住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて…

 佐藤愛子さんが先月29日に亡くなられた。各紙のコラムではいくつもの「愛子評伝」、あるいは「人間愛子」といった趣の記事が出ました。よく読まれていた作家だったことがわかります。本日は、その中から2編を。作家・佐藤愛子評を、ぼくは書くのではありません。それにふさわしい人がたくさんおられます。驚くべきなのか、なんと102歳の「大往生」だったという感想を持つのみでした。ずいぶん昔から、ぼくは「命永ければ辱(はじ」多し(壽則多辱)」とばかりに、それ相応の年齢になれば「世間」を捨てるつもりで生きてきました(できる限り世間とは没交渉で生きる)。「年齢」に関係なく「恥多し」というのは、つまりいつまで経っても「世間体」「体面」に囚われているからであろうという思いがありましたから。

 要するに、自分は世間からどう見られるか、どのように映るかを、まるで鏡に映る自分の姿を見るがごとくに、四六時中、気にするのです。ネット時代は、その傾向を加速させているのかもしれません。それは、恰(あたか)も「世間に対する体裁や見栄」、あるいは「世間向けの誇りや矜持」といってもいいでしょう、一言でいうなら「他者の評価」がものすごく気にかかるんですね。これはもはや「衝動(impulse)」です。とても「世間」が気になるということです。「世間」がなければ「自分」がないというように、です。

【春秋】損得ばかりの世を憂えた「怒りの愛子」 ものを書く母の姿が機関車に見えた。コークス代わりに自分の生体エネルギーを火室にくべてF1レース並みにかっとばす。娘の杉山響子さんは、そんな母が認知症になり、記憶が失われていく姿を愛情を込めてつづった。娘の著書「憤怒の人 母・佐藤愛子のカケラ」が書店に平積みされる中で、母は102歳の大往生を遂げた▼作家の次女として大阪に生まれ、2度目の結婚では夫の借金に苦しんだ。離婚への日々を書いた私小説「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を受賞した▼卒寿のエッセー集「九十歳。何がめでたい」は思いがけないミリオンセラーに。これでおしまいと言いつつ98歳、101歳と、タイトルに年齢を掲げた著書が並び続けた。その姿に励まされた読者も多いだろう▼東日本大震災の翌年、瀬戸内寂聴さんとの対談を取材した。旧知の2人の毒舌たっぷりな放談の中で、戦時中の思い出を語る言葉は重かった▼ガチガチの軍国少女は、ラブレターを渡してきた大学生に「この非常時に何をやってるんですか!」と手紙を投げつけた。戦争で一番つらかったのは「希望がなくなっていったこと」だった▼日本人は価値観も感性も大きく変質してしまった。精神性と物質主義がせめて半分ずつあってほしいけれど、損か得かばっかりなのよね-。いまの世の中を、こんなふうに憂えていた。「怒りの愛子」が大正から令和を駆け抜けていった。(西日本新聞・2026/05/17)

 誰でも彼でも、「命長ければ恥多し」ということにならないのは、佐藤愛子さんの生き方を見れば判然とするでしょう。反対に「命短くても恥多し」もまた、枚挙に遑(いとま)なし、です。もちろん、佐藤さんが102歳の生涯を生きられたという事実は尊敬に値はします。でも、それは外から見た人の観察であって、ご当人はどう思われていたか、家人はどうみていたか。「娘の杉山響子さんは、そんな母が認知症になり、記憶が失われていく姿を愛情を込めてつづった」(「春秋」)未読ですから、余計なことは言わないつもり。でも、それはそれで、ご当人はつらいことだったかもしれませんね。年齢に関係なく、人生とは誰にとっても「重荷(heavy burden)」なんですよね。

【水や空】佐藤愛子さん 刀や刃物を作る「焼き入れ」の過程で鋼を加熱しすぎると硬度や切れ味が落ちてしまう。年長者らの衰えを言う「焼きが回る」はそこから来た言葉だ▲○○さんもすっかり焼きが回った…。もし身の周りでそんな会話を聞いたら、○○に入る名前を聞き漏らしたことにほっとするだろうか、それとも「誰の話をしてたの」と聞かずにはいられないだろうか。そんな年齢になった▲昨日、訃報が伝えられた作家の佐藤愛子さんはそうした評とは無縁の人だった。誰かの発言が日々“炎上”を繰り返す昨今の世相をこう語ったことがある。「ひと言で言えば『いちいちうるせえな』、これに尽きますよ」。抜群の切れ味だ▲事業に失敗した元夫の借金を肩代わりしたことが旺盛な執筆活動の原動力の一つだったことが広く知られている。会社の負債を社長の妻が背負う筋合いはない。「無知だったんですね」と振り返りながらこう明かしている。逃げたくなかったんです▲本紙のデータベースを探すと、佐藤さんの人柄や著作に言及した「声」欄への投稿がいくつも見つかる。伸びやかな老いのロールモデルとして愛された102年の生涯▲「作家人生なんて、書いて、流れて、そして消えていくものだと思っています」-。流れも消えもしないたくさんの言葉が遺った。(智)(長崎新聞・2026/05/16)

 「水や空」では「焼きが回る」という語で「年貢の納め時」というものを書かれていて、老齢というものに対する、一つの印象を与えられましたが、佐藤愛子さんは「焼きが回る」どころの話ではなかったと、「大往生」を寿・壽(ことほ)がれておられます。「誰かの発言が日々“炎上”を繰り返す昨今の世相」に向かって、「ひと言で言えば『いちいちうるせえな』、これに尽きますよ」と。世の中に生きていて、それなりに年齢を重ねていけば、「世間体」とか「体面」というものがうるさく自分を取り巻く、時には、あえて世間体に染まりたいという人も出てくる始末。佐藤さん(に限らず)は「憤怒の人」「怒りの愛子」などと呼ばれていたらしい。ぼくも何度か、威勢のいい啖呵を聴いたものでした。その怒りは彼女の経験が言わせた部分がほとんどだったでしょう。身を粉にして働いて生きている・生きてきたという実感(feeling)がものを言ったのですね。

 「コラム「水や空」さんは、次のように結んでいます。「作家人生なんて、書いて、流れて、そして消えていくものだと思っています」と作家は語るけれど、「流れも消えもしないたくさんの言葉が遺った」と。でも、やはり、それもまた、しばしの間のことで、やがて「書いて、流れて、そして消えていくもの」だという作家の本能、あるいは直感をそのままのものとして、ぼくは受け止めたいですね。(参考までに。「本の話 佐藤愛子100歳“ぼけていく私”「余計なことを考えないで生きていると、なかなか死にません」)(https://books.bunshun.jp/articles/-/8776

 「* 焼きが回る  焼き入れの際の火が行き渡りすぎて、かえって刃物の切れ味が悪くなる」「 頭の働きや腕前が落ちる。年をとるなどして能力が鈍る」(デジタル大辞泉)

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このことはしばしば駄弁っています。「老齢者の一言」でした。あれは何歳くらいだったか、おふくろが九十歳を過ぎたころに、帰京するたびに「うち(自分)は長生きしすぎた」という言葉をぼくは聞きました。彼女は100歳で亡くなりましたが、最晩年の5年ほどは療養施設に入っていたので、頻繁に会うことができませんでした。それでも入所早々は意識も記憶もまだ確かでした。たびたび会えなかったのは残念だったが、「長生きしすぎた」という独語のように語った言葉は、今もぼくは胸の内で反芻しています。佐藤愛子さんの「語り」をいくつも聴いていて、たぶん、おふくろはこういうことが言いたかったのか、と思い当たる気がしました。単刀直入の表現をすると、次のような様子なんでしょうね。「情けない生活をしています。朝起きて、顔を洗って、トーストとサラダを食べると、あとはもう、することがないんです」(「本の話」上掲) 

 ぼく自身も、もうそろそろ、老齢の佳境に入っているのかな、「どうでもいい生活」に浸っている、そんな実感がありますね。

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 化野(あだしの)の露、消ゆる時無く、鳥辺山の煙(けぶり)立ちさらでのみ、住み果(は)つる慣(なら)ひならば、いかに、物の哀(あは)れも無からん。世は、定め無きこそ、いみじけれ。
 命ある物を見るに、人ばかり久しきは無し。蜉蝣(かげろふ)の夕べを待ち、夏の蝉の春・秋を知らぬも有るぞかし。つくづくと一年(ひととせ)を暮らす程だにも、こよなう長閑(のどけ)しや。飽かず惜しと思はば、千年(ちとせ)を過(すぐ)すとも、一夜(ひとよ)の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世に、醜き姿を待ち得て、何かはせん。命永ければ辱(はじ)多し。永くとも、四十(よそじ)に足らぬ程にて死なんこそ、目安かるべけれ。
 その程過ぎぬれば、容貌(かたち)を恥づる心も無く、人に出で交(まじ)らはん事を思ひ、夕べの陽(ひ)に子孫を愛して、栄(さか)ゆく末を見んまでの命を有らまし、ひたすら世を貪(むさぼ)る心のみ深く、物の哀れも知らず成りゆくなん、浅ましき。(「徒然草 第七段」)

 長生きということについて、これまでにも何度か引用してきたのは「徒然草 第七段」です。全文は上に引いた通り。「化野(あだしの)」「鳥辺山(とりべやま)」は、今では京都の2大墓所となっていますが、平安や鎌倉時代には「風葬」「鳥葬」の習慣があったかと思われる地域でした。今日、化野には「化野念仏寺」があり、小学生のころに何度かその前を通ったことがあります。見るからに陰々欝々という印象が今でも残っています。鬱蒼(うっそう)とした樹木に覆われて、暗く湿気が多分にあるような、そんあお寺だった。それがどうしたことでしょう、嵯峨の観光の穴場になっているというのですから、商売っ気というものは「げに恐ろしや」です。

 「世は、定め無きこそ、いみじけれ」と、人間の寿命あることを兼好さんは大肯定してます。この時、彼はいくつだったでしょうか。たぶん50を出たところだったか。「つくづくと一年を暮らす程だにも、こよなう長閑しや」とも。生き物のなかでは人間の寿命は長い方だ、でも「飽かず惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ」

 そして「住み果てぬ世に、醜き姿を待ち得て、何かはせん。命永ければ辱多し」と書く。いつまでも生きながらえることはできないのだから、生き恥を晒すようなことは止めた方がいいと兼好さん。「命永ければ辱(はじ)多し」、この言葉の出典は「荘子 天地(第十二)」であります。兼好さんの引用した部分では、実はもっと大事な文章が後に続いているです。いまそれを「荘子(原文)」によって引いておきます。

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 「荘子‐天地(第十二)」の一節です。「多男子則多懼、富則多事、寿則多辱、是三者非以養一レ徳也」 

 中国の伝説の「聖人」の尭が、まだ即位する前、ある地方に出かけて、その地の役人から声を掛けられた。「聖人が来られた。聖人にお祈りを捧げよう」「多くの若い男が授かるように」「たくさんの富が与えられますように」、そして「長寿に恵まれますように」と祈ろうとしたが、若い尭はその悉(ことごと)くを断りました(故辭)。「多男子則多懼,富則多事,壽則多辱。是三者,非所以養德也」子どもが多ければ煩わしい、富がふんだんにあればことが起こる。そして「壽則多辱」といった祈りも断ったのでした。「非所以養德也」これらは「徳」を養うようなものではないのだと。兼好はこの「壽(長命)(長生き)則(すなわち)多辱(辱多し」のところだけを引用したと思われます。

 もちろん、あくまでも推測ですが、聖人でも君子でもない、平凡な人間は、長く生きていれば、それだけ恥をかくことも多くなる」とだけ言いたかったのでしょう。しかし「荘子」に出て来る役人は、尭に対して、強い調子でなじります。誰だって、この「三者」を願うではないか。後に「聖人」と崇(あが)められるようになろうかという人士に対して、「始也我以汝爲聖人邪,今然君子也」はじめ、あなたを「聖人」と見ましたが、どうもそれは間違いで「あなたは君子」ですね。ここで聖人論をする遑(いとま)はありません。聖人ではなく君子だという理由は、政治家の天稟の違いを指して言うのでしょう。真の政治家(聖人=道を行う人)であるなら、長生きしても恥じるところなどないではないか。自分にやましい心がなければ、何の恥じるところがありますか。と。おそらく、これはとても大事(面倒)なことを指摘しているんですね。その証拠に、君は聖人ではないと断言されたのでした。そして「封人去之」、役人は立ち去った。尭は後を追って「教えてください(請問)」と頼んだが、役人はきっぱりと「退已!」「立ち去りなさい」と。

 どんな人も、長く生きれば恥が多いということにはならないのは当然。しかし兼好さんは、同時代人の多くを見ていて「壽則多辱」、命長ければ恥・辱(はじ)多しという実例に遭遇していたのでしょうか。だから「聖人」「君子」でない限り、やはり「壽則多辱(長生きは辱多し)ということになるのでしょう。ぼくなどはその典型で、長生きするまでもなく「辱多し」という人生を歩いていたのでした。

蛇足 というわけで、新たなカテゴリーに「壽則多辱」なる看板を掲げ、自他に認められる、長生きの恥さらしに該当するかもしれぬもろもろの現象(出来事・行為など)を、まあ、ゆっくりと語りたいと思った次第です。「壽」とは長生きのことです。なんだか無条件に「めでたい」と思われがちですけれども、さてどうでしょうか。長生きしていて、見なくてもいいことを見せつけられ、聞かなくてもいいことが耳に入るというのは、決しておめでたいものではありません。老化するというのは、それまでできていたことができなくなることですね、その自覚というか認識は、ぼくにも多分にあります。でも、わかっていてもできないことがいくらでもあるでしょう。どのような生き方が「見事」か、ぼくにはわかりません。他人に迷惑を掛けないように、静かに、ゆっくりと息をして、それがいつか途切れるといいですね。それでも久野修さんが言われていたように「腹が立って、ボケていられんよ」ということがまだしばらくは続くか)(右上写真は京都亀岡の「老ノ坂峠」付近)

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《堯觀乎華,華封人曰:「嘻,聖人!請祝聖人,使聖人壽!」堯曰:「辭。」「使聖人富!」堯曰:「辭。」「使聖人多男子!」堯曰:「辭。」封人曰:「壽、富、多男子,人之所欲也。汝獨不欲,何邪?」堯曰:「多男子則多懼,富則多事,壽則多辱。是三者,非所以養德也,故辭。」封人曰:「始也我以汝爲聖人邪,今然君子也。天生萬民,必授之職。多男子而授之職,則何懼之有!富而使人分之,則何事之有!夫聖人,鶉居而鷇食,鳥行而无彰;天下有道,則與物皆昌;天下无道,則脩德就閒;千歲厭世,去而上僊;乘彼白雲,至于帝鄉;三患莫至,身常无殃,則何辱之有!」封人去之。堯隨之,曰:「請問。」封人曰:「退已!」》(「荘子・天地第十二」)(Wikipedia)

(大意)
 堯が華に出かけたとき、華の役人が言った。「嬉しい、聖人だ。聖人を祝福させてください。聖人が長生きしますように」。堯は「断る」と応じた。「聖人が富に恵まれますように」と言うと、堯は「断る」と応じた。「聖人に男子が多く生まれますように」にも、「断る」と応じた。役人は「長寿、富、多くの男子は、人が欲することなのに、なぜですか」と言うのに対し、堯は「男子が多いと心配も多く、富があれば多事になり、長生きすると辱めも多い。この三者は徳を養うものではないので、断る」と答えた。(↷)

 役人は「はじめ、私はあなたを聖人だと思ったのですが、今伺うと君子ですね。世に生まれる万民には、必ず天職が与えられます。男子が多くても、職は得られますから、心配はいりません。富は人々に分けて使えば、何ということもありません。聖人は鶉のように居場所を定めず、ひな鳥のように食べ、飛び回って足跡を残しません。天下に道があれば、すなわち皆うまくゆき、天下に道が無ければ、自分を弁えて静かに過ごし、千年経ってこの生が嫌になったら、世を去って天高く上り、白雲に乗って帝の世界に行きます。三つの憂いもなく、自分の身に害悪が無いなら、何の辱めがあるでしょうか」と言って去ろうとした。堯は後を追い、「伺いたいことがあります」と言ったが、役人は「もう帰れ」と言った。(同上)

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麥爛熟太陽は火の一輪車

【有明抄】麦の秋 季節はいま麦の秋。万緑の中に、黄金色の穂がまぶしく風にそよぐ。よく熟れた麦のにおいにむせ返るよう。あちこちで刈り取りが進み、遠く野焼きの煙も見える◆佐賀平野でこうした風景が見られるようになったのは、コメとの二毛作が本格化した昭和40(1965)年以降のこと。古くから麦作りが盛んだった、よその地域ではこの時季1週間ばかり「農繁休暇」があったという。俳人の坪内稔典さんが思い出を書いていた◆昭和30年前後だろうか。坪内さんが育った四国の村では、小中学生は家の手伝いにかり出された。〈麦を刈っているとどっと汗がふきだしたが、それがなんだかうれしかった。一人前に働く誇りをそんな汗に感じたのだろうか〉。機械化以前の穀倉地帯では家々が総出で鎌を握ったのだろう◆このところ真夏並みの暑さが続いている。農作業でふきだす汗は、手伝いの子どもとは比べものにならない。長い夏を乗り切るには、運動や水分補給で体を暑さに慣らす「暑熱順化」が大事とされる。日本気象協会が各地で取り組むタイミングを示した「暑熱順化前線」によれば、県内は4月下旬から心がけが必要らしい◆農村からかつてのにぎわいは去り、麦刈りの鎌ひとつ満足に扱えない私たちは、汗のかき方まで忘れそうになっている。〈新しき道のさびしき麦の秋〉上田五千石。(桑)(佐賀新聞・2026/05/19)(ヘッダー写真は「麦秋の佐賀平野、黄金色に 佐賀市川副町で刈り取り最盛期」佐賀新聞・2023/05/18 07:00)

 迂闊だったと思います、ずいぶん遅くまで「麦の秋」「麦秋」という、この穀物に似つかわしい表現(言葉)を知りませんでした。大学を卒業してから、やっと知ったと思う。それも、友人に誘われて飲みに行ったスナックで、だった。その瞬間、「えっ、それってどういうこと」という驚きがありました。今もあるかどうか知りませんが、大学近くの飲み屋街にあった呑み屋の「店名」でした。もう半世紀以上も前のことです。どうしてこの言葉を知らなかったのか、もちろんぼくの不勉強の祟(たた)りだったと思うけれど、それ以前にはよく知られた、同名の映画を見ていたはずなのに、少しも記憶に残っていなかったのでしょう。後年、しばしばテレビで放映されたのはおそらく2000年代前後だったかもしれません。ぼくはそれを見た記憶はあるが、内容はほとんど覚えていないし、まして「麦秋」というタイトルの意味などは考えたことはありませんでした。職場近くの、その「スナック 麦秋」に二度三度と通った記憶はありませんから、ぼくには合わなかったのでしょう。その店で「麦酒」を呑んだかどうかも覚えていません。

 「麦」については、田植えや稲刈りと同様に、麦踏みなどの経験がありましたから、よく馴染んでいました。また、中学校時代、弁当持参だったが、その弁当に「麦飯」を入れていたのを、友人が「お前のご飯は黒いけど、それなんでや」と聞かれた。友人は「麦飯」を知らなかったのだ。米だけのご飯よりも栄養価の面で、麦飯がいいのだということではなく、単に米を節約するだけのために麦を混ぜていたのだと思う。戦後しばらくしてから、当時の大蔵大臣が「貧乏人は麦飯を食え」と発言して、大いに顰蹙(ひんにゅく)を買っていました。それで「麦飯」とはいうのはあまり「気分」のいいものではないということはわかっていたのでした。

 今日、この国はほとんどの麦は輸入に依存しています。現住地に越してきた当座、付近の畑にはわずかではあったが、「麦」が植えられていました。しかし、今ではそれがすっかり姿を消してしまったのを見るにつけ、なぜだろうかという疑問だけが膨らむばかりです。おそらく現在の小麦の輸入量は9割以上を占めているかもしれない。コメ離れが進み、ついで小麦の輸入が滞れば、この国の食糧事情はどういう影響を受けるのでしょうか。食料自給率が4割を切り、何でも輸入に依存する風潮をこそ、「食糧安保」を言うなら、もっと真面目に「政治」は考える必要があるでしょう。

 戦後しばらくたってからの大蔵大臣は 「貧乏人は麦飯を食え」と放言したのではなく、貧富の差を縮めるように政治は運営されるべきで、「いまは所得の少ない人が多く麦を食べ、所得の多い人が米を多く食べている」だから、そういう方向(米を多く食べる)に政治は運営されるべきだと大蔵大臣は発言したといわれます。この国の政治・経済は大本は「自給自足」を放棄して、より多くは外国産に頼る方向に走ってきました、現在は、かろうじて「米作」だけが国産で賄っているわけですが、政治の判断ミスで「米不足」状態を来し、驚くべき高いコメを食わされる羽目になったばかり。「豊葦原之瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と美称されてきたこの劣島はまた、「麦秋(wheat harvest)」「麦の秋」という初夏の景色も、昔からこの島の風物として大切に維持されてきたのです。

・麦秋や教師毎時に手を洗ふ(堀内薫) (問❶ いつ頃(時代)の作でしょうか。季節は初夏ですが、いつ頃の初夏か。問❷ どうして「教師毎時に手を洗ふ」のか。なぞかけのような俳句、とてもいいですね。堀内薫さん「生年明治36(1903)年12月1日 没年平成8(1996)年8月11日 出生地奈良県奈良市 別名旧号=小花 学歴〔年〕京都帝国大学国文学科卒 経歴戦前「京大俳句」にて平畑静塔の指導を受ける。昭和23年「天狼」「七曜」の発行と共に入会、山口誓子・橋本多佳子に師事。31年「天狼」同人。38年より「七曜」主宰。同年俳人協会入会、のち評議員。甲子園大教授もつとめた。著書に「多元俳句一元俳句」「俳句初学覚書」など」(Wikipedia》

 表題句「麥爛熟太陽は火の一輪車」加藤かけい(1900~1983)作。「名古屋市生。名古屋商業学校卒。少年のころから俳句に興味を持ち、1916年に大須賀乙字に師事。翌年の乙字の没後高浜虚子に師事。1927年、兄の加藤霞村とともに名古屋ホトトギス会を結成。1931年、「ホトトギス」を離れ水原秋桜子の「馬酔木」同人。1948年、「馬酔木」を辞し山口誓子の「天狼」同人。1951年、「環礁」を創刊、のち主宰。代表句「からたちの花より白き月出づる」他。中部俳壇を主導した。門下に小川双々子などがいる」(Wikipedia)

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◎ 麦秋(ばくしゅう)とは、麦の穂が実り、収穫期を迎えた初夏の頃の季節のこと。麦が熟し、麦にとっての収穫の「秋」であることから、名づけられた季節。雨が少なく、乾燥した季節ではあるが、すぐ梅雨が始まるので、二毛作の農家にとって麦秋は短い。七十二候では、二十四節気のうち「小満」の末候を「麦秋至」としている。「むぎあき」又は「麦の秋」とも読み、夏の季語の一つとなっている。(Wikipedia)

◎ 映画「麦秋」(「麦秋』(ばくしゅう)は、小津安二郎監督による1951年・松竹大船撮影所製作の日本映画。日本では同年10月3日に公開された。なお、本編でのタイトル表示は旧字体の『麥秋』。タイトルの「麦秋」とは、麦の収穫期で季節的には初夏に当たる時期を指す」(Wikipedia) 

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*参考記事❶ 《全国有数の麦産地である佐賀市南部の魅力を伝えるイベント「麦秋カフェ」が9、10の両日、佐賀空港北側の麦畑(同市川副町犬井道)で開かれる。実りの時期を迎えた佐賀平野で、とれたて野菜や加工品などが並ぶマルシェでの買い物を楽しめるほか、地元食材を使ったハンバーガーやアイスを味わえる。/初夏の風物詩「麦秋」を観光資源にしようと、毎年開催している。麦畑に映えるフォトスポットを設置し、麦の写真で知られる「麦グラファー」平野はじめさんの作品展示もある。/予約なしで楽しめる麦秋カフェ&マルシェは午前10時~午後4時まで。清掃協力金として中学生以上500円が必要。/麦畑の真ん中に用意したパラソル付きテーブル席で食事と音楽を楽しむ予約制の「プレミアム麦秋カフェ」は午前の部(午前10時から正午)と午後の部(午後2時~同4時)。中学生以上3千円、小学生2千円で、麦の種類などを学びながら巡る麦畑ミニツアーや麦刈り体験も楽しめる。/問い合わせはまちづくり団体「さがのぎ」江島政樹代表、電話090(7923)0107。(川﨑久美子)》(佐賀新聞・2026/05/02)

*参考記事❷麦の刈り取り始まる 千葉県野田市 県内最大の麦の産地である千葉県野田市で18日、大麦(六条大麦)の刈り取りが始まった。収穫された麦は、乾燥された後に農協に出荷し、麦茶に加工されて夏場の人々の喉を潤す。  昨年11月上旬に種をまき、4月上旬~中旬にかけて穂を出した。収穫時点で高さ80~90㌢に育ち、風が吹くたびに穂がゆらゆらと揺れる。のどかな麦畑の中をコンバインが小気味よい機械音を響かせながら、外側から反時計回りに回りながら刈り取っていった。【撮影・石川宏】2026年5月18日公開》(毎日新聞)(https://video.mainichi.jp/detail/video/6395922104112

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「去者日以疎、生者日以親」

 小さいころ(小学校に入る前)から、ぼくは歌謡曲(流行歌)をよく歌っていた。理由は単純で、ラジオもテレビもない時代、おそらく、おふくろが歌っていたのを傍(そば)で聞いていて覚えたからです。おふくろは若い時代、なかなかのモガだったらしい。そんな話はほとんど聞いたことがなかったけれど(それと思しき「写真」は何枚かあった)、歌だけはよく知っていたし、しばしば人前でも歌っていた。晩年は「民謡」に打ち込んでは熱心に教室に通ったり、発表会に出たりしていたらしい。

 それはともかく、ラジオやテレビを通した娯楽というものが何もない時代、本当に不思議なことでしたが、歌謡曲(流行歌)はよく歌っていたのです。誰が好きというのではなく、軒並みに「歌謡曲」そのものを歌っていたのだ。もちろん、戦前・戦中・戦後などの区分も意味も全く分がわからなかったが、時代を超えて興味を持ったのだと思います。特に京都に出てきた段階(昭和30年頃)は、日本の歌謡曲全盛時代だったかもしれません。名前を挙げればきりがないほど、何十人という歌手の持ち歌のほとんどをぼくは知っていました。今だって、ある曲の作詞者・作曲者、発表年を含めて歌詞はほとんどすべて覚えているというバカ臭さで、このエネルギーを学校の勉強に向けていたら、どうだったでしょうか。成績や評価というものにまったく興味が湧かなかったのは、ぼくにとっては幸いでしたね。

 そんな中で、美空ひばりさんは特別だったかもしれません。彼女は昭和12年生まれ。ぼくの兄と同じ年だったし、没年は平成元年6月。前年(昭和64年)11月に親父が亡くなっています。家族の履歴と重ねたわけでもありませんが、彼女の52年の生涯が、とても身近に感じられていたということです。美空ひばりという歌手は早くから「天才」と呼ばれ、全盛期には「演歌の女王」と呼ばれていました。彼女の実家は横浜の魚屋さんだったので、「突然変異」だなどどもてはやされてもいた。つまり「魚屋がひばりを産んだ」から、と。小さいころの彼女の歌には、どういうわけだったか、「哀愁」というものが漂っていたし、幼い彼女に「愛」だ、「恋」だと謳わせることはなかっただけに、なおさらに純粋に歌の上手さに多くの大人たちは拍手喝采したのだったでしょう。彼女の出演した映画もかなり見ていましたね。記憶には全く残りませんでしたが。

⁂ 悲しき口笛 昭和24年 (唄 美空ひばり)https://www.youtube.com/watch?v=WfDa2sZ-KxU&list=RDWfDa2sZ-KxU&start_radio=1)この時、ひばりさんは12歳でした。作詞の藤浦洸さんは長崎平戸出身。もちろん、ひばりさんを歌手と決めて書いた詩(詞)ですが、この内容をどれだけ読みこんでいたか。実に奇妙でしたね)(おまけです。天才少女!美空ひばり「憧れのハワイ航路」昭和の歌姫の原点(ビター伴奏の川田晴久さん、とてもひばりさんをかわいがっておられた。この伴奏時の彼の表情はどうですか)

 その「ひばり」の連想で行くと、まずは、ブラウニング(Robert Browning・1812―1889)の「春の朝(あした)」が好きでしたね。「代表作としては劇詩「ピッパが通る Pippa Passes」(1841年)が挙げられ、特にその一節「”God’s in his heaven. All’s right with the world.(神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し)」が広く知られる」(Wikipedia)二百年近く前のヴィクトリア朝時代、裕福な家庭の子だったブラウニングには、きっと「すべて世は事も無し」だったのかもしれません。しかし、今は今、この社会は乱痴気・混沌の真っ只中にあるといっていいでしょう。そんな汚濁の時代、揚げ雲雀もあるものかと思うし、何処を叩いても「神はしろしめさない」し、「すべて世は事も大あり」というほかないでしょう。

  春の朝

 時は春、
 日は朝、 
 朝は七時(ななとき)、
 片岡に露みちて、
 揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
 蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、
 神、そらに知ろしめす。
 すべて世は事も無し。

 この何十年、ぼくは揚げ雲雀の姿はおろか、その鳴き声さえ耳にしたことはありません。昭和の「御代」、邦家の詩人・三好達治さんは「揚げ雲雀」を謳っていました。初出は「三田文學 八卷四號」(1933(昭和8)年4月)。この昭和八年という年は、戦争期序盤の最も激しい国家主義、帝国主義の風潮が膨満した時代でした。詳しくは触れませんが、昭和20年8月の敗戦へ一直線の泥濘(ぬかるみ)を国全体でひた走りに走り出していた、狂気と乱舞の時代でした。陸軍幼年学校出身の三好さんは謳う「揚げ雲雀」、どんな思いが詩人の裡に宿っていたでしょうか。

 学生時代、ぼくは三好さんの詩に惹き付けられました。ことごとく暗唱するなどという暴挙すら犯したほどに、三好風に憧れていたのでしょうか。理由はどこにあったか。今でもよくわかりません。一種の熱病だったと思う。その「熱」がどうして冷めたのか、たぶん人並みに原稿を書き、人並みに職業に就く必要性を感じたからだ思う。「世渡り」がぼくを支配しかけたからだったでしょう。

 揚(あ)げ雲雀

雲雀の井戸は天にある……あれあれ
あんなに雲雀はいそいそと 水を汲みに舞ひ上る
杳(はる)かに澄んだ青空の あちらこちらに
おきき 井戸の樞(くるる)がなつてゐる

(「間花集」所収、「三好達治全集第一卷」
筑摩書房・昭和39年刊)

 「去る者は日に以て疎し、生くる者は日に以て親し」という。ブラウニングは言うまでもなく、三好さんへの愛着もまた「去る者は日を以て疎し」です。でも考えようによれば、去る者は「もはや去らない」という不動の質があるとも言えそうでしょう。ぼくの目の前、あるいは意識から去っていく人は後を絶ちません。そして二度と会う機会もないままに終わることもあるでしょう。それはお互い様です。でも亡くなった人は記憶の淵を超えない限り、何時だってぼくの意識に留まってもいるのです。<Out of sight, out of mind.>「見えなくなれば、記憶から消える」のは確かです。でも、記憶が蘇(よみがえ)ると同時に、ぼくの中で生き始めるのも本当のことです。

 「去者日以疎、生者日以親」(去る者は日を以て疎し、生くる者は日を以て親しむ)ということが本当に言えるのでしょうか。ぼくの心持ちは、何時だって「来るもの拒まず、去る者追わず」でした。それは今でも変わりません。もちろん、これはきわめて個人的な付き合いの中での話です。去る者の中には、文字通りに死別する人もいますし、単に交際が尽きたと思われる人もいます。来るものとは、旧友・親友といわれていた人が再来し、再会することであり、加えて、それには新たに知友になる人も含まれるでしょう。

 でも、この年齢になり、山間の僻地に住んでしまうと、「去る者」「来る者」、皆無に近し、そんな状況でもあるのは避けられません。寂しいという心境とは無縁です。それ故に、「ひばり」や「達治」などを思い出しては、存在、人間、作品になお感じるところがあるというばかり。それはそれで、ぼくには不満はないのです。

<新生面>ひばり節 〈ピーチク パーチク 雲雀[ひばり]の子〉はご存じ、民謡『おてもやん』の一節。60年前、熊本県の鳥となった雲雀は県内各地の草原や耕地で見ることができ、農業県を象徴するのにふさわしいとされた。それ以降、開発が進んだ地域も少なくないが、今はどれだけ生息しているのだろう▼「揚げ雲雀」という言葉もあるように空高く舞い上がり、よくさえずる。鳥類きっての歌い手と呼んでおこうか。その姿を未来に羽ばたく自治体像と重ね合わせて、菊陽町などが町の鳥にも選んでいる▼こちらのひばりの歌はいかに。昭和を代表する歌手の一人、美空ひばりさんが18歳の時に録音した未発表曲の音源が見つかった。命日である6月24日に発売されるCDボックスセットに収録。配信シングルとしてもリリースされる▼タイトルは『二人きりで』。テーブルで向き合う相手に気持ちを言い出せない少女の恋心を歌っているという。18歳と言えば『リンゴ追分』がヒットした3年ほど後。10代とは思えぬ成熟した歌声と評価されているようだ▼ひばりさんは類いまれな表現力を持った歌い手だった。晩年に病を押してコンサートを開くと「不死鳥」が降臨したと言われた。よくよく鳥と縁があるとみえる▼今回世に出る曲がレコーディングされた昭和30年代初頭は「もはや戦後ではない」と言われた頃合い。雲雀がさえずるのどかな光景が、各地で見られたはずだ。そんな昭和を懐かしみながらのひばり節もいい。折しも今年は、昭和元年から満100年である。(熊本日日新聞 2026年5月18日 05:00)

◎ 美空ひばり【みそらひばり】= 第2次大戦後の代表的歌手。本名加藤和枝。横浜市の魚屋の長女として生まれ,幼時より歌唱の才能を発揮。9歳から劇場に出演,1948年に歌手デビュー,〈天才少女歌手〉として評判となった。1949年9月に《悲しき口笛》を発売,50万枚に迫る売上げを記録。1951年《越後獅子の唄》,1952年《リンゴ追分》など歌に映画に活躍。1962年小林旭と結婚,1964年離婚。1965年《柔》でレコード大賞を受賞,1966年《悲しい酒》がヒット,〈演歌の女王〉の座を不動のものにした。1989年国民栄誉賞(死後追贈)。(1937~1989)(百科事典マイペディア)

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「徒然に日乗」(1095~1101)

◎2026年05月17日(日)終日自宅に。好天続きの5月半ば。▼円安・金利高・物価高騰。相変わらず、この経済破滅の「三点セット(スタグフレーションの好餌)」が危険な動きを止めていない。明日のマーケットの動きを見るのが怖くなる。ナフサ不足からの倒産が生じているという。どこまで行っても「能天気」な政府・官僚たちは、ホルムズ海峡封鎖の先行きやマーケット動向を真面目にみているのだろうか。端的に言うなら「なすすべがない」のだ。(1101)

◎2026年05月16日(土)さわやかな一日。気温はかなり高かったが、乾燥していたので、心地よい日和だった 終日家の中に。気温が高いので、外作業は控えるようにしている。無理はしたくないのだ。▼日経平均61,409.29 -1244.76 NYダウ49,526.17 -537.29 ドル円158.77-79 +0.85円安 NY原油105.66 +4.49 長期金利2.700 +0.070(日経新聞・2026/05/16)刻一刻と「危険水域」に接近していると感じる。(1100)

◎2026年05月15日(金)米中会談が終了。さまざまな受け止めができるだろうが、一言するなら、中国が米国の先に立ったということだ。今回の首脳会談のペースは終始中国が握っていたと、素人観測でははっきりと見えていた。「台湾問題」に「米国は関わるな」、「手を出すな」というに等しい、中国の態度を強烈に示した。「[米大統領専用機 15日 ロイター] – トランプ米大統領は15日、中国の習近​平国家主席との会談で、‌台湾への武器売却について協議したと明らかにした上で、こ​の件について近く決断​を下すと述べた。中国から⁠帰国の途についた大統​領専用機内で記者団に語った。/ト​ランプ氏は、習主席と「台湾について多くを語った」と述べ、​台湾を巡る対立があるとは​思わないと語った。台湾に関して習‌氏に⁠いかなる約束もしていないとした。/また、中国が台湾を攻撃した場合に米国が台湾​を防衛す​るか、⁠習主席から直接問われたが、回答を拒​否したと述べた。/『それ​を知⁠っているのはただ1人、私だけだ。私しかいな』とし、『⁠き​ょう習主席からそ​の質問をされた。私はそれについて​は話さないと答えた』と語った。」(Reuters・2026/05/15)「ドル円 158.54-55 +0.62円安 NY原油 104.53 +3.36 長期金利 2.700 +0.070」(日経新聞・2026/05/15)(1099)

◎2026年05月14日(木)本日も好天に恵まれた。昼前に買い物で茂原まで。▼午後からは庭作業をと思っていたが、空が怪しくなったので、中止。家の中に閉じこもる。結局、雨は降らなかったが、各地では天候が急変し、落雷に伴って、各地では霰(あられ)、霙(みぞれ)、雹(ひょう)が降ったらしい。大変に不安定な天候だった。▼夕方にも、中米首脳会談の報道に時間を奪われた。ネット時代のたまものか。幾多の課題を両首脳が話し合うのだが、具体的な問題の解決などはこれからの問題。「習氏、台湾問題で対応誤れば「衝突」警告-トランプ氏は9月訪米招待 トランプ米大統領と中国の習近平国家主席は14日午前、北京の人民大会堂での歓迎式典の後、会談に臨んだ。習氏は台湾問題を巡り、対応を誤れば衝突に発展する可能性があると警告した。トランプ氏の訪中は全体として友好的な滑り出しとなったが、率直な発言でその空気に水を差した。/中国側は約2時間半にわたった両者の会談が続いているさなかにこの発言要旨を公表し、台湾問題を一気に焦点に押し上げた。/国営新華社通信によると、習氏は「米中関係で、台湾問題は最も重要な問題だ」と主張。「対応を誤れば、両国は衝突、さらには紛争に至りかねず、米中関係全体を極めて危険な状況に追い込むことになる」と述べた」(Bloomberg・2026・/05/13)=158円直前)、過半の為替介入で10兆円を投入したといわれるが、まったくのムダ金だった。何の時間稼ぎにもならず、今は元の木阿弥だ。国債の長期金利は0.2630。懸念点の2.5%を超えた水準。加えて物価高。このような緊急事態に追い込まれながら、国会も政府も「能天気」な態度に終始している。原油不足がいよいよ生産現場という日本経済の中枢に及んでいるのに「大丈夫だ」といい、「ナフサ不足解消の目途は立った」という無能さ加減。国を滅ぼしたがっているとしか思われない。国防族などではなく、亡国の徒だ。(1098)

◎2026年05月13日(水)終日快晴だった。少し庭の除草をと準備をしたのだが、気温が高く、日日差しも強かったので中止。なかなか思い切って外作業をする元気が湧かない。朝か夕方か、日差しも気温もそれほどでもない時間帯に限定してやるべきだろう。▼今晩、米大統領が中国訪問。明日以降には米中会談が予定されている。世界の動向に大きな影響を与えるのは言うまでもない。その内容にも関心を持ち続けたい。(1097)

◎2026年05月12日(火)終日快晴。午前中に市原のH.C.で猫の食料買い出し。その流れで、茂原まで行き、人間の食料買い出し。▼夜に、国会中継の録画を見る。首相陣営の「中傷動画」問題、および「中東関連の石油不足」問題。政府答弁は、いずれもまともに答弁しない、すり替えにすぎないが、こんな「猿芝居」をいつまで続けるのだろうか。世界から取り残され、よく言われる「ガラパゴス化」していること自体に国会議員たちは気が付かないのだから、「病は膏肓に入る」だ。経済破綻直前という、危機意識は全くないのがぼくには理解できない。空恐ろしいほどの無神経である。どうしてか?(1096)

◎2026年05月11日(月)昼前に郵便局に。卒業生のS.N.さんにレター。自筆の手紙は何年ぶりだろうか。パソコンに接続して使っている印刷機が、時代おくれと故障の両方で、使えなくなったから。一枚のはがきで書いていた時数は、普通のレターパッドでは優に3枚分もあった。▼イランとアメリカの「和平交渉」はどうなっているのか。一方では戦闘行為を続けながら、他方では「交渉」というのだから、握手しながら、足で蹴り合いをしているのだ。13日からの米中首脳会談の後は、いったいどうなるのか。(1095)

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無患子(むくろじ)は三年磨いても黒

⁂「週のはじめに愚考する」(119)~ 「無患子(むくろじ)は三年磨いても黒い」という。「ムクロジ科の落葉高木。本州中部以西の山地に自生。高さ15メートル以上になる。葉は細長い小葉からなる羽状複葉。夏、雌花と雄花とが円錐状につく。実は球形で黄褐色に熟し、中の種子は黒色で堅く、羽根つきの羽根の玉に使う。果皮はサポニンを含み、泡立つので石鹸(せっけん)の代用とされた。むく。《季 秋》雨の日の雨の無患子深大寺/麦人」(デジタル大辞泉)その意とするところは「生まれつきの性質は変えることはできない」という絶望的な受け止め方がされてきたのです。もっと激しい表現を使うと「バカは死ななきゃ治らない」ということにもなるでしょう。誰かに何かが言いたいのではなく、ありのままに現実の課題を解決するための政治を、行政を、それだけをひたすら願望するのです。余計なことはしてくださるな。

 ついでに、こんなことわざを。「熱火子に払う」炎が自分に近づいてきたので、咄嗟に我が子の方に払う親、という図です。一旦緩急の折、責めはすべて国民に。自らは知らなかった、無関係ですと、ひたすら逃げる算段を試みる、醜い根性をお持ちの方が多すぎますね。こういう手合いが充満するのはどうしてでしょうか。正直とか誠実というものを心に刻んで生きていくことは、あるいは間違いなのだと、多くの人たちが勘違いしないとも限らない、否、もうすでにかなりの人間が勘違いしている、そんな世の中です。今からでは間に合わないと思いますけれど、改めて、おのおのがた、くれぐれもお間違えの無いように。

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* ガソリン高騰対策(補助)=「ガソリン補助で3月計1800億円支出、基金残高9800億円に 経産省公表 経済産業省は7日、ガソリンなどの価格を下げるための政府の補助金への支出額が3月分は約1800億円だったと明らかにした。中東混迷を受けて3月19日に補助を再開している。原資となる基金残高は4月末時点で約9800億円となった。/政府は石油元売り各社のガソリンなどの販売実績に基づき、翌月に補助金を支給している。3月分の補助は4月に支払っており、このたび4月末時点の基金残高を公表した。

 民間の試算では5月中に払う4月分の補助を考慮すると、6月には基金が枯渇するとの見方がある。/政府の補助金はレギュラーガソリンの小売価格の全国平均を1リットルあたり170円程度に抑えるため、上回る分を元売り会社に支払う。財源は既存の基金残高に加え、2025年度予算の予備費から8000億円を繰り入れている。」(日経新聞・2026/05/07)(左図表は共同通信・2026/03/19)

 とにかく、「税金」を使って、金を配るのが政治だという悪しき風潮が続いているのです。その財源は「赤字国債」で、今やその債権総額は1342兆円だという。国債金利も上昇しています。破綻一歩手前であるにもかかわらず、「大丈夫だあ」と根拠のない遠吠えを続けるばかり。これが「政府(government)」なんですか。

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「刹那主義の政治・政権運営」ですね。こういうことの連続で、何かの展望が開かれる気遣いはないと思うのです。

参考資料 ❶ 高市総理大臣 来週にも「補正予算案」編成指示へ 高市総理大臣は、早ければ来週にも補正予算案の編成を指示する方向で調整に入りました。/政府は7月から9月を念頭に、例年通り夏場の電気・ガス料金への補助を実施する方針です。/また、レギュラーガソリンで1リットルあたり170円程度に抑えているガソリン補助金も継続する考えです。/関係者によりますと、高市総理はこうした政策の実施のため、来週にも補正予算案の編成を表明し予備費を積み増すなどの対応を指示する方向で検討に入ったということです。/規模に関して、政権幹部は「大規模な総合経済対策は必要ない」と話し、財源については、赤字国債の追加発行が避けられないとの声も上がっています。(テレ朝NEWS・2026/05/16)

参考資料 ❷ 高市総理「補正予算直ちに必要ない」 中東情勢受けた追加の物価高対策めぐり 国会では物価高への対応について論戦が交わされ高市総理大臣は、現時点では補正予算案を編成する状況にはないとの認識を示しました。/【国民民主党・川合孝典幹事長代行】「今の物価上昇が続く中での早急な追加の経済対策を講じる必要性があるものと私は考えております」【高市総理大臣】「必要があれば先月7日に成立した令和8年度予算の予備費も活用できるので、経済対策、補正予算の編成が直ちに必要な状況とは考えておりません」(以下略)(テレ朝NEWS・2026/05/11)

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花の色は うつりにけりな いたづらに

【斜面】ずくなしの花 信州の代表的な方言に「ずく」を挙げる人は多いだろう。労を惜しまないことを「ずくを出す」と言うように前向きに使うのが信州らしさのようだ。けれど「怠け者」に「ずくなし」を用いる地域となると、東北や関東などにも広がる◆新潟県ではこの時季、「ずくなしの花」が咲くという。大人の背丈より少し高めの木の枝に、ラッパのように開いた小さなピンクの花が房状にびっしりと付く。山野の谷間に自生するタニウツギのことだ。街路樹や庭木にも利用され、信州でも見かける◆新潟出身の知り合いに聞くと、切り花にしたくても水を吸う力がないので「ずくなし」なのだそうだ。全国には、火葬場で骨を拾う箸に材を使ったことから「死人花(しびとばな)」、満開時に山が燃えるように見えるので「火事花」と伝わる地域があり、家に持ち込むのを嫌う人もいるらしい◆対照的に「田植え花」や「イワシ花」と呼んで、農作業や漁の目安にしてきた地域がある。若葉を摘んで、日常の食材や茶葉の代用、飢饉(ききん)の備えに利用した地域では「糧(かて)の木」の名が残る。子どもたちが頭の飾りにしたとして「かんざし花」の名もある◆さまざまな呼び名は、それだけ日本人の暮らしのすぐそばにあり、密接に関わってきた証しだろう。長野市街地で街路に植わるタニウツギが見頃を迎えている。枝をしならせるほどにピンクの花を咲かせた姿を「ずくなし」とは呼べない。むしろ、ずくを出したからこその美しさに思える。(信濃毎日新聞・2026/05/16)

 本日のコラム「斜面」は信濃毎日新聞です。桐生悠々という人が所属していた新聞社でもありました。もちろん、現実の新聞紙上には昔日の面影は見られません、と断言しては大変に失礼に当たるし、それでもなお、どこかに新聞人の矜持が見て取れそうな気がして、ぼくは読み続けてきました。本日の「コラム」は非政治的なものであるからこそか、とても面白く読むことができました。新聞コラムというものの性格は一概には語れないものですけれど、個別性と普遍性を備えた主題(記事)が出れば、ぼくなどは言うことはありません。地域に限定される問題であって、よく見れば各地域に共通して認められる問題に通底しているという、そんなテーマに触れられれば、望外の喜び。もっと言えば、地域性(個別性・地域文化)と地域共通性(普遍性・文明性)というような捉え方ができる「書きぶり」に出逢えれば、いうことなしです(Nothing more to say.)。今の時代、この劣島のいたるところで「文化と文明」の葛藤が見られるからです。まるで「味噌汁」に「マクドナルド」のような取り合わせ、ですね。

 閑話として。同紙の沿革(《「沿」は前に因って変わらない、「革」は旧を改め新しくする意》物事の移り変わり。今日までの歴史。変遷。)(デジタル大辞泉)です。「信濃毎日新聞(しなのまいにちしんぶん、英: The Shinano Mainichi Shimbun)は、長野県長野市と松本市に本社を置く信濃毎日新聞株式会社が発行する朝刊単独の地方新聞である。通称は信毎(しんまい)。/長野県を代表する県紙であり、発行部数は37万8903部、県内普及率は42.2%(2024年10月時点)。/1873年(明治6年)7月5日に『長野新報』として創刊。1881年より現在の題号となる。第二次世界大戦前は、山路愛山、風見章、桐生悠々などが主筆を務めた」(Wikipedia)                                        とあるように、創刊初期にはそうそうたるメンバーが「主筆」を務めていたこともあって、なかなかの健筆をふるっていたものでした。明治開花期は「新聞の黎明期」でもあり、その幕開けと同時に歩んできたという点では、日本の地方紙の代表格だったとも言えます。ここでは触れませんが、この新聞社にも「災禍」や「過誤(誤報問題など)」が付いて回りました。

 閑話休題。ここに「ずく」という語が述べられています。「信州の代表的な方言に『ずく』を挙げる人は多いだろう」と。「ずくを出す」は労をいとわないこと、反対に「ずくなし」は「怠け者」の意で使うところもあるというから、日本語は多彩でしたね。明治中頃から「標準語」「共通語」なるものが作られ、それを「国語(共通語=日本における、一種のエスペラントだった)」として全国一律に普及を図ったのが学校教育でした。いわゆる近代国家にふさわしい「国語(「日本語」ではないことに注意)」の誕生は明治期に始まったのです。日本で最初の「国語教室」なる看板が掲げられたのは東京大学の上田萬年氏の研究室だったという。彼は国費留学生としてドイツに留学し、国の共通語としての「ドイツ語」の普及に驚嘆したといわれます。

 この時期は「近代文学」の勃興と隆盛の時期でもあり、漱石や子規、あるいは鴎外や二葉亭などの書く文章は、「国語=共通語」の伝播に大きな役割を果たしたのでした。それはそれで重要な意味を持っていましたが、ぼくが指摘したいのは次のことです、それ以前には各地各地域で育(はぐく)まれていた言葉(方言)は実に多様であって、この島国ではそれぞれの「地域語(おそらく数百はあるといっても過大な表現ではないでしょう)」が豊かに使われていた事実を知って驚くのです。言語もまた、文化(生活)の代表格だとするなら、この劣島社会は多元文化の「宝庫」だったと言ったら、言葉が過ぎるでしょうか。(左上は上田萬年著「国語のため」冨山房刊、1897年)

 この「ずく」も、無数の事例の一つにすぎません。ぼく自身はまず使ったことはない「ことば」で、おふくろがしばしば使っていて耳に残っているのに「きずつない」がありました。京都の「方言」とされるもので「きずまりな」という意味のようですが、あるいは「心苦しい」などといったものだったでしょうか。でも、「ずく」はこれとは関係がなさそうです。あえていうなら、「付く」あるいは「尽く」ではないかなどと考えたりします。それとも違うかもしれません。

[接尾]《動詞五(四)段型活用。動詞「つ(付)く」から》名詞またはそれに準ずる語に付いて動詞をつくり、そのような状態になる、そういうようすが強くなるという意を表す。「秋―・く」「元気―・く」「おじけ―・く」[下接語] 相対尽く・意地尽く・因縁尽く・腕尽く・面白(おもしろ)尽く・金(かね)尽く・勘定尽く・義理尽く・金銭尽く・計算尽く・権柄(けんぺい)尽く・承知尽く・相談尽く・算盤(そろばん)尽く・損得尽く・談合尽く・力尽く・得心尽く・納得尽く・欲得尽く」)(デジタル大辞泉)

 「新潟県ではこの時季、「ずくなしの花」が咲くという。大人の背丈より少し高めの木の枝に、ラッパのように開いた小さなピンクの花が房状にびっしりと付く。山野の谷間に自生するタニウツギのことだ」(「斜面」)この樹木はあまり見たことがありません。もちろん、これまでに出かけた地方では見かけた記憶がありますし、写真で確認すると、何処にでも育っていそうな樹木に見えたりします。たくさん種類のある「ウツギ」の仲間だそうですから、さもありなん。スイカズラ科の一族の「タニウツギ」で、花の形も「ウノハナ(空木・ウツギ)」に似てるようにも見えます。 

 この花は縁起の良くない花として忌避される人もいる。いろいろな理由からのことでしょうが、庭木にしてはよろしくないともいわれるのも、なんとも不思議ですね。反対にこの木・花を尊重する地域や人々がいるのですから、この島社会は単一民族でもなければ単一言語社会でも、単一感情地帯でもないことが、こんなところにも証明されるようです。「中央集権制(centralized system)」というものは、地域性や地域文化を壊して進められたことを思えば、その是非に関しても何か大事な事柄が忘れられた感がしてきます。「村」を潰して「町」に、町を集めて「市」にするような、ある種の集権制は、「便利」や「効率」の名においてなされてきたのですが、その間に貴重な「歴史」「文化」を喪失したことに心が及ばなかったとするなら、この先もまた、同じ轍を踏みそうですね。

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タニウツギ Weigela hortensis タニウツギは北海道西部から本州の中国地方までの主に日本海側から脊梁山地に生育する落葉性の低木。名前の通り、谷沿いの二次林などに多い。新芽を食べることもあるので、特に有毒物質を含んでいるようではないが、牛や馬にはあまり食べられないのか、放牧地との境界などに繁茂していることが多い。樹皮には厚いコルク層が形成されるので、火入れには抵抗性があるのかもしれない。春にたくさんの花を房状に咲かせて美しいので、観賞用に栽培されることもある。開花期が田植えシーズンと重なる地域では、田植え花とか、早乙女花等と呼んでいる。サオトメバナは、花を取って開いた方を下にして水に浮かべた様子を早乙女が菅笠をかぶって田植えしている姿に例えたものであるという。(ヘッダー写真も)

◎ タニウツギの特徴 タニウツギは、スイカズラ科タニウツギ属の落葉低木。タニウツギ属は、中国や朝鮮半島にも分布していますが、12種のうち10種が日本に自生しています。北海道から本州の日本海側や、瀬戸内海側の山地で多く見られる木です。タニウツギという名前は、山の中の谷や渓流沿いで枝を下垂させるように伸ばして咲く姿に由来します。/タニウツギは、5月~6月にピンク色の花を数個ずつまとめて咲かせます。花は2~4cm程のろうと状で、基部は細く、先が広がって5裂しています。花色と咲き方が美しいことから、観賞用に栽培され、斑入りなどの園芸種も作出されています。葉は、先の尖った卵型で、触ると柔らかく、葉脈がはっきりと見えるのが特徴です。枝を横に広げるような樹形も美しく、花がない時期でも楽しめる庭木です。/タニウツギ属の仲間には、タニウツギやヤブウツギのように咲き始めから花色がピンク色の種類と、ハコネウツギやニシキウツギのように咲き始めの花は白く、徐々にピンク色に変化していく種類があります。(LOVE GREEN:https://lovegreen.net/library/garden-tree/defoliation/p125555/

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 ぼくはほとんど関心を持たないのですけれど、時には、あるいは人によっては「花言葉(flower meaning)」がとても重宝されているようです。いずれ、商売人が考え付いたセールスポイント(拡販主義)がもたらした商慣習だったかもしれません。その「花言葉」、「タニウツギ」の場合は「豊麗(豊かで美しいこと)」だそうです。なんでや?といいたくなりますね。小ぶりの花をたくさんつけるからというらしいのが理由です。この命名もまた、人によって異なるでしょうから、「豊麗」ではなく、「妖艶」としたらどうですか。当たり前なのかもしれませんけれど、どうも、花の姿は女性に準(なぞら)えるのが常道で、「男らしい」などという花言葉はなさそうですね。ここにもまた、隠された「歴史」があるのかもしれません。「タニウツギの花言葉『豊麗』は、豊かで美しいという意味で、この花が枝いっぱいに華麗な花を咲かせる姿から連想されました」(LOVE GREEN・同上)「花屋」さんによっては「異名」が用いられることもありますので、それぞれが好みに応じて、勝手にどうぞ、と言っておきます。

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 ここでキーボード叩きを終わろうとしたのですが、突然、我が意識の裡に小野小町が現れました。(いかにも「豊麗」を絵に描いたような女性だったかどうか、ぼくは知りませんが)なかなかの美貌の持ち主だったとされています。今なお人気抜群で、新幹線どころか、お米の名前にもなっているのは周知の事実です。不思議なことに、まるで弘法大師のように、各地にその痕跡(端麗ぶり)を記されております。

 「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

どういう歌か、どうぞご随意にお読みくださいと申しておきます。意味も何も分からないままで、ぼくたちは子どもの頃、「百人一首」で、こんな「妖艶な女性」の、これまた艶(なまめ)かしい歌を暗記していたのですから、驚きますね。詰まりは、小町さんだからこそ「寄る年波には勝てませんね」と、高齢化を嘆いているのか、それとも受け入れているのか、ぼくはよく理解できない歌ではあります。これを紀貫之という歌詠みは「「あはれなるようにて強からず。いはばよき女の悩める所あるに似たり」(「古今集 序」)と書いています。「よき女の悩める所ある」とは、その昔、学校でどういう解釈を教師たちはしてくれたか、すっかり記憶が失せています。「豊麗」も老化すれば、目も当てられないということでしたか。小町も年を取れば、「わが身世にふるながめせしまに」、お米になるという「変わりよう」でした。どうでもいいことか、お米の命名にも圧倒的に「女性系」優位ですね、まるで現時「天皇制」の「団系男子に限る」という偏頗な差別主義とは別個の女性上司が見られるのは、ぼくには奇異に感ぜられますね。それでは、「筋骨隆々 チバニアン」、「アントニオ猪木」などという男名の「お米」を食する気になりますか。

◎ 小野小町【おののこまち】= 平安前期の歌人。六歌仙,三十六歌仙の一人。生没年不詳。《古今和歌集》の代表的歌人で恋愛歌に秀作がある。伝の詳細は不明で,《古今集》などに残る,文屋康秀,凡河内躬恒,在原業平,安倍清行,小野貞樹,僧遍昭らとの歌の贈答が,事跡を知る根本資料となっている。後世歌才すぐれた絶世の美女として説話化され,小町塚や小町誕生の井戸などその伝説は全国にわたる。その文芸化された好例は小町物と呼ばれる謡曲である。《古今集》等に約60首入集。家集《小町集》は後人の撰。(百科事典マイペディア)

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「台湾有事は日本有事」との浅薄愚劣

 今から54年前の本日(5月15日)、「沖縄返還(本土復帰)」の日でした。とてもよく記憶しています。ぼくは、もともとが「琉球共和国」としての独立論に与していましたから、「本土並み返還(復帰)」が実現したとしても事態は米国占領の現実は変わらないどころか、極東の軍事基地の役割はさらに増大するであろうという、素人の政治論が、満更でもなくなっていく、その後の状況を見てきました。以来半世紀以上が経過して、事態はさらに「植民地化」が進行し、国や自治体の「独立」「自治」が皆無に等しい状況になっていることに、腹立たしい思いが募るばかりです。いわば、「沖縄切り捨て」論がこの国の主流となってきたのでした。

 「沖縄返還の日」にふさわしい主題かどうか、ぼくには判断できませんが、映画「誰がために憲法はある」に関するコラム「金口木舌」と、もう一つのコラム「春秋」の「老漫画家の問い」を合わせ読んで、素人なりの素朴な思いが募りました。そして、時あたかも北京で行われている「中米首脳会談」の報道にかかわらせて、日本政府や与党の議員たちの驚くべき「時代錯誤(anachronism)」に激しい怒りを覚えると同時に、「落胆」の深さを、改めて思い知らされています。さらに、もう一つのコラム「筆洗」に描かれていた一外交官の「日中正常化交渉」時に述べた(抱いた)「中国はすごい国だ。あくまで悪い意味で」という、これまた無反省な「外交感覚」に驚きを禁じえませんでした。これについては後述。

(ヘッダー写真《復帰の日、沖縄のカメラマンは泥水の地面を撮った【3月13日】 沖縄の要求を無視した「復帰」に抗議する復帰協主催の5・15県民総決起大会。「屈辱の日」を象徴するような土砂降りの雨だった》=1972年5月15日、那覇市・与儀公園」)(沖縄タイムスプラス・2021/03/13)

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【金口木舌】憲法くんの声に耳を… 「変なうわさを耳にしました。本当でしょうか。私がリストラされるかもしれないっていう話」。先日、沖縄市のシアタードーナツで見たドキュメンタリー映画「誰がために憲法はある」は、こんなせりふで始まる▼語りの主は俳優の渡辺美佐子さん演じる「憲法くん」。元々は芸人の松元ヒロさんが一人語りで日本国憲法を擬人化した作品。映画は憲法くんの場面と、渡辺さんらが33年続けた原爆朗読劇の場面で構成する▼戦争の悲劇を繰り返さないために生まれた憲法くん。「皆さんに頑張れと言われれば、まだまだ頑張る」と意欲を見せるが、国民はどれだけ憲法を活用できただろうか。私たちへ投げかけられた問いだ▼国会では改憲勢力の前のめりな動きが目立つ。与野党の議論を踏まえ、衆院法制局が作成した素案は、緊急時に内閣が法律に代わる「緊急政令」を制定できる条文も入った。憲法くんの危機感はさらに高まりそう▼「誰がために―」上映は休館を挟み6月17日まで。平和憲法の下へ還(かえ)りたいと願い、沖縄が日本へ復帰して54年。そもそも憲法とは何か。リストラする前に再度、耳を傾けてみよう。(琉球新報・2026/05/15)

 「憲法くん」については、これまでにも何度か触れました。「テレビで会えない芸人」と称される松本ヒロさんの持ち芸です。ネット番組で、ぼくは何度も見ました。「お笑い芸人」が、汗をかき涙を流さんばかりに「憲法」を演じるとは、それこそ「前代未聞」だったでしょう。映画は、冒頭「変なうわさを耳にしました。本当でしょうか。私がリストラされるかもしれないっていう話」と語る渡辺さんの声音を聴いていて、こういう人たちが「憲法」を「憲法」たらしめているのだと、ぼくは涙ぐみながら、感じ入ってしまうのです。

 それに反して「憲法改正」を声高に叫ぶ政治家連中、中でも先頭を切って「この劣島を強く豊かに」と拳を挙げているのが現首相です。その根拠は「台湾有事は日本有事」という、時代認識の外れた政治観であったことに間違いないし、「台湾有事」の発生源は「中国北京政府」の台湾占有欲だと断言する、はなはだしい歴史意識の欠場に驚くばかり。中国にはそれぞれ独立した二国があり、「中国北京政府」と「中国台湾政府」、とでも言いたげな表現を恥ずかしげもなく用いて、いささかの悪びれる様子もありません。歴史の事実に一切立脚しいないのは恥ずべきことでしょう。この発言を聴いていて、「台湾は日本の植民地」であるかのような錯覚を彼女は持っているのではと、ぼくは痛感した。「外交音痴(diplomatic ignorance)」どころの話ではないのです。

 (⁂ 映画「誰がために憲法はある」予告編)https://joji.uplink.co.jp/movie/2026/32058

 ここで、ぼくは森鴎外の評論「歴史其儘と歴史離れ」(「森鴎外全集 14」所収、ちくま文庫・ 1996)を思い出しています。詳しくは書きませんが、「歴史を扱って、歴史離れを起こしている」という鴎外の自作評に刺激されて、いまなお「歴史と歴史離れ」を混同する向きが、小説家ではなく、政治家に多くいるという印象を強くしたがためでした。現首相は「歴史(其儘)嫌い」であり、「歴史離れ(神話の類)好き」人間であると、ぼくは以前から思っていました。彼女は「満州事変」に発する「日中戦争」は事実であると仕方なく認めるかもしれませんが、「日米戦争」はなかったと信じているはず、そんな感想を、ぼくは強くもっているのです。でなければ「中国が大嫌い」が理解できないし、アメリカ大好きも理解できません。「神話」と「歴史」を都合よく混同していると言い換えてもいいでしょう。歴史とは「過去と現在との対話」であるという、歴史認識はいささかも持ち合わせていないのです。文字通りに「神国」日本(ニッポン)を妄信していると。

【春秋】老漫画家の問い 世界中の視線を北京に集めている米中首脳会談。注目されたイラン情勢の行方や台湾との関係は、今の沖縄にとっても切実な問題だ。沖縄に駐留する米海兵隊2500人は中東へ派遣されている。中国の海洋進出を念頭に、日本政府は南西諸島の防衛力強化を進める▼その沖縄はきょう、本土復帰から54年を迎えた。本土ではほぼ無名の漫画家、新里堅進(しんざとけんしん)さんは半世紀にわたり沖縄戦を描いてきた。昨夏刊行した912ページの分厚い作品集「ソウル・サーチン」が沖縄で売れ続けている▼終戦翌年、那覇に生まれた。家の壁には弾痕、道端には銃弾が転がり、町には心身を病んだ人の姿があった。沖縄戦の深い傷の中で育った。高3の時、師範学校生の手記「沖縄健児隊」を読んで衝撃を受け、漫画家を志した▼家電の営業、タクシー運転手、基地の警備員と職を変えながら原稿を描きため、30代でデビューした。手塚治虫に褒められたこともある▼ひめゆり学徒隊をはじめ、沖縄の史実をいくつも描いてきた。米兵も日本兵も住民も同じ人間という視点はぶれない。「1線でも1こまでもいいから早く描け!」と目に見えない存在がせき立てるのだと話す▼世界が軍事力の強化へ傾く時代に、再び前線へ押し出されようとする島。戦没者の警告を後世に伝えるべく、老漫画家はペンを走らせる。沖縄が復帰した日は、20万の命がなぜ失われたのかを問う日でもある。(西日本新聞・2026/05/15)

 「沖縄に駐留する米海兵隊2500人は中東へ派遣されている。中国の海洋進出を念頭に、日本政府は南西諸島の防衛力強化を進める」「世界が軍事力の強化へ傾く時代に、再び前線へ押し出されようとする島。戦没者の警告を後世に伝えるべく、老漫画家はペンを走らせる」(「春秋」)おそらく、現首相の意識下では、沖縄もまた関心の外にあると思う。これまでの発言を聴いていても、彼女には人間・個人にはいささかの興味もなく、もっぱら「国」「国家」が何よりも大事という夢物語(観念)が巣くっているのだと思う。自衛隊を軍隊にし、敵国を叩きたいという、好戦性・政治欲はどこから来るのか。驚くばかりの観念論者で、「国柄」を持ち出し、「靖国」を持ち出し、「国歌・国旗」を持ち出し、「家父長制」を持ち出し…。この人の意識は百年前あたりで「寸止め」されているのでしょう。「沖縄が復帰した日は、20万の命がなぜ失われたのかを問う日でもある」(「春秋」)とは、この総理大臣には思いもよらないことだと断言していい。

【筆洗】中国はすごい国だ。あくまで悪い意味で。1972年、日中国交正常化交渉のため田中角栄首相の訪中に同行した外務官僚栗山尚一さんはそう感じたという▼日中共同声明調印にこぎつけ、車で空港に向かうと群衆が沿道で旗を振っている。同乗する中国の役人は「人民が正常化を歓迎して、祝意を表している」と説明したが、調印のわずか数時間後。詳細を知らない庶民が動員されたのは明らかだった▼交渉の行方が見通せなかった北京到着時は、沿道は警官のみ。全体主義国家は国民を簡単に動かせるらしい(服部龍二著『日中国交正常化』)▼北京であった米中首脳会談。並んで歩くトランプ大統領と習近平国家主席の前で、国旗や花を持つ子どもたちがピョンピョン跳ねていた。全身で表す「熱烈歓迎」。日本でやれば、子どもを使った過剰演出と炎上必至だが、中国では許され、何よりトランプ氏はこういうのが好きそう。「子どもたちに特に心を打たれた」と喜んでいた▼わが宰相の台湾有事を巡る発言以降、訪日中国人観光客は激減し、中国のレアアース(希土類)輸出が規制されるなど日中関係が冷える中で見た米中首脳の笑顔。少し複雑な思いはした▼72年、帰国する角栄氏らに「中日両国人民の友誼万歳」という横断幕が掲げられたという。万歳や過剰演出は不要だが、両国の民はもっと自然に付き合えぬものか。(東京新聞・2026/05/15)

 ここで触れようとしている、元外務官僚の栗山さんが抱いた「中国はすごい国だ。あくまで悪い意味で」という感覚は、多くの人がもつものだったかもしれない。共産主義国特有の「動員」「やらせ」、例の北朝鮮になじみのある、あれじゃないか、と。確かにそうかもしれないけれど、それだけの「僻目(ひがめ)」で、政治や外交ができるんですか、という素朴な疑問をぼくは持つ。戦時中の日本はもっと激しく、かつは暴力的な「国家総動員法」があったのではないですか。

 「北京であった米中首脳会談。並んで歩くトランプ大統領と習近平国家主席の前で、国旗や花を持つ子どもたちがピョンピョン跳ねていた。全身で表す『熱烈歓迎』。日本でやれば、子どもを使った過剰演出と炎上必至だが、中国では許され、何よりトランプ氏はこういうのが好きそう。『子どもたちに特に心を打たれた』と喜んでいた」とあります。

 ここで唐突に持ち出してもいいでしょうか。「台湾有事は日本有事」で、その時は「米国が来援」し、「台湾防衛」に行動を起こすだろう。まさに台湾有事は日本有事だと、現首相は国会で述べた。まるで「米中戦争」「日中戦争」が不可避であるかのごとく、「戦争」を待望しているかの如くに聞こえました。愚かさの極みは随所に出ています。現下、原油不足でなけなしの「備蓄」を食いつぶしているのに、それを無き者にしたいのか、補助金を出してまで石油(ガソリン)消費を勧奨している始末。このままでは「補正予算」が必死といわれて彼女はそれは無用と、いっぱしの口をきいていたが、ここにきて「補正」もやむなし。彼女には「知性」の備蓄は初めからなく、さりとて、せっせと備蓄を増やす算段に取り組むかと思いきや、一人、公邸に籠って「ヘビースモーカー」だという。「健康のために吸いすぎに注意しよう」というのは政府広報ではないかといっても、端(はな)から聞く耳を持たない「ミミナシサナエ」だという。

 「中国北京政府が台湾を支配下に置き」云々とまで述べていた、その政治・外交感覚(sense)が無に等しいものだったことが、いまさらに判明したでしょう。アメリカは「台湾有事」に軍事力を動員しないことは、それまでの政治状況からもわかっていたが、今次の中米首脳会談で、その事実を明確に裏書しました。外務省の選り抜きが、はしなくも中国への「偏見」「蔑視」を隠さないという悍(おぞ)ましさ。かかる外務官僚が、政治家と二人三脚で歴史を踏み外したという事実を、ぼくたちは忘れてはいけないと思う。アメリカは日本を見放しているのに、気が付かない鈍感さ。なによりも、嘘八百の口から出まかせを、全うな政治発言と心得違いをしている、性根を直す真面目さが首相には著しく欠けています。

◎ 栗山 尚一(くりやま たかかず、1931年8月2日 – 2015年4月1日)は、日本の外交官、外務省官僚。外務事務次官、駐アメリカ合衆国大使、駐マレーシア大使。父親はベルギー大使などを務めた栗山茂。(Wikipedia)

 台湾対応誤れば「危険」と習氏 米大統領に警告、海峡開放で一致 【北京共同】トランプ米大統領と中国の習近平国家主席は14日、  北京の人民大会堂で会談した。中国外務省によると、習氏は台湾問題で米側が対応を誤れば、衝突し「関係が危険な状況に向かう」と警告した。米政府当局者によると、両首脳はイラン情勢を協議し、エネルギーの流通を支えるホルムズ海峡について開放の必要性で一致した。トランプ氏は会談後の夕食会で、習氏を9月24日にホワイトハウスに招く意向を表明した。
 トランプ氏の訪中は1期目の2017年11月以来約9年ぶりで、国賓待遇。両首脳は15日、昼食を取りながら再び会談する。トランプ氏は今回、中国による米国の農産物やエネルギー購入を取り付けたい考えだ。
 習氏は台湾が米中関係で「最も重要な問題だ」と訴えた。「台湾独立と台湾海峡の平和は相いれない」とし、米国による台湾への巨額の武器売却も含めて台湾問題の扱いには「慎重を期す」よう求めた。米中は「パートナーとして共に栄えるべきだ」と表明。トランプ氏は「中国と米国の関係はかつてないほど良くなるだろう」と応じた。(共同通信・2026/05/14)

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