ハル講堂の華の宴、巡る思いに影さして

 先生や学びやに笑顔で別れ 大分県内の多くの小学校で卒業式 

 県内の多くの小学校で22日、卒業式があった。新型コロナウイルス対策が緩和され、マスクを外して式に臨む卒業生も。着脱の判断はまちまちで、笑顔で先生や学びやに別れを告げた。/ 由布市挾間町古野の由布川小(森次晃(ひかる)校長、432人)は65人が門出を迎えた。多くはマスクを着けず、体育館に入場した。/ 森次校長(59)が一人一人に卒業証書を手渡し、「苦しいこともあるだろう。悩んだらいつでも母校に来てほしい」とあいさつ。5年生約70人が「皆さんが守ってきた伝統を受け継ぎます」と述べた。/ 卒業生は「支え合ってきた仲間と羽ばたきます」と声をそろえ、校歌を斉唱。式後に、クラスメートと記念撮影した山田陽喜(はるき)君(12)は「コロナ禍のため、感動する出来事があっても友人と抱き合うことができなかった。小学校最後の行事でマスクを外せて良かった」と話した。/ 同校によると、昨年度の卒業式に比べ、出席できる保護者と在校生の人数は大幅に増やしたという。/ この日は公立小246校のうち、198校が卒業式を開いた。(大分合同新聞・2023/03/23)

 「異様な」、そういうと不謹慎だと詰(なじ)られるでしょう。写真は、大分県内のある小学校卒業式の一コマです。ここだけのものではなく、全国の多くで見られる光景なのかもしれない。「晴れ着」というのかどうか、このような写真を、ぼくは長年見なれていました。もっぱら大学においてです。きっと、お彼岸やお宮参りの日と同様、各地の貸衣装屋さんは大忙しの大盛況ではないか。このところの「コロナ禍」で厳しい状況にあった分、これはこれで大変結構だという気もします。しかし、ぼくがいいたいのは、小学校の卒業式で「華美」を競うのはよくない風潮だなどという無作法なことではない。一張羅、晴れ着の「オメカシ」は、小学生はダメで大学生ならいいというのも、おかしい話だからね。

 羽織であろうが袴であろうが、着たい方はどうぞ、というばかり。「それを言ったらお終いよ」、そんな危険な言葉が喉から出かかっています。悪意を含んではいないつもりですが、ハレの日に水を差すことだけは間違いなしでしょう。だから、ここでは言わない。当て推量でいうのですが、上掲の卒業式会場の写真を観た瞬間、「これは少子化現象の一露出なんだ」ということでした。とするなら、いずれ保育園でも幼稚園でも「スーツにネクタイ」や「羽織・袴」が正装の「右へ倣え」となるのは目に見えています。奇っ怪なといべきう事態が進行している。それにしても入学式や卒業式は、お母さんやお父さんの「晴れ着の日」なんかではないんだがな。

 商売繁盛を求める商人が「獲物を狙い撃ち」するのは何の不思議もない。「将を射んと欲すればまず馬を射よ」とは杜甫の「前出塞」にある詩句だ。その応用編のような戦術・商法が盛んに、この劣島のいたるところから目に入ってくる、現代的「馬を射る」という風情であります。この際、「将」が誰で、「馬」が誰かは言わないことにします。「式」が華やかであり綺羅びやかであることはいいことなんでしょうが、ぼくは、そんな「式」には加わりたくないというだけで、上の写真を出した微意がおわかりいただけるでしょうか。お葬式には「黒」一色の衣装は、誰が決めたんですか。ぼくは着なかったな。

● ハレ(民俗学)はれ= 日本民俗学の基礎概念として、ケ(褻、毛、気)に対比する内容を示す語である。一般にはハレとケは民俗文化を分析する用語として使われている。ケが日常的側面を説明しているのに対して、ハレは非日常的側面を説明する。ハレは晴、公の漢語に置き替えられる例が多い。晴は天候の晴天に通じ、公は公的な儀式に表現されている。したがってハレ着という場合には、普段着ではなく公的な儀式に参加する際に着用する盛装や礼装に当てはまる。人が誕生してから死に至るまでに何度もハレの儀礼に出会う。宮参り、七五三、成年式、結婚式、年祝いなど冠婚葬祭が基本にある。また1年間の行事においても、正月、盆、神祭りなどもハレの機会である。/ ハレは衣食住に顕著に表現されており、ハレ着のほかにも、食事が普段と異なり特別の作り方をする例に示される。神祭りに使われる神撰(しんせん)や、供物を人々が食べ合う直会(なおらい)などの食事、餅(もち)や赤飯、赤い色をつけた食物をカワリモノとしてハレの食物にしている。/ ハレはケを基本にして成り立っている。ケである普段の生活、日常生活が維持できなくなると、それとは別のリズムをもった生活が必要になる。非日常的な側面が強調されるのであり、それは精神が高揚した晴れやかな気分に満ちた時間と空間をさすことになる。私的な部分よりも公的な部分が顕著なのであり、ケに対するハレが公式の儀礼に表現されてくることになる。(ニッポニカ)

● ケ(褻)【け】=冠婚葬祭など公の行事が行われる特別の改まった日をハレ(晴)と呼ぶのに対し,日常,平生もしくは私を意味する言葉。ふだん着を褻衣(けのころも),居間を褻居(けい)という。ハレとケのダイナミズムが日本の民俗文化を大きく規定している。(マイペディア)

 ハレとケというものが保っていた民俗(文化)を破壊することが文明化であり、近代化だったのは、ついこの間のこと(明治維新期)。総掛かりの「旧慣打破」が、いつしか「旧慣墨守」に入れ替わるのを見せつけられると、思い半ばにすぎるものがあります。今どきの「祭り」を見るといい。お神輿は、あろうことか担ぎ手がいないので「軽トラ」に担がせて練り歩くのではなく、練り奔る、こんなむさ苦しい風景がいたるところで見られます。中身のない「模倣」こそが生命線だという「歴史なし」「背景なし」の横行です。

 「卒業式」は、一体何を「模倣」しているのでしょうか。ぼくには恐ろしいほどの「精神の退廃・錯乱」としか見えない。「格」も「式」も「空虚」なままが、いのちなんだなあ、と嘆息する。場末ではなく、世末ですね。軽トラにお神輿なら、卒業式という「軽トラ」に乗るのは「誰」、「なに」ですか。そこには神主もいれば、お巫女さんもいるし、氏子もいれば、元氏子もいる。現下の卒業式は、ある種の神前儀式を装っているのでしょう。模倣の時代は「実体空虚」の時代でもあります。まもなく、その軽トラも自動運転となります。人みな消え、中身もなくなる、なにがありがたいのか、ぼくにはわからない。上辺さえ整っているなら、それでいい、そんな風潮が蔓延しているようですね。妖怪ならぬ、「空虚」が徘徊している時代でもあります。「カネになるなら」殺人強盗、なんでもいいという、荒(すさ)んだ時代相に見合っているのでしょうな。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)