「物言えば唇寒し秋の風」、そうなんですか

 【明窓】人生の妙味を知り尽くす 「作家として私は生きている限り書き続けます」。今年3月11日付の本紙に載った東日本大震災10年の特別電話インタビューでの締めくくりの発言だ。その言葉の主、文化勲章を受章した作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが亡くなった。徳島市出身の99歳。書くという業を生きたような人生だった▼『夏の終り』『美は乱調にあり』など情熱的な愛と女性を描いた小説や『源氏物語』の現代語訳など、幅広い分野で数多くの著作を手掛けた。自らも、東京女子大時代に結婚した後、夫と幼い娘を捨てて愛に走るなど、波瀾(はらん)万丈の生き方を経験。2年前に出した著書『寂聴 九十七歳の遺言』でも「生きることは愛すること」「愛することは許すこと」と説いた▼51歳の時に出家して、本名も晴美から改名。京都・嵯峨野の寂庵に暮らし、岩手県天台寺の住職も兼ねた。東日本大震災の後には被災地を訪ね、避難者のつらい体験に耳を傾けて一緒に涙したり、原発の再稼働に抗議してハンストをしたりするなど社会活動にも参加し、発言もした▼長年続けた法話は、人生の妙味を知り尽くした人の言葉だけに、多くのファンや悩みを抱える人たちを勇気づけた。テレビ番組で紹介された、90歳を超えてなお肉好きだった一面も、どこかほほ笑ましい▼何より印象的だったのは、ちゃめっ気のある、あの温かい笑顔。長い間、本当にお疲れさまでした。合掌。(己)(山陰中央新報・2021/11/)

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 長い人生行路を、少しも無駄にしないで、みごとに生き抜かれ、様々な方面で思う存分の活動をされた、とはた目には映ります。お見事というほかなさそうです。京都の嵯峨嵐山の近くに住まわれて、多くの著作をものされもした。何かと教えを受けた瀬戸内さんに、いろいろな思いを込めて、深く哀悼の意を表します。ぼくはが毎日のように「閲覧」している地方紙の多くが瀬戸内さんんの死を悼むコラムを書かれていました。当然のことですね。おそらくニ十紙は下らない各紙が、彼女の人生に満腔の賞賛を送っていると読みました。上に掲げた山陰中央新報のコラム氏の「人生の妙味を知り尽くした人」というのも、その代表的な一つです。ぼくごときが、瀬戸内さんの死について、あるいはその生き方について、とやかく言う資格もなければ、義理もありません。ひたすら、哀悼の想いを重ねるばかりです。

 どんな人間の生涯、あるいは存在にも「毀誉褒貶」はつきもの。彼女は、そのような喧しい世間を無視したというより、その中にあって、敢然と思うがままに生きようとされたと思う。評判を気にするのも「一つの生き方」なら、それを乗り越えて、あるいはそれに打ち勝って、その都度、自らの活力を蓄えて生きるのも、また「一つの人生」、彼女は、まさしくそのように生きた人という気がします。だから、ぼくが彼女の「一挙手一投足」になにかを言うというのではなく、彼女の言動を細かに報道する周囲の扱い方に、あるいは異を唱えたくなるのかもしれない。それは「揚げ足取り」というものではないつもりで、以下に、たった一点だけ言及しておきたいのです。(誰に対してであれ、ぼくは「プライヴァシー」には言及しないようにしています。最大限に尊重されるべきもの、それは「私権」ですから)

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 死刑や憲法9条改正の反対運動も 瀬戸内寂聴さん

「法話の会」を開く瀬戸内寂聴さん=平成27年9月
(平成27年9月)

 9日に99歳で死去した作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんは、女性の業(ごう)を描いた小説の執筆や法話を通じた多彩な活動を続ける一方で、死刑や東日本大震災後の原発再稼働、憲法9条改正に反対する運動にも積極的に参加していた。/ 平成28年10月に福井市内で開催された日本弁護士連合会の死刑制度に関するシンポジウムでは、ビデオメッセージで「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。殺したがるばかどもと戦ってください」と発言。犯罪被害者支援の関係者から批判が上がり、後に「お心を傷つけた方々には、心底お詫(わ)びします」と謝罪した。

 東日本大震災をめぐっては、義援金活動や被災地訪問を重ねつつ、原発再稼働に抗議するハンガーストライキに参加したこともあった。被災地支援について、「お見舞いや寄付などできることはなんでもしてきましたが、それは、仏教徒ゆえの義務です」と語っていた。/ 憲法9条改正にも反対の立場で、25年に東京都内で開かれた宗教者による集会では「今後も日本は戦争をしない国として生きるべきです」とのメッセージを寄せた。27年には国会前の安全保障関連法案反対集会に参加した。(産經新聞・2021/11/11)

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 「人間が人間の罪を決めることは難しい。日本が(死刑制度を)まだ続けていることは恥ずかしい」「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください。そして、殺したがるばかどもと戦ってください」このようなメッセージを認(したた)められた、彼女の心中はどうだったのか。本人ですら、後になって、それを忖度することは困難かもしれないのですから、まして他人がとやかく言うことは、よほど気を付けないと…、そんな気持ちを十分に持っているつもりです。(あくまでも「つもり」ですから、それがまちがいのもとになるのでしょうね)。

 この発言が物議を醸したのですが、直ちに瀬戸内さんは「謝罪」(弁明・弁解)をされた。それに関しても特に何かを言う必要性を、ぼくは感じません。要するに、「謝罪」するのは当然であると認めたうえで、その「謝罪」には、きっと「弁明・弁解」が含まれていることがありますので、それを見逃したくないのです。「謝罪」はいいけど、「弁明」はダメというわけではありません。どうしても、その二つ離せないんですね。さらにいえば、ともすると「弁解」や「弁明」は「開きなおり」になります。瀬戸内さんの場合がそうだというのではありません。「謝罪」には幾分かの「言い訳」が混じっているから、謝罪できるんですね。「いい分・申し開き」と言うものです。自分の言いたかったのは、「ホントはこういうことだった」「真意が伝わらなかったのなら、言葉が足りなかったとしたら、申し訳ない」「誤解されたとしたら、その点はお詫びします」、こんな物言いは、ぼくたちはしょっちゅう政治家の会見で聞かされてきました。「もし誤解を与えたとしたら、謝ります」というんですよ。「誤解を与えたのなら」、でも本当は、「誤解する方がおかしいんじゃ」と言いたいらしい。

 よく注意して聞くと、「あの人は謝っていないじゃないか」「話を聞きそこなった、そっちの方が悪い」と言いたい気持ちがありありです。瀬戸内さんの「謝罪の言」にも、ぼくはそれを嗅ぎ取るのです。だから許せないというほど、ぼくは人が悪くはないつもり。ぼくだっていつ何時そうなるか、いつでもそんな思いで「自戒」するのです。この「自戒の念」が宿るようになるのが、成熟というか老成というか、年齢を重ねるということでしょう。寂聴さんは「若かった」んでしょうね。歳の取り方が足りなかった。「弁解」や「弁明」を言うこと自体が、そもそもの間違い。「94歳にもなって、こんな発言をする私はおおバカ」とか。そのとおりです、だから、発言は控えればよかったと言っても、時はすでに遅いんですね。

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 「94歳の作家で老尼の口にする言葉ではないと、深く反省している」「発言の流れからしても『バカども』は当然、被害者のことではないと聞けるはずである。でなければ、言葉に敏感な弁護士たちが、そのまま流すはずはないだろう。これまでも私は文学者としても出家者としても被害者のために論じ、行動してきている。過去の私の言行を調べてくれればわかるはずである」

 「もの言えば唇寒し秋の風」
     「だから長生きは厭(いや)なんだ」

 「そんな誤解を招く言葉を94歳にもなった作家で出家者の身で、口にする大バカ者こそ、さっさと死ねばいいのである。耄碌のせいだなどと私は逃げない。お心を傷つけた方々には、心底お詫びします」「恨みをもって恨みに報いれば永遠に恨み尽きることなし」(引用は;https://www.j-cast.com/2016/10/14280702.html?p=all)

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 瀬戸内寂聴さんという「稀有の存在」にして、この「過ち在り」ということでしょうか。「もの言えば唇寒し秋の風」「だから長生きは厭(いや)なんだ」、寂聴さんにして、この言あり、なんですね。そう言いたくなる、彼女の気持ちは、いったい何だったのか。「物書き」にしてこの弁明ありですから、世の中に、自尊心を持して生きるというのはなかなか難しいよ、誤解の種を蒔くようなものですから。きっと「己に対する悔しさ」だったか、あるいは、わが意を受け止め損ねた「世間」への当てつけであったか。「謝罪」なのか「弁解」なのか、混然としていますね。人間は、何処まで行っても「唯我独尊」という邪気から解放されないようです。「作家で僧侶」と言われていますが、くっついているんですね。「表裏一体」だったと思う。それは彼女の、世間に「生きる方便」であったかも。「物言えば唇寒し」と、芭蕉は言いましたが、その真意はどこにあったか。寂聴さんは、この句を「謝罪」の道具にして、実は、自己の発言を誤魔化されています。

 「芭蕉の句で、貞享年間(一六八四‐八八)に成ったといわれる「座右の銘」、「人の短をいふ事なかれ 己が長をとく事なかれ」のあとに添えられているもの。人の短所を言った後には、なんとなくさびしい気持がする。転じて、なまじよけいなことを言えば、そのためにわざわいを招くということ。口は禍の門」(精選版日本国語大辞典)

 これも言わないでもいいことに属します。でも一言したい。ぼくの疑問とするところですから。彼女は「殺したがるばかども」とは「死刑制度を温存している、国家権力」という趣旨で述べたと言われました。その「殺したがるばかども」が、栄誉として、優秀な「国民」に配る「文化勲章」を受けられています。これも、ぼくには解せない行動の一つ、さらに「僧侶」なのだから、「文化勲章はおかしい」というのではないのですが、寂聴さんは「両刀使い」だったか、すこし怪訝でもありますね。はたして、どうでもいいことなのかどうか。

 「人生の妙味を知り尽くした人」ということが出来る、そんな存在は、人間の中にいるのでしょうか。(合掌)

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