教師っていってもなんでもないのさ

 生徒の反抗は、個々の教員の授業スタイルや教科内容にたいしてというよりむしろ、学校というもののたたずまいや教育関係の枠組みにたいして向けられている。経験的に体得された全体としての階級文化に照らしてそれらが相対化されるところに、生徒の反抗の真因があるのだ。そして、授業のスタイルや具体的な学習内容に工夫をこらすことはできても、学校の構成や教員ー生徒の規範的な教育関係を変えることはきわめて困難である。それでも個々の教員は、現存の学校秩序を与件としながら、居心地の悪い教室で不本意な授業をつづける以外にないし、そういう日々の実践から長期的は展望をつむぎ出すほかない。(略)

 今、教育の「危機」がやかましく論じられている。論争の渦中にあるのは進歩主義教育の基本的な考え方でありその適格性である。議論のトーンは高くなる一方だが―そして、実際に教壇に立っている教員たちの声が事実上かき消されていること、生徒たちの声に至ってはまったく耳に入ってこないこと、その点がいかにも気になるけど―実情から見れば、それは徹頭徹尾イデオロギー的な争いである。真の論点は、学校教育という場で生起する階級対立にあり、労働力の再生産過程にあり、総じて文化と社会の再生産過程にあるはずだ。(ポール・ウイリス『ハマータウンの野郎ども』熊沢誠・山田潤訳、筑摩書房。ちくま学芸文庫版もあります)

 Learning to LabourーHow working class get working jobsというタイトルで本書をウイリス(社会学者)が出版したのは1977年のことでした。「学校への反抗・労働への順応」といえば、いかにもイギリスの話だということになりそうですが、わたしたちの社会においても同じような問題が発生していたにちがいないのです。そして現在も、それとは同根ではあっても、別種の学校とのたたいが行われているのだといいたい、それはけっしてだれの目にもはっきり映っているとは思えないのですが。「学校の種別化」というのはどういう問題から生じたのか。教育における「格差」でしょうか。それとも、人によって在学する学校というものが社会的(階級的)に決定されているとでもいうのかしら。

 「反学校の文化の内奥から表層まで一貫している特徴は、『権威=当局』(オーソリティ)に対する、類型的でもあれば個性的でもある抜きがたい敵愾(てきがい)心である」(同上)

 (何人かの生徒の対教師への「敵愾心」をこもごもに述べています)

ジョウイ …教師はおれたちを処分できる。教師はおれたちよりもえらいんだ。やつらにはおれたちよりもでかい組織がひかえてる。おれたちのはタカがしれてるけど、教師はでっかい制度を味方にもってるものな。それでも、言いなりになるってのはシャクじゃないか。なんていうかな、権威ずくってのはムカツクね。

エディ 教師だからっていうだけで、教師は自分たちのほうがえらいし、力もあるんだって思ってるのだ。でもほんとうはさ、教師っていってもなんでもないのさ。ただのふつうの人間じゃないかよ、なあ。

ビル 教師って、よほど何でもできると思ってるんだ。そりゃ、おれたちよりはできもよくて、えらいかもしれないけどさ、やつらはそれよりももっとえらいって思ってるんだぜ、そんなことないのにさ。

スパンクシー ファースト・ネイムで教師を呼びつけにできたらどんなにいいだろう。やつら、まるで神さまきどりだもんな。

ピート 神さまならよほどましだよ。

 「反学校的」な男子生徒は自称〈野郎ども〉(the lads)と名乗っている。彼らの悪態はとどまるところをしらない。(彼らに対する、筆者のウイリスのインタビュー)これだけあけすけに、言いたい放題に口にだして言うのは「健全」なんでしょうか。反対に、表向きはいい子ぶっていて、実際はえげつないほどに学校や教師を軽蔑している子がいるとするなら、それに対してどういえばいいんですかね。〈野郎ども〉は優等生にむかっては〈耳穴っこ〉(ear’olesーear holes)とさげすんで呼ぶのです。

ビル 教師に接する態度ってものを連中はやかましくいうだろう。生徒のおれたちに接する態度ってものもあるはずだよ。

ジョウイ 人生、ちょっぴりおもしろくしようと思うんなら、教師がしてくれたことになにかお返しをしてやることだよ。

 学校とはなんだろうか?

 「能力主義の社会秩序とその教育体系は抜きさしならない二律背反を含んでいる。なぜというに、大多数は敗者となる定めであるにもかかわらず、全員が同一のイデオロギーに与(くみ)しつつ競い合うことが求められているのだから」(ウイリス)

 「だれだって、やればできるのだ」だって。ホントかね。学校はどの地域でも、どの国においても似たりよったりで、まず同じような顔をしているんだ。学校はなくならない、そして行かなくてはならないものなら、それとの付き合い方を十分に学ばなければならない。「野郎ども」のような反抗心むき出しの行動や態度もありえますが、そこはもう少しかしこくつきあいたいものです。ぼくが願うのは、学校の餌食にならないことです。あまりにも近づきすぎたり、反対に全く学校と交わりを持たないのも、どうでしょう。ぼくは早い段階から、学校や教師に不信・不審の念を隠さなかった。「優等生」にはなる気がなかったし(なれなかったのではないさ)、劣等生に甘んじるものどうかね、という中途半端な姿勢を貫いていた(結果からみれば)とも言えそうです。(「権威ずくってのはムカツクね」、ホントに)