
⁂「週のはじめに愚考する」(120)~ 「AI はツール(tool)ではなく、行為主体(agent)である」という 駄文を二日前に綴ったたばかり。人間自身が問題(事態)を判断するのではなく、それを「AI」という人工物に委ねられているという原理は普遍性を持っています。駄文を綴った際に、ドラえもんや鉄腕アトムは「善意のロボット」として生み出されているので、残酷なことや悲惨な結末を産むことがないのは予測できたと書きました。どちらも、人間性の及ばないところにその力を発揮し、戦争や自然災害などの災厄を免れることができる選択をする、その方途を明示するように「善意のロボット」は働いていたのではなかったか、それが駄文の趣旨でした。

本日の西日本新聞のコラム「春秋」は、熊本大学の学生の一人が「AIはのび太にとってのドラえもん」と指摘していたと書かれていた。我が意を得たというのか、「善意の助っと」は、誰にとっても歓迎される存在ですから、たとえ漫画と雖も、大いに読者や視聴者から歓迎されるのは当然だったでしょう。「のび太君は事あるごとにドラえもんを頼り、無理難題を丸投げする。ドラえもんは『困ったやつだなあ』と嘆息しながら『ひみつ道具』を取り出し、解決の手助けを試みる」そこには人間と人型ロボットの間の「友情」というものが明らかに感じられていたでしょう。
(ヘッダー写真は「藤子・F・不二雄大全集 ドラえもん (20) コミック – 2012/9/25」)
【新生面】AIとドラえもん 「AIは、のび太にとってのドラえもん」。熊本大でジャーナリズム論を学んでいる学生の一人が、今の若者たちと生成人工知能(AI)の関係をこのように解説してくれた▼勉強のこと、友達とのこと、やらかしてしまった大失敗のこと…。のび太君は事あるごとにドラえもんを頼り、無理難題を丸投げする。ドラえもんは「困ったやつだなあ」と嘆息しながら「ひみつ道具」を取り出し、解決の手助けを試みる▼けれど、なかなか成功しない。うまくいったように見えても、すぐに「ひみつ道具のおかげ」であることが露呈し、さらなる窮地に陥る、というのがお決まりのストーリーだ▼今の若者たちは生成AIとどんな関係を築いているのだろう。内閣府の調査によれば、生成AIを使っている人の23%、10代女性では52%が「悩み相談」を目的に挙げている。人間関係などへの助言を「信頼している」との回答は全体で38%、10代女性では63%に上った▼昼夜を問わず困り事に対応し、秘密も守ってくれる。生成AIは確かに便利で心強い存在だ。ただ、心地よい関係に依存しすぎると、生身の人と話をするのが面倒になってしまいそう。生成AIの助言を参考にしながら、人まねではない、後悔しない決断をできるかも気になる▼生成AIは全ての世代の人々にとって必須の道具になっていくに違いない。とはいえ、それと引き換えに人として大切な何かを失っては元も子もない。ひょっとしたら、のび太君とドラえもんはそう伝えているのかも。(西日本新聞・2026/05/24)

鉄腕アトムにしてもそうでした。人間社会、ひいては人類の危機に、果敢に挑戦する「平和のヒーロー」という印象がとても強かったと思う。その人型ロボットのエネルギー源が「核物質(ウラン)」であったのと比べて、今日の人型ロボットは「レアメタル」だという違いはあるでしょう。その違いは、決定的なものだったかどうか、ぼくには断定はできませんが、無奇物(鉱物)から有機物(動体)を生じるという点ではいささかの差異もないと思います。

ドラえもん(1969年登場)も鉄腕アトム(1951年誕生)も、同時代の存在として、ぼくはよく理解し、歩調をそろえて、並走していたとは言い難く、あまり優れた読者・視聴者ではなかったことを白状しておきます。今日においても、ぼくは一度として携帯もスマホも所持したことはなく、寿命が尽きるまでに一度だけでいいから「バーコード」を読み取ってみたいという、まるでおサルさんのような希望を持っている人間です。適例かどうか、にわかに判別はできませんが、小学生が戦争ゲームで敵側にミサイルや核爆弾を発射する、そんな考えたくないような未来社会が、ぼくたちの生活圏で「口を開いて」始まっているというようにも考えられます。
一人の人間の中に、より多くの善意に基づく要素と、反対に悪意に向かいがちな傾向とがあって、確かに、そのような二種類の人間がいると、ぼくたちは考えたくなります。人間の作るロボットですから、その二種類の傾向(要素)の強弱はきっと作品(ロボット)に反映されるでしょうし、最初から意図をもって作られれば、はっきりとした「殺意」や「嫌悪」を示す行動をとるロボットも生まれてくるでしょう。ドラえもんや鉄腕アトムの「作者」たちは「人間愛」(人類愛)「闘争ではなく友愛」により強い親和性を持っていた人だったから、それを鑑賞する側も安心しておられたのではなかっかと思う。

「生成AIは全ての世代の人々にとって必須の道具になっていくに違いない。とはいえ、それと引き換えに人として大切な何かを失っては元も子もない。ひょっとしたら、のび太君とドラえもんはそう伝えているのかも」(「春秋」)というコラム氏の指摘は間違ってはいないでしょう。しかし、今、ぼくたちの社会見に見られる「AI技術搭載品」は、あくまでも「道具(tool)」であって、それ以上でも以下でもないから、事は面倒ではないとも言えます。「機械に頼るのではなく、最終的には自分で考え判断する力を持たなくちゃだめだよ」と、コラム氏は、アトムやドラえもんになり代わって言われたのかもしれません。。

今日の課題となっているような、「人工知能」以降の開発課題、問題発掘等、それを考えるには、この駄文はふさわしくない。要は生成AIの人間化を進めるのは、そこに「道徳性」、あるいは「責任性」というものを想定しなければならないのでしょうが、まだまだ現状では十分ではない。ある人に言わせると、人工知能は、2029年にAIに凌駕されると言われている。(この先を論じると際限がなくなりそうですので、今回はここまでに)
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(蛇足 携帯電話が話題になりだした時期(1980年代後半)、持ち運びができる電話ということで、とても受け入れられたことをぼくは記憶している。もちろん、その段階で、ぼくには不要な機器だという判断があったし、それが今に至っても続いているのです。簡単に言うと、あくまでも通信(通話)の道具(手段)であるという認識でした。機械(道具)は便利で効率が高いから普及するのでしょう。洗濯板で汚れを落としていた時期から、一転して電気洗濯機が作られるとたちまちのうちに普及しました。なによりも重労働からの解放が認められたからでしょう。自動車もそうでした。
しかし、スマートフォンが流通するようになった段階では、明らかにベクトルは変わってきました。通信の手段ではなく、それを超越した発展可能性を持っていることがわかっていたからでした。自動車がスマートフォンを搭載するとどうなるか、たぶん開発者は、それを予想しながら未来図を描いていたと思う。自動運転はもちろんのこと、空を飛行する車も考えられていた。それ以上に、スマホに乗せられる「AI」の進化によって、人間自身が人工知能に動かされる、命令されるなどという人間の受動性が明らかになり始めた段階で、事態は局面(フェーズ)を変えたのでしょう。

これからもぼくはスマホは持たないでしょうから、シンギュラリティ―(singularity)問題はぼくには起こりません。それが社会の大きなテーマになる頃には、ぼくはとっくに消滅しています。
人型ロボットをこよなく愛する人型人間が生まれていることは現代社会のまぎれもない現象です。もはや「AI」なしの生活が考えられなくなっているという事実はいたるところに見られます。人間行動のかなりな部分が、生成AIにそそのかされて、あるいは導かれて行われているという傾向も否定できないでしょう。それは人間性の進歩というか、人間性の伸長という問題ではなく、その反対に人間性の略奪、人間能力の抑止・抑圧に働くことは、一面では否定できないように思われます。「鉄腕アトム」や「ドラえもん」に熱を挙げていた、素朴な人間および人間性にぼくたちは郷愁を覚えるはずでしょうが、やがて、その時機はもう過ぎ去ってしまったという悔しさを覚えることになるはずです。

極小の「ナノボット」が人間に移植される時代が来ると期待されているのでしょうか。人間の知性と人工知能が仲良くできればいいけれど、うまくいかないことの蓋然性は高いという主張もあります。ここまでくると、ぼくの興味も理解力も超えてしまいますので、その隘路(あいろ)には踏み入らないいつもりです。人間がロボットに額ずく時代、そんな環境には住みたくない、というより、今だって十分に「人間のロボット化」が進んでいるし、人間でなくなった「衝動(の塊)」が、さまざまな問題行動をとっているからです。衝動という表現を「本能」と言い換えてもいいでしょう。人間性を破壊する「本能」というものもあるというのは矛盾した考えですが、自分で自分を殺すのもまた人間ですから、ぼくたちの中にはすでに、人間性を破壊する「シンギュラリティ(特異点)」が動き出しているんだという認識に似たようなものは、ぼくにはあります。
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◎ 技術的特異点(ぎじゅつてきとくいてん)technological singularity = 人工知能に代表される技術 technologyのもつ知能が,自己再生産によって指数関数的に高度化するという収穫加速の法則に基づいて人間の知能を抜き去り,超知能が出現する時点をさす。アメリカ合衆国のコンピュータ科学者であり発明家のレイモンド・カーツワイルが提唱した 2045年頃に技術的特異点が出現するという説から,そもそも,そのようなことはありえないという説まで,幅広い意見がある。1980年代に数学者で SF作家のバーナー・ビンジが数学に由来する特異点という概念で技術の未来について論じ始め,1993年には “Whole Earth Review”誌で “Technical Singularity”という表現を使った。(↷)

その後,カーツワイルが 2005年に公刊した書籍『シンギュラリティは近い―人類が生命を超越するとき』The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biologyによって世界に広まった。近いうちに技術的特異点がやってくると考える人たちは,出現後の人類のあり方について議論を展開した。そのうちの一つに,マインドアップローディングという操作により,人間が自分の意識を脳からコンピュータに移し,超知能のなかに統合することで不老不死を得られるのか,という議論があった。この議論から,マインドアップローディングされたあとも同じ自分であるという意識を持続できるかといった議論や,テクノロジー社会に生まれたわれわれはすでに人工物と融合したサイボーグの一種なのではないか,といった議論も派生した。(ブリタニカ国際大百科事典)
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