今では、文字がおれに向かって…

 孤立した人間がいないのと同様に、孤立した思考(たった一人で考えるということ)もないんです。ものを考えるには、その対象が必要となりますが、さらにことばを交わしあう一人の相手がいなければならない。したがって、人間の世界はコミュニケーションの世界となるんですね。つまり、「わたし」と「あなた」と「(その間を媒介する対象」があって、はじめて「考える」という行為は成り立つということです。「medium」というものが。

 (パウロ・フレイレについてはすでにいくつか駄文を書いてみましたが、最も大事な部分を残しておきました。それが彼の「識字教育」の実践でした。大変に深刻な非識字状態に置かれていたブラジル北東部(レシフェ)の農民たちとの格闘がそれです。人間が「文字を識る」とはどういうことか、根本からその問題を明らかにしたものです。何回かに分けて、この問題について拙論を重ねたいと愚考しているのです)

*ミディアム【medium】1 媒介するもの。媒体。また、仲介者。2 中間。中位。「ミディアムサイズ」3 ビーフステーキの焼き方が、中位であること。ウエルダンとレアとの中間程度。4 生物の生息場所。生活環境。5 標本の保存液。細胞培養の栄養液。6 霊媒。(デジタル大辞泉)

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 ことばの種を播く人(あるいは識字教育について)

「ねえ君、君は最初のことばを読み書きできたとき、どんな感じをもった?」

「ことばを話せることがわかって、うれしかったな」と、かれは応えた。

 ダリオ・サラスDario Salasは、次のように報告している。(註 識字教育実践の仲間である社会学者だったと思います)

 「農民との会話のなかで、私たちは、識字者になることの利益と満足感を表現するために、かれらが使ったイメージに衝撃を受けた。例をあげてみよう。

『以前おれたちは目が見えなかったが、今では目からうろこが落ちてしまった。』

『わしは、自分の名前の書き方を習うためだけに来た。この年になっても字を読めるなんて、思いもよらなかった。』

『これまでは、文字が小さなあやつり人形みたいに見えた。今では、文字がおれに向かって囁きかけ、文字に口を聞かせる事ができる。』

 サラスの報告は続く。

 「ことばの世界が眼前に開けるときの、農民たちの喜びを目にするのは感動的である。ときとしてかれらは、こんなふうに言ったものだ。『疲れすぎて頭痛がする。だけど、読み書きを学ばないで、ここから帰ろうとは思わない。』」

 鳥には翼がある。

 エバはぶどうを見つけた。

 おんどりが鳴く。

 犬が吠える。

 このような細切れの言語・文脈について、フレイレは次のようにいいます。

 《(それらは)たしかに言語の文脈である。しかしそれが機械的暗記や反復に堕するとき、その言語文脈は、現実とダイナミックな相互作用する思考―言語としての真の次元を剥奪される。このように思考 ― 言語としての価値を奪われているがゆえに、これらの文章は、真の世界表現たりえないのである》(「人間と世界のかかわりのなかで」)  

 ではどうして、世界を表現することのできない文章を用いるのでしょうか。それは被教育者のなかに物事(世界)を認識する力があると、教育者は見なしていないからだというのです。自分で考える能力が不在だとしかみていないというわけです。

 《この(細切れの文脈を教えようとする)著者たちは、単語を使って行うことをテキストに関してもくり返す ― つまり、学習者の意識がまるで空っぽの空間ででもあるかのように、そこにテキストを注入するわけである。これこそまさしく栄養消化の知識概念そのものであることを、再度強調しておこう》  

 「栄養消化の知識概念」とは「生徒は教師の選んだことばを詰めこまれるべきだ」という考え。

「生徒の意識は空っぽにさせられ、知るために知識を詰めこまれるか、食料を与えられる必要がある」というものです。知識というけれど、じつは石ころであるかも、ゴミであるかもしれませんね。

 対話のねらいは、どんな知識であれ(それが科学的・技術的な知識であろうと、あるいは経験的な知識であろうと)おのれの知識をその知識の源であり、かつまた、照射すべき対象でもある具体的現実とのかかわりにおいて問題化し、現実をより深く理解し、説明し、変革することにあるのである。

ブラジル北東部レシフェにて、フレイレは「識字教育」を農民に向かって実践します。(これに関してはいずれ述べる予定です。

 なるほど、4×4は16である。だがそれは十進法のなかでのみ真理であるのだとすれば、生徒は16という答えを唯一絶対のものとして頭にたたきこむべきだ、ということにはならないだろう。十進法の枠内でのこの真理の客観性は、再度問い直されることが必要なのだ。

 じっさい、学習、とくに子どもの学習において、現実との関連なしに、4×4を教えることは、まちがった抽象化となるおそれがある。(フレイレ)問題は児童とか生徒と呼ばれる人びとの現実をどのように見る(ことができる)かという、教師の側の姿勢・視線だと思う。農民に対する農業指導者のほとんどは、農民とは無知な存在であり自分たちが援助・教育してやらなければ救いようもないほどの愚か者だという徹底した蔑視であり、偏見をもっていたのです。

 これまで、この島に見られる教育の二つの流れ(スタイル)の一つ。「教師は話し、生徒は聞く」という「銀行型教育」という方法は、別名「垂直型教育法」でもありました。それは衰えることを知らずに、ただ今も繁殖中です。 

 教師が話している間、生徒は発言の機会を与えられません。問題は教師がのべつ話し続けているということです。つまり生徒は「あなた」の側におしとどめられ、「わたし」に交替するチャンスを奪われている点です。

 「人の話は黙って聞け」「よそ見をするな」このようにいわれない生徒はいませんね。例外はありますが、ほとんどの教室では生徒は発話・発言する権利を押さえられ奪われています。「わたし」は教師で、「あなた」の役を与えられた生徒は一方的に沈黙を強制されます。

 そのとき、生徒は教師の分身なんですね。教師のいったことをオウムがえしにくりかえす(リピート/repeat)だけなんですから。出された問題には正しい答はたった一つで、それを知っているのは教師だ、ということになってるでしょ。だから、子どもにとって「勉強」とは、教師の教えてくれる「正しい」答を憶える(リサイト/recite)ことに尽きるのです。鵜呑みにするということです。

 わたしたちは、「知ろうとする主体」(subject)と「その対象」(the object)があれば、the act of knowingは成立すると思いがちです。でもほんの少しばかり考えてみれば、それは誤りであることに気づかされます。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)