ガリ勉は一番になれる、でもビリはちがう

2023年6月
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 弥生(三月)朔日。ものみな浮かれ、弾む「春麗(うら)ら」の到来です。往時、地方競馬の高知は土佐に、見事な敗走馬の華「ハルウララ」がいました。走っても走っても負け続け、まるで負けるために走っているかのような負けっぷりでした(出走期間は1998~2004まで)。勝つだけが競馬ではないと「敗者の美学」を貫こうとした(馬も馬主もともどもに)とは思いませんが、いかんせん脚力がなかった。成績は113戦113敗(生涯獲得賞金・112万円。今は千葉は御宿の牧場に暮らしているはず)。ぼくは、この全敗馬は、タダモノではないという感想を持っていた。もちろん、人馬一体の環境があればこそ、負け続けを無にしなかったのです。この馬のことを考えるとき、いつもある思想家のことを思い出します。その人はじつに高名な人でもあり、戦時中には治安維持法違反容疑で獄中にいたこともある。彼を追っかけていたのは佐高信でしたね。

戦後は、徹底した市民運動の組織者であると同時に行動者でもあったし、市民そのものの一人として評論活動をも精力的に展開されました。一種の「無所属」派の代表でもあった。その人は高校だったか大学だったかの成績は下から二番目を一貫していたという。でも、本人に言わせると、「本当のビリ」は自分であったと誇らしげに言ったか。一番のビリは不登校の学生だったから。「ぼくは真のビリだった」ということでした。何の分野に限らず、一番も大変ですが、一番ビリはもっと才能が必要だという逆説を教えられた。ある種の「ビリの哲学」は創造性が開く思想の言語化でもあったと、ぼくはその市民派の O.K.さんからたくさんのことを学んだ。ハルウララも、2着や3着には数度入っていました。もし首位でゴールした馬が走行違反したら、彼女は一着になっていた。それが一度もなかったというだけでも、類まれな馬だとわかるでしょう。(https://db.netkeiba.com/horse/1996106177/

 市民派の K さんとハルウララを並べて、なにかをいうつもりはありません。どちらも正直に、正味の行き方・生き方を晒していたというところに共通点を認めたいだけです。いわば、裸であることを求めた後の「裸の王様(虚飾や虚栄を捨てた)」だったと言いたい。今日(に限らず)、上に対する「忖度」や「気遣い」が政治を歪め、教育を歪め。人生の真摯の姿をや異曲させられていることに得も言われない悲憤慷慨を覚えている一人の老人、それが筆者です。老いてなお盛んとは別種の、年相応の「耄碌(もうろく)」を託っているのを如何ともし難い。その昔、評論家の中村光夫さんが、先輩の作家・広津和郎さんの所論に業を煮やし、「年は取りたくないものです」と「耄碌」まがいと先輩に大層無礼なことを書いたのも思い出している。その中村さんも、「文学は老人のものです」と遺言のような言葉を残し、老成、老熟いずれもなし難く、華やぎのうちに亡くなったのではなかった。ぼくは中村さんのものは愛読していましたが、すっかり熱が冷めたことを思い出しています。聡明な中村さんにして、壮年は永遠だという「錯誤」があったのでしょうか。だとすれば、「壮年」もまた唾棄すべきです。いやいや、人生は、何が何時起こるかわからないからこそ、深くて広い海に漂う藻屑のようなもの、そんな自己認識をぼくは保有しています。それにしても、この小国にもたくさんの「裸の王様」がいましたし、今だって丸裸で天下を狭しと闊歩しています。「あっ、あの総理は裸だ」と誰かが言ったところで、恥ずかしくも何とも感じないのですから手に負えません。「総理、お洋服はとても素敵ですね」とか「社長、立派なスーツですこと」とお上手を言われているのに、本気だと思いこむ、フェークだとは思いもよらない糊塗と、そんな輩が「公然猥褻(わいせつ)罪」を振りまいているがごとしです。

 ある人々にとって人生は、まるで高い山を一目散に駆け上るがごとくに、高いから尊いとでもいうような生き方が褒めそやされているのですかね。ぼくにはとんと見当も付きません。ハルウララのように113戦113敗という、連戦連敗を貫くのは稀有であり不世出です。それを誇るのではなく、精一杯走った結果がそうだったのであり、ぼくにはまことに貴重だと思われてくるのです。競馬は勝ち負けではないとはいえない。負けたら終わり、です。でも、人生は「勝ち負け」を争うゲームではないのは確かです。おのれの実力をひけらかしたり、糊塗したりするのも人それぞれですが、ぼくは嫌ですね。何が実力か、そもそも、ぼくには「実力」みたいなものがあるのかどうかもわからないのですから、致し方ありません。成績を競って、一番がいればビリもいます。「鶏口となるも牛後となるなかれ」というのではない。鶏と牛を比較するかの如き人生観を、ぼくは肯う(うべな)うことはしたくないだけです。牛は牛、鶏は鶏。比較を絶するでしょ。りんごとみかんを並べて、どっちが、旨味において勝つかと比べるくらいに愚かしいのです。

 政治の要諦は何?と顔淵に訊かれた時、孔子は「君君、臣臣、父父、子子」と答えた。その分に応じるんだね、おのれの分際を弁(わきま)えること、それこそれが肝要だ、と。君は臣ではないし、その逆も。父は子ではなく、子は父ではない。さいわいだったか、応分の道(わきまえ)というものがあったと信じられた時代ですの逸話です。翻って、今はどうです?

 取り立てて言いたいことがあるというのでもない。老人は切腹しないか、とかいう年取った青年の主張は何時の時代にも出てくる。君だって、年取るんだぜ、と言うばかりです。それでも「老人は消えろ」というのなら、この話は別の展開をみるでしょうね。まるで「中村・広津論争」と言う名の「同士討ち」で、傍で見ていても、少子であり、悲壮でもある。いずれも「目くそ鼻くそを笑う」ですよ。「あんたは八十でしょ、早く消えなさいよ」「お前は六十か、ならば耳順じゃないか」というのは、やはり「鳥なき里の蝙蝠(こうもり)」だな。

 ガリ勉は、時には「一番」になることがある。でも、ビリにはその「憂い」「強迫観念」ははない。「ビリ」になる、「ビリ」でいるには独特の才能がいるんだと、長い学校教育の体験から、ぼくは学んだ。ぼくには、その根気(特別の才能)がなかった。一番にもならず、ビリにもなろうとしなかった(できなかった)、その勇気・気概・気骨に著しく欠けていたのだ。その限りにおいて、ぼくは実に安易な道を歩いた。恥ずかしいことでしたね。

 さて、弥生の空は「みわたすかぎり 霞か雲か」いざや、いざや、見に行かん。「裸の王様をですか?」(2023/03/01)

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 「【地軸】国家の嘘 家のガス灯が暗くなった。ところが男は誤認だと言い張り、「自分の感覚を信じるな」と妻を心理的に追い詰める。そんな戯曲を語源とする「ガスライティング」は、自らの利益のために他人を著しく誤解させる行為を指す。米国の辞書出版社が昨年、検索が急増した「今年の言葉」に選んだ。▼フェイクニュースや陰謀論の氾濫が関心を高めたという。ウクライナを「非ナチス化」、市民虐殺は「デマ」―根拠のない理屈を国家が言い募る。そうして侵攻を正当化するのを世界が目撃するさなかである。▼「国家のうそ」は、しかし遠い話ではない。沖縄返還の際、政府は米軍用地の原状回復補償費を肩代わりする密約を交わしながら、米公文書や元外務省局長の法廷証言で動かぬ事実となるまで、否定を続けた。▼先日死去した元毎日新聞記者の西山太吉さんは返還前、記事でその存在を示唆した。だが、機密公電を渡すよう働きかけたとして逮捕。起訴状で女性事務官と「ひそかに情を通じて」入手したと記された。外交問題は男女関係にすり替わり、事件は隠蔽(いんぺい)から漏えいへ変質。西山さんは孤立して記者を辞めた。それでも最後まで追及した。▼個人に犠牲を強いてうそを通す。似た構図は、財務省職員が決裁文書改ざんを苦に自殺した森友学園問題でも疑われる。権力の宿痾(しゅくあ)なのか。▼西山さんには報道機関が連帯して追及しなかったとの思いもあった。私たちの重い宿題である。(愛媛新聞ON LINE・2023/02/27)

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