「戦争」が通り抜けた時代の果てに

 八・一五は私にとって、屈辱の事件である。民族の屈辱であり、私自身の屈辱でもある。つらい思いでの事件である。ポツダム革命の惨めな成りゆきを見ていて、痛切に思うことは、八・一五のとき、共和制を実現する可能性がまったくなかったかどうかということである。可能性があるのに、可能性を現実性に転化する努力をおこたったとすれば、子孫に残した重荷について私たちの世代は連帯の責任を負わなければならない。(竹内好「屈辱の事件」1953/8)

〇生]1910.10.2. 長野臼田 [没]1977.3.3. 東京 中国文学者。 1934年東京大学支那文学科卒業。同年,武田泰淳岡崎俊夫らと,旧来漢学,支那学を否定して「中国文学研究会」を結成,機関誌『中国文学月報』 (のち『中国文学』) の編集にあたった。第1回大東亜文学者会議に際し非協力を表明して 1943年同研究会を解散,『魯迅』 (1944) を書き上げ一兵卒として応召。 1946年復員後は,在野評論家として,中国文学との対比による日本の「近代」批判,「国民文学」の提唱,現代中国論など幅広い評論活動を行なった。 1953年東京都立大学人文学部教授となり,1960年日米安全保障条約の国会強行採決に抗議して辞職。 1963年「中国の会」を発足させ,雑誌『中国』を創刊,『中国を知るために』などのエッセーを載せた。『魯迅選集』 (1965,共訳) ,『魯迅文集』 (6巻,1976~78) など魯迅作品の翻訳のほか,『竹内好評論集』 (3巻,1966) ,『日本と中国のあいだ』 (1973) などがある。(ブリタニカ国際大百科事典

 それぞれの八・一五ということがいわれます。単にその1日が問題となるのではなく、その前とその後の間にある1日ということでしょう。本日は竹内好さんを紹介しました。竹内さんについては、これまでにも触れてきました。なにかと興味をそそられる思想家であったのは事実です。早くにアジア、それも中国を意識していた竹内さんは、中国文学会を組織し盛んに活動をされました。その彼が1942年1月の段階で「大東亜戦争と吾等の決意」という世界大戦の開戦に寄せた断固たる宣言文を起草していました。

 《 十二月八日、宣戦の大詔が下った日、日本国民の決意は一つに燃えた。爽かな気持であった。これで安心と誰もが思い、口をむすんで歩き、親しげな眼なざしで同胞を眺めあった。口に出して云うことは何もなかった。建国の歴史が一瞬に去来し、それは説明を待つまでもない自明なことであった。(中略)中国文学研究会一千の会員諸君、われらは今日の非常の事態に処して、諸君と共にこの困難なる建設の戦いを戦い取るために努力したいと思う。道は遠いが、希望は明るい。相携えて所信の貫徹に突き進もうではないか。耳をすませば、夜空を掩って遠雷のような轟きの谺するのを聴かないか。間もなく夜は明けるであろう。やがて、われらの世界はわれらの手をもって眼前に築かれるのだ。諸君、今ぞわれらは新たな決意の下に戦おう。諸君、共にいざ戦おう。》

 戦争に積極的に荷担した事実を隠すことなく、それを戦後の言論活動の基底に据えたことは誰もがよくなしえた行為ではなかった、この点に注意を払う必要をぼくは認めるのです。このことを「教師達の八・一五」として見るとどうなるでしょうか。ここでは、ほんの一例を挙げておきます。懐かしい人ですが、去る者 日々に疎しという通り、遥か彼方に往かれてしまったという思いも強く、懐旧の情もだしがたく、という心持をぼくは抱いて、紹介するのです。

 金沢さんはテレビにさかんに出られた教育評論家の走りのような方でした。一面識もなかったが、戦前戦後を現場で経験された教師の典型として何かと学んだのでした。(今でいえば、尾木直樹(ママ)氏のような役回りをされた)

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 金沢嘉市の〈戦争と平和〉

 昭和十五年、私は港区の南桜小学校に移動した。その翌年には日本は太平洋戦争に突入し、国をあげての臨戦体制になった。その後の子どもたちは愛国行進曲にあわせて全員が少年団の訓練を受け、教師は皇国民錬成の指導者として臣民の道を朗読したり、ついにはミソギをして神ながらの道を信奉するように命ぜられるにいたった。

 こうした中で私はただ政府の言うまま、時の文部省の言うままに日本の必勝を願いながら日々の教育の道にたずさわっていた。

 子どもたちは次々と出征していった。私はその知らせを受ければ急いでかけつけ激励してやり、その数は数えきれない程であった。(金沢嘉市『ある小学校長の回想』岩波新書)

 〇明治41(1908)年10月2日 昭和61(1986)年10月10日 愛知県蒲郡市 青山師範〔昭和3年〕卒 主な受賞名〔年〕モービル児童文化賞 経歴昭和3年東京西多摩郡の多西小学校に赴任。以来、戦前戦後を通じて41年間の教師生活を送る。世田谷区の祖師谷、三宿、代沢小学校校長を経て44年退職。その間、27〜41年にはNHK学校放送の「このごろのできごと」に出演しニュース解説をする。53年より子どもの文化研究所所長を務めた。教師の勤務評定を教育委員会に提出拒否して注目され、学力テストや教科書検定など国の文教政策を批判する立場から活動を続けた。著書に「ある小学校長の回想」「人間にくずはない」「ほんとうの教育を求めて」などの他、授業ノート「金沢嘉一の仕事」(全5巻・別巻1 あゆみ出版)がある。平成5年著書や関連文献、講演テープなどが遺族から蒲郡市に寄贈され、7月同市立図書館内に金沢ヒューマン文庫がオープンした。(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」)(つづく)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。