母よ 私は知ってゐる / この道は遠く遠くはてし…

 

 【有明抄】母の日の贈り物に 詩人竹内てるよさん(1904~2001年)の生涯は悲哀に満ちている。病弱で結婚後に脊椎カリエスを患う。男児を授かったが、病気をうつさぬように、生まれてすぐ里子に出された。てるよさんは息子との再会を果たそうと、病床で再起を決意する◆離縁されて婚家を出た後、詩を作って暮らしを立てた。そして、生き別れてから25年後、罪を犯して服役中だったわが子と再会を果たす。だが、幸せな暮らしは長く続かなかった。更生を誓った子どもは再び罪を犯し、出所後、がんに侵されて急逝。運命というには、あまりにも切ない◆それでも、善も悪も全て包み込むような「母の愛」は強く、美しい。〈生れて何も知らぬ吾子(あこ)の顔に/母よ 絶望の涙をおとすな/その頰は赤く小さく/今はただ一つのはたんきやうにすぎなくとも/いつ人類のための戦ひに/燃えて輝かないといふことがあらう/生れて何も知らぬ吾子の顔に/母よ 悲しみの涙をおとすな〉◆「頰」という詩で編まれた言葉。今、悲惨な現実に苦しむ子どもがいたとしても、未来は絶望ばかりではないはず。子どもたちの可能性を信じようという、てるよさんの「母」としての願いに思える◆きょう9日は「母の日」。母の悲しみの涙がいつか喜びの涙に変わるよう、子どもたちよ頑張ろう。最高の贈り物かもしれない。(義)(佐賀新聞Live・2021/05/09)(蛇足 竹内てるよさんについては、近々、どこかで少し書いてみたい)

 【正平調】 先ごろ亡くなった脚本家橋田寿賀子さんは、母のことがずっとうっとうしかったそうだ。一人娘の人生について、何かと口をはさみたがったからだ◆念願がかなって松竹脚本部へ入った後、母が撮影所の所長へ「不合格にしてほしい」と手紙を送っていたことを知った。男社会で苦労すると思ったようだ。大げんかになり、橋田さんは家を飛び出した◆30歳のとき、その母が亡くなった。病室の片づけで布団をめくると、娘を紹介する記事などがたくさん出てきた。あれほど反対したのに、看護師には娘の自慢話をしていたと知って、橋田さんは声を上げて泣いた◆1年前の週刊文春「家の履歴書」で読んだ話だ。仕事のことは分かってもらえないと思っていたのに、娘が載っている新聞や雑誌の記事を切り抜いていた。母の深い情愛が、一瞬にして心のこわばりを解いた◆万葉集にある一首。〈旅人の 宿りせむ野に 霜降らば わが子羽ぐくめ 天(あめ)の鶴群(たづむら)〉。遣唐使となった息子が大陸へ渡った。荒野で寒さをどうしのいでいるのだろう。鶴よ、その羽でわが子を温めてと母は祈る◆それぞれの場で頑張る子を誇りに思いながら、心配は尽きない。疲れた体に温かい羽をと願う。コロナ禍、そんな姿を思い浮かべる、きょうは母の日。(神戸新聞 NEXT・2021/05/09)

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つい先ほど(午前十時ころ)、横浜に住んでいる娘から電話がありました。電話を取ったが、手がふさがっていたのでかみさんが代わった。どうやら「母の日」のプレゼントの連絡だったようです。「ああ、今日は母の日か」という具合で、ぼくは、いかにもスロー(ノロマです、ノマドではない。つまりは鈍感ということ)に出来上がっています。八時過ぎから庭の整理をしていたところでした。そうだったなあ、と感慨に打たれたように、ぼくは母親のことを思った。亡くなって六年、この因縁ばかりは「去る者、日日に疎し」とはいきません。時間が経つとともに、愛おしく、愛おしくなるのはどうしたことか。母よ。まるで年甲斐もなく、です。奇妙な言い方になりますけれど、ぼくは年を取るにつれて、一層母が好きになってきた。最晩年には、もはや親子を越えて、ぼくと母とはいい関係になったなどと思いもしたし、いい触らしもしたものです。

 若いころから、ぼくは三好達治さんが大好きでした。この雑文集でもどこかで触れています。何時の詩もいいものです。でも、この「乳母車」は三好さんの他の詩とも比較を絶してぼくは好んだし、愛誦もしました。人並に、三好さんはいくつかの欠点を持っていた詩人でしたが、その研ぎ澄まされた言葉は、他のだれのものよりも「新鮮な血液」が何時も、詩の一行に流れていると感じることができた詩人でした。「測量船」はその白眉です。大阪陸軍幼年学校に入学したのは、実家の経済的困窮のゆえであった。そこで、後に2・26事件の首謀者とされる西田税と出会う。(西田は、この事件の廉で銃殺された)陸軍士官学校に入学するが、そこを逃げ出し、退学処分を受けています。この学校の教育や訓練は三好さんの詩にいくばくかの影響を与えているでしょう。(これはまた、別の機会に考察すべき課題です)

 本日は各地の新聞には「母の日」に因むコラムがいくつもありました。その中から二つばかり。余計な解説も解釈もしません。母という存在が、子どもにとっては、どんなにかけがえがないものなのか、神秘でさえある、それを実感しなければ、(子どもである自分は)よりよく生きていけない、そんな不思議な思いを以て、ぼくは生きてきたのです。人それぞれの「母」ですし、母よ、と呼びかければ、そっと振り返ってくれそうな、そんな感慨あるいは感傷にぼくは浸されているのです。こんなことは、珍しいことだね。ことさらに「母の日」というのではありません。でも、日常の明け暮れに一つのアクセントを付すという意味では、本日は、ぼくには毎日つづく「母の日」の記念日のようでもあるでしょうか。

 ぼくは、いまだ乳母車に乗っている。というより、一度だって、そこから降りたことがない。「母よ 私の乳母車を押せ / 泣きぬれる夕陽にむかつて / 轔々と私の乳母車を押せ」物心がついたとぼくに感じられたのは、この「乳母車」をどんな時でも押し続けている「母の存在(の手ごたえ)」に覚醒した時でした。

 どこまで行っても尽きるところがない、母は今も生前と変わらず、ぼくの乗った乳母車を押している。

 旅いそぐ鳥の列にも / 季節は空を渡るなり

 淡くかなしきもののふる / 紫陽花色のもののふる道

 母よ 私は知つてゐる / この道は遠く遠くはてしなき道

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。