新しい「貧困病」の処方箋は?

 《いまわれわれの目のまえでは、ふだんわれわれが使っていることばのなかにほとんど気づかないような変化が起こっています。つまり、諸々の活動を満足させることをかつて意味していた動詞に代わって、ただ受動的に消費すればいいようにお膳立てされたパッケージを意味する一連の名詞が用いられるようになっているということです。たとえば、「まなぶ」〔という動詞〕が「単位〔学歴、資格〕の取得」〔という名詞〕にとって代わられているように、です》(イリイチ「現代的意味での貧困」)

  この時代に猛威を振るっているのは、はたしてどんな「病気」なのでしょうか。おおよその症状をあげてみます。

一 自分で自分のことができない

二 市場に依存しなければ生きていけない

三 無自覚だから、病状に気づかない

四  患者の国籍・学歴・性別・年齢は不問

 この現代文明病とも称すべき疾病に「新しい貧困」という病名をつけて診断を下したのはイリイチという近代社会の「精神科医」でした。(彼は〇二年に亡くなりましたが、死因は「新しい貧困」病ではなかった)現代(文明)社会に生存している大半のひとびとは死に至る病にかかっています。「新しい貧困」という現代病と、「古い貧困」という慢性病に、です。しかし、新旧の「貧困」は根本のところで密接につながっているのす。

 自分のことが自分でできないという、現代の「無能力(貧困)」は、ぼくたちの生活のあらゆる面に浸透しています。いや、それはぼくたち自身を蝕んでいるといいたいほどです。卑近な例を出しましょう。二十四時間営業のコンビニエンスストアやファミリーレストランはいたるところに進出しています。自分で作らなくても、何個かのコインで食事をパックで手に入れられる。いってみれば、「生・老・病・死」のすべてがパック商品になっているのです。「万物のパッケージ化」時代の到来。

 なにごとも専門家(業者)に委ねて、自分(素人)はひたすら消費するだけという構図です。「作る喜び」を押しのけたのは消費しなければならぬという強いられた強迫観念です。「自分」を失うという場面があらゆる領域で生じているのです。「作る」という行為は「購入」という受動的な生活態度にその役割を奪われたといえます。自分の手で作り、自分の足で歩くという身体機能を奪われてしまったのです。それはかならず、意識の劣化や頽落をもたらす。

 しかし、このような無力感や貧しさはそれとしてはっきり自覚できないのがほとんどで、満たされているけれども、なにかもの足りないという不安・不満に駆られる。自分はなにがしたいのか、自分の望んでいるのはどんなことか、意識はいつでもモヤのなかに閉じこめられているので、自分の進むべき方向がみえないのです。ある日突然に意外なかたちで表出する行動によって、なにがしたかったか、したくなかったかが自他に明らかになるというわけです。この時代に続発している事件や事故がこのような状況を示しているといえそうです。そんな行き場のない事態に対して、イリイチは「新たな貧困」と名づけたのです。その傍らで、旧貧困はさまざまな症状の引き金にもなっています。

 なんでもないような指摘にみえますが、深いところでは個々人の成長が危機に直面している状況を告知している。動詞が消えて名詞、それも一連の普通名詞が幅を利かせる、それはわたしたちの生活や行動のいかなる変化を暗示・明示しているのか。 「教育」ということばには「教える」と「育てる」という二つの働き(動詞)がこめられています。しかし「教育」という語に代用されてしまえば、ほとんどのひとは「教育」とは「学校教育」のことであり、学校では専門家である教師から「教育を受ける」のが生徒の役割だとされてしまう。授業を受ける、講義を受けるという具合に、子どもの態度は「受動」をもって旨(第一)とするのが常識(センス)だとされてしまうのです。

 病院がたくさんあるということは、「病人(患者)」が多く生み出されるという意味であり、たくさんの学校を誇るというのは、自分で学ぶことを放棄した人間が五万といる社会であることを物語る。自分の脚で自分の頭で、と自立して生活することが途方もなく困難な時代をぼくたちは生きながらえているのです。(この項、つづく)

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 イリイチの指摘はすでに四半世紀か、それよりもはるか前の事態を指してのことでした。それ以降、事態はさらに進行してきたといえるでしょう。核家族化、少子化、高齢化、情報化などは、それぞれが分離しているように思えますが、じつは根は深いところでつながっています。そしてこの進行のベクトルを反転させるのはきわめて困難です。その理由にはいくつかの問題が指摘されそうですが、まず第一は「人の意識」です。一方向に誘導された「意識」はそれ以外の道を取ることを拒否するのでしょう。IT化、AI化とか情報化がどういうものかは深く考える必要もなく、ようするに「スマホ」を駆使する時代なんだというだけの話(ではない)。今大変な事態が生じているのですが、ぼくたちには無関係だとたかをくくっています。「個人」「私的領域(プライベート)」はかぎりなく狭小化され、消されようとしているのですが。

 短文、単語、写真などで言語(主張)の代用ができる交流の道具の氾濫は何を示しているか。簡潔、簡単がより価値を持たされた時代、それは誤解や行き違いを生み出すのが当然の時代であり、交流しない(できない)存在を多量に生産する社会の出現でもあるでしょう。それに「反対なんだ」というわけでもないけれど、ぼくはこのブログ(雑文と駄文の塊集)を始めておよそ四か月、原稿(400字)枚数でいうと千枚ほども書いたことになります。くだらない・つまらないことですね。もっと短く、それはぼくにこそ当てはまる。「推敲)なしの書下ろし、これからは時間をかけて「推敲」を重ねます。 

 これをもっとも望んでいたのは為政者でしょう。それにまとわりついている官僚や行政者、あるいは経済人たちでした。今この島で生じている幾多の問題を並べてみれば、事態は明らかになります。ものいわぬ「人民」を「全農の為政者」が好き放題にに操っている・支配している構図です。コロナ禍はこの間の事情をはしなくも白日の下にさらしています。「お上」が金を恵んでくれると、暢気に喜んでいる場合ではないのです。もとをただせば「税金」ですから、恩義を感じる必要はあろうはずもない。その人民のなけなしの「税金」を悪質連合どもが「私腹肥大化」の絶好の機会を「中抜き」「ピンハネ」に夢中なんです。いったい、これはいつから始められた「悪の連鎖」なのか。ぼくの簡単な感想を言えば、きっと「満州事変」以来のことです。(これは愚痴ではありません。いま米国で、一冊の「政権内幕暴露本」が話題になっています。それを読むまでもなく、「税金泥棒」の筆頭は米国政権だったのです。その悪権力に、島社会の中小権力は「おこぼれ」にあずかっただけです)

 いまこそ、この百年の「歴史」を知る必要があります。「日露戦争」後に、この島社会は坂道を転げ落ちてきたのです。いままだ、ぼくたちはコロナ禍の最中にいます。目に見えない、手でも触れられない「異物」(コロナウイルスの大きさは直径100ナノメートル(1nm=1mmの100万分の1)ほどとされる)にぼくたちは震撼させられています。これはさらに続くでしょう。ワクチンの開発が「恐怖」の終焉をもたらすかどうか、また新たなウイルスが発生するかもしれない(必ずある)。さらには「生物兵器」の名のもとに開発がさらに進められるでしょう。

 恐怖の種は尽きないのです。これを機に、歴史に学び、歴史を学ぶ。自らの生活を見つめ直すよすがにしたい。

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。