の「虚報」記事が出た瞬間に「それは読売の売名行為だ」といったという報道がなかったのだから、それは「虚報」でも何でもない、当たり前の政治・政権批判報道だったことがわかる。読売は宗旨を変えたのかどうか、まさかね。

(ヘッダー写真は「大政翼賛会の発会式を伝える1940年10月16日発行の読売ニュース」「読売新聞オンライン 検証 戦争責任」(https://www.yomiuri.co.jp/sengo/war-responsibility/chapter2/chapter2-6.html

 そし昨日の産経新聞「主張」にも、「ナフサの供給 政府は不安解消に全力を」と指摘。読売と「結託」してか、「相談」してか、同趣旨の批判記事を出した。宗旨替えをしたのかどうか。「目詰まり」を起こしているとして「企業からの相談を受け、政府はその解消に努めているが、影響は続いている。供給不安の解消には、業界団体と連携するなどして、より正確に実態を把握することが重要になる」と政権応援団が神輿に担ぎ上げた「虚言症首相」を詰(なじ)っているようにも読めました。おそらく業界団体が官庁に向かって「不安」や「本音」を伝えてきたので、驚いた各省庁官僚たちは、実際のところを政府に上申した結果、そこに両新聞も加わって「政府よ、しっかりせよ」と狼煙を挙げた、それが産經の「主張」であり、読売の「社説」だったと思う。潮目が変わったのか、変わるのか。

 こんな状況で、政権は続けられるんですか。アメリカからも「円安」をどうにかしろと叱責され、なけなしの外貨「十兆円余」を溝(どぶ)に捨てたも同然の「為替介入」だったが、数日持たず元の木阿弥。国債金利は十年物で2.8%前後をを推移している。日本売りが始まったとみていいでしょう。物価高騰はさらに続き、石油危機は先が見通せない。とにかく一時間でも早く首相は辞して、疑惑弁明会見を開いて、そして議員も辞めるべきですね。この時期、「政府機関紙」の役割を果たしてきた二新聞が、おそらく「(非難や批判の)お鉢(危険)が回ってくる・きた」と、自己防衛を始めたのでしょう。どこまで行っても、「御身かわいや」ではないですか。「救国(非常事態)内閣」(この表現は大嫌いですが)を組閣すべき時ではないでしょうか。国会議員の有象無象は「丸坊主」になって、汗をかけよ、と言いたいね。

 首相自身の言動そのものが「売名行為(self-promotion)」でしかないこと、加えて彼女が言い触らしている「目詰まり(clogged)」を起こしている、それは「ご本人のこと」なんでしょ、といっておきます。目が見えないままで「首相でござい」とは笑止千万。あなた程度なら、いかにダメ政党でも、自✖党には掃いて捨てるほどいるでしょうよ。だから、そこを退いてほしい、多くの国民が迷惑しているんですよ。

(⁂~昭和石松伝~馬鹿は死ななきゃなおらない・木村友衛)(https://www.youtube.com/watch?v=tWhANx99gjI

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「徒然に日乗」(1102~1108)

◎2026年05月24日(日)応援後方(広報)部隊が嘘つき政府(高市)を叱責するの図。読売と産経が以下のような社説を書いていた。❶「ホルムズ海峡の封鎖が長期化していることで、ナフサの供給に不安が広がっている。/ナフサは、プラスチックや印刷用インキなど、さまざまな素材の原料になる。供給が不安定になっていることで、幅広い製品に影響が出始めている。/高市早苗首相は、ナフサ由来の化学製品の供給について「年を越えて供給を継続できる」と繰り返し表明している。それでも供給不安が生じている理由について、政府は企業が必要量以上に発注したり、原料は足りているのに出荷量を減らしたりして流通段階の目詰まりが生じているためだとみている。/企業からの相談を受け、政府はその解消に努めているが、影響は続いている。供給不安の解消には、業界団体と連携するなどして、より正確に実態を把握することが重要になる」(「主張」産経新聞・2026/05/24)❷一昨日の記事を遅まきながら。「(略)カルビーが「ポテトチップス」などの包装を25日以降、カラー印刷から白黒刷りに変更すると発表したのは、危機対応の象徴だ。/原油だけでなくナフサも十分に確保されていると言うなら、その実態を具体的に説明することが必要になる。政府の見解が国民の生活実感とかけ離れれば、かえって不安を招き、買い占めや買いだめが起きかねない。/政府が複雑な流通網の分析を深め、企業の不安に寄り添った情報を発信していくことが大切だ。医療など命にかかわる分野への優先供給なども課題になる。企業情報を多く持つ金融機関は、不足する製品の融通を支援してほしい。/政府は景気への配慮に傾く中で、ナフサが足りていると強調し、ガソリンなどの節約要請についても慎重な姿勢を続けてきた。/だが、ガソリンなどの節約が必要だとの認識を広げれば、危機対応の重要性への理解が深まり、ナフサの代替策を探る動きも本格化しよう。政府は、エネルギーの節約に向けて、段階的に節約を要請する手法を検討すべきだ。(読売新聞【社説】2026/05/22

 これを素直に読めば、現内閣はどこを向いても政治をしてないということ(自分の地位維持のためだけしか考えていないという意味)を、総理大臣の「手先」「犬」「政権与党の機関紙」であることを隠さない両紙が、あからさまに「事実」を書けば、こうなるという記事を書いただけ。「腐った政府」にくっついていた「腐った新聞」が「正直にナフサがないのだから、ナフサはないと言え」と国民の面前で首相を詰(なじ)っている。「お前の失政のために、我らが迷惑(批判され、購読数減)を蒙るのがわからんのか」とでも言いたそう。この国は「破綻」したも同然だ。間もなく、新聞印刷でも「白黒」に切り替わる事態が生まれると思う。それを、自民党の某幹部は「売名行為」というだろうか。言うがいい、言えるなら。誰のための「議席」だと考えているんだか。(1108)

◎2026年05月23日(土)早朝午前2時前に、寝室の窓の下で啼き声が聞こえる。横になりながら、窓を開けたら、赤虎が入ってきた。灯りを点けてみると、一か月ほど帰ってこなかった「COO(クー)」だった。帰ることができて安心したのか、しばらくは鳴声を上げ続けていた。これで二度目。午後によく猫の体を調べてみたら、「マダニ」が何匹か食い込んでいた。早速「フロントライン」を滴(したた)らせる。そして注意深く「マダニ」をはがして処分した。かなり体力的に弱っている風にも見える。とにかく無事で何より。この時間帯(午前2時前)から、起き出してしまった。▼21日に行われた「党首討論会」の録画を見たが、とてもすべてを見ることができなかった。酷いというほかに言葉がない。ようするに、この国を破綻させるためだけに「首相」を務めて、その椅子にしがみついていたいだけなんだということが分かった。そんな「首相」に諂(へつら)うことしかしない野党党首ども。経済財政破綻は目前の一座の猿芝居をしている暇があるのかね。危機意識ゼロ、緊張感ゼロ、国がダッチロールを繰り返しているのに。(1107)

◎2026年05月22日(金)朝から雨。まるで梅雨入りのような天気具合。しかしまだ入梅は先のよう。▼昼頃に茂原まで買い物に。▼家の周りは、それこそ「草茫々」、木々の枝は伸び放題。これを選定したり、除草したりする作業がたっぷり残っている。落ち葉の始末、雨樋(どい)の掃除等々。気長に、無理をしないで、マイペースでするしかないだろう。肩こりのようだが、右肩付近がやけに痛いのが気になる。(1106)

◎2026年05月21日(木)夜来の雨が続く。終日降り続いていた。気温も急激に下がり、まるで3月に逆戻り。明日もさらに寒くなるという予報。▼午後何時ころだったか、二日ほど帰宅しなった子猫(カノン)が家に帰ってきた。かなり雨に濡れていたが、ケガもなかったようだ。家にいる同じキジトラで、一歳年上の子(♀)がいじめる(弄ぶ)のだ。相性が合わないのだろう。何とか、うまくいくといいのだが。(1105)

◎2026年05月20日(水)早朝5時半ころに「ペットボトル・カン」の回収場まで専用袋を持参。▼午後になっても室温は29度を超えている。各地では猛暑日の連続である。さらに暑くなるのだから、老骨には堪える。やがて「梅雨入り」だろうが、本格的熱夏の露払いみたいなもの。▼一番小さな猫が昨日から帰ってこない。一つ違いの猫にいじめられて、家に帰れなくなったのだ。ちょっとした油断で、このところ盛んに「いじめていた」ようだ。何とか、帰ってくることを祈っている。猫にも「相性」があることに、当然とはいえ、驚くのだ。(1104)

◎2026年05月19日(火)好天が続く。しかし、この週末からはやや天気が崩れるという。そろそろ「梅雨入り」が近いのだろうか。本日も各地で猛暑が襲って、所によっては35℃超えを記録している。本格的な暑さがもうやってきたようだ。▼卒業生のS.N.さんからメール。新しい中学校で奮闘を続けられているとの由。大いに子どもたちと飛び跳ねてほしいと思う。▼「日経平均60,550.59 -265.36 NYダウ49,686.12 +159.95 ドル円159.11-13 +0.19円安 NY原油108.10 -0.56 長期金利2.790 +0.050」(日経新聞・2026/05/19)(1103)

◎2026年05月18日(月)昼前に茂原まで買い物に。おそらく、気温は街中では30℃を超えていたかもしれない、それほど暑かった。5月半ばでのこの高温では、先が思いやられる。全国で35℃を超えたところもあったという。京都行を決断しなければならないのだが、この暑さが続くようだと、残念だけれども、断念するほかないようだ。▼「ドル円158.73-75 +0.29円安 長期金利2.735+0.035」(日経新聞・2026/05/18)(1102)

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人間性破壊の特異点が生じているかも

⁂「週のはじめに愚考する」(120)~ 「AI はツール(tool)ではなく、行為主体(agent)である」という 駄文を二日前に綴ったたばかり。人間自身が問題(事態)を判断するのではなく、それを「AI」という人工物に委ねられているという原理は普遍性を持っています。駄文を綴った際に、ドラえもんや鉄腕アトムは「善意のロボット」として生み出されているので、残酷なことや悲惨な結末を産むことがないのは予測できたと書きました。どちらも、人間性の及ばないところにその力を発揮し、戦争や自然災害などの災厄を免れることができる選択をする、その方途を明示するように「善意のロボット」は働いていたのではなかったか、それが駄文の趣旨でした。

 本日の西日本新聞のコラム「春秋」は、熊本大学の学生の一人が「AIはのび太にとってのドラえもん」と指摘していたと書かれていた。我が意を得たというのか、「善意の助っと」は、誰にとっても歓迎される存在ですから、たとえ漫画と雖も、大いに読者や視聴者から歓迎されるのは当然だったでしょう。「のび太君は事あるごとにドラえもんを頼り、無理難題を丸投げする。ドラえもんは『困ったやつだなあ』と嘆息しながら『ひみつ道具』を取り出し、解決の手助けを試みる」そこには人間と人型ロボットの間の「友情」というものが明らかに感じられていたでしょう。

 (ヘッダー写真は「藤子・F・不二雄大全集 ドラえもん (20) コミック – 2012/9/25」)

【新生面】AIとドラえもん 「AIは、のび太にとってのドラえもん」。熊本大でジャーナリズム論を学んでいる学生の一人が、今の若者たちと生成人工知能(AI)の関係をこのように解説してくれた▼勉強のこと、友達とのこと、やらかしてしまった大失敗のこと…。のび太君は事あるごとにドラえもんを頼り、無理難題を丸投げする。ドラえもんは「困ったやつだなあ」と嘆息しながら「ひみつ道具」を取り出し、解決の手助けを試みる▼けれど、なかなか成功しない。うまくいったように見えても、すぐに「ひみつ道具のおかげ」であることが露呈し、さらなる窮地に陥る、というのがお決まりのストーリーだ▼今の若者たちは生成AIとどんな関係を築いているのだろう。内閣府の調査によれば、生成AIを使っている人の23%、10代女性では52%が「悩み相談」を目的に挙げている。人間関係などへの助言を「信頼している」との回答は全体で38%、10代女性では63%に上った▼昼夜を問わず困り事に対応し、秘密も守ってくれる。生成AIは確かに便利で心強い存在だ。ただ、心地よい関係に依存しすぎると、生身の人と話をするのが面倒になってしまいそう。生成AIの助言を参考にしながら、人まねではない、後悔しない決断をできるかも気になる▼生成AIは全ての世代の人々にとって必須の道具になっていくに違いない。とはいえ、それと引き換えに人として大切な何かを失っては元も子もない。ひょっとしたら、のび太君とドラえもんはそう伝えているのかも。(西日本新聞・2026/05/24)

 鉄腕アトムにしてもそうでした。人間社会、ひいては人類の危機に、果敢に挑戦する「平和のヒーロー」という印象がとても強かったと思う。その人型ロボットのエネルギー源が「核物質(ウラン)」であったのと比べて、今日の人型ロボットは「レアメタル」だという違いはあるでしょう。その違いは、決定的なものだったかどうか、ぼくには断定はできませんが、無奇物(鉱物)から有機物(動体)を生じるという点ではいささかの差異もないと思います。

 ドラえもん(1969年登場)も鉄腕アトム(1951年誕生)も、同時代の存在として、ぼくはよく理解し、歩調をそろえて、並走していたとは言い難く、あまり優れた読者・視聴者ではなかったことを白状しておきます。今日においても、ぼくは一度として携帯もスマホも所持したことはなく、寿命が尽きるまでに一度だけでいいから「バーコード」を読み取ってみたいという、まるでおサルさんのような希望を持っている人間です。適例かどうか、にわかに判別はできませんが、小学生が戦争ゲームで敵側にミサイルや核爆弾を発射する、そんな考えたくないような未来社会が、ぼくたちの生活圏で「口を開いて」始まっているというようにも考えられます。

 一人の人間の中に、より多くの善意に基づく要素と、反対に悪意に向かいがちな傾向とがあって、確かに、そのような二種類の人間がいると、ぼくたちは考えたくなります。人間の作るロボットですから、その二種類の傾向(要素)の強弱はきっと作品(ロボット)に反映されるでしょうし、最初から意図をもって作られれば、はっきりとした「殺意」や「嫌悪」を示す行動をとるロボットも生まれてくるでしょう。ドラえもんや鉄腕アトムの「作者」たちは「人間愛」(人類愛)「闘争ではなく友愛」により強い親和性を持っていた人だったから、それを鑑賞する側も安心しておられたのではなかっかと思う。

「生成AIは全ての世代の人々にとって必須の道具になっていくに違いない。とはいえ、それと引き換えに人として大切な何かを失っては元も子もない。ひょっとしたら、のび太君とドラえもんはそう伝えているのかも」(「春秋」)というコラム氏の指摘は間違ってはいないでしょう。しかし、今、ぼくたちの社会見に見られる「AI技術搭載品」は、あくまでも「道具(tool)」であって、それ以上でも以下でもないから、事は面倒ではないとも言えます。「機械に頼るのではなく、最終的には自分で考え判断する力を持たなくちゃだめだよ」と、コラム氏は、アトムやドラえもんになり代わって言われたのかもしれません。。

 今日の課題となっているような、「人工知能」以降の開発課題、問題発掘等、それを考えるには、この駄文はふさわしくない。要は生成AIの人間化を進めるのは、そこに「道徳性」、あるいは「責任性」というものを想定しなければならないのでしょうが、まだまだ現状では十分ではない。ある人に言わせると、人工知能は、2029年にAIに凌駕されると言われている。(この先を論じると際限がなくなりそうですので、今回はここまでに)

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 (蛇足 携帯電話が話題になりだした時期(1980年代後半)、持ち運びができる電話ということで、とても受け入れられたことをぼくは記憶している。もちろん、その段階で、ぼくには不要な機器だという判断があったし、それが今に至っても続いているのです。簡単に言うと、あくまでも通信(通話)の道具(手段)であるという認識でした。機械(道具)は便利で効率が高いから普及するのでしょう。洗濯板で汚れを落としていた時期から、一転して電気洗濯機が作られるとたちまちのうちに普及しました。なによりも重労働からの解放が認められたからでしょう。自動車もそうでした。

 しかし、スマートフォンが流通するようになった段階では、明らかにベクトルは変わってきました。通信の手段ではなく、それを超越した発展可能性を持っていることがわかっていたからでした。自動車がスマートフォンを搭載するとどうなるか、たぶん開発者は、それを予想しながら未来図を描いていたと思う。自動運転はもちろんのこと、空を飛行する車も考えられていた。それ以上に、スマホに乗せられる「AI」の進化によって、人間自身が人工知能に動かされる、命令されるなどという人間の受動性が明らかになり始めた段階で、事態は局面(フェーズ)を変えたのでしょう。 

 これからもぼくはスマホは持たないでしょうから、シンギュラリティ―(singularity)問題はぼくには起こりません。それが社会の大きなテーマになる頃には、ぼくはとっくに消滅しています。

 人型ロボットをこよなく愛する人型人間が生まれていることは現代社会のまぎれもない現象です。もはや「AI」なしの生活が考えられなくなっているという事実はいたるところに見られます。人間行動のかなりな部分が、生成AIにそそのかされて、あるいは導かれて行われているという傾向も否定できないでしょう。それは人間性の進歩というか、人間性の伸長という問題ではなく、その反対に人間性の略奪、人間能力の抑止・抑圧に働くことは、一面では否定できないように思われます。「鉄腕アトム」や「ドラえもん」に熱を挙げていた、素朴な人間および人間性にぼくたちは郷愁を覚えるはずでしょうが、やがて、その時機はもう過ぎ去ってしまったという悔しさを覚えることになるはずです。

 極小の「ナノボット」が人間に移植される時代が来ると期待されているのでしょうか。人間の知性と人工知能が仲良くできればいいけれど、うまくいかないことの蓋然性は高いという主張もあります。ここまでくると、ぼくの興味も理解力も超えてしまいますので、その隘路(あいろ)には踏み入らないいつもりです。人間がロボットに額ずく時代、そんな環境には住みたくない、というより、今だって十分に「人間のロボット化」が進んでいるし、人間でなくなった「衝動(の塊)」が、さまざまな問題行動をとっているからです。衝動という表現を「本能」と言い換えてもいいでしょう。人間性を破壊する「本能」というものもあるというのは矛盾した考えですが、自分で自分を殺すのもまた人間ですから、ぼくたちの中にはすでに、人間性を破壊する「シンギュラリティ(特異点)」が動き出しているんだという認識に似たようなものは、ぼくにはあります。

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◎ 技術的特異点(ぎじゅつてきとくいてん)technological singularity = 人工知能に代表される技術 technologyのもつ知能が,自己再生産によって指数関数的に高度化するという収穫加速の法則に基づいて人間の知能を抜き去り,超知能が出現する時点をさす。アメリカ合衆国のコンピュータ科学者であり発明家のレイモンド・カーツワイルが提唱した 2045年頃に技術的特異点が出現するという説から,そもそも,そのようなことはありえないという説まで,幅広い意見がある。1980年代に数学者で SF作家のバーナー・ビンジが数学に由来する特異点という概念で技術の未来について論じ始め,1993年には “Whole Earth Review”誌で “Technical Singularity”という表現を使った。(↷)

 その後,カーツワイルが 2005年に公刊した書籍『シンギュラリティは近い―人類が生命を超越するとき』The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biologyによって世界に広まった。近いうちに技術的特異点がやってくると考える人たちは,出現後の人類のあり方について議論を展開した。そのうちの一つに,マインドアップローディングという操作により,人間が自分の意識を脳からコンピュータに移し,超知能のなかに統合することで不老不死を得られるのか,という議論があった。この議論から,マインドアップローディングされたあとも同じ自分であるという意識を持続できるかといった議論や,テクノロジー社会に生まれたわれわれはすでに人工物と融合したサイボーグの一種なのではないか,といった議論も派生した。(ブリタニカ国際大百科事典)

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