
佐藤愛子さんが先月29日に亡くなられた。各紙のコラムではいくつもの「愛子評伝」、あるいは「人間愛子」といった趣の記事が出ました。よく読まれていた作家だったことがわかります。本日は、その中から2編を。作家・佐藤愛子評を、ぼくは書くのではありません。それにふさわしい人がたくさんおられます。驚くべきなのか、なんと102歳の「大往生」だったという感想を持つのみでした。ずいぶん昔から、ぼくは「命永ければ辱(はじ」多し(壽則多辱)」とばかりに、それ相応の年齢になれば「世間」を捨てるつもりで生きてきました(できる限り世間とは没交渉で生きる)。「年齢」に関係なく「恥多し」というのは、つまりいつまで経っても「世間体」「体面」に囚われているからであろうという思いがありましたから。
要するに、自分は世間からどう見られるか、どのように映るかを、まるで鏡に映る自分の姿を見るがごとくに、四六時中、気にするのです。ネット時代は、その傾向を加速させているのかもしれません。それは、恰(あたか)も「世間に対する体裁や見栄」、あるいは「世間向けの誇りや矜持」といってもいいでしょう、一言でいうなら「他者の評価」がものすごく気にかかるんですね。これはもはや「衝動(impulse)」です。とても「世間」が気になるということです。「世間」がなければ「自分」がないというように、です。
【春秋】損得ばかりの世を憂えた「怒りの愛子」 ものを書く母の姿が機関車に見えた。コークス代わりに自分の生体エネルギーを火室にくべてF1レース並みにかっとばす。娘の杉山響子さんは、そんな母が認知症になり、記憶が失われていく姿を愛情を込めてつづった。娘の著書「憤怒の人 母・佐藤愛子のカケラ」が書店に平積みされる中で、母は102歳の大往生を遂げた▼作家の次女として大阪に生まれ、2度目の結婚では夫の借金に苦しんだ。離婚への日々を書いた私小説「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を受賞した▼卒寿のエッセー集「九十歳。何がめでたい」は思いがけないミリオンセラーに。これでおしまいと言いつつ98歳、101歳と、タイトルに年齢を掲げた著書が並び続けた。その姿に励まされた読者も多いだろう▼東日本大震災の翌年、瀬戸内寂聴さんとの対談を取材した。旧知の2人の毒舌たっぷりな放談の中で、戦時中の思い出を語る言葉は重かった▼ガチガチの軍国少女は、ラブレターを渡してきた大学生に「この非常時に何をやってるんですか!」と手紙を投げつけた。戦争で一番つらかったのは「希望がなくなっていったこと」だった▼日本人は価値観も感性も大きく変質してしまった。精神性と物質主義がせめて半分ずつあってほしいけれど、損か得かばっかりなのよね-。いまの世の中を、こんなふうに憂えていた。「怒りの愛子」が大正から令和を駆け抜けていった。(西日本新聞・2026/05/17)

誰でも彼でも、「命長ければ恥多し」ということにならないのは、佐藤愛子さんの生き方を見れば判然とするでしょう。反対に「命短くても恥多し」もまた、枚挙に遑(いとま)なし、です。もちろん、佐藤さんが102歳の生涯を生きられたという事実は尊敬に値はします。でも、それは外から見た人の観察であって、ご当人はどう思われていたか、家人はどうみていたか。「娘の杉山響子さんは、そんな母が認知症になり、記憶が失われていく姿を愛情を込めてつづった」(「春秋」)未読ですから、余計なことは言わないつもり。でも、それはそれで、ご当人はつらいことだったかもしれませんね。年齢に関係なく、人生とは誰にとっても「重荷(heavy burden)」なんですよね。
【水や空】佐藤愛子さん 刀や刃物を作る「焼き入れ」の過程で鋼を加熱しすぎると硬度や切れ味が落ちてしまう。年長者らの衰えを言う「焼きが回る」はそこから来た言葉だ▲○○さんもすっかり焼きが回った…。もし身の周りでそんな会話を聞いたら、○○に入る名前を聞き漏らしたことにほっとするだろうか、それとも「誰の話をしてたの」と聞かずにはいられないだろうか。そんな年齢になった▲昨日、訃報が伝えられた作家の佐藤愛子さんはそうした評とは無縁の人だった。誰かの発言が日々“炎上”を繰り返す昨今の世相をこう語ったことがある。「ひと言で言えば『いちいちうるせえな』、これに尽きますよ」。抜群の切れ味だ▲事業に失敗した元夫の借金を肩代わりしたことが旺盛な執筆活動の原動力の一つだったことが広く知られている。会社の負債を社長の妻が背負う筋合いはない。「無知だったんですね」と振り返りながらこう明かしている。逃げたくなかったんです▲本紙のデータベースを探すと、佐藤さんの人柄や著作に言及した「声」欄への投稿がいくつも見つかる。伸びやかな老いのロールモデルとして愛された102年の生涯▲「作家人生なんて、書いて、流れて、そして消えていくものだと思っています」-。流れも消えもしないたくさんの言葉が遺った。(智)(長崎新聞・2026/05/16)

「水や空」では「焼きが回る」という語で「年貢の納め時」というものを書かれていて、老齢というものに対する、一つの印象を与えられましたが、佐藤愛子さんは「焼きが回る」どころの話ではなかったと、「大往生」を寿・壽(ことほ)がれておられます。「誰かの発言が日々“炎上”を繰り返す昨今の世相」に向かって、「ひと言で言えば『いちいちうるせえな』、これに尽きますよ」と。世の中に生きていて、それなりに年齢を重ねていけば、「世間体」とか「体面」というものがうるさく自分を取り巻く、時には、あえて世間体に染まりたいという人も出てくる始末。佐藤さん(に限らず)は「憤怒の人」「怒りの愛子」などと呼ばれていたらしい。ぼくも何度か、威勢のいい啖呵を聴いたものでした。その怒りは彼女の経験が言わせた部分がほとんどだったでしょう。身を粉にして働いて生きている・生きてきたという実感(feeling)がものを言ったのですね。
「コラム「水や空」さんは、次のように結んでいます。「作家人生なんて、書いて、流れて、そして消えていくものだと思っています」と作家は語るけれど、「流れも消えもしないたくさんの言葉が遺った」と。でも、やはり、それもまた、しばしの間のことで、やがて「書いて、流れて、そして消えていくもの」だという作家の本能、あるいは直感をそのままのものとして、ぼくは受け止めたいですね。(参考までに。「本の話 佐藤愛子100歳“ぼけていく私”「余計なことを考えないで生きていると、なかなか死にません」)(https://books.bunshun.jp/articles/-/8776)
「* 焼きが回る 焼き入れの際の火が行き渡りすぎて、かえって刃物の切れ味が悪くなる」「 頭の働きや腕前が落ちる。年をとるなどして能力が鈍る」(デジタル大辞泉)
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* このことはしばしば駄弁っています。「老齢者の一言」でした。あれは何歳くらいだったか、おふくろが九十歳を過ぎたころに、帰京するたびに「うち(自分)は長生きしすぎた」という言葉をぼくは聞きました。彼女は100歳で亡くなりましたが、最晩年の5年ほどは療養施設に入っていたので、頻繁に会うことができませんでした。それでも入所早々は意識も記憶もまだ確かでした。たびたび会えなかったのは残念だったが、「長生きしすぎた」という独語のように語った言葉は、今もぼくは胸の内で反芻しています。佐藤愛子さんの「語り」をいくつも聴いていて、たぶん、おふくろはこういうことが言いたかったのか、と思い当たる気がしました。単刀直入の表現をすると、次のような様子なんでしょうね。「情けない生活をしています。朝起きて、顔を洗って、トーストとサラダを食べると、あとはもう、することがないんです」(「本の話」上掲)
ぼく自身も、もうそろそろ、老齢の佳境に入っているのかな、「どうでもいい生活」に浸っている、そんな実感がありますね。
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化野(あだしの)の露、消ゆる時無く、鳥辺山の煙(けぶり)立ちさらでのみ、住み果(は)つる慣(なら)ひならば、いかに、物の哀(あは)れも無からん。世は、定め無きこそ、いみじけれ。
命ある物を見るに、人ばかり久しきは無し。蜉蝣(かげろふ)の夕べを待ち、夏の蝉の春・秋を知らぬも有るぞかし。つくづくと一年(ひととせ)を暮らす程だにも、こよなう長閑(のどけ)しや。飽かず惜しと思はば、千年(ちとせ)を過(すぐ)すとも、一夜(ひとよ)の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世に、醜き姿を待ち得て、何かはせん。命永ければ辱(はじ)多し。永くとも、四十(よそじ)に足らぬ程にて死なんこそ、目安かるべけれ。
その程過ぎぬれば、容貌(かたち)を恥づる心も無く、人に出で交(まじ)らはん事を思ひ、夕べの陽(ひ)に子孫を愛して、栄(さか)ゆく末を見んまでの命を有らまし、ひたすら世を貪(むさぼ)る心のみ深く、物の哀れも知らず成りゆくなん、浅ましき。(「徒然草 第七段」)

長生きということについて、これまでにも何度か引用してきたのは「徒然草 第七段」です。全文は上に引いた通り。「化野(あだしの)」「鳥辺山(とりべやま)」は、今では京都の2大墓所となっていますが、平安や鎌倉時代には「風葬」「鳥葬」の習慣があったかと思われる地域でした。今日、化野には「化野念仏寺」があり、小学生のころに何度かその前を通ったことがあります。見るからに陰々欝々という印象が今でも残っています。鬱蒼(うっそう)とした樹木に覆われて、暗く湿気が多分にあるような、そんあお寺だった。それがどうしたことでしょう、嵯峨の観光の穴場になっているというのですから、商売っ気というものは「げに恐ろしや」です。
「世は、定め無きこそ、いみじけれ」と、人間の寿命あることを兼好さんは大肯定してます。この時、彼はいくつだったでしょうか。たぶん50を出たところだったか。「つくづくと一年を暮らす程だにも、こよなう長閑しや」とも。生き物のなかでは人間の寿命は長い方だ、でも「飽かず惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ」
そして「住み果てぬ世に、醜き姿を待ち得て、何かはせん。命永ければ辱多し」と書く。いつまでも生きながらえることはできないのだから、生き恥を晒すようなことは止めた方がいいと兼好さん。「命永ければ辱(はじ)多し」、この言葉の出典は「荘子 天地(第十二)」であります。兼好さんの引用した部分では、実はもっと大事な文章が後に続いているです。いまそれを「荘子(原文)」によって引いておきます。
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「荘子‐天地(第十二)」の一節です。「多二男子一則多レ懼、富則多レ事、寿則多レ辱、是三者非三所二以養一レ徳也」
中国の伝説の「聖人」の尭が、まだ即位する前、ある地方に出かけて、その地の役人から声を掛けられた。「聖人が来られた。聖人にお祈りを捧げよう」「多くの若い男が授かるように」「たくさんの富が与えられますように」、そして「長寿に恵まれますように」と祈ろうとしたが、若い尭はその悉(ことごと)くを断りました(故辭)。「多男子則多懼,富則多事,壽則多辱。是三者,非所以養德也」子どもが多ければ煩わしい、富がふんだんにあればことが起こる。そして「壽則多辱」といった祈りも断ったのでした。「非所以養德也」これらは「徳」を養うようなものではないのだと。兼好はこの「壽(長命)(長生き)則(すなわち)多辱(辱多し」のところだけを引用したと思われます。

もちろん、あくまでも推測ですが、聖人でも君子でもない、平凡な人間は、長く生きていれば、それだけ恥をかくことも多くなる」とだけ言いたかったのでしょう。しかし「荘子」に出て来る役人は、尭に対して、強い調子でなじります。誰だって、この「三者」を願うではないか。後に「聖人」と崇(あが)められるようになろうかという人士に対して、「始也我以汝爲聖人邪,今然君子也」はじめ、あなたを「聖人」と見ましたが、どうもそれは間違いで「あなたは君子」ですね。ここで聖人論をする遑(いとま)はありません。聖人ではなく君子だという理由は、政治家の天稟の違いを指して言うのでしょう。真の政治家(聖人=道を行う人)であるなら、長生きしても恥じるところなどないではないか。自分にやましい心がなければ、何の恥じるところがありますか。と。おそらく、これはとても大事(面倒)なことを指摘しているんですね。その証拠に、君は聖人ではないと断言されたのでした。そして「封人去之」、役人は立ち去った。尭は後を追って「教えてください(請問)」と頼んだが、役人はきっぱりと「退已!」「立ち去りなさい」と。
どんな人も、長く生きれば恥が多いということにはならないのは当然。しかし兼好さんは、同時代人の多くを見ていて「壽則多辱」、命長ければ恥・辱(はじ)多しという実例に遭遇していたのでしょうか。だから「聖人」「君子」でない限り、やはり「壽則多辱(長生きは辱多し)ということになるのでしょう。ぼくなどはその典型で、長生きするまでもなく「辱多し」という人生を歩いていたのでした。

(蛇足 というわけで、新たなカテゴリーに「壽則多辱」なる看板を掲げ、自他に認められる、長生きの恥さらしに該当するかもしれぬもろもろの現象(出来事・行為など)を、まあ、ゆっくりと語りたいと思った次第です。「壽」とは長生きのことです。なんだか無条件に「めでたい」と思われがちですけれども、さてどうでしょうか。長生きしていて、見なくてもいいことを見せつけられ、聞かなくてもいいことが耳に入るというのは、決しておめでたいものではありません。老化するというのは、それまでできていたことができなくなることですね、その自覚というか認識は、ぼくにも多分にあります。でも、わかっていてもできないことがいくらでもあるでしょう。どのような生き方が「見事」か、ぼくにはわかりません。他人に迷惑を掛けないように、静かに、ゆっくりと息をして、それがいつか途切れるといいですね。それでも久野修さんが言われていたように「腹が立って、ボケていられんよ」ということがまだしばらくは続くか)(右上写真は京都亀岡の「老ノ坂峠」付近)
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《堯觀乎華,華封人曰:「嘻,聖人!請祝聖人,使聖人壽!」堯曰:「辭。」「使聖人富!」堯曰:「辭。」「使聖人多男子!」堯曰:「辭。」封人曰:「壽、富、多男子,人之所欲也。汝獨不欲,何邪?」堯曰:「多男子則多懼,富則多事,壽則多辱。是三者,非所以養德也,故辭。」封人曰:「始也我以汝爲聖人邪,今然君子也。天生萬民,必授之職。多男子而授之職,則何懼之有!富而使人分之,則何事之有!夫聖人,鶉居而鷇食,鳥行而无彰;天下有道,則與物皆昌;天下无道,則脩德就閒;千歲厭世,去而上僊;乘彼白雲,至于帝鄉;三患莫至,身常无殃,則何辱之有!」封人去之。堯隨之,曰:「請問。」封人曰:「退已!」》(「荘子・天地第十二」)(Wikipedia)
(大意)
堯が華に出かけたとき、華の役人が言った。「嬉しい、聖人だ。聖人を祝福させてください。聖人が長生きしますように」。堯は「断る」と応じた。「聖人が富に恵まれますように」と言うと、堯は「断る」と応じた。「聖人に男子が多く生まれますように」にも、「断る」と応じた。役人は「長寿、富、多くの男子は、人が欲することなのに、なぜですか」と言うのに対し、堯は「男子が多いと心配も多く、富があれば多事になり、長生きすると辱めも多い。この三者は徳を養うものではないので、断る」と答えた。(↷)

役人は「はじめ、私はあなたを聖人だと思ったのですが、今伺うと君子ですね。世に生まれる万民には、必ず天職が与えられます。男子が多くても、職は得られますから、心配はいりません。富は人々に分けて使えば、何ということもありません。聖人は鶉のように居場所を定めず、ひな鳥のように食べ、飛び回って足跡を残しません。天下に道があれば、すなわち皆うまくゆき、天下に道が無ければ、自分を弁えて静かに過ごし、千年経ってこの生が嫌になったら、世を去って天高く上り、白雲に乗って帝の世界に行きます。三つの憂いもなく、自分の身に害悪が無いなら、何の辱めがあるでしょうか」と言って去ろうとした。堯は後を追い、「伺いたいことがあります」と言ったが、役人は「もう帰れ」と言った。(同上)
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