
「わたしたちの心のすべてを引きつけて、それ以外に窮極のものはないと思わせるもの、それがこの世の持つ恐るべき力なのです。この世の意図が持つ恐ろしさは、わたしたちを満足せしめうるものはこの世の与えてくれるものをおいてほかにはない、わたしたちが関心を寄せうるものはこの世の務め以外にはないと錯覚せしめるところにあります。この迷妄に陥るとき、この世自体が神となり、自己完結的なもの、自足的なものになってしまいます」
この文章は、すこし前に引用したブルトマンが行った演説の一節です。彼は神学者であり哲学研究者でもあります。「パリサイ人と税金取り」という聖書の譬え話も引用しておきましたが、それを受けて、彼が言ったことです。「この世」とは社会であり、世間です。現にぼくたちが生きている、その社会のことを意味しているでしょう。大小さまざまな集団(社会)において、ぼくたちは他者から受け入れられたいと願うし、可能ならば、より大きい賞賛や評価を得たいと願っている。「わたしたちを満足せしめうるものはこの世の与えてくれるものをおいてほかにない」とはどういうことなのでしょうか。「他者の是認を期待して、生きているのですか」と、問われているのです。

「生きているうちが花」とか「命あっての物種」と言いますが、それはまず生きていなければ、話にならないとも、命が何よりも大事であって、そこからしか何かが生まれる気づかいはない、まあ簡単に言えば、そういうことでしょう。でも「生きているだけ」では足りない、社会やこの世からの高い評価を得たいと齷齪するのもまた、ぼくたちの生活の条件になっています。「こんなにぼくは偉いんだ」「わたしはこんな評価を受けてきた」という具合に、社会はだれが優れていて、誰が劣っているか、あからさまな優劣をつけているし、それが人生の意味や価値に直結しているとも言えます。誰も自分を認めてくれない、こんな感情を持つ人は後を絶ちません。存在の根拠とは?
ここで質問したい。「道徳」とはなにか、と。

ある人が世間からほめられたいがために「よい行い」をしたとして、はたして彼や彼女を「道徳心のある人」といえるでしょうか。世間の目をあまりにも気にかけすぎるがゆえに、したいことを我慢する人を「謙虚な人」ということができるでしょうか。他人の監視の下で「正義」や「幸徳」、「勇気」や「奉仕」が生まれるのですか。
ぼくたちは評価を求めることをよしとする。しかし、それが度をこえると「生きる意味」をとりちがえてしまうのです。生きる意味とか人生の価値というのは、何かができたり何かを獲得することで達成されたり実現されたりするのではなさそうです。ぼくは、そのように考えています。どうでしょうか。

ある人の本を読んでいたら、「内臓の記憶」という言葉が出ていました。痛いとか、辛いとかいった経験はどんな人にもあります。それを忘れてはいけないというのではなく、いつでもその「傷口」のうずきや、かろうじてかぶさりかけた「かさぶた」をめくる時の痛覚からものごとを始めることが大切じゃないですか、おそらくそういうことでしょう。「反省しなさい」と言われて、「涙を流して、もうしません」と悔い改め、相手もそれを許してくれた時、ぼくたちは一種の「カタルシス(浄化)」を得たと勘ちがいします。間違ったことが記憶から「消される瞬間」です。「二度としません、過ちは」と肝に銘じたつもりで、安心して忘れるのです。そこで晴れ晴れとした気分を経験するのでしょう。これは、個人であれ集団(大は国家まで)においてであれ、同じこととして認められます。
敗戦時、「一億総懺悔」といった総理大臣がいたし、当時の人民の多くも「懺悔した」気になった。そんなことは「荒唐無稽」「ありうべからざる現象」だったのですが、一瞬の迷妄に陥っていたのです。以来七十余年、「あの国は怪しからん」「先制攻撃」能力(武力)を持たねばならぬと、怪しげな大ぼらを吹くトップが出る始末です。それほど、「内臓の記憶」を癒し、すっかり直す特効薬が作られてきたというのでしょう。すっからかんと過去の悪事も忘れ、他国を踏みにじったことも忘却の彼方に捨ててしまったのです。個人の場合も同じです。


ぼくにも忘れてしまいたい出来事(記憶)がいくつもあります。それを忘れればどんなに気が楽になるかという思い(誘惑)に駆られることがしばしばでした。でも、それを忘れた途端に、安心して、ぼくは新たな間違いを犯すはずです。それを間違いだとする「内臓の記憶」がなければ、なんどでもおなじ間違いを犯し、それに対してなんの痛痒も感じなくなるのは道理です。どんなに忘れ去りたい過誤であっても「内臓の記憶」になるかぎりで、人は道徳の問題に向きあうことになります。そこから、道徳の問題が生まれるのです。そこにしか生じません。
間違いを犯した〈している〉という自覚を失えば、人はどこまでも厚かましく、無礼に振る舞い、厚顔無恥になりきります。世の中にはそんな御仁がうじゃうじゃしています。いかにも紳士淑女ぶって、生きています。ちがうでしょうか。「生きているうちが花」だといい、「命あっての物種」というのは、その通りですが、その「生きている」「「命あって」をいかに受け止めるか、そこからは大きな生き方の差が生まれてくるのです。
ブルトマンはさらに続けます。

《事実、是認を求める欲求は、人間にとって自然的なものである。わたしたちが自由に生き、呼吸しうるのは、わたしたちを是認してくれる仲間の範囲においてのみである。…》《だがここできわめて大切なことは次のこと、すなわち、わたしたちがみな必要としているこの是認を、わたしたちの行為の本来の目的とすることはできない、ということを洞察することである。…是認は、努力や苦労して追求して手に入れられうるものではなく、贈り物として与えられるにすぎないのである》
努力と才能さえあれば自らの人生を切り開いていける、だから頑張れというのは学校教育の常です。そのことによって己の価値づけは高まり、自己充足を得られるのだから、と。
再び言う。ほんとうのところ、ぼく(たち)は二人(パリサイ人と税金取り)のうちのどちらに似ているのでしょうか。あるいは、どちらにも似ていないのでしょうか。

そして学校教育でまことしやかに語られる「道徳教育」は、どちらの人間を「作ってきた」のですか?作ろうとしているのですか?
人間をつくる、そんな倨傲な態度から解放されない限り、学校教育は再生不可能です。「是認は、努力や苦労して追求して手に入れられうるものではなく、贈り物として与えられるにすぎないのである」、ぼくはささやかな人生を送って来たにすぎませんが、この言葉をすこしでも自分のものにしたいと念じながら生きてきたのです。採るに足りない虫のような人間にも、贈り物があるかもしれないという「期待(自分に対する注意深い心がけ)」を、ひそかに願ってきたのです。
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