
《さて、我々は心理学者にも会いました。彼らは明らかに、とても善い人たちで、非常にリベラルで、物事を十分公正に見ることのできる人たちでした。しかし、もし彼らにとって、他人の財産を盗むことや、銀行強盗を犯すことや、売春することや、人を殺すことや、自分自身男であるのに男と肉体関係を持つなどといった行為全てが、ことごとく心理学上の問題で、心理学者は個々の人々がその問題を解決するのを手助けしなければならないというのなら、それは心理学者が本質的にシステムの共犯者であるという徴ではないでしょうか。軽罪を犯すとか、重罪を犯すということは、要するに、あまりにも基本的なやり方で問題にすることなのだという事実を、心理学者は隠蔽しようとしているのではないでしょうか。それが非常に基本的なやり方であるために、それが社会問題であることを我々は忘れてしまうのです。それが道徳的問題であるかのような印象を持ったり、諸個人の権利に関係しているかのような印象を持ったりするのです…》(「フーコー「アッティカ刑務所について」1974」)(既出)
● 「当時、アッティカ刑務所では食堂と作業場に催涙ガスの噴射装置が取り付けられ、囚人の待遇はシャワーは週1回、与えられるトイレットペーパーは週1巻きのみというようなものだった。また、囚人のうち54%はアフリカ系アメリカ人、9%はプエルトリコ人だったのに対し、383人の所員は全員白人だった。刑務所内の状況に関する報告によれば、看守らは公然たる人種差別主義者であり、通称「黒んぼ棒」なる警棒で囚人を殴打していたという。

暴動の発生する前の月の8月21日、カリフォルニアのサン・クエンティン州立刑務所で服役していた黒人急進的思想家ジョージ・ジャクソンが武装した上で脱獄を試みて失敗し、看守に射殺される事件が発生していた。これに呼応して、9月9日にアッティカ刑務所で暴動が発生した。約2200人いた囚人のうち1000人ほどが暴動に参加し、刑務所を制圧して所員33名を人質に取った。 当局は囚人側と交渉を行うことを決め、4日間の交渉が行われ、当局は囚人側の28の要求をのむことに同意したが、収容所で暴動を起こしたことに対する罪の完全な恩赦、もしくはアッティカ刑務所長の排除については認めようとしなかった。
交渉は不調に終わり、当時の州知事ネルソン・ロックフェラーは武力による刑務所の制圧を州兵に命令した。これにより、少なくとも39人が死亡した。このうち29人は囚人で、10人は所員や看守だった。(以下略)」(Wikipedia)(ニクソン大統領とロックフェラーNY州知事(当時)の電話のやり取りをぜひ知ってほしい)(http://aafocusblog.blogspot.com/2011/11/40_26.html)
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法律違反は「犯罪」である、あるいは「犯罪」は法律違反である。どっちか。問題は「法律」ですね。問題はどんな「法律」か、それはどのように立法されたか。
世の中には善人と悪人、加害者と被害者の二種類の人間がいると、しばしば考えられてきました。上の文章はフーコーが刑務所改革に積極的に荷担していた時代に述べられた意見です。まるで犯罪者を擁護していると思われるでしょう。たしかに当時もフランスではそのように見られて、フーコーたちは非難されたのです。

世の中にはさまざまなシステムが機能しています。したがってある部分だけをとりだして、それについてものをいったり、それを「いいもの」にしようとしていじることはそもそも不可能だといえます。刑務所だけを問題にして、そこに入れられている囚人は犯罪者だといってみたり、学校制度をそれだけで変えようとしてもできない相談なのだということです。
フーコーの指摘も社会システム、資本主義経済システムの問題として刑務所(「監視と処罰の制度」)をとりあげているのです。罪を犯すことは悪いことだという「道徳の問題」から人間を裁くならば、その罪を犯した個人の性格や生活に原因があるはずだから、犯罪者をどこかに隔離(追放・排除)すれば、問題の原因は消えてしまうという理屈。問題人間どもは追放してしまえというわけですが。
「それが非常に基本的なやり方であるために、それが社会問題であることを我々は忘れてしまうのです」という表現で、彼はなにを言おうとしたのか。個々の人間(犯罪者とされている)の行為の問題ではなく、むしろ社会システムの問題なのだというのです。ここはきわめて大切なところですね。
さまざまな犯罪防止のために法律が作られます。法の制定以前にはまったく問題にならなかった行為も、いったん法律が制定されれば犯罪にされます。原発から放射能を垂れ流した。政府が決めた危険地域という線引きがなされ、避難勧告に従わなければ(法律が急いで作られて)、その行為は「法律違反」として裁かれるようになります。法によって犯罪者は作られるのです。何が法律違反かは、「法」が制定されて初めてわかるものです。

法治国家という言葉(実態)があります。いくつもの意味にとらえられますが、この社会ではどうでしょうか。政治家は自分たちの都合のいいように「政治資金規正法」などという法律を作ります。だからこの国は法治国家だといえるか。残念ながら、ノーです。あるいは特定の企業や集団に有利なように法律が作られる場合も法治国家とはいわないはずです。「法」は何を守るのか。だれの利益を守るのか。どんな人間が制定するのか。
ある面では法律よりも支配力があるものとして「社会規範」が考えられます。たんに「規範」という場合もあります。ノーマル(normal)という語の名詞形(norm)です。正常とか異常などという場合の「正常」をさします。その反対に、異常というのはアブノーマル(abnormal)といいます。
ある人物や行為が「異常」であると判断するためには、その前提として「これが正常なのだ」という、その範囲を決めておかなければなりません。あいつのふるまいは「非常識」だというためには、まえもって「常識」が存在している必要があるのです。
それでは、その「正常」や「常識」を作るのはだれか、それが問題となりますね。だれだかしらないけど、常識は以前からあったということもいえますが、かりに長く維持された常識があったとして、なぜ、そんなに長くつづいたのかが問われることになります。まあ、江戸幕藩体制(の支配原理)などを想定してみるのも突飛なことではないでしょう。

だれもが当然だと受けいれている「常識」、犯罪者は悪いというのも「常識」だし、人は右、車は左というのも「常識」です。では、この「常識」はだれが作ったのか。作者はきっといるはず。
「どうして学校ではただ読み書きを習うだけでなく、人々に手を洗わせるのでしょう」 このように言ったのもミッシェル・フーコーでした。彼はまた次のように言いました。
「学校システムはまた、一から十まである種の司法権力を基盤にしています。そこではいつでも、罰し、誉め、評価し、分類し、誰が一番だとか、誰が一番駄目だとか言うのです。したがってそれは、司法権力を引き写した~その一般的役割を考慮しなければかなり恣意的な~司法権力です。なぜ、誰かに何かを教えるのに、罰したり誉めたりしなければならないのでしょう。このシステムは自明のように見えますが、よく考えてみればその自明性消えてしまいます」(ミシェル・フーコー「真理と裁判形態」)
「犯罪を犯した」とみなされる公権力(高検検事長)が「賭けマージャン」をしていたという。話題の張本人ですから、事態はさらに拡散(感染)するでしょう。当人は「辞任」といっているそうですが、れっきとした「犯罪者(禁止賭博行為)」ではなかったのか。逮捕はあるのか。場面は急展開というか「暗転」著しい状況です。だれが週刊誌に、いつ「通報」したのか。(タレコミはかなり前からあったことは確か。誌は当然に「肝」となる時期を探っていたと思う。それにしても「ソーリ」をなぜ捕まえなかったのか、ぼくはかなり前(一度辞任した段階で)から不審に思っていた。「裏金」問題で辞任したともいわれたのです)

(屑政治家にも芥官僚にも、塵マスゴミにも…、人民は舐められきっていますね。恨みを晴らさでおくべきか)
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