
「自然を支配して生きようとしてきた人間の生き方(人間文明)」に未来があるのかないのか。十年ほど前に見た映画「アフターデイズ」は、まさにその問に対する一つの典型的な解答であったと思われます。地球環境問題を解決するのは造作のないこと、人間が地球からいなくなるだけでいい、と。たしかに地球には人間はいらないかもしれない、しかし、人間には地球以外に行く場所が(今のところ?)ないのだから、始末に悪い。ここにしか住めないにもかかわらず、この環境を荒廃させることに奔走している人間たちの悪行はどうすれば止むのか(自分さえよければ、今さえ快適ならばという利己主義と刹那主義の産物)。その悪行もまた「科学・技術」文明というのなら、文明とは野蛮そのものであることがわかろうというもの。


これもずいぶん昔、ドイツの政治家の著書『収奪された地球』をむさぼり読んだことをも思い出しています。彼は当時の「緑の党」の創立者だったように記憶しています。もっと前にはローマクラブという、今でいうところのNPOのような団体が出した報告書(「成長の限界」)も、資源の限界を中心に「経済成長」の先行きに警鐘を鳴らしていました。
こんなよしなしごとを考えるともなく時間をつぶしているとき、日高敏隆さんのことを思い出した。動物行動学とかいう分野のパイオニアで、ぼくは素人として何かと興味を以て読んだ。無駄と知りながらため込んでいた中から、日高さんの「訃報」記事を二つばかり取り出してみる。
日高敏隆さん死去

チョウはなぜ飛ぶか。ネコはどうしてわがままか。いずれも先日亡くなった動物行動学の草分け、日高敏隆さんが書いてきたエッセー集の題名だ▼文庫などが書店に並んでいるので読んだ人も多いだろう。生き物の行動観察を通して、自然界の営みの不思議さがタイトルの響きのように軽やかで平易につづられている。読後に、さわやかな幸福感が残る▼本紙のコラム「天眼」では10年以上も健筆を振るった。読み返すと、地球環境問題への言及が多い。問題の根源は「自然を支配して生きようとしてきた人間の生き方(人間文明)にある」(2008年1月19日付)とし、効率を重視する人間の価値観を変えていこうと説いた▼その考え方を、日高さんは単なる環境保護ではなく生活の向上もあきらめない「未来可能性」と名づけた。自ら初代所長を務めた総合地球環境学研究所(京都市)で、その理念を実践する研究プロジェクトを立ち上げた▼京都大を退官するとき江戸っ子の日高さんに里帰り話も持ち上がったが「関西には学問をする風土がある」と見向きもしなかった。滋賀県立大学長を引き受けて後進育成に力を注ぎ、京都市青少年科学センター所長として子らに科学の面白さを語った▼数々のエッセーそのままに温かで軽妙洒脱(しゃだつ)な人柄だった。取材の折には本題より脱線話が楽しみだった。最後となった24日付朝刊の「天眼」をしみじみ読んだ。(京都新聞「凡語」・09/11/25)
余録:日高敏隆さん

「何か不思議なことを見つけてきなさい」。先ごろ亡くなった動物行動学者の日高敏隆さんは野外調査に向かう大学院生をこんな言葉で送り出したそうだ。「動物は自ら学ぶようプログラムされている」が持論で、学生の自主性を尊重した自由人らしいエピソードだ▲その日高さんが昆虫学を志したきっかけは軍国的な教師によるいじめ。体が弱く、戦前の小学校で「お前なんかお国の役に立てない。死んでしまえ」と怒鳴られた。仮病を使って学校をさぼり原っぱで遊んでいると、1匹のイモムシがいた▲「お前はどこに行くつもりなんだ」と話しかけると、しばらくして葉っぱを食べ出した。「そうか、それがほしかったのか」。虫の気持ちが分かった気がし、無性にうれしかった。このときの喜びが、研究生活の原動力になったという▲東京農工大学の助教授時代、「先生の研究は農民の役に立たない」と左翼学生に批判された。「それならば」とモンシロチョウの研究を始めた。「こいつらキャベツの害虫だろ。ならば農民の役に立つ」という理屈だが、手がけたのは「オスはいかにメスを探すか」の実験だった。すぐには役立ちそうもない▲役に立つより不思議を追求し続けた生涯だったが、若い研究者には「専門用語でばかり語るな。異分野の人にもオモロイと思わせなきゃだめ」と諭していた▲「費用対効果は?」「削られれば国際競争から脱落する」。科学研究費を巡る攻防は政治判断に委ねられたが、気がかりなのは交わされた言葉の殺伐さ。「研究費の申請で、『オモロイ』と審査員をうならせれば勝ち」と話していた日高さんなら、どう切り返しただろうか。(毎日新聞・09/11/30)
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科研費の話が出てきましたが、ぼくにも経験がある。いわば税金だから、自分自身では一円も申請しなかった。グループで受けたことは何度かあるが、出したテーマは「オモロイ」という領域にはとても達していなかった。有用か無用か、役に立つか立たないか、利益を産むか産まないか。いまもなお、効率主義とか利益主義などという尺度でしか判断しない風潮は根強い。だから、今あるエネルギー源を使い尽くそうという魂胆が消えないのです。(コロナ禍の状況下でさへ、経済を回すとか回らないとか、人命のかけがえのなさを脇に置いてもなお、こんなことを言っている)「成長」を追っかける背伸びの処世術は誰彼の心の中にまで浸透しきってきた。べつに日高さんにかぎらないが、「無駄の効用」こそが意味を明らかにする時が必ず来る。目先の利害に目がくらまなければ、きっと「無駄の意味」が生きて花が開くのだ。人生もそうです。無駄な人生など、一つもないね。
花火があがる空の方が町だよ(放哉)
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