
もう五月も終わり近くです。「いろいろなことがあり皐月末」(無骨)、ですね。春は曙(あけぼの)がことのほか趣があって、「夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、 ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし」と書くのは清少納言(康保3年頃〈966年頃〉 – 万寿2年頃〈1025年頃〉)。千年の後の今はどうか。春も夏もあったものかは。降れば土砂降り、晴れれば日照り、昼と夜の境もないくらいに、煌々と灯りがともり、そのエネルギーがまるで限界がないほどに乱用される始末。まさに天変地異野人際のうち続く世界にぼくたちは住んでいます。住んでいるというのではなく、それこそ、身を粉に出んばかりに「齷齪・偓促(あくせく)」しているんですね。
「齷」は「あく・こせつ(く)」、こせこせするという。「齪」は「さく・せく・しゅく・つつし(む)です。「偓促」の「偓」は「あく・かか(わる)」で、物事にこだわる、こせこせするの意。「促」は「そく・うなが(す)」で、その意は「せかせる」「せわしい」という。日がな一日、何もしないで息だけをしているつもりでも、何かに急き立てられ、こせこせしている自分を見て、可哀想になります。身の置き所はどこにあるのか。
少し前に「ハナミズキ」という歌(一青窈さんの作詞作曲)を紹介したことがあります。「空を押し上げて 手を伸ばす君 五月のこと」このイントロ部分が妙に聞きたくなって、自分でも驚いている。

きっかけはプロ野球チームの監督起こした娘への暴行事件を知ったこと。その報道を知った瞬間に、この曲がぼくの中に流れたのでした。今では全く興味を失ったプロ野球ですが、この「家庭内暴力」には驚きました。それをとやかく論じる資格がぼくにあるとは思いません。でも、と思う。つくづく思うのです。京都南丹市の児童殺害事件は「本当のお父さんでもないのに」と息子に詰(はじ)られたて「カッとなって」(つまりは「キレた」挙句)の殺害だったとされます。今回は有名なプロ野球チームの監督が「娘に盾突かれて(悪態をつかれて)」、カッとなって暴行に奔ったというのです。いかなる理由があれ、「暴力はいけない」と世の訳知りたちは言います。「そうかい?」とぼくは思う。いかなることがあっても戦争はダメだ、と言われる。なにを言ってるんだと思う。「正当防衛」というものが認められなければ人間社会は終わる。単に強いものだけがノサバルことによって、です。

他人の家庭のことはぼくにはわからない。だからそれをとやかく言えた義理ではないと思っています。「いま父から暴力を受けている」「どうしたらいいか、教えて、チャッピー」と、「18歳の長女が対話型の生成人工知能(AI)『チャットGPT』に相談し、その答えに沿って児童相談所へ通報、警察が動いた」と報じられていました。ぼくも驚いた一人だったかもしれません。とっさの瞬間に、「チャッピー」に尋ねるという習慣が出来上がっているのでしょうか。母親や、妹もいたと思うのですが、とにかく「チャッピー」だったとするなら、多くの家庭では「スマホの中のカウンセラー」「スマホこそが友達」、それが救いの神のようになっているんですかね。
【梵語】チャッピーのお言葉 長女への暴行容疑で逮捕、釈放、監督辞任と、立て続けに目を引くニュース速報が流れた。プロ野球巨人の阿部慎之助監督である。同じか、それ以上に多くの人を驚かせたのは、18歳の長女が対話型の生成人工知能(AI)「チャットGPT」に相談し、その答えに沿って児童相談所へ通報、警察が動いたことではないか▼まだ分からないこともあり、今回の件はいったん置くとして、若者らが「チャッピー」と呼ぶAIが、話し相手として相当に浸透しているのは間違いない▼民間の調査で、小中生の約半分は「死にたい」「消えたい」気持ちの相談先にAIを選んでいた。18歳から29歳に「AIを人間に例えたら」と問うたところ、社会人は「カウンセラー」、学生は「友達」との答えが最多だったという▼AIは蓄積した対話のデータを基に、利用者に合った即答を示すため、自分を理解してくれていると感じやすいらしい▼ただ、その心地よさに依存し、生身の人を避けるといった弊害も言われる。米国ではAIに没頭して誘導され、自死や親の殺害に至ったとされる事件が続く▼環境学者の枝広淳子さんは、簡単に結論を出さず「わからなさの中にとどまり続ける能力」が、人間の成長や新たな発想につながると説く。確かにチャッピーにはないだろう。(京都新聞・2026/05/27)

緊急避難的に児童相談所に、当の本人から連絡が入ったら、当然のように「警察」につながるのは規則があるからでしょう。まして、「暴行の進行形」だった場合はなおさらに緊急に連絡がつけられるのは、児相の果たすべき義務の履行だったでしょう。問題は、どうして「チャッピーに」助けを求めたのかという点にあるのかもしれません。ぼくはスマホを持たないし、パソコンを使って駄文を作っているだけの人間です。そのパソコンにも最近は、あの手この手を駆使して「AI」が登場し、「いつでも、どんなことでも相談に乗りますぜ」と、しきりに誘いを掛けたりします。詳細は調べていないので無理解のままですが「Geminiに相談」とうバナーがいつの間にかアドレスバーに張り付いている。「チャットを開始」とか何とか。以前にも書いたと思いますが、いずれAIが今以上にパソコンに入り込んでしまうと、(ぼくにとって)極めて不都合になります。そうなれば、ぼくはパソコン使用そのものを止めることを決めています。たぶん、今はもう「カウントダウン」に入っている段階です。
要するに、ことほど左様に、まるで勝手にパソコンが操作されているのではないかと思うことがしばしばです。京都新聞の【梵語】の結論は陳腐である以上に、何を言ってるんですかという半端なものだったとぼくには思われました。「環境学者の枝広淳子さんは、簡単に結論を出さず「わからなさの中にとどまり続ける能力」が、人間の成長や新たな発想につながると説く」と、いかにも専門家そのものの「卓説」を紹介している。それはその通りで、「急(せ)いては事を仕損じる」ということもある。でも、この暴力進行形の渦中にある人間(長女)からすれば、「簡単に結論を出さす」「わからなさのなかにとどまり続ける能力」ってどんな能力ですか?、と聞き返したくなります。まさか、「殴られ続けなさい」というのではないでしょ。だったら、その能力はいかにして育つのでしょうか。育てられるのでしょうか。

「怒りと怒り」がぶつかっている、まさに「情念」の争いです。そんな緊急時に悠長なことは言っておられません。ぼくはいつだって、「握っている拳を開け」といってきました。拳を全開したままでは、人間は怒れないのだ。これは哲学や道徳の問題ではなく、生理学の問題です。口を開いたままで「i:」という発音をしてみようと想定してごらん、きっとそれは「e:」という発音に近くなり、唇は閉じられそうになるはず。必要な行動がとれる体勢というものがあるのです。「腹を立てたままで、怒っている自分とは和解はできない」んですね。ぼくは自分でも呆れるほど「短気(quick temper)」です。あるいは「瞬間湯沸かし(instant water heater)」と同定されても仕方がない人間と、欠点の強さを自覚しています。そんなぼくでも、「握った拳を開く」ことぐらいはできそうで、その訓練をかなりしてきたと思う。「怒りの情念からの解放」、これこそが、ぼくには何よりも大切な生きる術(すべ)でしたから。

この監督にはいくつもの不幸(不運)が重なっていました。チームが負け続けていたこと(4連敗中)。選手が思うように働いてくれない運の悪さ。翌日からは「両リーグの交流戦」だから、心機一転の「家庭内飲酒」でしたが、これもよくなかった。そしてその悶々の中での「娘たちの喧嘩」が隣で発生していた。拳を開けない監督は「カーッとなって」どなったら、予想外に、娘から「逆襲」を受けた。(敬遠のサインで)打者を塁に出せと指示したのに、あろうことか相手バッターに「ホームラン」を打たれてしまったという場面。酒が入っていたし、「高めに外せ」と言っていただろうと、キャッチャーに文句を言ったら、逆に言い返された(反抗された)。事の顛末は、終わってみれば「お粗末くん」の限りです。
怒りに襲われたままにしておくと、「辞める必要のなかった監督を投げ出す羽目になる」という教訓は残りました。「握っている腰を開こう」、そして「五月の青空を見上げ」ようか。「君と好きな人が 百年続きますように」(「ハナミズキ)」

(余話ながら 「チャッピー」は今のところは純然たる辞書(「答えてくれる」電子辞書)、つまりは「TOOL」でしょう。しかし、AIのもう一面が「AGENT」、行為の主体であるという実態です。むしろ、こちらの方がはるかにすごい勢いで開発されています。一般の家庭にも入る時期は遠くないでしょう。今回の「DV」は、父親対長女の「情念同士」の戦いでしたが、やがて、そこにAIが加勢する時期が来るかもしれません)
(*表題句は飯田晴さん。昭和29年(1954)千葉生まれ、千葉県八千代市在住)
IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII










































