本日は12月1日。気分としては「師走」と言う「異称」を使いたくなるような。あるいは「極月(ごくげつ)」「臘月(ろうげつ)」とも。ぼくのような「朴念仁(ぼくねんじん)」(無口で愛想のない人間・わからずや)であっても、やはり語感からして、時間(光陰)は、まさに走り去り飛び去る如く、新幹線の車体(射影)がホームに佇む一老人をして、まさに、その轟音を聴かせるばかりの一対象として、時の流れの速さと軽さで圧倒します。月日もまた「百代の旅人也」ですが、この時代の「旅人」は、超音速エンジン搭載のGTOです。油断していると、時の勢いに轢き殺されそうでもあります。何か感慨があっての物言いではありません。人並みにぼくは八十一歳になりました。四十代・五十代ではとてもここまで生き永らえられるとは思いもしませんでした。結婚して子どもができて、まだまだこれからの時期、少なくとも妻や子に苦労と言うか心労を与えてはならぬとばかりに、それこそ華奢な体に怠け者の複合体、そして「分からずや」ときていましたから、まともな人道を歩けるとは思いもしなかった。
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(ヘッダー写真は紙本淡彩奥の細道図〈与謝蕪村筆/安永八年十月の款記がある〉)「解説 俳人であり、日本文人画の大成者でもある与謝蕪村(一七一六 一七八三・享保元年-天明三年)は奥の細道図をかなり多数描いたものと思われるが、いずれも安永六年から三年ほどの間に集中的に描かれ、芭蕉への回帰を強めていったと思われる。本図巻は安永八年(一七七九)に描かれたもので、蕪村の門弟であった黒柳召波の息・維駒に与えられている。絵、書ともに内容最も充実しており、蕪村が奥の細道図の完結をめざした最後の一本であったかとも思われる」(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/127694)(左は芭蕉像)

ぼくは芭蕉の研究者でもなく、ましてや「俳諧」のなんであるかをまったく知らない無知無能な人間ですけれど、それなりに俳句には興味を抱いてきました。誰彼が好きだというのではなく、ある種の「一幅の写生画」の如く、春夏秋冬の一断面を「人情・世情」を交えて詠みこみ謳いこむ力量に惚れこんだり、呆れたりしながら、俳人名句のいくつかを読んできただけでした。それでも、この短詩系の表現に驚くほど深い子細を感じ取り、「我もまた、自然界の一卑小物也」と、我が人間の寸法を忘れない縁(よすが)にしてきたという事情は、拙さに満たされた人生を一貫していました。暇があれば、「指折り数えて十七字」、年甲斐もなく、言葉遊びに興じたりします。
ある一時期、それもかなり長い間、ぼくは子規(1867~1902)に強く惹かれました。俳句の革新派としてはもちろんですが、何よりも彼の率直無比の人柄が、その句に当たり前のように滲み出ている、その率直さに参ったという次第でした。加えて、とても短い間でしたが、子規と漱石(1867~1916)の交友(友情)の純粋かつ若々しさに、やはりぼくは、とても強く惹かれました。大げさな言い方をすれば、この二人の青年は、明治期日本の「若さ」に比肩しうるほどの青年ぶりを発揮していたと思われてくるのです。それを想うと、子規の病死は、漱石にとってもとても堪(こた)える出来事だったかと思われて、なぜだか涙が出てくるのです。

ぼくは漱石の俳句も、彼の漢詩以上に好きです。その中でも飛び切り好む一句は「あるだけの菊投げ入れよ棺の中」という一句です。時に明治43年。この句の「前書き」に、「床の中で楠緒子さんの為に手向の句を作る」とあります。(「硝子戸の中」)大塚楠緒子(おおつかなおこ)さんは、明治43年11月9日に亡くなられた。35歳だった。ある時期には漱石はこの人と結婚するのではと見られていた。結局は想いはかなわなかったが、この句の底には、「思いの丈を菊の花に託したい」と言う漱石の悲痛が激しく感じ取られます。(その2年後に子規も亡くなる)その後継者の高浜虚子(1874~1959)さんは、なぜだか、ぼくにはのめりこめなかった。勝手な想いを書くなら、一時期、虚子は「子規の後継者」を厭い、勃興しかけていた自然主義小説で身を立てようとしたのです。ぼくは虚子さんの小説に挑みましたが、ほとんど読むに堪えられなかった。その後、俳句(「ホトトギス」)に拠点を据えた、虚子はあまりにも大きな存在として俳句界を睥睨したかの感がありましたが、ぼくは敬して遠ざけるばかりでした。
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(李白の「春夜桃李の園」を井原西鶴(寛永19(1642)年 ~ 元禄6(1693年)もまた「本朝(日本)永代蔵」(浮世草子)に牽いています。その理由は何だったでしょうか。いずれ、元気が戻ってくることがあれば、ゆっくりと、そのあたりの事情を自己流に紐解きたいと考えています。 「江戸時代の俳人、松尾芭蕉の『おくのほそ道』の冒頭から。「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり(月日は永遠の旅人であり、やってきては過ぎていく年も旅人である)」とあります。これは、八世紀、唐王朝の時代の中国の詩人、李白の文章を踏まえたもの。李白の文章は、「天地は万物の逆旅(げきりょ)にして、光陰は百代の過客なり(天地はあらゆるものを泊める宿屋であり、時の流れは永遠の旅人である)」となっています。なお、「百代」は「ひゃくだい」とも、「過客」は「かきゃく」とも読みます)(故事成語を知る辞典)
「天地は万物の逆旅」とは、「この世のすべてのものは、移ろい易く儚(はかな)いということのたとえ。『逆旅』は宿屋のことで、天地はあらゆる生物が生まれてから死ぬまでのわずかな間に泊まる宿屋に過ぎないとの意」(ことわざ辞典ONLINE)それが李白の言うべき事柄だった。彼の生涯の主調音は「放浪・漂泊」を奏でていただろう。もちろん、些(いささ)かの迷妄も寄せ付けなかったはずもなく、青年の大志を抱いて、玄宗皇帝に仕えたこともありました。いわば野心の沸き起こる激しい感情も経験した上での「漂泊「放浪」だったと思う。
◎ 逆旅(げきりょ)= 《「逆」は迎えるの意。「ぎゃくりょ」とも》1 旅客を迎える所。宿屋。旅館。2 旅をすること。旅。(デジタル大辞泉)

よく知られる「白髪三千丈」、李白の晩年の深い孤愁が尽きないように思われてきます。
秋浦歌 李白
白髮三千丈(白髪三千丈)
縁愁似箇長(愁いによってかくも長くなってしまった)
不知明鏡裏(明鏡に写るのは自分の顔だが、その裏(中)にいるのは誰か)
何處得秋霜(いったいどこの地で、こんな秋の霜のような髪になったのだろうか)
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もちろん漢文を学校で習いだしたのは高校時代。それまでは何の知識もありませんでしたから、思いのほか、ぼくは漢文(漢詩)が好きなのだということがやがてわかりました。その第一の要因は、担当教師にありました。名前は忘れましたが、当時はまだ四十代だったでしょうか。いかにもお酒の好きそうな教師で、大人の風を醸しつつ、豊かな声量で「漢詩文」を読み上げる、その姿にはとてもいいものがありました。恐らく、漢文、殊に漢詩は朗読が主になっていたのではないかと思うくらいに「音吐朗々(おんどろうろう)」(「音吐朗暢」)と、嵯峨野の草原に響き渡るような清々しさがあったと思う。漢文は好きになりましたが、それでは自分で創ることになったかと言うと、それはさっぱりで、もっぱら明治期の作家、鴎外や漱石、あるいは露伴や荷風の漢詩や漢文を、それこそなんとか読みだそうとしていたものでした。自己流に、大いに親しんだらいいことが記憶されています。
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◎ 李白【りはく】= 中国,盛唐の詩人。字は太白。号は青蓮居士。生地は明らかでない。父は隴西から四川に移った大商人であったらしく,李白も少年時代は四川で過ごした。剣と読書に励み,遊侠の徒に交じって自ら人を殺したとも称した。25歳のころ揚子江流域の諸都市を放浪,また山東省の徂徠山に隠棲して〈竹渓の六逸〉の一人となる。42歳で玄宗に仕え,その寵臣の憎しみを買い,宮廷を追われた。このころ友人の杜甫(とほ)や賀知章らは彼を〈謫仙(たくせん)〉(人間界に降りた仙人)と呼んだ。安禄山の乱に長江流域で挙兵した永王【りん】の軍に投じたが,敗れて夜郎に流され,途中ゆるされた。以後,長江を上下しながら余生を送った。〈大雅久しく作(おこ)らず,吾衰えなば竟(つい)に誰か陳(の)べなん〉(古風,その一)は彼の詩風の基本であった。六朝の技巧的な詩にあきたらず《詩経》の雄勁(ゆうけい)な詩風にあこがれた。楽府(がふ)の形式に本領を発揮。また,母親が太白(金星)の胎中に入るを夢みて身ごもったとか,湖面に映る月を取ろうとして溺死したとか,彼にまつわる伝説は多く,詩と酒に耽溺しながら,明るく,力強く,幻想的でしかも浪漫的な詩を作った。ことに従来の詩風を集大成して,新しい詩風を開拓した点でも,中国最高の詩人とされ,詩風では対照的な杜甫と並称されて〈李杜〉と呼ばれる。《李太白文集》が伝わる。(百科事典マイペディア)
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以下、思いつくままに、「師走(しわす)」「極月(ごくげつ)」を季語にした作品をいくつか引用しました。暇にあかせれば、百句でも二百句でも出てきますが、それぞれの作者の品格や情感なども思い浮かんでくるところが、ぼくには得も言われない関心事でもあるのです。それぞれの句作の時代を思えば、実に遥かの昔のようでいて、「なに、ついこの間のことなんだよ」とも思われてきます。俳句という表現(文学に)は、時代を感じさせない透明性・現代性があるように思われるし、短詩系だからこその純粋性もまた、時代や社会を超える(感じさせない)普遍性があるようにも感じられてきます。どうでしょうか。一句それぞれに我が思いはありますが、簡素強請るには邪魔であり余計なことなので、辞めておきます。

・あかあかと 火の熾りたる 師走かな(万太郎)
・売文の筆買ひに行く師走かな(荷風)
・極月に入りし病床日誌かな(長谷川 より子)
・極月の人々人々道にあり(山口青邨)
・極月や雪山星をいただきて(飯田蛇笏)
・少年院訪ふ極月のひとり旅(大堀澄子)
・世につれて 師走ぶりする 草家哉(一茶)
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