
今も昔も、先生になりたいという理由の多くは「子どもが好きだから」だろうといっても間違えてはいないでしょう。ずいぶん昔、中学校か高校の教師で、「俺は子ども(生徒)なんて大嫌いだ」と口癖のように言っていたのがいた。その割に、授業は熱心だったし、面倒見もよかったと思われました。けったいな奴とその時分は思っていました。でも後年になって、「嫌いも好きの内」という複雑怪奇な感情があるのを知るに及んで一驚した。どうしてか自分でもわからずに、好きな女の子に「いけず」をすることがぼくにもあったんですから。面倒ですね、人間(人生)ってものは。
ということは、「好きだから」というのは「嫌い」でもあるのか、となるでしょう。子どもが好きで就職したのに、「嫌いになったから辞める」という教師も後を絶ちません。たくさん出会いました。だから、「教師になろうか」という若い人に会うと、ぼくはよく言いました、「奇特なことではないですか。でも、生半可な『子ども好き』で教師になろうと考えない方がいいのじゃありませんか」と、余計なことをいうようになりました。教育の実際は「子ども好き」を超えたところでなりたっているとも考えられるからです。「好き」を持続するのは、まるで修行です。この道、五十年という、それだけでぼくはご当人を尊敬いたします。「金婚式」(言葉は嫌ですが)、なんとも言いようがないくらいに尊いと思います。(ぼくもそうだといいづらいんですね、ただ今「四十八年目」です。油断大敵だ)
そのことに関してある思想家は言いました。(この引用文章は、どこかでも触れているはずです。悪しからず)

LLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLL
《 子ども好きの人が教師になれば、日本の教育は大もとのところでよくなると思います。教育の現場としても、とりくみの方向がきまるのではないでしょうか。/ 子ども好きの人は、教師であれ、一回かぎりのことばをさがし、しばしば、それをさぐりあてます。
少しまえに新聞で読んだんですが、子どもが盗みをして困った親が、
「盗みなさい。そのことをあとでお母さんに言うのよ」

と言って、子どもに約束してもらったそうです。盗んだことを知らされると、母親は、そのたびごとに黙ってあとでかえしに行ったそうです。
「盗みなさい」ということばは、人間社会全体に通用することばではありません。普通の道徳語ではありません。科学の法則(そういうものがあると仮定してですが)でもありません。/ この親がこの子にむかって言ったここだけでのことばで、この一つの状況からはえでたことばです。このようにその状況にかなう一回かぎりのことばをさがしあてようとする姿勢が、子ども好きという教育の基礎でしょう 》(鶴見俊輔「ことばを求めて」)
++++++++++++++++

まず、ぼくは母親のことばに驚嘆しました。次いで、この母親の発言から、こんなことを言う人(「一回かぎりのことをさがす」)がいるんだと驚いたのですが、なんとフランスでも同じことを言った人がいます。すでに故人になりましたが、ジャン・フランソワ・リオタールという思想・哲学者です。教師は「初めて話す(これまで話したことがない)言葉を、生徒に言うべきだ」それを受けて、生徒も、「初めて自分が話す、そんな内容の話をしなければならない」と。「それこそが対話というものなのだ」という趣旨でした。常套文句(cliché)、「静かにしなさい」「人の話をよく聞きなさい」「嘘はいけません」などなど、それらがクリシェ。決まり文句です。この常套後のオンパレードですよ、学校では。「常套語はポスター」になる。クリシェこそが幅を利かせるのです。

リオタールは、人が賢くなるには、よくよく自分で問題を受け止め(反芻し)、それを自分の言葉で考え(捉え)直す、そこに教育の真意を求めたといえます。そのための訓練(練習)こそが、学校を舞台で行われる教師と生徒たちの合同「自主トレ」です。「自主トレ」ではありますが、まさしく教師と生徒たちの真剣勝負です。ぼくは言いたいですね、授業は自主トレだ、強制じゃないんだ、と。(「リハビリ」なる語は常套語になって、すっかり色あせています。ぼくの駄文綴りもまた、ぼくにはかけがえのない「自主トレ」であり、だれにほめられようとするのでもなく、でも脳細胞の衰えを自覚している以上は「自主(じしゅ)・自立(じりつ)」して、誰のものでもない、自分の歩調で歩こうとしているのです。
鶴見さんに戻ります。その子との間にだけ通用する(かもしれない)「一回かぎりのことば」をさがしあてることができるひとが「子ども好き」なのだと鶴見さんは言うのです。いかなる場合にも、適切な一回かぎりのことばをさがしあてることはきわめてむずかしいことです。でも、それがどんなことばであれ、一回かぎりのことばなんだという感じがあれば、そのことによって互いに親しい間柄が生まれるのじゃないか、ということでしょうか。そうなるかどうか。

いつだれに対しても通用する(と見なされている)ことばになれきってしまうと、おたがいの間には疎遠な関係(それは関係ですらない)しか作れない。馴れきった、あるいは弛緩しきったつながりでしょう。教師と生徒の関係であれ、親と子の関係であれ、そのふたりの間にしか通用しないことば、しかも一回かぎりのことばを探し求めるにはどうしたらいいのか。並大抵ではなさそうです。しかし、それが求められているのです。
宿題を忘れた子ども、規則を破った子ども、そのような子どもにはだれかれなしに乱暴な決まり文句(クリシェ)を投げつける教師はたくさんいる。(もちろん、親たちも)子どもは教師のいうことを聞くもの、教師は子どもにいうことを聞かせるものだという思い上がった(傲慢な)態度がそこに見えてきます。「子どもが好きだ」というのはどのようなことをいうのか。あらためて問われると返答に窮していまう。子ども好きの人が教師になれば、「日本の教育は大もとでよくなると思います」といわれて、はて、子ども好きの流儀なるものとは、と深く考えさせられてきました。「一回かぎりのことば」、その子との関係における一回だけの言葉、それを見つけようとするのが、子ども好きであり、その人を教師であるといってもいいのだと、鶴見さんは言うのでしょう。大変だな。

盗みをやめない子どもに「盗みなさい」というほかなかった母親の気持ちは何だったのか。やむにやまれず口走った、「盗みなさい」というが窮地に喘ぐ母親の「肺腑の言」として出てきたものとして、はっきりとぼくの脳裏に刻まれました。「一人称で語る」といつでもいうのですが、一人称で語ること自体がすでに一回かぎりのことばを探し当てようとすることではないか。自分にしかいえないことば、目の前のあなたにしかいえないことば。それをお互いに掘りだそう、探り当てようとすることはそれだけで、りっぱに教育の営みとなるんじゃないか。自分のことばで書く、自分のことばで考える、自分のことばで話す、そんな場面を「最良の教室」において夢想してきた、ぼくの生活は長く続きました。今でも続いているかもわかりません。(といいながら、人の尻馬に乗ったような駄文しか書けない、この無能が辛いですな。だから、自主トレはまだまだ続きます)
以上は「ことばを大切に!」や「美しいことばを使いましょう!」という標語やモットーとは無関係の話です。
___________________________________