「慰霊の日々」は消化試合ではない

【国原譜】
 原爆が投下された広島と長崎で平和祈年式典が営まれ、次は15日の終戦記念日だ。8月は戦争について考えさせられる時でもある。
 長崎市長が「長崎を最後の被爆地に」と訴えていたが、今の世界情勢を見ていると、本当に大丈夫と言えるのか。ロシアによるウクライナ侵攻から4年半近くがたつ。
 今年は米国とイスラエルがイランを攻撃して、いまだに解決していない。緊迫している中東情勢とともに、極東のわが国の周辺も中国や北朝鮮の動きが懸念されている。
 いずれも核兵器を持った国々だ。先の平和式典に臨んだ高市首相は「非核三原則を堅持している」とあいさつしたが、将来に向けての明言は避けた。
 戦後81年の今年は、戦前のような空気が漂っているようにも見える。防衛問題が声高に叫ばれるし、そのことに違和感どころか、「日本は大丈夫か」の声が大きい。
 靖国参拝を続けてきた高市首相が、総理になってから一度も参拝できていない。中国など周辺国との関係を見ているからだろうが、今まで主張してきたことができないことに、忸怩(じくじ)たる思いだろう。(治)(奈良新聞・2026/08/11)

 ❶あえて、本日も奈良新聞を取り上げました。この「慰霊の日々」に、いったい総理大臣を輩出しているご当地新聞は何を騙(語)るか。いわば、これはぼくの「悪趣味」みたいなものといわれそうですが、当地新聞は何を書くか、ぼくにはあらかじめわかっています。多くを期待して、というのではなく、相も変わらない「提灯持ち」新聞で押し通すのであろうと。どこの新聞でも「唯一の戦争被爆国」とはいうけれど、その原爆を投下した国がどこなのかをはっきりと断言しないものが少なくなかった、その理由は何だろうか。現首相も、「81年前の朝、一発の原子爆弾によって、広島の日常は一瞬にして断ち切られ…」(8月6日、広島で)「81年前の今日、長崎の地に投下された一発の原子爆弾により、多くの方々の貴い命が失われました」(8月9日、長崎で)とあるごとく、まるで天から自然に原子爆弾が降ってきたとでも言いたそうにしている、その書きぶりは、きっと、もはや・すでに「報道統制」が暗黙の裡に、あらかたのメディア筋にできあがっているのでしょう。そして奈良新聞の「国原譜」の言いたかったことは、最後に出てきます。

 「靖国参拝を続けてきた高市首相が、総理になってから一度も参拝できていない。中国など周辺国との関係を見ているからだろうが、今まで主張してきたことができないことに、忸怩(じくじ)たる思いだろう」と、その心中を思いやって(思い図って)いる始末。今の時期の彼女の心中からすれば、「靖国は参拝する」であろうとぼくは見る。でも、行きたくても行けないという事情もあって、さて、どうしますか。彼女は「靖国オタク」ではないと見ています。「参拝」することのほうが政治家としての立場を有利にするという、「靖国への慰霊」を政治利用しているだけのこと。歴代の多くの首相に倣っているだけのことです。その意味は、「昭和天皇」は靖国参拝を、ある時期から辞めました。はっきりとした理由があったからです。それに反して、歴代首相の多くは「参拝の可否(有無)」決断は、自らの政治的立場上の有利不利を考えてのことだった。とするなら、最も許しがたい、「死者」の政治利用だったことは明らかではないでしょうか。

(*「昭和天皇が1988年に、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)について強い不快感を示し、「だから私はあれ以来(註1985年)参拝はしていない」などと語っていたとされるメモが、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)の手帳に残されていたことが分かった。昭和天皇は78年にA級戦犯が合祀されて以降参拝しなかったが、その理由はこれまで明らかになっていなかった。間接的なメモとはいえ、昭和天皇の合祀についての考えが公になったことで、今後のA級戦犯分祀論議や首相の靖国参拝問題などに影響を与えそうだ。/メモは、日本経済新聞社が遺族から入手し、20日の同紙朝刊で報じるとともに、同日写真で公開した」)(「昭和天皇の靖国参拝取りやめ、A級戦犯合祀が理由」日経新聞・2014/09/09)

 現首相が「参拝するか、しないか」、それはご当人にしかわからない性格のものであろうし、それを他人が予断することは、ぼく自身も避けたいと思っています。でも、強いて余計なことを言うのですが、彼女は「参拝する」と思う。でなければ、彼女の政治姿勢が「張りぼて(見かけだけのものや人、の意)」だったことが内外に明らかにされるでしょう。どちらにしても「犠牲者(御霊)の政治利用」であることに変わりはないのですが。

【夕歩道】
 9日の長崎市「原爆の日」平和祈念式典のあいさつを忘れまい。「今、地球上に存在する核弾頭は1万2千発以上。なぜ、これほど残酷な兵器に固執する国があるのでしょうか」と鈴木史朗市長。
 グテレス国連事務総長は「世界の軍事費は急増し、2025年に2兆9千億ドルに達しました。そして核兵器によるどう喝が横行しています」。8年前、氏は事務総長で初めて長崎の式に出席した。
 被爆者認定の不条理がいまだ残ると問うたのは平田研知事。「なぜ、広島で黒い雨に遭った方々が被爆者として認められ、長崎で同じ事情にあった方々が認められないのでしょうか」。戦後81年。(中日新聞・2026/08/10)

 ❷ 今なお、被爆者と被爆体験者という、長崎に特有の政治判断が、同じ「原爆被爆犠牲者」をいたずらに苦しめています。いわば「二重の被害者」としているのです。二重基準を設けた背景についてはここでは詳細は述べません。その方々の「救済」を政府はどうするか。いくつもの裁判はまだ続いています。あらゆる問題にどのように対応することが、自らの政治活動に有利か不利か。多くの政治家の判断基準はここにしかないのであって、この基準において、現首相は人後に落ちないどころか、図抜けている(「八方美人」?)とも思われます。「『被爆体験者』の皆様に対しましても、被爆者の方々と同等の医療費助成を、着実に実施してまいります」(「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典挨拶」2026/08/09』)

◎ 被爆体験者(ひばくたいけんしゃ)= 1945年(昭和20)の長崎への原子爆弾投下時に、爆心地から半径12キロメートル圏内にいながら、国が定めた被爆区域(爆心地から南北に約12キロメートル圏内、東西に約7キロメートル圏内の楕円形状)外にいた人たち。原則として被爆者とは認定されず、被爆者健康手帳を交付されない。被爆体験者は「放射線による直接的な身体への健康被害はない」とされており、健康状態に応じて被爆者に給付される健康管理手当、介護手当、葬祭料などの援護施策は受けられない。ようやく2002年度(平成14)になって、年に1回、健康診断のみで精密検査は対象外という「第二種健康診断受診者証」が発行されるようになった。この受診者証をもち、さらに健康診断の結果、被爆体験による特定精神疾患にかかっているとされた人にのみ、「被爆体験者精神医療受給者証」が交付され、被爆者と同等に、ほとんどの疾病の医療費(自己負担分)が無料となった。/なお、同じ被爆地の広島では、国が定めた被爆区域外で、原子爆弾投下直後に広島と長崎に降った、放射性物質を含む雨(いわゆる「黒い雨」)を浴びるなどした人は被爆者に認定(国の上告断念により2021年の広島高等裁判所判決が確定)されており、被爆体験者制度は設けられていない。/長崎の被爆後の施策をめぐっては、2000年代初頭から、「被爆者」との援護措置の差が大きいとして、「被爆体験者」から救済を求める声が後を絶たず、2007年以降、相次いで被爆者健康手帳の交付(被爆者認定)を求めて訴えが起こされた。2019年の最高裁判所判決で被爆体験者(原告)の敗訴が確定したものの、その後、一部被爆体験者が再提訴し、係争が続いている。ただし、前述のように2002年から長崎被爆体験者支援事業が開始され、「被爆体験者精神医療受給者証」をもつ人には被爆者並みに医療費が給付されるようにはなっている。(↷)

 もうひとつの被爆地である広島では、2021年に「黒い雨」訴訟で原告勝訴が確定したため、翌2022年4月には、黒い雨にあい、かつ、「11種類の障害(代表的な疾病:再生不良性貧血、肝硬変、悪性新生物、甲状腺(せん)機能低下症など)」のいずれかにかかっているという二つの要件を満たす人には被爆者健康手帳が交付されることになった。/一方、長崎では2023年4月から、「被爆体験者精神医療受給者証」をもつ人に限って、胃がん、肝臓がんなど7種のがんに対して医療費の助成が始まり、また、長崎県外に転出しても継続して援助が受けられるようになった。さらに、長崎地方裁判所は2024年9月に、被爆当時に長崎市の東側でも、「黒い雨」による被害があったとして原告の一部を被爆者と認め、手帳を交付するよう命じた。国はこの判決を受け入れず控訴したが、同年12月には被爆体験による特定精神疾患の要件を撤廃し、「11種の障害」のいずれかを伴う疾病にかかっている被爆体験者については、被爆者と同等の医療費給付が受けられるようにした。しかし、長崎では、すべての被爆体験者を被爆者と認定するよう求めており、被爆体験者訴訟は解決には至っていない。2024年(令和6)3月末時点で被爆体験者は約6300人。(日本大百科全書ニッポニカ)

【凡語】赤い夾竹桃 夏空の青に、花盛りの夾竹桃(きょうちくとう)が映える。81年前の朝も、<真っ赤だ>と長崎医科大(現長崎大)の永井隆博士は書きとめた。ただ<血の色に咲いて>とも添えた▼直後の原爆さく裂で<現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も滅ぼされ、未来も壊された>。重傷を負いながら救護に当たるも、子らの行く末を案じつつ6年後に力尽きた▼残虐な放射線はおびただしい命を奪い、生をつないだ被爆者を苦しめ続けた。長崎を最後の戦争被爆地に-の願いを踏みにじり、大国は核兵器使用の脅しを強め、廃絶の願いを遠のかせている▼むごさを誰より知る日本でも、国是とする「非核三原則」の見直しを探る政権が生まれた。高市早苗首相は被爆地広島に立ち、今後も堅持するか「予断は差し控える」と言葉を濁した▼中国、北朝鮮など核保有国に囲まれた「地政学上の現実的対応」だと、核による抑止論が与党内で声高だ。ちょっと待って。核を向け返せば惨事を防げるのか。相手を上回ろうと軍拡を競い、先に攻撃される疑心暗鬼や過誤から戦端が開かれてきたことは、幾多の史実が証明している▼前広島県知事の湯崎英彦さんは「脅威を取り除く廃絶こそ現実主義」と訴え続ける。焦土でいち早く花開き、希望をもたらした夾竹桃を三たび焼いてはなるまい。(京都新聞・2026/08/09)

➌ 「(核兵器の)むごさを誰より知る日本でも、国是とする『非核三原則』の見直しを探る政権が生まれた。高市早苗首相は被爆地広島に立ち、今後も堅持するか「予断は差し控える」と言葉を濁した▼中国、北朝鮮など核保有国に囲まれた『地政学上の現実的対応』だと、核による抑止論が与党内で声高だ」(「梵語」)という姿勢を隠さない。さらに加えると、「我が国は、『非核三原則』を堅持しており、『長崎を最後の被爆地に』という誓いの下、『唯一の戦争被爆国』の使命として、『核兵器のない世界』の実現に向けた現実的かつ実践的な取組を推進しています)(長崎での「挨拶」で、8月9日)今は「…堅持しており」、今は「…取り組みを推進しています」と言ってのける厚顔さです。(左図は中国新聞・2026/01/10)

 広島における「記者会見」では「非核三原則について『政府としては政策上の方針として堅持している』と述べた。(「国是」ではないということ?)年末に予定する国家安全保障戦略など安保関連3文書の改定で非核三原則を見直すかどうかを問われ、『年末に向けて検討を進めている。書きぶりなどについて予断するということは差し控える』と述べるにとどめた」(毎日新聞・2026/08/06)

 この後、8月15日が巡ってきます。「日本劣島を強く豊かに」と戦い進めている首相陣営にとって、帰趨はすでに決していると思われます。「象徴天皇」「慰霊天皇」は、強い国家の形成には有害・無益な存在だからといわぬばかりに、「今上天皇」にあからさまな敵意を持っているのでしょうか。「今上」を「きんじょう」と読むのが習いでしょうが、それをあえて、「こんじょう」と読む「総理大臣」とは何でしょうか。「無知なだけでしょうか」「いいえ、無能かも」

 (右は昨年の「全国戦没者追悼式」日本武道館にて・2025/08/15)

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夕空晴れて秋風吹く 月影落ちて鈴虫鳴く

【天風録】生きていてよかったという日 母親に抱えられて登壇した女性は長崎の被爆者を代表して呼びかけた。「世界の皆さん、どうぞ私を写してください。そして二度と私をつくらないでください」。1956年8月に長崎で開かれ、日本被団協が結成された第2回原水爆禁止世界大会でのことだ▲渡辺千恵子さんは16歳で被爆し下半身不随となった。その身をさらし訴える姿は被爆者を勇気づけ、証言活動を後押しした。自ら亡くなる直前まで続けた▲長崎市の鈴木史朗市長がきのうの平和宣言で「長崎を最後の被爆地に」と改めて誓った。聞きながら、渡辺さんが最も力を込めた一節に思いを巡らせた。「私たちが本当に心から、生きていてよかったという日を一日も早く実現できますよう、お願いいたします」▲生きていてよかったという日はきっと核兵器が廃絶された日だろう。現実は遠のくばかり。核兵器は今や、大国によるむき出しの暴力の源だ。製造や核実験は新たなヒバクシャを生み続けている。被爆国の首相は廃絶を「理想」と棚上げにしたがる▲きょう結成70年の被団協は高齢化で存続の岐路に立つ。核廃絶は今を生きる一人一人の問題である。渡辺さんも「みんなの力で」と望んでいた。(中國新聞・2026/08/10)

 昨日付の北海道新聞コラム「卓上四季」にも渡辺さんの、同じ「経験」が記述されています。文字通りに、身命を賭して「反原爆」に生きられた人でした。その渡辺さんが亡くなられて、三十三年。被爆者は次々に亡くなられていく。やがて、全滅する。

権力者は、それを一日千秋の想いで待っているのでしょうか。

◎ 渡辺千恵子= 1928年に長崎県長崎市銅座町に生まれる。16歳の時、学徒動員で働いていた三菱電機製作所 本工場(長崎市平戸小屋町、現:長崎市丸尾町で被爆し、崩れた建物の下敷きになって脊椎を骨折、下半身不随になった。1955年に「長崎原爆乙女の会」の結成に参加し、それ以降、被爆者運動、原水爆禁止運動を行う。1956年8月9日、長崎市で開かれた「第2回原水爆禁止世界大会」において、被爆時の体験をスピーチした。その時の草稿は今も残されている。このスピーチで注目を集めた彼女は、国内だけでなく米ニューヨークでなど海外でも活躍を見せた。1982(昭和57)年第2回国連軍縮特別総会では、「核兵器は人間そのものを否定する」と述べた。1993年3月13日に死去(享年64)。なお、渡辺の半生を表現した合唱組曲として「平和の旅へ」がある。

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 理由もなく、「故郷の空」が口をついて出てきました。頭の中で、メロディが流れます。ぼくにとって、「故郷」とはどこだか、そんなことを考えるいとまもなく八十を過ぎてしまいました。大きく言えば「日本」という島邦でしょうか。小さく言えば、いくつもぼくには故郷があるといえそうです。そしてその「故郷」に広がっていた空は、たった一つ、世界に広がる、たった一つしかない空だったと思うだけで、こんな人間でも粛然とします。

 本日付の長崎新聞コラム「水や空」には、大事な指摘が述べられていました。コラムのタイトルの「水や空」について、かなり前に長崎新聞社の方から伺ったことがありましたが、今から思っても「水や空」は象徴的だったと思いますね。故郷の空、古里の水という意味で。「『81年間、十字架を背負って生きてきた私の記憶は、ただの昔話なのでしょうか』と嘆いた。被爆者の訴えが『今この時』と切り離された、昔語りにされていないか。そんな怒りの表明だった」と時代と社会を射貫くような本村さんの一撃に、ぼくは再び、慄然とさせられたのでした。

【水や空】八十年一日 56年前に出版された「日本原爆詩集」(太平出版社)には広島、長崎の被爆者の作品219編が収められている。被爆10年の頃に書かれた、長崎原爆の詩が何編かある▲詩人の風木雲太郎(かざきくもたろう)さんは「私の故郷は長崎です」という詩で〈疼(うず)き痛む悲しみは/十年を一日にふくらませて/ふる里の空をまっ暗に蔽(おお)う〉と、人々の悲しみが今も空を暗くするのだと書いた▲〈父よ/あれから十年です/僕は大きくなり/母は老いてきました〉。荒木博美さんは「父よ」と題する一編を残した。〈あの時と同じような/放射能は今も度々/僕達の心をすかして通るのです〉…▲焦土にはやがて青草が茂ったが、心の風景は十年一日(いちじつ)、何も変わらない。二つの詩はそうつづっている▲きのう、長崎の平和祈念式典で被爆者代表の本村チヨ子さん(87)は、世界で争いが絶えず「81年間、十字架を背負って生きてきた私の記憶は、ただの昔話なのでしょうか」と嘆いた。被爆者の訴えが「今この時」と切り離された、昔語りにされていないか。そんな怒りの表明だった▲十年一日どころか、八十一年一日のごとくよみがえる記憶を昔話にしていいはずなどない。風木さんに倣えば「八十一年を一日にふくらませる」のは、原爆を知る人と知らない人と、皆で成す営みにほかなるまい。(徹)(長崎新聞・2026/08/10)
「故郷の空」

夕空晴れて あきかぜふき
つきかげ落ちて 鈴虫なく
おもえば遠し 故郷の空
ああわが父母 いかにおわす

すみゆく水に 秋萩たれ
玉なす露は すすきにみつ
おもえば似たり 故郷の野辺
ああわが兄弟 たれと遊ぶ

⁑唱歌「故郷の空」)(https://www.youtube.com/watch?v=ep_Ob4t99wg&list=RDep_Ob4t99wg&start_radio=1

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「徒然に日乗」(1179~1186)


◎2026/08/09(日)長崎原爆投下の日、八十一年目だ。広島との「記念(祈念)日」についての対比(差異)が、一面では鮮やかに見て取れる思う。首相の「挨拶」も、その後の記者会見も、驚くほどぞんざいで、「本当に原爆投下」(被爆者」に関心がないのだということを感してしまった。実に「不人情な(heartlessness)」人間であると思う。「下等極まりない(Utterly inferior)」といいたくもなる。一刻も早く消え(辞め)て欲しい、というのが本音だ。(1185)

◎2026/08/08(土)高温多湿の一日。台風(13号・15号)の行方が気になる。▼本日は、日本市場は休業だが、他国市場は開いている。円相場は昨日の158円半ばよりは高くなったが、まだまだ危険水域にある。とにかく「責任ある積極財政」という有害な亡国政策を転換すべきであり、何よりも日銀は「金利」を上げるべきであろう。「日経平均 65,606.71 -76.55 NYダウ54,036.93 +151.83 ドル円157.81-83 -0.05円高 NY原油77.08 -0.21 長期金利2.785 +0.025」同じ新聞で。「高市早苗政権は2027年4月から2年間限定で実施する食料品の消費税減税を巡り、年5兆円規模の財源を探る。過去の政権にも期限付きの減税が先行し、財源論が後追いになった例がある。「見切り発車」は国民の不信を招き、政権基盤が揺らぐリスクがある。」(日経新聞・2026/08/08)▼「円」の運命をアメリカに握られている現状を、いかにして克服できるか。経済運営においても「主体性」を失っているのだ。▼(1184)

◎2026/08/07(金)珍しく雨が降る。強くはなかったが、それなりの湿り具合だった。台風15号、あるいは13号の影響か。▼「日経平均65,606.71 -76.55 NYダウ53,885.10 -464.02 ドル円158.40-41 +0.54円安 NY原油77.75 +0.46 長期金利2.795 +0.035」(日経新聞・2026/08/07)日米協調為替介入の効果があったのか。さらなる「介入」がささやかれているが、根本は日本が根本的に今の財政政策(インフレ頼み)変更がなければ、日本初のこの「危機状況」は去らない。ということは、つまるところ、現内閣(つまりは首相)が退陣するほかに方途はあるかという問題だろう。(1183)

◎2026/08/06(木)本日は「広島原爆投下記念の日」、そのニュースをネット見たが、年年歳歳、激しく「形骸化」「管制化」がすすんでいると思うばかり。いったい、だれがこの「記念式典」を主宰しているのか。「唯一の被爆国」という決まり文句(常套句)を使うのを止めたらどうか。小さな子どもたちに「誓いの言葉」を言わせるのを止めたらどうか。被災者や、その遺族の方たち、および、核廃絶を心底から念じている人々たちが中心になってやってはどうか。原水爆反対運動の「初心」を、今一度とり戻すべきだろう。「核問題」が政治や政治家の嬲(なぶ)りものにされている現実に、ぼくは居た堪れない感情を覚えるのだ。(1182)

◎2026/08/05(水)まだ体調はかんばしくない。衰えたものだと思う。少し早めに床に入る。(1181)

◎2026/08/04(火)「日経平均63,957.53 +202.63 NYダウ53,178.41 +693.38 ドル円157.57-58 +0.81円安 NY原油79.52 -0.82
長期金利2.855 +0.035」(日経新聞・2026/08/04)「7月30日から始まった政府・日銀の円買いの為替介入は、市場推計によると12兆〜13兆円規模だった。過去最高の2024年を上回る介入で歴史的な円安に歯止めがかかるのか。為替を取り巻くマクロ経済の構造や投資家の行動がカギを握る。/政府・日銀は7月30日と31日に介入に踏み切った。2日間で計11兆〜12兆円規模とされる。8月3日も実施したとの見方がある。今年は4月下旬から5月下旬にも約11兆7000億…」(同上)▼本日、夕刻、拙宅に来ることになっていた大阪のS君に対して、昼過ぎに電話をして、「体調不良で、申し訳ないけれど、故障したOSは貴君宅に送っることにしたいが、それでいいか」と訊ねる。昨日、短時間だったが庭作業をしたのが、堪えているのかもしれない。頭痛がして、立ち上がるとふらふらするので、暫時「床に就く」状態だった。老残の惨状だ。(1180)

◎2026/08/03(月)「日経平均63,754.90 -607.12 NYダウ52,485.03 +276.97 ドル円156.78-79 -3.42円高 NY原油79.24 -5.43 長期金利2.820 +0.025」(日経新聞)▼「日米両政府が28年ぶりに協調して円買いの為替介入に動いた。歴史的な円安に対抗し、一致して行動した意味は大きい。米国の協力は円安が日本の長期金利の上昇と連鎖し、世界の市場が混乱するという危機感の裏返しだろう。/問われるのは日本政府・日銀の政策対応だ。円安の背景にはインフレや財政悪化の不安がある。政府はまず財政支出を巡る節度を確立し、/日銀は利上げの出遅れ懸念を払拭する必要がある。(後略)(同上)▼ただいま現在の「日本発の危機」は、それがどういうもので、なぜそうなるのかを、現下の首相たちがいささかも理解していなところにある。「責任ある積極的財政運営」などというインフレ政策を止めないかというのが、米国の言い分。それでもなお突撃していこうとしているのが「当局」という、極めて危険極まる「お目出たい政府」と、金融当局の合体という不幸。「それに異を唱える人物出てこい。(1179)

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歴史を蔑如する為政者が、ここにいる

 * お断り。今週の「徒然に日乗」は別掲とします。これは「徒然に日乗」(1179~1185)の「起承転結」の「起」に当たります。「承転結」は、本日午前中には。いずれ後程に。(山埜)

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「八月や六日九日十五日」(夫々の履歴)

<あのころ>長崎に原爆投下 7万4千人が死亡1 945(昭和20)年8月9日、午前11時2分、米軍が長崎市に原子爆弾を投下した。松山町の上空500mで爆発し、熱線や爆風、放射線を浴びた人々約7万4千人が同年末までに死亡した。広島市に続いての非人道的な核兵器の使用で、今なお健康被害に苦しむ被爆者は多い。惨状は3カ月を経た11月の撮影。(共同通信・2022年08月09日 08時00分)

⁂「週のはじめに愚考する」(132) 本日は「長崎に原爆が投下された日」です。表題に掲げた句はよく知られたもので、その広がりの経過を含めて西日本新聞のコラム「春秋」があきらかにされていますので、それを芸もなく引用する次第です。そして本日付けの「春秋」は、なかなかに含蓄がありました。「核なき世界を、三たび使わせぬ世界を-。81年を経てもかなわない核廃絶。それでも被爆者の長い闘いは、世界の人々に反核の誓いを根付かせてきた」とあるように、「非核」への願い、「反核」に向かう意思、それは被爆者とその隊列に連なる多くの人々の悲願の営みでもありました。決して「政府」や「行政」の望むところでなかったことを、ぼくたちは忘れるべきではないのです。もう、政府や行政が加わらない、市民の手になる、自前の「祈念(記念)の日」を持つべき時期ではないかと考えている。何よりも「原爆投下を招いた最高責任者に連なる者」の参加を拒否すべきでしょう。

 あわよくば「核武装」をと目論んだり、控えめに言って「核抑止」を寝言のように唱える政府や権力の側の姑息かつ陰険な意図に、ぼくたちは気を許してはならないでしょう。それに歩調を合わせ、あるいは加担していることを隠さない、多くのマスメディアの現実の醜態を見ると、ぼくは連日連夜、反吐を吐く思いで過ごしているのです。例えば「非核三原則」は断じて守り抜けと、被爆地の新聞が大声を上げる。でも、その三原則は、これまで何度も、これ見よがしに破られてきたではないか。「核持ち込みをします」と、アメリカ(であろうと、どこであろうと)が公表するはずもないことを、なぜ触れないで、口(筆)先ばかりで「守れ」というのか。アリバイ作りにもならぬと思う。この「三原則」を表明した時の首相は、沖縄返還で「核持ち込み」を密約していたではないか。そんなことに頬かむりを決め込んで、「核廃絶」「唯一の被爆国」「平和祈念」等々、まるで日程消化試合のごとくに挙行される「平和式典」を論評しているだけ。今日も同じことを首相は、長崎で騙るだろう。「三原則は堅持している、今は」、でも年末にはそれを「廃棄」すると決めている、のに。

 この間、ぼくはいくつかの新聞社に問い合わせをしています。首相の記者会見という名の「茶番」「問答読み合わせ会」、そんな出鱈目を共犯者そのもののごとくにやっている「新聞」「テレビ」は羞恥心を持っていないんですか、と。あらかじめ質問内容を提示し、それに対して役人が出まかせ・その場しのぎの「答弁」を作り、会見場で、互いに質問・答弁を読み合わせている。こんな猿芝居は止めたらどうかと、問いただしています。「会場」の警備の物々しさはどうでしょう。すでに、この「平和公園」はで、権力批判は一切許さない「人権危険区域」になっていることにも、大いなる違和感を持つものです。年中行事に狂奔しているようなメディアに、ぼくは極めつけの「退廃」と「堕落」を痛感しています。とりわけ、敗戦後八十五年を閲してきた「学校教育」の、あまりにも無残な「無益・無残な効果」「亡国の営みへの参入」に、その隊列に連なっていた一人の人間としても、ぼくは「万死に値する」という呻きを抑えることができないでいます。

【春秋】
その時刻に立ち止まり、悼む人 その時刻を迎えると、信号を待つ交差点で、商店街の店先で、路面電車の電停で、静かに立ち止まる人がいる▼8月9日の午前11時2分。長崎の街の至る所で目にする光景だ。きょうもそれぞれの場所で、あの日の惨禍を思い、悼む人がいる▼核なき世界を、三たび使わせぬ世界を-。81年を経てもかなわない核廃絶。それでも被爆者の長い闘いは、世界の人々に反核の誓いを根付かせてきた▼祈念像がそびえる平和公園の一角に、被爆者たちの平和運動の拠点、長崎原爆被災者協議会の事務所がある。結成70年の今年、被爆者運動の歴史を伝える地下講堂の展示エリアを一新した。一般にも資料の提供を呼びかけた。ゆかりの品や写真、節目のスピーチでノーベル平和賞への歩みを紹介している▼かつてこの場所に「被爆者の店」という名の土産物店があった。1957年、被爆者はバラックで手作りの土産物を売り始めた。多くが被爆による障害を負っていた。高さ20センチほどの「マリヤ人形」は飛ぶように売れ、龍踊(じゃおどり)や長崎の中国人をあしらったギンナン人形も評判だった。家族や家、働き口を失い、貧しさと差別にさらされた被爆者の暮らしを支えた品も展示している▼渡辺千恵子さん、福田須磨子さん、山口仙二さん、谷口稜曄(すみてる)さん…。パネルに並ぶ被爆者の多くはもういない。11時2分。今年も長崎の地で、離れた地で、静かに背を正し、悼む人がいる。(2026/08/09)
【春秋】〈八月や六日九日十五日〉を詠んだ福岡人
〈八月や六日九日十五日〉。聞き覚えがある人も多いだろう。〈八月は〉〈八月の〉も含めて無名の人々に多く詠まれてきた。最初の詠み人は誰か。小林良作さん(77)=千葉市=が調査し、本にした話は前に小欄で紹介した▼被爆者治療にも携わった長崎県諫早市出身の医師が、1992年に投句したものが初、との結末だった。その後、“俳句探偵”小林さんの元に新たな情報が届いた▼さらに16年前に詠んだ人がいた。小森白はく芒ぽう子し(本名・政治)さん。長く川崎市に暮らしたが、小林さんの調査では「福岡県出身」という▼その続きを追い、県内の図書館で唯一、句集を所蔵する田川市の館を訪ねた。句集や隣の川崎町史にも名前を見つけた。明治生まれ、旧制田川中から旧制福岡高へ。檀一雄らと短歌会を主宰し、東大では武田泰淳と同人誌を編んだ文人だった。句集には敗戦を詠んだ〈国破れ日輪焦土を灼やきつける〉もあった。NHKに勤め、終戦前は中国向け放送に従事した▼〈八月〉は「少なくとも名句じゃないんです。でも心に残る句であることは間違いない」と小林さん。詠み人不詳ではなく、詠み人多数の句であり、この先も詠み継がれていくと確信している▼八月や、と口に出してみる。小気味よい五七五の調べなのに、この国の8月がまとっている静寂や無念、鎮魂がにじむ。最後の戦争被爆地であれ。きょう、長崎は原爆の日を迎えた。(西日本新聞・2021/08/09)
【あの日の春秋特別版】八月や六日九日十五日
 昭和19年生まれの小林良作さん(千葉市)は、一昨年、所属する俳句会に投句した句が「先行句がある」と知らされた。投句したのは〈八月の六日九日十五日〉▼永六輔さんが「詠み人不詳」として〈八月は六日九日十五日〉を新聞やラジオで紹介していたという。小林さんはネット上や図書館で調べ、複数の俳句団体にも尋ねた▼〈…六日九日十五日〉で投句した人が何人もいることが分かった。〈八月や〉で始まる句が多い。「たぶん、作者が最も多い句の一つ」と肯定的に話す句会主宰者もいる。盗作うんぬんの次元の話では全然ない▼広島県尾道市の元医師会長、諫見勝則さん(故人)が最初、とする小林さんの調査はこの夏「八月や六日九日十五日」の題で冊子になった▼諫見さんは平成4年に製薬企業の月刊情報誌に投句し、巻頭を飾っていた。大分県宇佐市の城井1号掩えん体たい壕ごう史跡公園に11年前に造られた句碑・歌碑25基の一つとしても採用されている。その経緯も冊子に詳しい▼諫見さんは長崎県諫早市出身。18歳で入った江田島の海軍兵学校から広島の原子雲を見た。同じ被爆地の現長崎大医学部に翌春入学して医師になった。被爆者の診察にも関わった。診察室で8月のカレンダーを見ていた時あの句ができたそうだ。(2016/09/04)

 三冊の本がパソコンで作業している机の上にあります。一冊は「トランクの中の日本」で、著者はジョー・オダネルさん。もう一冊は「『焼き場に立つ少年』は何処へ」、著者は写真家・吉岡栄二郎さん。詳細は省略します。三冊目は、オダネルさんの妻でもある坂井貴美子さんが編集された「神様のファインダー 元米従軍カメラマンの遺産」(Forest Book・2017年刊)も。

◎ ジョー・オダネル(Joseph Roger O’Donnell, 1922年5月7日 – 2007年89日)は、アメリカのフォトジャーナリスト、写真家。原爆投下直後の長崎や広島で、「焼き場に立つ少年」をはじめとした戦争写真を撮影したことで知られる。人物 オダネルは1922年、米国ペンシルベニア州ジョンズタウンに生まれた。高校卒業後はアメリカ海兵隊に入隊し、そこで従軍カメラマンとしての教育を受けたが、 前線に送られることなく第二次世界大戦の終結を迎えた。/教育課程を終えると、まず太平洋戦争による日本の空爆被害を記録する任務に就き、1945年8月に長崎市から10マイル(16キロメートル)ほどの地点に入った。当時、マッカーサー陸軍元帥やワシントンの首脳部は、原爆投下によって壊滅していた広島や長崎への報道機関のアクセスを制限しており、許可なく日本の民間人を写すことや、軍の業務用カメラ以外を使用することも禁じられていた。しかしオダネルは軍命に背き、持参していたプライベートカメラで被爆者たちの姿を撮影したのである。 こうして遺されたのが、後に大きな反響を呼ぶ「焼き場に立つ少年」をはじめとした写真群であった。(↷)

 このあとオダネルは広島にも立ち寄った。日本の侵略を批判しつつも、被爆者を写すうちに日本人への憎しみは哀れみに変わっていったという。原爆被害の記録を続けたが、これらの写真の存在が軍部に知られた場合、いつ破棄させられてもおかしくなかったため、オダネルは被爆地でのことを一切口外せず、7カ月の任務を終えて未現像のネガ300枚ほどを密かにアメリカに持ち帰った。/オダネルは戦後ワシントン州に移り、写真スタジオを経営した時期もあったが、まもなく中央情報局に採用され、トルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソンの4代のアメリカ大統領に仕えた。この期間にオダネルは、朝鮮戦争をめぐるトルーマンとマッカーサーとの会談や、ケネディ政権下でのピッグス湾事件など、数多くの歴史的瞬間に立ち会っている。(以下略)(Wikipedia)

◎ 吉岡栄二郎(よしおか えいじろう、1943年 – )は、日本の写真美術史研究家、著作家[1][2]。東京富士美術館で写真部門の創設に関わり、研究部長も務めた。経歴 東京都生まれ。多摩美術大学で写真美術史を学んだ。1984年からシルクロードの経路にあたる各国を取材し、中華人民共和国建国後としては初めて、イスタンブールから西安に至る古代のシルクロードの踏破を実現した。1991年から東京富士美術館の写真部門の創設に関わって、ロバート・キャパの全作品[3]を含む多数の作品の収蔵にあたり、ニューヨーク近代美術館からも高く評価されるコレクションの形成を進めた。研究部長となり、「CAPA’s LIFE」(1998年)、「20世紀と人間・ロバート・キャパ賞展」(2000年)、「アンドレ・ケルテス写真展」(2004年)、「絵画と写真の交差・印象派誕生の軌跡」(2010年)など、多数の写真展の企画を手がけた。特に、ロバート・キャパの研究者として知られ、キャパの実弟であるコーネル・キャパや、キャパの伝記作家リチャード・ウェラン (Richard Whelan) とも交流した。(以下略)(同上)

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こだまでしょうか、いいえ、誰でも。

【産経抄】
楽屋話めいたことを書くのは気が差すものの、お許し願いたい。「コラムのテーマはいつ決めるんですか? 前の夜から?」。こんなことを知人からよく聞かれる。いいえ。早くて当日の朝、遅いときだと正午を過ぎても決まりません。▼包まずに言えば出たとこ勝負だ。そう答えると意外な顔をされる。決まった枠の中に、決まった字数を収める。特殊な体裁だけに、書き手の抜かりない準備を読む側は想像するらしい。この手の話で思い出すのは、「釈迢空(しゃくちょうくう)」の名で歌を詠んだ民俗学者の折口信夫(しのぶ)である。▼通りかかった地で元教え子が亡くなったと聞き、追悼の歌を墓前に捧(ささ)げた。<紀伊の国の関を越え来てあはれなり/思ふことみな君にかかはる>。即興と思えぬ哀調が胸にしみる。実は<思ふこと―>以下は孕(はら)み句、用意しておいた句なのだとか。▼上の句をご当地に即した形で詠めば、体裁が整う計算である。便利な〝小道具〟には違いない。当方も応用できればいいのだが、コラムも新聞記事の一つ、できれば熱々のニュースを取り上げたい。花鳥風月を書くにしても、季節を違(たが)えたくない。▼コラムも四季の巡りの中で呼吸をする生き物だからだ。それゆえ「何かの時に備えて一本用意しておけ」と言われると困る。確かに、当方が事故やトラブルに遭い筆を執れなくなったとき、あわてなくて済む。問題は、そんな状況がいつ訪れるか予見できないことである。▼晴れの日か、雨の日か。暑いか寒いか。哀歓苦楽の何を書くのか。感情の乾湿を、どこに合わせるのかも難しい。「夏炉冬扇」のごときズレた文章を、お目にかけるのも恥ずかしい。というわけで、引き出しから何の小道具も取り出せぬまま、締め切りが迫ってくる。(産経新聞・206/08/08)

 産経新聞のコラム「産経抄」には、硬軟両派があると思う。言い換えると、武闘派と軟弱派です。本日はもちろん「軟弱派」の日でしょう。この両派は、同一人物が担当しているとはとても思われません。そして、言うまでもなく、ぼくは「軟弱派」を好む。こよなく好むものです。本日も一読、嬉しくなって、書かれた当人にメールを送ったほど。「楽屋めいた」ではなく「楽屋落ち」というのではないですかってね。懐かしい名前が出てきました。釈迢空(折口信夫)さん。若いころ、ぼくは柳田國氏を調べていて、その関係で折口さんもよく読みました。それで驚いたことがありました。柳田さんはしばしば「折口信夫」筆名での論考を読んでいた。面識はない時期でした。この名前や書きぶりからすると、民俗学の相当な「大家」であるに違いないと、その論文の内容ともどもに、ある種の畏敬・畏怖の念を持っておられた。(ヘッダー写真「金子みすゞ記念館公式オンラインショップ)(https://misuzu.store/item/432/

 機会があって面晤(めんご)された際に、折口さんがあまりに若かったので驚いたという。あるいは「いささか競争意識」が芽生えていたかもしれない。その後、いろいろな面で、民俗学上の意見の相違も生まれ、やがて柳田さんは「私を甚く嫌うようになられた」、「意地悪をされる」ようにもと、折口さんは書かれている。柳田氏には実に卑屈な「いじめの」ような振る舞いがあった。碩学・泰斗たる柳田さんも、とても嫌な一面を見せられたものですね。(そのこともあって、一冊の単行本を書いただけで、ぼくは柳田論の続編を書くのを止めてしまった。気力が失せたんだね)

 もう何十年も前、ぼくは小さな業界紙に「コラム」(月一)を書いていたことがあります。事務所の中で、職員に急かされて、その場で書かされていたことを思い出します。もちろん、プロと比較する気は毛頭ありませんが、この駄文コラム(おそらく、この7~8年間で、駄文・雑文「三千編」くらいにはなるでしょう)を、飽きもせずではなく、徐々に飽きつつ、毎日書き続けてきたうえでの感想をいえば、ぼくはいつだって「書き下ろし」、いや「書き殴って」いますので、コラム氏の言う「包まずに言えば出たとこ勝負だ」は本当でしょう。下手な鉄砲も数撃ちゃ中(あた)るというと、誠に失礼になりますが、そんなものですよプロだって。野球でも3割を打てば、それで「一流」なんですからね。

 詩人の三好達治さんが、あるときに芥川の書くものは「百発九十九中」だが、そこへ行くと室生犀星は「百発一中」だといいつつ「石蕗(つわ)の花」の詩を上げていたと、三好さんの友人の石川淳んさんがどこかで書いておられた。面倒をいとわず「石川淳全集」を調べるとありました。「また三好が酣中よくはなしてゐたことに、芥川龍之介は百發九十九中、室生犀星は百發わづかに一中だが、のべつにはづれる犀星の鐵砲がたまにぶちあてたその一發は芥川にはあたらないものだといつて、これにはわたしも同感、われわれは大笑ひした。つち澄みうるほひ、石蕗の花咲き……といふ室生さんの有名な詩は三好が四十年あまりにわたつで「惚れ惚れ」としつづけたものである。「つち澄みうるほひ」はまさに犀星の一發。このみがき抜かれたことばの使ひぶりは詩人三好が痩せるほど氣に入つた呼吸にちがひない。」石川淳「三好達治」、「夷斎小識」所収)石川さんも大好きでしたね。よく読みましたよ。文豪という以上に「碩学(profound scholar)」だった人ですね。

 寺の庭
つち澄みうるほひ
石蕗の花咲き
あはれ知るわが育ちに
鐘の鳴る寺の庭
(『抒情小曲集』)

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【天地人】
 古今和歌集には春夏秋冬、季節を追って歌が並んでいるが、夏の歌の数はさほど多くない。いにしえの人も暑さは苦手だったのだろう、と勝手に想像してしまう。夏の歌の最後に置かれたのは次の1首。<夏と秋と行きかふ空の通ひ路はかたへ涼しき風や吹くらむ>凡河内(おおしこうちの)躬恒(みつね)。
 去ってゆく夏とやって来る秋とが大空の通路ですれ違っていく。秋が通る側だけ涼風が吹いていることだろうか-。季節を擬人化して、その推移を捉えた歌という(鈴木宏子「『古今和歌集』の創造力」)。
 続く秋の歌の最初は<秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる>藤原敏行。よく知られた1首だろう。こちらも風が登場する。秋がやって来たと目にははっきり見えないが、風の音で秋だと気づかされたという。「秋立つ日よめる」と前書きがある。
 きょうは立秋。暦の上では夏が去ってゆき、秋がやって来た。とはいえ、県内は3日前にやっと梅雨明けしたばかり。昨年より17日も遅かった。気温が上がり、ようやく夏本番の趣だが、吹く風には時折涼しさも感じられる。
 <そよりともせいで秋たつ事かいの>。江戸期の俳人・鬼貫(おにつら)は、そよりとも秋風が吹かないのに、これでもきょうから秋なのかと詠んだ。厳しい暑さがなお続いている熊本などの人たちはそんな気持ちだろうか。早く秋風を感じられればいいが。(東奥日報・2026/08/07)

 実に久しぶりの「天地人」です。ぼくの偏見ですが、新聞コラムにも「西高東低」の趣・傾向があるのではと、よからぬ偏見を持っているので、なおさらに、「立秋」(昨日)に合わせたコラムに、一時は気も休まるほどでした。立秋二十四節気(8月7日~22日):七十二候 涼風至(すずかぜいたる):第37候(8月7日~12日)寒蟬鳴(ひぐらしなく):第38候(8月13日~17日):第39候(8月18日~22日)蒙霧升降(ふかききりまとう)。今や、新旧歴もあったものではなく、ひたすら猛暑に厳寒という、極めて味気なくも厳しい季節に成り代わりました。この先も「四季折々」などと入っておれない時代を、地球上の日本劣島は迎えそうです。暑いか、寒いか、それだけ。

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 「広島平和記念式典」、その様子は見ることは見ましたが、複雑な印象を持ちました。この場に、子どもを登場させるのは止めてほしいね。さらに「平和」という表現も、「唯一の被爆国」という看板も降ろしたらどうでしょう。八十年超、このままでは「平和」「被爆」という言葉の原義に照らして、ごまかし、無理が隠しおおせなくなるのは目に見えているのですから。首相は、想定通りに「やがて破る、非核三原則を堅持している」などど、多くの犠牲者・遺族の前で「虚言」を、堂々と吐く。「官製の式典」「官製の記者会見」を見せつけられましたね。また、多くの被爆者や国民への冒涜に加担する新聞社にも、ぼくは批判の矢を向けてきました。戒厳令下における軍都広島でこそ、ファシズムの足音は高らかに轟いていると、ぼくは感じていました。

 マスメディアの敗北は、何をもたらすか、「素粒子」さん。 新聞紙面で書かれているのは、「ごまかしでしょうか」「いいえ、本音です」 

【素粒子】
 非核三原則を堅持しますかと聞くと、政府としては堅持しておりますと言う。9条を守りますかと聞くと、憲法の定めで憲法尊重擁護義務がありますと言う。こだまでしょうか。いいえ、すりかえ。
      ♭
 現在形か未来形か。自分が主語か一般論か。それが問題な高市話法。徹夜で原稿にペン入れをして念入りに表現をぼかしているか。
      ♭
 戦争を「反省なんかしておりません」。若いころの発言は過去形に直しては。過去の過ちに学び、現在・未来の紛争に加担しない。今を生きる首相と私たちの責任。(朝日新聞・2026/08/07)

⁑H△G「 こだまでしょうか 」Music Video( 配信シングル「 こだまでしょうか 」収録

https://www.youtube.com/watch?v=723ShV3rZ8s&list=RD723ShV3rZ8s&start_radio=1

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赤く蒼く黄色く黒く戦死せり

【天風録】被爆国の首相 50年前の8月6日、広島の原爆資料館で職員を質問攻めにする人物がいた。こんな写真がなぜ残っているのか、犠牲者の数は―。展示物に目を凝らしたのは時の首相、三木武夫氏である▲金権政治を批判して「クリーン三木」と呼ばれる一方、非核平和にも力を注ぐ。抜け穴があった武器輸出を全面禁止。核拡散防止条約(NPT)の批准を実現するなど、被爆国のトップとしてふさわしい言動を取った▲きのう高市早苗首相は就任後初めて平和記念式典に出席し、原爆資料館にも足を運んだ。「深く胸に刻まれるものがある」。記者会見での言葉が本心なら、まず己を顧みるべきでは▲今春、殺傷能力のある武器の輸出を解禁。非核三原則の見直しもかねて訴えていた。広島、長崎の願いがこもる国是だが、首相は式典あいさつや記者会見で「堅持しており…」と現状を説明するにとどまった。今後も守り通すのが筋であり、言葉を濁すのは犠牲者への誠を欠こう▲資料館を視察後、首相が芳名録に記した言葉は〈祈 平和〉。道筋をどう描くか。「核兵器を全廃し、人類を核の脅威から解放することこそ真の平和への道」。半世紀前、三木氏は式典でこう言い切っている。(中國新聞・2026/08/07)

(ヘッダー写真「願いを記した灯籠を元安川に流す人たち(6日午後7時34分、広島市中区で)=渡辺恭晃撮影」読売新聞・2026/08/06)

キャラメルの赤き帯封原爆忌(吉村 明)
人も蟻も雀も犬も原爆忌(藤松遊子)
原爆忌人は孤ならず地に祈る(飯田蛇笏)
原爆忌有無を言はせず空白み (百瀬美津)
暑くともなほ暑くとも原爆忌(山田みづえ)
原爆の日の洗面に顔浸けて(平畑静塔)
広島忌騒がしきまで蝶の群れ(原裕)
十一時二分わたしの祷り長崎忌(山崎芳子)
雀来て原爆の日の水たまり(山本雅子)
平和祭龍舌蘭も花擧げて(下村ひろし)
魔の六日九日死者ら怯え立つ(佐藤鬼房)
赤く蒼く黄色く黒く戦死せり(渡辺白泉)
原爆忌触れて呉れるなあまた汚手(飯野無骨)

 昨日の「式典」を見ていて、つくづく感じました。八十年も過ぎれば、「唯一の被爆国」という惹句は却って、手垢に汚れ、いかにも「形骸化」してしまった「キャッチ」だと。できるなら、「唯一の被爆国(The only country to have suffered atomic bombings)」という常套句を使用禁止にしたらどうか。あるいは、小さな子どもたちに「原爆反対」を言わせるのを止めたらどうか。そんな思いをしきりに重ねながら、前夜から、当日の「式典」終了、その後の「首相会見」まで見ていました。何よりも驚くのは、至る所に公安や警備の警察官たちの姿が溢れていたという光景でした。年を追って警備強化が加わる、そんな厳戒態勢を敷かなければ「式典」が開かれないということ自体、「式典」の形骸化・偏向の証明にならないか。いくつかの「挨拶」を聞いていて、決まり文句の羅列、前例踏襲の物まね等々。これらの「式典」が世界に対していかなるメッセージを発信し得てきたか。言うまでもないことでしょう。

 被爆地広島だからこその「核廃絶」であって、「抑止核」「核抑止」などと言う寝言を言うために広島の地を悪用するのは止めたらどうか。この国の政権与党は「非核三原則」を破りつつあることを、あらかじめ宣言しており、中でも「米国の核持ち込み」を容認することを、現首相は明言している。にもかかわらず、この「式典」で彼女は「二枚舌」を使った。変えようとしている「原則」を、(今のところは)「堅持して」と、歴代首相に倣っての「寸借詐欺」を働いたというのです。被爆された方々、その列に並ぼうとする人たち、そういう市民の意思と行為で実施されるのが、この「原爆投下記念日」にふさわしいという思いをぼくはつよく持っている。「官製の式典」は、明らかに矛盾しているでしょう。原爆投下を将来した側、権力に加担していた側の、後裔たちが、この「原爆忌」を主宰すべきではないと思うし、今こそ原水禁運動の初心に帰る時期ではないでしょうか。官製の記者会見というものが、ほとんどフリーパスで横行している、この惨状に、ぼくは言葉を失ってしまう。新聞社をはじめとするメディの人間たちは、一体、誰のため、何のために存在しているんですか。広島だけに限らないでしょう、「大政翼賛」気運はますます強化拡大されています。「平和」という言葉の冒涜でしかない、「記念式典」だというほかありません。

【水や空】広島原爆の日 安全保障を巡る環境がどんなに変わっても、この国の夏は非戦を誓い、非核への決意を新たにする季節だ。そうでなければ、犠牲者が浮かばれない。「唯一の戦争被爆国」の名前が泣く。広島はきょう81回目の原爆の日▲それなのに-。「フランスは核戦力を増強しようとしています、フィンランドは自国への核兵器持ち込みを認めることにしました、私たちの国もあらゆる政策をタブーなく議論しなければなりません…」▲小泉進次郎防衛相がネットの番組や訪問先の欧州で、核兵器を巡る議論の必要性に繰り返し言及した。失礼ながら熟慮を重ねて考え抜かれた発言にはあまり聞こえなかった▲批判の広がりは当然だ。小泉氏も一昨日の記者会見で「被爆地や被爆者の方々が訴えてきた核兵器のない世界を願う切実な思いに強く共感する」と火消しを図った▲一般論だけで言うなら、あらゆる議論は率直でオープンな方がいい。物事はぶつかった分だけ磨かれることもあるから。だが、核兵器は「絶対悪」だ。念を押すまでもあるまい。政策の選択肢に入れてはならない▲医師の国家試験には、選択問題でその選択肢を選んでしまうと、他の問題でどんなに高い点数が取れていても問答無用で不合格になる「禁忌選択肢」という仕組みがあると聞いたことがある。(智)(長崎新聞・2026/08/06)

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🔵 原水爆禁止運動(げんすいばくきんしうんどう)= 核兵器に反対する民衆運動。 1950年,ストックホルム・アピールが世界4億 7000万人の署名を集めてその端緒を開いた。 54年3月1日,アメリカのビキニ環礁水爆実験によって『第五福竜丸』が被害を受けると,東京杉並区の主婦によるアピールと広島の各種団体による署名運動をきっかけに,運動の規模が広がり 55年8月6日,広島の第1回原水爆禁止世界大会までに 3000万人の署名が集った。大会後生れた原水爆禁止日本協議会 (原水協) により毎年世界大会が開かれることになった。しかし,60年の安保改定前後から政治勢力各派の間の対立が表面化するようになった。そして 61年に民社党,全労会議系の核兵器禁止平和建設国民会議 (核禁会議) が結成され,66年には,63年の米英ソ3国による「部分的核実験停止条約」の評価をめぐって共産党,平和委員会系と社会党,総評系とが分裂し,後者による原水爆禁止日本国民会議 (原水禁) が結成された。以後原水協と原水禁による2つの「世界大会」が広島を中心に開かれてきた。しかし,76年末から両者の間で再統一の動きが始り,77年3月合意に達し,同8月広島で統一世界大会が開かれた。だが,86年の大会をめぐる両者間の対立と分裂により,完全再統一の実現はなお予断を許さない。(ブリタニカ国際だ百科事典)

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