一粒の麦死なずば、ただ一つにてあらん

 ヘッダーに掲げた写真は、アメリカ有力新聞の一つが、社のモットーを掲げた際の「一行」でした。「デモクラシーは暗闇に死す(Democracy Dies in Darkness.)」とあります。この新聞は、白昼公然と「死を迎えた」ともいわれています。先の米大統領選挙の際に、「T候補の批判はまかりならぬ、積極的に支持する意見を書くべし」と、社主は、それまでの社の主張を180度変えたのでした。詳細は省きます。当代きっての富豪社主が、権力の軍門に下り、新聞社の「精神」を大統領に売り渡したからです。この新聞には輝かしい新聞魂があったとぼくには思われもしたのですが、もはや、その「輝き」は失われたも同然でした。

◎ ワシントン・ポスト(The Washington Post)= アメリカ合衆国のワシントンD.C.で発行されている朝刊紙。『USAトゥデイ』(→ガネット),『ウォール・ストリート・ジャーナル』『ニューヨーク・タイムズ』『ロサンゼルス・タイムズ』などに次ぐ発行部数をもつ有力新聞。編集方針は国際主義的で,格調の高い論説は内外に影響力をもつ。1877年,S.ハッチンズが民主党系の新聞として創刊。第1次世界大戦後に一時経営が悪化したが,1933年ユージン・マイアーが引き取ってからは F.モーリー,H.エリストンらの名編集長を得て急速に発展。また 1963年以降,マイアーの娘キャサリン・グラハムのもとで発行部数を増やし,屈指の有力紙としての地位を確立した。(↷)

 1973年のウォーターゲート事件の報道による受賞など,60回以上ピュリッツァー賞を受賞している。1990年代にはインターネットでの事業展開を進めたが,業績の低迷により 21世紀に入ってからリストラクチャリングに着手。2013年8月,ワシントン・ポスト社の新聞事業は,アマゾン・ドット・コムの創業者で最高経営責任者 CEOのジェフリー・ベゾス個人に 2億5000万ドルで売却された。(ブリタニカ国際大百科事典 )

 時の「政治権力」への絶え間ない批判(The role of the newspaper is to continuously criticize political power.)を失えば、新聞は果たすべき役割を放棄したことになり、まさに、それは「自らの死(suicide)」を意味します。権力にとって、これほど歓迎すべきことはないでしょう。アメリカの新聞もまた、現実には、横暴な権力の幾多の攻撃や抑圧に耐えかねるような状況にあるかに思われます。しかし、そこには最後の「抵抗線(The last resistance wire)」があると見えますし、ぼくはそれを祈りつつ支持したいと、一読者として自分を鼓舞している。「知る権利を」常に追求し、それを紙上に示すべきだということ。

 本日は、旧聞に属する二つの<社説>、いずれも東京新聞のもの、それを今さらのように引用しました。この国の新聞が「雪崩(なだれ)を打って」というべきか、「踵(きびす)を接して」というべきか、どういう表現を使おうと、時の「政治権力」の「虚勢」「幻想」「抑圧」に、膝を屈してしまい、その意向に靡いてしまったと思われるからです。毎年のように各紙が交々に、桐生悠々の誕生日に「悠々を偲ぶ」「あるべき新聞人の姿」というような記事を書いていました。彼から学ぶ必要性を感じていたからでしょう。そのすべて、とは言えませんが、ぼくは、それら多くを読んできましたし、そこからいろいろな感想・感慨が浮かんできました。しかし、このところ、同じ趣旨に出る記事がほとんど見られなくなったのは、たぶん、もう新聞界隈は「桐生悠々」を持て囃す時代ではなくなった、「悠々って誰?」という自覚や見切りがあるからでしょう。一市民としては、「残念至極の現実」というほかありません。「権力に好まれなければ、書きたいこともかけない」とでも思っているのでしょうか。

 「弱気を挫き、強きを助ける」、そんな現在の新聞には、汚い言葉を使わせてもらいますが、手にするだけで「反吐が出る」と言いたいほど。新聞と並び語られるテレビからは、その「反吐さえも出ない」、末期の「おめき」「から騒ぎ」だけが伝わってくるようです。そして、多くの新聞は系列化を促して、ほとんどの民間テレビ局を、自らの下僕(傘下)にしてしまいました。マスメディアの現下の「頽廃」「堕落」は、社会衰退の一大原因(背景でもある)だとぼくは言っておきたいが、そんな「害悪」が、ものを考えようとはしなくなる有権者を大量に生み出しているのも事実ですから、もう「万事休す」というほかありません。ネット時代の情報の錯乱は、自然に発生したものではないのです。「愚民化政策」とでも称される社会現象が、着実に効果・成果を上げてきたということでしょう。、

 四年の間隔を置いて書かれた東京新聞の二編の「社説」を並べてみて、この四年間は新聞にとって、あるいは東京新聞にとっても、より厳しい時代のただなかに立ち往生しているかのような姿が浮き彫りされている、そんな思いが湧いてきます。この先にそれぞれの新聞の生き残る道は皆無だというつもりはありません。かといって、今のままでは「座して死を俟つのみ」というほかない事態に置かれています。かつての新聞記者(ジャーナリスト)は花形職業と謳われたことがありました。そう、かれこれ半世紀以上も前のこと。「社会正義」を貫こうとし、「権力の横暴を果敢に批判する」役割を自認しえる職業人として、高校生時代のぼくも、真摯に「新聞人になろう」と強く憧れたものでした。

 ひるがえって、今日の新聞・テレビをめぐる状況はどうか。今ある新聞は「背に腹は代えられぬ」「腹がへっては戦はできぬ」とばかりに、広告主に頭を下げ、広告を取り仕切る企業に首根っこを押さえられ、何から何まで、発行部数第一、視聴率至上主義に毒されてしまっています。視聴者に媚を売り、広告主に媚を売り、大手広告宣伝業に死命を制せられている。広告大企業と政治権力は、公然と「握手」をしています。つまりは、この事態にあって、メディアは堕落に堕落を重ねて、そして最後は「権力の手先」になって、命脈を保つのでしょう。あるいは社会問題には背中を向けて、それこそ、視聴者を虚仮にして生き延びようとしているのです。読者をほしいままに「誑(たぶら)かす」ような俗悪娯楽商売に身をやつして生き延びるのでしょう。

"Truly, truly, I say to you, unless a grain of wheat falls into the earth and dies, it remains alone; but if it dies, it bears much fruit."(Gospel of John 12:24)
 <社説>桐生悠々を偲んで 反戦・反軍貫いた後半生
 世界中で軍事力優先の権威主義が広がり、日本周辺の安全保障環境も緊張が高まる国際情勢と無縁ではありえません。
 戦争放棄と戦力不保持の平和憲法を有しながらも、防衛力増強や防衛費膨張が進む状況は「新しい戦前」とも指摘されています。
 かつて破滅的な戦争へと突き進む時代、反戦・反軍の立場から警鐘を鳴らし続けた記者がいます。
 <桐生悠々(きりゅうゆうゆう)>
 本紙読者にはおなじみですが、悠々の紹介を少しだけします。
 1873(明治6)年、金沢市で生まれた悠々は明治から大正、戦前期の昭和まで、藩閥政治家や官僚、軍部の横暴を痛烈に批判し続けた言論人です。本紙を発行する中日新聞社の前身の一つ「新愛知」新聞や長野県の「信濃毎日新聞」などでは、編集、論説の総責任者である主筆を務めました。
 1912(大正元)年、明治天皇死去に伴う陸軍大将、乃木希典(のぎまれすけ)の殉死では、信毎主筆として社説「陋習(ろうしゅう)打破論-乃木将軍の殉死」を書き、殉死を「封建の遺習」「野蛮の遺風」として「一刻も早く之(これ)を打破せねばならぬ」と主張しました。殉死をたたえる新聞が多い中、異例の内容です。
 新愛知時代の1918(同7)年に起きた米騒動では、米価暴騰という政府の無策を新聞に責任転嫁し、騒動の報道を禁じた寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣を厳しく批判。社説「新聞紙の食糧攻め 起(た)てよ全国の新聞紙!」の筆を執り、内閣打倒、言論擁護運動の先頭に立って寺内内閣を総辞職に追い込みました。
 すでに著名な言論人だった悠々がより注目されるようになったのは、2度目の信毎主筆時代に筆を執った33(昭和8)年の評論「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」でしょう。
 敵機を東京上空で迎え撃つ想定の無意味さを指摘した内容は日本全国が焦土と化した歴史を振り返れば正鵠(せいこく)を射たものでしたが、在郷軍人会の抵抗に新聞社が抗しきれず、信州を離れます。(以下略)(東京新聞・2025/09/10)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/434752?rct=editorial)

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 しかし、豈に図らんや。「社会の木鐸」と自認し、広く深く社会に正義を生み出すための「人権の砦」ともなりえた新聞や新聞人は、あるいはテレビ界の猛者たちは、もはや潰えてしまったかの感があるのはなぜでしょうか。八十年余の人生の、およそ半分近くをぼくは新聞愛読者として、主としてA 新聞と東京新聞を交互に購読してきました。A 新聞は今では昔日の面影もあるものか、実に惨憺たる無様(ぶざま)な姿態を晒しています。まるでどこかの「総理大臣」のように、醜悪な「ちょうちん記事」を書き続けている新聞社である、とぼくには写ります。もう一方の東京新聞もまた。日一日と、自らの使命を放棄しつつあるかに、ぼくには思われます。そんな東京新聞が、時には今日の新聞にあっては、まだしも「良質」の記事を掲載していると思わせていた、その最後の「頼みの綱」も切れてしまったように見えてきます。「まず読まれなければ」、「売れれば何でも」という、なりふり構わぬメディアの自滅の日は遠くない。

 その東京新聞<社説>(2021/09/09 付け)が、悠々の最後の「新聞断罪」(遺言)と思われる文章を掲載していました。

《この頃の新聞に至っては、…全然社会を無視して、時の政府の反射鏡たらんとしている。輿論(よろん)を代表せずして、政府の提灯(ちょうちん)を持っているだけである。そして彼等(かれら)は矛盾極まる統制の名の下に、これを彼等の職域奉公と心得ている》
 《今日の新聞は全然その存在理由を失いつつある。従って人はこれを無くもがなのものとしているけれども、他に代(かわ)ってその機能を果たすものなきが故に、彼等は已(や)むを得ずなおこれを購読しつつある。…今日のだらしない状態である》
 《将来の新聞は科学的でなくてはならない。現在に於(おい)て、全くその態度を一変しても、決して早くはあるまい》                                                                                   《神秘主義を尊奉するに至っては、その存在理由を失うのは明である。見よ、彼等は既にその存在理由を失わんとしつつある。試みに街頭に出て、民衆の言うところを聞け、彼等は殆(ほと)んど挙げて今日の新聞紙を無用視しつつあるではないか

<社説>新聞の存在理由を問う 桐生悠々を偲んで 
 気骨のジャーナリスト、桐生悠々=写真=は八十年前のあす十日に亡くなりました。破滅的な戦争へと向かう時代、古巣の新聞界にも批判の矛先を向け、奮起を促し続けた悠々を偲(しの)び、今の時代にも通じる教訓を読み取ります。
 悠々は、本紙を発行する中日新聞社の前身の一つ「新愛知新聞」や、長野県の「信濃毎日新聞」などで編集、論説の総責任者である主筆を務めた言論人です。
 明治から大正、戦前期の昭和まで、藩閥政治家や官僚、軍部の横暴を筆鋒(ひっぽう)鋭く批判し続けました。その報道姿勢は、今も私たち新聞記者のお手本であり続けます。
 悠々は信毎時代の一九三三(昭和八)年八月十一日付の評論「関東防空大演習を嗤(わら)う」が、軍部の怒りや在郷軍人会の不買運動を招いて、信毎を追われます。
◆政府の提灯持ちと批判
 新愛知時代に住んでいた守山町(現名古屋市守山区)に戻った悠々は個人誌「他山の石」の発行で糊口(ここう)をしのぎます。軍部や権力への旺盛な批判がやむことはなく、同誌の発行は、悠々が喉頭がんで亡くなる直前の四一(同十六)年九月五日号まで続きました。
 ただ、この号は発行に至りませんでした。原稿を活字に組み込んだものの、病状が悪化して、校正作業をするための「校正刷り」段階にとどまったためです。悠々は八日、友人や読者に「他山の石」廃刊の辞を発送し、十日に息を引き取ります。六十八歳でした。
 悠々の「遺言」とも言える最後の九月五日号に掲載されているのが「科学的新聞記者」という記事です。抜粋して紹介します。
 《この頃の新聞に至っては、…全然社会を無視して、時の政府の反射鏡たらんとしている。輿論(よろん)を代表せずして、政府の提灯(ちょうちん)を持っているだけである。そして彼等(かれら)は矛盾極まる統制の名の下に、これを彼等の職域奉公と心得ている》
 《今日の新聞は全然その存在理由を失いつつある。従って人はこれを無くもがなのものとしているけれども、他に代(かわ)ってその機能を果たすものなきが故に、彼等は已(や)むを得ずなおこれを購読しつつある。…今日のだらしない状態である》
 《将来の新聞は科学的でなくてはならない。現在に於(おい)て、全くその態度を一変しても、決して早くはあるまい》《神秘主義を尊奉するに至っては、その存在理由を失うのは明である。見よ、彼等は既にその存在理由を失わんとしつつある。試みに街頭に出て、民衆の言うところを聞け、彼等は殆(ほと)んど挙げて今日の新聞紙を無用視しつつあるではないか》(以下略)(東京新聞・2021/09/09)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/129825)

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 敗戦前の41年9月10日、悠々は68歳の一期を終えました。

 「やがて死ぬ景色も見えず蝉の声」(元禄三年夏) 芭蕉は四十五歳ごろ、琵琶湖南岸の近津尾(ちかつお)神社の境内に建つ「幻住庵」に四ヶ月ほど滞在したされます。その際に、加賀藩士だった秋之坊に示した句で、「無常迅速」と記されていた。芭蕉自身は「無常迅速」を銘記していたでしょうが、それ以上に、「蝉の声」にはいささかの逡巡も躊躇もなく、鳴くために鳴く、それが生きることという揺るぎない生命感が宿っていたと、芭蕉は直感したのだとぼくは見ています。蝉という、生き急ぎも死に急ぎもしない存在を前にして、芭蕉は「無常」に満たされていたと言えそうですが、それでも、彼もまた「やがて死ぬ景色も見えず」だったと思われるのです。

 こ芭蕉句と並べるのは、あるいは憚られるかもわかりませんが、ぼくは桐生悠々の「蟋蟀は鳴き続けたり嵐の夜」を出して置きたい。あえて言うなら、今こそが「嵐の夜」です。その「嵐」を実感できない新聞は「百害あって一利なし」といってしまいたいほどです。新聞もテレビも「雁首」を揃えて、自らの使命を裏切っているのはなぜか。報道とは「大本営発表」を垂れ流すことではないし、取材とはネクタイ背広で快適な部屋にとどまっていることでもないでしょう。

 本日(5月14日)、中国北京では「米中(中米)首脳会談」が開かれようとしています。内外無数の記者・メディア人たちが「取材」「報道」活動に当たっている。その中に、一人の無所属(independence)ジャーナリストがいます。直接の面識はありませんが、もう二十年近く以前から彼のことは知っていました。A 新聞記者として、あるいは同社海外特派員として活発な取材活動にぼくは、紙面やネットを通じて接していたからです。その O さんは、数年前に所属新聞社を退社し、自らのメディア媒体を立ち上げました。今回の訪中も、その取材活動の一環でした。昨晩も、北京からの彼の発信する「ライブ」報道を見ていたところです。

 彼は、文字通りに孤軍奮闘されている。少なくとも企業内にあって、書くことも話すことも不自由である、現状の窮屈な立場を離れ、自らの「判断」で「書かねばならぬこと」「話すべき必要のあるニュース」の取材・報道に挑戦しているのです。もちろん、このような独立した精神を持たれている人士は彼だけではありません。ぼくの担当したゼミの卒業生を含めた幾多の人たちを、ぼくは知っている。若い人たちの活動が想像を絶する困難(制約・抑圧)(多勢に無勢状況)を前にしてなお前進しようとする、そんな姿勢を見るにつけ、ぼくは、彼ら彼女らにはぜひとも悠々の「遺志」を受けついてほしいと、心底念じています。「試みに街頭に出て、民衆の言うところを聞け、彼等は殆(ほと)んど挙げて今日の新聞紙を無用視しつつあるではないか」(悠々)という、絶望的な状況の真っただ中で、新たな報道の地平を開かれんとしているのです。少なくとも、その後衛たらんとして、ぼくは老骨に鞭を打ち続ける。

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● 桐生悠々(きりゅうゆうゆう)[生]1873.5.20. 金沢 [没]1941.9.10. 名古屋 = ジャーナリスト。本名は政次。 1899年東京大学法学部卒業後,『下野新聞』『大阪毎日新聞』『大阪朝日新聞』などの記者生活を経て,1910年『信濃毎日新聞』の主筆に招かれ,憲政擁護運動のなかで堂々の論陣を張ったが,社の経営方針と対立して 1914年に辞職。まもなく『新愛知』 (現在の『中日新聞』) の主筆に招かれたが,第2次憲政擁護運動のなかで 1924年に退社。日刊新聞の創刊などに失敗したのち,1928年再び『信濃毎日新聞』の主筆に返り咲き,治安維持法や軍備増強,五・一五事件などを激しく批判した。このため軍部は不買運動など,あらゆる圧力をかけ,ついに悠々は 1933年 12月辞職。その後名古屋に移住し,個人誌『他山の石』を創刊して,反軍,反ファシズムの言論活動を展開,1941年の廃刊に追い込まれるまで,30回近い発禁や削除の弾圧を受け,経済的にも窮迫しながら,自分の立場を守り続けた。(ブリタニカ国際大百科事典)

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首相が大統領に抱きつく、カルビー…

 2月28日にアメリカとイスラエルがイランの指導者団を空爆で殺害して「イラン戦争」が始まり、ホルムズ海峡問題が世界経済に打撃を与えるという危機感が世界に拡散しました。世界の石油消費量の2割がホルムズ海峡を通過している現状を見るなら、海峡が封鎖されればどういう顛末になるか、誰にも明らかだったと思われます。それを意に介さなかったのは、日米両国の指導者ばかりだったのではなかったか、と今にして思われる。他国を空爆し、無辜の民、数万を殺害して、後は強者の言いなりになるとでも考えていたと思しき無能者が、この時期に国家権力を掌握している、その不幸な巡り合わせを今になって、しみじみと感じさせられています。Incredibly dangerous .

(ヘッダー写真は「葛飾北斎作の富岳三十六景・尾州不二見原」の内、「桶を製作する江戸時代の職人」

 「風が吹けば桶屋が儲かる(When the wind blows, the barrel maker profits.)」というのは滑稽譚にすぎない、そんなバカ話で通っていましたが、今になって、それは実は世界を経済恐慌に陥れる端緒だったと、多くの人が知ることになるのです。始まりは一陣の風・一弾のミサイル、最後は世界経のが崩壊、一大カタストロフィー。人間の愚かさは、何時になっても変わらない「真理」というほかない事態に、世界中が唖然・茫然とする羽目になろうとしてます。

 この俗諺を今風に言い換えればどうなるか。「日本の首相が米国大統領に抱き着くと、ポテチ会社の売り上げが減る(あるいは、倒産するかも)。(When the Japanese Prime Minister hugs the US President, potato chip companies see a drop in sales (or may even go bankrupt).)」縁起でもないことを言うようですが、懼れていたことが現実に起こりつつあるのではないでしょうか。ここまでくると、後年になって「カルビーは炭鉱のカナリアだった」という経過が手に取るように明らかになるかもしれません。政治家いわく、「十分にナフサは足りています」「いまのところ大丈夫であります」「来年の今頃までの目途はたっています」と。やがては「不測(不足)の事態が起こったに違いありません」と泣き言をいうはず。

【筆洗】一説によると食欲をそそる色というものがあるそうだ。赤、オレンジ色、黄色などの暖色系がそれで、反対に青、緑、紫などの色は食欲をあまり刺激しないという▼赤を見ると心拍数、血圧が上がる傾向があり、結果、新陳代謝が刺激され、食欲が増進するという。黄色やオレンジ色には気分を高揚させる効果があり、これも食欲につながるとか。この話に「マクドナルド」の赤と黄色のロゴマークや「吉野家」のオレンジ色の看板を思い出す方もいるだろう▼カルビーが主力14商品の包装を白と黒の2色にすると発表した。黄色やオレンジ色が鮮やかな「ポテトチップス」、真っ赤な「かっぱえびせん」のパッケージも白黒に。食欲を刺激する赤や黄色が使えなくなるとはメーカーにはつらい判断だろう▼中東情勢の緊迫化で石油から精製するナフサの供給不安で印刷インキの調達が難しくなっていることを受けての変更という。高市政権はナフサ由来の化学製品の供給について「年を越えて継続できる見込み」と強調しているが、どうもうまく流通していない▼カルビーに続いて、包装を見直す動きも出てくるだろう。十分な量があるなら、それを確実に行き渡らせたい。プラスチック製品や合成繊維など幅広く使われる大切なナフサである▼それに、お菓子コーナーが白黒だらけでは子どものみならず、大人だって気が重くなる。(東京新聞・2026/05/13)

◎「風が吹けば桶屋が儲かる」とは、「ある事によって、まったく無関係と思われるところに影響が出る、また、とてもあてにできそうもないことに期待をかけるたとえ。強い風によって砂ぼこりがたつと、砂ぼこりが目に入ったために盲人がふえ、その人たちが三味線で生計を立てようとするため、三味線が多く必要になり、三味線の胴に張る猫の皮の需要も増え、そのために猫がへり、その結果、増えた鼠が桶をかじるので桶屋がもうかって喜ぶというもの」(↷に続く)

[使用例] 「たとえばうちの坊主は今五つです。十五年たてば二十歳になる。もしそのときうちの坊主が兵隊にとられて戦場へ狩り出されるとしたら、その大もとは、奥野川ダムの三十万キロワットの最大発電力が、軍需産業の発展を促したためということになる。そのダムの建設に、おやじが片棒をかついでいたら、つまりおやじがわが手で可愛い我が子を殺すために働いてやるようなものじゃないか」「風が吹けば桶屋がもうかるというあの論理だな」と一人が言った[三島由紀夫*沈める滝|1955]                                         [解説] 現代では、このことわざは、確率の非常に低い因果関係を無理やりつなぎ合わせ、こじつけつけるような理屈や言いぐさを皮肉に表現する場合もあります。(ことわざを知る辞典)

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◎ ナフサ(なふさ)naphtha = 原油の常圧蒸留で得られるガソリンの沸点範囲約25~200℃にあたる留分で、粗製ガソリンに該当する。第二次世界大戦前はこれを化学的に精製した直留ガソリンが、航空ガソリンの基材や自動車ガソリンとして使用されたが、戦後ガソリンエンジンの高性能化により、オクタン価の低い直留ガソリンはそのままでは使用できなくなり、ナフサの名称が使われるようになった。通常ナフサ留分はさらに軽質ナフサ(沸点約25~100℃)と重質ナフサ(沸点約80~200℃)に分けられ、これと区別するためナフサ全留分をフルレンジ‐ナフサとよぶことがある。日本では軽質ナフサの大部分は石油化学工業原料としてナフサ分解用に用いられ、一部は精製して軽質直留ガソリンとし、高オクタン価ガソリンへの配合材となる。重質ナフサの大部分は接触改質法の原料となり、高オクタン価改質ガソリンが製造され、またBTX(ベンゼン・トルエン・キシレン)原料のリホーメート(芳香族成分のとくに多い改質ガソリン)が製造される。このほかナフサは水蒸気変成法の原料として、水素、一酸化炭素の製造にも用いられる。日本では原油の蒸留だけではナフサが不足し、一部石油化学原料用ナフサが輸入されている。(日本大百科全書ニッポニカ)

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「紫陽花」は「アジサイ」にあらず

【金口木舌】始まりは2株のアジサイから 平年より6日早く梅雨入りした沖縄地方。恵みの雨を喜ぶ一方、大型連休中の傘マークを恨めしく思った人も多いだろう。梅雨時の花といえばアジサイ。雨露をまとい輝く花は、沈みがちな心に彩りを与えてくれる▼本部町伊豆味のよへなあじさい園の始まりは、故・饒平名ウトさんがミカン畑に植えた2株のアジサイから。約50年がたつ今では約40種1万株が咲き、見頃を迎えると青色のじゅうたんが広がる▼アジサイの花は土壌が酸性ならブルー、アルカリ性ならピンクになる。剪定(せんてい)や草取り、水やり、施肥。作業は1年を通して続く。こつこつと愛情深く花々を育ててきたウトさんが8年前、100歳で亡くなった後は子どもたちが受け継ぐ▼人も植物と似ている。適した環境や栄養、日々の手入れ。時間をかけ多くの人の愛情や関わりの中で育つ。新生活の緊張や生活リズムの変化を経て、心身のバランスを崩しやすい季節。無理しないことも大切▼連休の寒さの影響か、今年はアジサイの開花が予想より遅れ気味という。見頃は5月中旬から下旬。美しい花を咲かせる日を楽しみにゆったりと見守りたい。(琉球新報・2026/05/12)

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 拙宅の近くにも「アジサイ農園」(茂原市)とでも称すべき「アジサイ花ざかり山」があります。何度か足を運んだものです。そうではありますが、何に限らず、盛沢山とか、てんこ盛り、何とか放題などというのはあまり好まないし、時には辟易すること請け合いですから、「何千本の花木」の苑は、初めから敬遠してきました。この、「アジサイ」もそうですね。見渡す限り、野山も里も「花ざかり 見にゆかん」というのは「ご免蒙りたい」と思う人間です。拙宅にも、粗末な、あるいは貧相な「アジサイ」が、たぶん20株ほど、まさに「自生」しています。ほとんど手入れをしません。肥料もやりません。「剪定や草取り、水やり、施肥。作業は1年を通して続く」(コラム)のとは真逆です。まったくの「野放し」「放置」ともいうべき状態で、かれこれ十数年経過しました。

 おそらくは小生流の「教育実践」みたいなもので、こうすれば、ああすればと飼育(矯正)したり調教(強制)したりすることはとてもではありませんけれど、ぼくの好みに合わないんですね。伸び放題、咲き放題というと大げさになりますけれど、基本形はそうです。余計な世話を掛けなければ、「素質」は伸びます。伸び放題は少し止めますが、まあ、それも程度問題。人間に対しても変わらないと、ぼくは思ってきました。こうせよ、ああせよと、誰彼に対してぼく命令をしなかったのは、ぼく自身が命令されたくなかったから、それだけでしたよ。命令されて動くようになると、命令されなければ動かない、そんな人間はたくさんいるのではないですか。

 (ヘッダー写真:「よへなあじさい園 紫陽花 見どころ 2026」最終更新日:2026.05.09)(https://traveljapan47.net/archives/10384/

 この「紫陽花アジサイ」に関してはすでに触れていることですが、もう一度、指摘しておきたいと思います。今でも当然のように「アジサイ」は「紫陽花」であるという定見・誤解が世に通用していますね、これに対して早くから「異論」「異説」「異議」を出していたのが牧野富太郎さんでした。「私はこれまで数度にわたって、アジサイは紫陽花でないこと、また燕子花がカキツバタでないことについて世人に教えてきた。けれども膏肓(こうこう)に入った病はなかなか癒(なお)らなく、世の中の十中ほとんど十の人々はみな痼疾で倒れてゆくのである。哀れむできではないか。そして俳人、歌人、生花の人などは真っ先に猛省せねばならぬはずだ」(「植物一日一題」ちくま学芸文庫)(牧野さんがこの「文」を書き始めたのは敗戦後の昭和二十一年八月からだったという。時に博士は84歳でした)

 「全体紫陽花という名の出典は如何。それは中国の白楽天の詩が元である」と指摘して、その詩を引用します。「何(いずれ)の年か植えて向ふ仙檀の上(ほと)り。早晩移して梵家(ぼんか)に至る。人間(じんかん)に在りと雖も人識らず、君が与(た)めに名づけて紫陽花と作(な)す」と、白楽天は「紫陽花」の歌を詠む。あるお寺に一樹があった。人はその名を知らず、「色は紫で気は香ばしく、芳麗にして愛すべく、頗(すこぶ)る仙物に類す。因(より)て紫陽花を以て之に名づく」と、白楽天の詩は続きます。この花がどうして「紫陽花」なのであろうかというのが牧野さんの説です。「とにかくアジサイを中国の花木あるいは中国から来た花木だとするのは誤認のはなはだしいものである。そしてこのアジサイを日本の花であると初めて公々然と世に発表したのが私であった。すなわちそれは植物学上から考察して帰納した結果である」と断定するのです。得意なり、牧野節ですね。日本産「ガクアジサイ」が母種であることは、今では確定しているでしょう。

◎ まきの‐とみたろう【牧野富太郎】= 植物学者。高知県出身。小学校を中退し独学で植物学を学び、主に日本の高等植物の分類学的研究を行ない、日本の植物相の解明に貢献した。また、植物知識の啓蒙活動を行ない、アマチュア植物研究家の育成に尽力した。文化勲章受章。著書「日本植物志図篇」「日本植物図鑑」「植物記」など。文久二~昭和三二年(一八六二‐一九五七)(精選版日本国語大百科事典)

◎あじさいあぢさゐ【紫陽花】= ① ユキノシタ科の落葉低木。ガクアジサイを母種とする園芸品種。茎は高さ一・五メートルほどで根元から束生する。葉は対生し大形の卵形か広楕円形で先がとがり、縁に鋸歯(きょし)をもつ。夏、球状の花序をつけ、ここに花弁状のがく片を四または五枚もつ小さな花が集まり咲く。がく片は淡青紫色だが、土質や開花後の日数等により青が濃くなったり、赤が強くなったりする。茎は材が堅く、木釘、楊子をつくり、花は解熱剤、葉は瘧(おこり)に特効があるという。あずさい。しちだんか。てまりばな。ハイドランジア。《 季語・夏 》② ユキノシタ科アジサイ属の総称。ガクアジサイ、ヤマアジサイ、ハマアジサイ、タマアジサイ、コアジサイ、ツルアジサイなどを含む。③ 紺屋で、藍建ての際、藍びんに赤銅色となって浮く藍の泡を①に見立てていう語。                                    紫陽花の補助注記 「あじ(あぢ)」は「あつ」で集まること、「さい」は真藍(さあい)の約で、青い花がかたまって咲く様子から名付けられたと思われる。(精選版日本国語大辞典)

◎ あじさい〔あぢさゐ〕【紫花】= ガクアジサイから日本で改良された園芸品種。高さ1~1.5メートルの落葉低木。葉は大きな楕円形。初夏、淡青色から淡紫紅色に変わる萼がくのある小花が、球状に集まって咲く。庭木にする。八仙花はっせんか。しちへんげ。しようか。《季 夏》「―や藪を小庭の別座敷/芭蕉」(デジタル大辞泉)

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 白楽天が詠んだ花がどんな花だったかはわかりません。色が紫で、山に咲く花樹だとするなら、そんなものはいくつもあるでしょう。これが「アジサイ」というのは、履歴がはっきりしているものに限るというのが植物学者の言説でした。ぼくたちは「紫の色の花」がどのようなものだったかは知らない。幸運なことに、あくまでも「アジサイ」を「紫陽花」と認識して育ってきました。だから、それで何の不思議もなかったんですね。「紫陽花」と聞けば「乳母車」、乳母車とくれば「測量船」ですね。

 「春の岬旅のをはりの鴎どり / 浮きつつ遠くなりにけるかも」(「春の岬」)と始まるこの詩集を、ぼくは、いつからどれくらい読んできたことか。三好達治さんがどんな人かも知らないで、この一冊に計り知れない「詩情」「詩心」があると、露とも疑わないで読んできたのはぼくばかりではなかったでしょう。

 ここでも余計なことは言いません。繰り返し、読み返すばかりです。三好さんはいくつになっても乳母車に乗って、「母よー」と呼びかけていました。誰だって、このように「母よー」と、声を限りにか、ひそかな声でか、呼びかけているのではないでしょうか。それが生きている、そのことです。

 「淡くかなしきもののふる / 紫陽花いろのもののふる道 / 母よ 私は知ってゐる / この道は遠く遠くはてしない道」 母子の離れがたい紐帯(ちゅうたい)に、ぼくは救われもし、励まされもし。人間は誰でも「母の押す乳母車に乗って、生きている」のですね。いや、もっと言うなら、「母(未知の存在であったとしても)という乳母車」から降りられないままで生きているのかもしれないと、ぼくは思うことがあります。

◎ 三好達治 (みよしたつじ) 生没年:1900-64(明治33-昭和39)= 詩人。大阪市生れ。はじめ軍人を志し陸軍士官学校に進むが中退,三高を経て東大仏文科卒。中学時代《ホトトギス》を購読,句作にふけったというが,三高で同級丸山薫の刺激により詩作を始める。桑原武夫,梶井基次郎,河盛好蔵,吉川幸次郎らを三高時代に知り,東大では小林秀雄,中島健蔵,今日出海(ひでみ),淀野隆三,堀辰雄らと交友。梶井らの《青空》,安西冬衛,北川冬彦らの《亜》,百田宗治の《椎の木》などに参加した後,1928年には《詩と詩論》創刊同人となったがやがて離脱,北川らの《詩・現実》に参加した。33年堀辰雄,丸山薫と共同編集で《四季》を創刊,同誌が昭和10年代抒情詩の主流をなす上で中心的な存在となる。詩人として出発した当時,室生犀星,萩原朔太郎の強い影響を受け,また堀口大学の訳詩集《月下の一群》から多くの方法的示唆を受けた。特に萩原からは深い影響を受け,生涯師として尊敬し,すぐれた萩原論をも書いた。第一詩集《測量船》(1930)で確固たる地位を築き,続く《南窗(なんそう)集》(1932),《間花集》(1934),《山果集》(1935)ではフランシス・ジャムにならった四行詩を俳句的手法を加味して作る。《艸(くさ)千里》(1939),《一点鐘》(1941)などで詠嘆的文語調が強まる。第2次大戦中《捷報(しようほう)いたる》(1942),《寒柝(かんたく)》(1943)などの激越悲愴な戦争詩を書く一方,哀切な恋愛を背景にした《花筐(はながたみ)》(1944)をも書いた。戦後《駱駝の瘤にまたがって》(1952)を経て《百たびののち》(1962)など晩年の古典的風格と完成度を示す詩境に達した。/日本の詩的伝統と現代詩の統合という課題を,伝統の重みに堪えつつ意欲的に背負って歩んだ昭和期の代表的詩人である。(改定新版世界大百科事典)

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どんみりと 樗や雨の 花曇り

【小社会】意見の相違 古くから人々が引かれてきたのも分かる気がする。樹上いっぱいに広がる爽やかな薄紫の花。いかにも初夏らしい。かつて清少納言も随筆「枕草子」に記した。「楝(あふち)の花いとをかし」(センダンの花はとても趣がある)。◆通勤路のセンダンが満開になり、見ほれている。下から見上げるのもいいが、少し離れて眺めるのも風情がある。花がかすみのように映る。一昨日の本紙には高知市内にある「桜センダン」が載っていた。こちらは記事の通り、まるで雲のようだ。◆センダンは街路や公園の樹木として知られるが、建築や家具の材としても使われる。薬にもなる。それほど身近なのに花言葉はなぜか「意見の相違」という(田中潔著「知っておきたい100の木」)。◆もっとも、ことしは花の時季に合わせるかのように、大きな意見の相違が話題になっている。確定した刑事裁判をやり直す再審制度の見直し論議。裁判所の再審開始決定に対し検察が行使する「抗告」を巡って、与党・自民党と法務省が衝突する。◆抗告を繰り返すと再審は一向に始まらず、冤罪(えんざい)被害者は救われない。抗告を維持したい法務省側と禁止を明確にしたい自民党の勢力。数多くの冤罪事件を省みれば、選択すべき道は明らかなのだが。◆「楝の花いとをかし」は秋冬にもいえる。落葉した枝に鈴なりの実。やがて鳥がついばみ、種を運ぶ。意見の相違も克服して実を結べば、未来につながるだろう。(高知新聞・2026/05/10)

 表題句は芭蕉作。「元禄7年5月13日、51歳。江戸を発って最後の上方への旅の途次、箱根あたりでの作か。梅雨空の蒸し暑い中、体力の無い芭蕉にとって決して楽な旅ではなかった。栴檀の花曇りは身に堪えるものであったろう」(「芭蕉翁行状記」・https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/donmiri.htm

 静岡三嶋大社に、この句碑があります。なかなかの大物石碑で、横の案内板には、この句作の動機が語られています。「樗(オウチ)」とは栴檀(せんだん)とのこと。1694年(元禄7年)、松尾芭蕉は三嶋大社に参拝に訪れ、神池の近くで栴檀を見て、「江戸に残してきた病床の妻『すて』の身を案じて詠んだ」と言われています。それぞれがご当地贔屓(ひいき)として、俳聖を持ち出すのは、一種の「故郷自慢」でもあるのでしょうか。ぼくには真偽のほどはわかりませんが、最晩年の芭蕉にはいくつかの「きふさぎ(気塞ぎ)」があったことが知られています。そんな煩いを抱えていた芭蕉が、箱根越えの途次に「どんみりと」曇った空のもと、樗や雨を思えば、こんな句ができると、差しさわりのない愚論を述べておきます。俳聖はこの句作の二か月ほど後の10月8日、大坂の門弟宅で生涯を終えています。病中吟として「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が残されました。重苦しい雰囲気がその句から感じられるといえば、それは下手な勘繰りと批判されるでしょうか。

 この「栴檀(せんだん)」、別名「楝」「樗」、いずれも「おうち」「あふち」と読みます。どういう次第なのか、拙宅にも「おうち」の幼木が数本あります。放置しておくと、とても庭木としては面倒みられないほどの高木・大木になるといわれ、毎年のように根元近くで切り落としていますので、花の盛りを見たことがありません。切り取るのも惜しい気がして、一本だけは残してあります。さて、どうなりますか。他所で見たのですが、柑橘類の花に似た、小さな白と紫の花をたくさんつけ、その眺めは見事という気もします。

 この「樗」という字を持った作家に「高山樗牛」がいました。山形出身の早逝した作家。彼には出世作として「滝口入道」があります。ぼくは小学生のころ、四六時中、この小説の舞台になった「滝口寺(↖)」に遊んだことがありました。嵐山小倉山(小倉百人一首の、その地)にあり、とても朽ち果てた寺という印象でした。当時は、このお寺の由来も「滝口入道」も知らないままで、遊び惚けていたことを、ぼくは後年、とても嘆くことになります。その「樗牛」の筆名(号)は、どこから来たかを調べてみようとしたことがありました。

 それはともかく、若くして「肺結核」を患った樗牛は療養のために静岡県清水に赴きます。とってつけたような気もしますが、静岡にも名の知れた「栴檀」が方々にあったことはよく知られているし、芭蕉の「三嶋大社」に関しては上で触れた通りです。樗牛は当地で亡くなります。享年31。「楝」という字を使った唱歌に関しては「夏は来ぬ」の「4番」中に出てきます。「楝散る 川辺の宿の 門遠く 水鶏(クイナ)声して 夕月すずしき 夏は来ぬ」と。この「楝(おうち)」は万葉以来の漢字ですね。どうでもいいことばかりが脳裏をかけ巡ります。おそらく、学校では、まず教えない、扱わない「余計なもの」にこそ、ぼくは興味を持ってきたといえばどうでしょうか。小倉山(亀山・嵐山)は、ぼくの遊び場でした。いろいろな歴史が埋(うず)もれている、たくさんの墓や石碑が林立していた気もします。それこそ、時代・歴史の地層で成り立っている「丘」のようなところでした。足下には「天龍寺」があり、そこから嵐山・渡月橋は歩一歩の近間でありました。

◎ 高山樗牛 (たかやまちょぎゅう) 生没年:1871-1902(明治4-35)= 明治期の美学者,倫理学者,文芸評論家。山形県鶴岡生れ。本名林次郎。旧姓斎藤,幼いとき高山家へ入籍。第二高等中学(後の第二高等学校)を経て1896年東京帝大文科大学哲学科を卒業。94年在学中《読売新聞》の懸賞小説に《平家物語》に材を取った悲恋物語《滝口入道》が入選し注目されたが,樗牛自身は学問の活性化をめざしてエッセイストの道を選んだ。96年第二高等学校教授となったが,翌年辞任して博文館に入社,雑誌《太陽》の主筆として,鋭い批評文を精力的に書いた。日本主義から,ニーチェ賛美,〈美的生活〉の提唱,日蓮研究へとめまぐるしく主張は変化したが,本能に基づくロマン的な意志の確立という姿勢は一貫している。〈吾人(ごじん)は須(すべか)らく現代を超越せざるべからず〉(《無題録》)の名文句で知られるが,留学直前に病で倒れ,美学・美術史の研究を緒に就かせたままで永眠,墓所は遺言どおり静岡県清水区日蓮宗竜華寺にある。(改定新版世界大百科事典)

◎ せん‐だん【×栴×檀/×楝】読み方:せんだん=1 センダン科の落葉高木。暖地に自生する。樹皮は松に似て暗褐色。葉は羽状複葉で縁にぎざぎざがあり、互生する。初夏に淡紫色の5弁花を多数つけ、秋に黄色の丸い実を結ぶ。漢方で樹皮を苦楝皮(くれんぴ)といい駆虫薬にする。おうち。あみのき。《季 花=夏 実=秋》「―の花散る那覇(なは)に入学す/久女」2 ビャクダンの別名。

おうち〔あふち〕【×楝/×樗】読み方:おうち1 センダンの古名。《季 花=夏 実=秋》「大仏の下に―の花の数/虚子」2 襲(かさね)の色目の名。表は薄紫、裏は青。一説に、表は紫、裏は薄紫。夏に用いた。(デジタル大辞泉)

◎どんみり=[副]色合いなどが濁っているさま。また、空の曇っているさま。どんより。(同上)

◎ おぐら‐やまをぐら‥【小倉山】( 「おぐらのやま」とも ) = [ 一 ] 京都市右京区、保津川渓谷の出口付近の東岸にある山。嵐山と対する。紅葉の名所。標高二八四メートル。天龍寺・二尊院がある。小椋山。雄蔵山。亀山。歌枕。[初出の実例]「夕月夜をぐらの山に鳴く鹿の声のうちにや秋はくるらん〈紀貫之〉」(出典:古今和歌集(905‐914)秋・三一二)[ 二 ] 嵐山のこと。(精選版日本国語大辞典)

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「徒然に日乗」(1088~1094)

◎2026年05月10日(日)快晴の一日だった。▼昼前に買い物で茂原まで。▼帰宅後、自宅内に。イラン戦争の行方が皆目わからなくなっている。ただ今停戦中だといい、13日から「米中首脳会談」が開かれるので、そのためには「戦争継続中」はまずいので、形式だけは「停戦」としているのだろう。いずれにしても、戦争は永続するし、ホルムズ海峡封鎖は続行したままだから、日本への石油タンカーは入ってこない期間が長引くだけ。いよいよ「経済危機」が現実味を帯びて来ている。(1094)

◎2026年05月09日(土)終日自宅に。▼使用中の印刷機を削除(アンインストール)した。何年使っただろうか。自動更新もうまくいかない状態で、もう補償期限も過ぎたので、新しいものにと考えていたところ。簡単にアンインストールができなかったのはどうしてだったか。このところ、すっかり猫の寝床になっていた。二月初めまでは何とか機能していたのだが。とにかく、新規に同じ機種の新しいモデルを購入することにするかどうか、いま思案中。。最近は、ハガキ印刷だけでしか使用していない。他の資料等の印刷に使うことがなくなったので、最も軽便な機種があれば好都合なのだが。▼イラン戦争の終点が見えない。開戦からもう70日が経過して、さらに泥沼が深まりつつある。日本の「輸入原油」は色々な面で問題を生み出している。差し当たっては「ナフサ不足」だという。すでに息切れした中小業者も出てきているし、今後はさらにその影響は拡大するだろう。仮に「停戦」か「戦争中止」になったとして、ただちに石油タンカー航行が可能になるものではない。半年も一年もかかるといわれている。現在の「政治不在」をどうするのか。(1093)

◎2026年05月08日(金)久しぶりに外作業。裏庭の斜面部分に伸びている孟宗竹を伐採。足場が悪く、草ぼうぼうの中、なかなかに苦労しながら、一本は切り倒したが、残りはまだ数本。明日以降に終わらせたい。しばらく庭掃除をしていなかったので、竹の落ち葉や杉や檜の落ち葉も方々に散乱。その半分程度の掃除をした。また、段ボール類が相当数溜まっていたので、その償却も同時に。気が付けば、2時間以上は作業を続けていただろうか。なかなか無理がきかず、疲れ切って作業を中止した。(1092)(右は「滝口寺」)

◎2026年05月07日(木)まずますの好天だった。昼過ぎに買い物で茂原まで。相変わらずの値上がりが続いている。ホルムズ海峡封鎖が長引くことが決定的になり、投棄された機雷除去に半年ほどの時間を要するという。加えて、数度の為替介入にもかかわらず、まったくの効果なしで、円高は一瞬で元の木阿弥(160円前後)。長期金利は2.5%と危険水域に張り付いたまま。金融財政無策を税金投入で糊塗としているうちに、新年度の補正予算は不可避となり、その大部分は赤字国債となれば、「日本の投げ売り」が必至となる状況。半端ならざる経済破綻が起こりつつあると思う。(1091)

◎2026年05月06日(水)連休最後の日らしい。終日曇りがちで、時には雨滴がぱらついたりした。▼昼前には少し近所をドライブ。普段と変わらない交通量で、五月の風に吹かれて房総中心部を走る。帰路には、いつも通りに茂原のスーパーで買い物。昨日の疲れが残っているのか、外での作業をする気力が湧いて来ない。相当な老骨であるのが自分でもよくわかる。▼イラン戦争の新たなステージが始まったのか。「和平協定」はどこかへ行ってしまったようで、なおこの先も展望のない「対峙」が続くだろう。問題はイスラエルにあるのだから、戦争の行方は定かならずというのである。米大統領は訪中を間近に控え、面倒を起こしたくない気配がありあり。中国に借りを作っているということだ。米中の対面はどうなるかも、これもまた「世界の平和」には大いなる不安材料だろう。(1090)

◎2026年05月05日(火)「こどもの日」、この来歴を考えていけば、いろいろと不都合な部分が明らかになってくる。極端に聞こえるだろうが、「男尊女卑」の歴史を呼び覚ますことになる。「男の子の日」ではなく、本当の「こどもの日」になるには、まずいかなる子どもも、解放される必要があるだろう。▼見知らぬ夫婦が訪ねてこられた。拙宅の遥か先にある森の中の住人だが、拙宅の前の林(土地)を購入し、それに小屋などを立てるので、草取りをしていたという。「何卒よろしくとの挨拶」だった。「中田」と名乗られた。二人とも都内への勤務だという。▼午前中に庭の何本かの木の剪定をした。桜が4本(うちの一本は枯れていたので伐採)、さらに紅葉や南天(三本)など。まだまだやりたかったが、かなり気温も高く、疲れが出てきたので中止。▼昼前に買い物で茂原まで。店内は「こどもの日」のイベントで賑わっていた。なんでもない食料品などを少しばかり買ったのだが、会計は7千円を超えていた。物価高騰、その原因である「円安」の昂進と石油輸入不可という危機到来の前兆がすでに始まっているのだろう。「イラン戦争」は文字通りに「泥沼状態」がさらに長引く恐れがある。この国の「経済破綻」は「目の前」のような気がしている。(1089)

◎2026年05月04日(月)本日は「みどりの日」というらしい。快晴、終日自宅に。ほとんど何もしないままで過ごす。大型連休も半ばを過ぎて、残すところ二日間。▼新しい本を通販で購入するも、なかなか読書体制に入る気がせず。たぶん、ネット番組の見過ぎのせいだと思う。目は悪くなり、体重は増えてくるし、ろくなことがない。しかも家の外は30℃近くもある。都内では真夏日を記録したところもあるという。本当に夏と冬の二季の国になったようだ。(1088)

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祈るべき天とおもえど天の病む

【水や空】狂気の隠し場所 よくよく見れば「脳」や「胸」という字には「凶」が含まれる。詩人の吉野弘さんに「同類」という短い詩がある。〈脳も胸も、その図(はか)らいも/凶器の隠し場所〉▲脳内に、胸の内に、人は口には出せない言葉、つまり本音を隠し持つことがある。皆がそうだとしても、その場しのぎの建前を並べたあとに別の場面で本音を漏らし、人の心をえぐるとすれば、その言葉は凶器だろう▲胎児性の水俣病患者の介護を巡る問題で、患者側から支援を求められた石原宏高環境相は4月末、患者と対立する熊本県水俣市の市長に、要望を「伝える」と述べた。自分が仲立ちする、市長と話をしてみる。そんな意味だと普通は受け取るだろう▲翌日の会見では「本人(患者)が目の前にいらっしゃったのでそう発言したが、現実には難しい」と言葉を翻す。患者側は環境省に抗議文を提出した▲その場を丸く収めようとついつい、いい顔をしちゃいましてね…という釈明が通用する立場ではあるまい。示すべきは国の責任であり、責任への自覚であって、言葉の凶器であるわけがない▲水俣病を題材にした「苦海浄土」の作家、石牟礼(いしむれ)道子さんに〈祈るべき天とおもえど天の病む〉という句がある。すがるべき政治が頼りにならない、という失望はどうやら今も昔も変わりない。(徹)(長崎新聞・2026/05/09)

 (ヘッダー写真:「水俣湾での漁猟の様子」Photo by W. Eugene Smith © Aileen Mioko Smith

⁂「週のはじめに愚考する」(118)~ こういう「二枚舌」政治家ばかりだというほかないような、この国の政治家の水準、まさに葛・愚図そのもので、ここに「政治家一丁上がり(「唐様で書く三代目」)ですね。こんな手合いばかりが政治家になるというのは何の因果なんですか。有権者も政治家になろうなどという輩も、少しは真面目に考えた方がいい。こんなことをシエラ、また「破滅(ruin)」ですよ。「世に盗人の種が尽きない」のと同じように、「(人間失格)政治家の種も尽きない」のは、この上ない、国民の不幸・不運でもあります。件(くだん)の御仁は「環境大臣」ではなく「環境破壊大臣」と名義を変えた方がいいでしょう。コラム氏は「脳」「胸」などを指して「狂気の隠し場所」とされますけれど、ぼくは、この手の人間には「本音」も「建前」もない、薄情専一なのだと思う。「地位と金」には人に数倍する執着があるのも不思議でもないでしょう。空虚の穴埋めというわけです。「口から出まかせ」しか言えないのが現代日本の政治家の標準なんでしょうね。

 この「日替わり発言」大臣の親は先年なくなった元都知事だった。知事時代、完膚なきまでに「都の学校教育」の姿態を破壊した張本人。彼の環境長官就任期間は1976年から一年間。同じく、長男が環境大臣に就いていたのは2012年から二年間。そして三男が就任したのが2025年11月の現内閣発足時においてでした。この間、すでに半世紀が経過している。親父から三代の環境大臣が同じ家系出身ですから、前代未聞、快挙という以上に、これは椿事も椿事、恐るべき愚挙でしょう。まさに、政治は彼等には「家業(稼業)」であって、虚言・失言や侮蔑発言もまた「家業(稼業)」の売り(セールスポイント)になっていました。人の苦しみ、命の尊厳を何とも思っていないくせに、「自分は偉い」とふんぞりかえる、そんな劣性遺伝子が、大なり小なり政治家にはついて回るのだが、そのような愚劣な輩が首相や大臣を務める国民の不幸の止むときはないと、つくづくぼくは思ってしまう。

 ~~~ 1977年、当時の環境庁長官だった石原慎太郎氏が熊本県・水俣市を訪れました。胎児性水俣病患者 坂本しのぶさん/「見てください。いま」/懇談で水俣患者の女性から抗議文を突きつけられます。「患者に対し、「知能指数が低い」と発言した石原長官は最終的に土下座し謝罪します。」石原慎太郎 環境庁長官(当時)/「いま会った患者さんたちもかなりIQというか知能指数が低いわけですよね。この手紙は非常にしっかりした文章というか、あるタイプの文章に思いますけど、これは彼女たちが書いたものですかね」/患者に対し、「知能指数が低い」と発言した石原長官は最終的に土下座し謝罪します。(TBSテレビ・2024年5月14日(火) 14:28)

 新聞などは「土下座して謝罪」というけれど、実は「謝罪」なんか一つもしていないのがわかるはずなのに、そうは書かない。「土下座して謝罪」だか、「謝罪して土下座」だか、そんなことは彼らには何でもないことで、その場を取り繕う「儀式(芝居)」みたいなもの。その証拠に、この御仁もまた、その後も生きている間、「居丈高に尊大である」とは、こういことだという見本を示し続けました。彼の「けちなプライド(自惚れともいう)」が、自分に対して「謝罪」しろよ、などというはずもないでしょう。そんな彼に対して、マスメディアは(一部だったかどうか)「憂国の士」と持ち上げたもので、心底からぼくは呆れたね。(いらぬお世話かもしれませんけれど、彼は家庭にあっては「DVの権化」のような存在だったことは、彼自身が告白しています)

 「この親にして、この子あり(like father, like son.)」は真実ですね。長男の振る舞いもひどいものでしたが、ここでは胸糞が悪いので書きません。この元都知事は、しばしば物議をかもす発言をしました。ということは人間自体が物議をかもすようにできていた、いわば「偏見の塊(a bundle of prejudice)」だったということ。この輩を、高い支持率で何度も知事に当選させたのですから、選挙民の愚かさは万古不易というべきでしょうね。現都知事だって「学歴詐称」を疑われていますが、選挙民を煙に巻いて、いけシャーシャーとしている。もちろん、ぼくもその愚かな「不易」組の一人であることを否定はしませんが。

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 水俣病公式認定から70年、現環境大臣の「被害者侮蔑発言」の場面も、翌日の「釈明」会見報道も、ぼくは見ました。頭が空っぽで、官僚に命じられたままの発言をもって旨とする人間が、時には勇み足で「自分の口から、受け狙い」を語ると、きっと物議をかもす、失敗する。その理由はどこにあって、いったい、それはどういうことなんですか。いつだってそうだったし、今もなお、首相を筆頭に、いかに他人を誤魔化そうか、自分をどう売り込もうかという「二重基準」を背負って「職務」に励んでいるふりをする。ただ在任(罪人)日数を数えているだけなのか。お粗末としか言いようがありません。これが「日本の実力」ですね。それでも半世紀以上も前の政治家(のいくらかは)は自らの発言や行動には「責任」を持っていた節があったと思われます。それが「時代が変わった」ということなのでしょう、どんなに悪事を働いても、「責任」という十字架を持ち合わせていないのだ。残念というだけでは済まない、政治や政治家が「国民」を蔑視し、「嘲笑」の対象にしているとしか思えないことがあまりにも多すぎる。

 石原家三代に及ぶ環境庁トップは、きっと石牟礼道子さんの「苦海浄土」をただの一行も読んだことがなかったと、ぼくは断言できます。読んでいて、なお数々の「被害者侮辱」を繰り返したとすれば、それは大いなる「悪面皮」「非人間」だったと思う。縦(よ)しんば、読んだことがなくとも、人間に対する尊敬の念を十分に持っている、そんなことは当たり前ではないかと言えないのは、いつでも繰り返しているように、この国の近代「学校教育」の犯罪的所業、つまりは「優劣」識別機能の駆動のせいであるといっても間違いはないでしょう。この国は今なお、「幕藩体制」下にあるとしか思われないのです。それほどに、「大小」、「優劣」「名門意識」が何よりも重視され、逆に「人倫」の頽廃や差別感情が剥き出しなる現実には注意が深く及ばない、そこに、ぼくは「時代」や「世相」の、つまるところは人間の有する深すぎる「闇」を感じてしまう。言葉を失うばかりの酷さ、醜悪さだというほかありません。

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 以下は「水俣病公式認定70年当日のコラム「水や空」です。5月1日に駄文を書こうとしていて、別口に移って、そのまま保存していたもの。ここに、「蛇足」として、そのまま出しておきます。

【水や空】公式確認70年 補償交渉で冷たい「ゼロ回答」を聞かされた患者の叫びが克明に記録されている。「銭は1銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、42人死んでもらう」-石牟礼道子さんの「苦海浄土 わが水俣病」から▲呪詛(じゅそ)の言葉は続く。「奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に69人、水俣病になってもらう。あと100人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」▲同じ苦しみを味わってもらう-。それが患者たちの真意でも望みでもなかったことは想像に難くない。自分たちに突き付けられたあまりの無理解と無責任は、こう突き放すしかなかったのだろう▲きょうから5月。「風薫る季節」の始まりは水俣病公式確認の節目の日でもある。1956年のこの日、熊本県水俣市の保健所に「原因不明の奇病」が初めて報告されてきょうで70年▲〈二審も患者と認めず〉-ちょうど1週間前の紙面に、水俣病の患者認定申請を退ける裁判の記事があった。原告の7人は〈公式確認の56年前後に生まれた〉人たちという。〈国の厳しい基準の下、患者認定された人は…申請者の1割に満たない〉と解説記事に▲70年は短い時間ではない。だが、水俣病は現在進行形のままだ。(智)(長崎新聞・2026/05/01)

◎ 石牟礼道子(いしむれみちこ)(1927―2018)= 小説家。熊本県天草に生まれ、まもなく水俣(みなまた)に移住した。父は石工。神経を病んだ祖母に守りされて不知火(しらぬい)海を見て育つ。商業実務学校卒業後、1947年(昭和22)結婚、平凡な主婦であったが、しだいに姿をあらわにしてくる水俣病への関心を深め、詩人、谷川雁(がん)のサークル村にも加わりつつ『苦海浄土(くがいじょうど)――わが水俣病』(1969)をまとめあげる。方言を駆使した語り体で、表現をもたない患者の代弁者として水俣病を描ききり、視線は日本近代の総体に対する批判にまで及んでいる。(↷)

(↻)続く『天の魚』(1974)、『椿(つばき)の海の記』(1976)で、水俣病患者を描いた三部作を完成させる。その後も『草のことづて』(1977)、『石牟礼道子歳時記』(1978)、『西南役(せいなんのえき)伝説』(1980)、『おえん遊行』(1984)、エッセイ集『陽(ひ)のかなしみ』(1986)、『乳の潮』(1988)、自伝的エッセイ『不知火ひかり凪(なぎ)』(1989)、時代小説『十六夜(いざよい)橋』(1992。紫式部文学賞)、エッセイ『葛(くず)のしとね』(1994)、自伝エッセイ集『蝉和郎(せみわろう)』(1996)、『形見の声――母層としての風土』(1996)、神話的な世界を描いた小説『水はみどろの宮』、『天湖(てんこ)』(ともに1997)、天草・島原の乱に材をとった大河小説『アニマの鳥』(1999)、水俣病を語り続けた著者の評論集『潮の呼ぶ声』(2000)、『煤(すす)の中のマリア――島原・椎葉(しいば)・不知火紀行』(2001)など、エッセイ、文明批評、小説を発表してきた。テーマは一貫して、高速化する近代に失われた風土の魂を救出する道の模索である。2001年(平成13)朝日賞受賞。(日本大百科全書ニッポニカ)

 《88歳の思想史家・渡辺京二が語る「作家・石牟礼道子の自宅に通った40年」 作家・石牟礼道子さんが、2018年2月10日未明3時過ぎに亡くなってから1年が経つ。/『椿の海の記』『西南役伝説』『春の城』『天湖』など、数多くの作品があるが、なかでも『苦海浄土 わが水俣病』は、1969年の刊行時から反響を呼び、2011年には池澤夏樹さん責任編集の「世界文学全集」に日本人作家の長編として唯一収録された。/当初『海と空のあいだに』と題されたこの小説の原稿を郷土文化雑誌の編集者として受け取ったのが、評論家・思想史家の渡辺京二さんだ。(後略)》「文春オンライン」・: 文藝春秋 2019年3月号

◎ 渡辺京二(ワタナベキョウジ)(1930-2022)= 1930年京都生まれ。大連一中、旧制第五高等学校文科を経て、法政大学社会学部卒業。日本近代史家。主な著書に『北一輝』(毎日出版文化賞)、『逝きし世の面影』(和辻哲郎文化賞)、『日本近世の起源』、『江戸という幻景』、『黒船前夜』(大佛次郎賞)、『未踏の野を過ぎて』、『もうひとつのこの世』、『万象の訪れ』、『幻影の明治』、『無名の人生』、『日本詩歌思出草』、『バテレンの世紀』(読売文学賞)、『小さきものの近代』他。2022年没。(著者プロフィール 新潮社)

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諸君らに聊かの気節ありやなしや

【斜面】反骨の政治家は… 日本から政党が消えたのは1940(昭和15)年。戦争の時代に勝者となるには政治権力の結集が不可欠だと、各党は進んで解散し、大政翼賛の渦へなだれ込む。ただ、これに抵抗する人々もいた。37人が衆院会派「同交会」を結成する◆鳩山一郎や尾崎行雄、芦田均、片山哲ら、戦後政治で活躍する面々が加わっている。しかし多くは42年の翼賛選挙で落選の憂き目に遭った。楠精一郎著「大政翼賛会に抗した40人 自民党源流の代議士たち」が同じ志の3人を加えて歩みを紹介している◆流れに逆らうには強い決意と胆力が要る。信州からは3人の名が見える。国民主権を説き戦後は吉田茂内閣の大臣になる安曇野市出身の植原悦二郎、松本市長を兼務した百瀬渡、長野市長を務めた丸山弁三郎。「長野県人がみせた反骨」と同書は書く。先人の胸中に思いをはせた◆さて、今の政治家はいかに。大所帯となった衆院の自民党議員に注目している。元首相や大臣、党役員らが発起人となり、高市早苗首相の政策を後押しする有志の議連ができるという。党内の派閥復活を警戒し首相主導の政治に結束を促す狙いが透ける◆人気の首相が24年に編著、出版した「国力研究」を名称に掲げる。飛び込む議員は多いだろう。かつての派閥は多くが消えポストは首相の胸三寸。面従腹背の人もいよう。有志の政治活動とはいえ、異論を排すのなら自民らしくない。反骨の人材も見当たらないなら寂しく、そして危うい。(信濃毎日新聞・2026/05/09)

 本日の信濃毎日新聞・コラム【斜面】は「反骨の政治家は…」であります。日米開戦の直前、「無謀な戦争」の時代をさらに切り開くためには「大同小異」とばかり、時の政治勢力は大小となく、時の勢いに流されて、一蓮托生の思いを遂げようとしていた。「各党は進んで解散し、大政翼賛の渦へなだれ込む」(「斜面」)時代の勢いが書かれていた。まるで符節を合(がっ)するかのように、「時は来たる」と現首相が季節外れの「鬨(とき)の声」を挙げたのが、本年4月12日でした。八十余年を隔てて、いったんは途切れていたかに思われた「国家主義(ファシズム)」という「割符(わりふ)」が、再び結びつこうとしているかに思えます。

 まるで血迷った如くに昂然として叫(おら)ぶのでした。「どのような国を作り上げたいのか、理想の姿を物語るものが憲法です」 「理想の日本国を文字にして、歴史という書物の新たなページに刻もう。そのページをめくるべきかどうか、国民に堂々と問おうではありませんか。立党から70年、時は来ました」(朝日新聞・2026/05/04)憲法をまるでおのれの日記かエッセイのように誤読・誤解しているのは隠しようもありません。

 憲法改正の大義を掲げて、「憲法もアップデートせねば」と首相は述べたが、まるで時代おくれの「パソコンソフト」の如くに「矮小化」、いや「弊履」然と「現行憲法」をあしざまにするのです。そのおのれの姿態が見えないのですからだから、なんとも話にならぬ。遵守義務(「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」第九十九条)がある政治家、それも首相自身が、憲法を自家薬籠中の物扱い、まさしくその精神を「換骨奪胎(かんこつだったい)」しようとさえしているのです。「時が来た」とは、電工憲法は時代おくれの「古物」なのだから、ならば「さらに昔の姿に戻す」と時代逆流の宿願を語るのでしょう。現下、この国の政治勢力の情勢は十中八九は「政権与党」に与している。大同団結の掛け声は密にかけられているのです。八割を超える議席数を占めるのが、ほぼ与党だとみられます。「日本から政党が消えたのは1940(昭和15)年」ですから、現時点で、ほぼそのような「一国一党」状態の一歩手前ともいうべき事態にあるといえます。

 以下、やや旧聞に属しますけれども、一読に資するために引用しておきます。

  検証 戦争責任
「日本から政党が消えたのは1940(昭和15)年」で「国内の政治・経済・社会体制と外交政策の「革新」を求める動きは、昭和初期からくすぶり続けてきたが、四〇年に入って本格化する。近衛側近の有馬頼寧、風見章らは「近衛新党」を目指し、近衛は六月二十四日、「枢密院議長を拝辞し、新体制の確立のために微力を捧げたい」との声明を発表した。/陸軍も、近衛の新体制運動に期待した。ドイツ躍進の根源はナチスの一党独裁体制にあると考え、日本もナチスのような一国一党体制を敷き、日本に国家総動員体制を確立する必要がある、と考えたのである」「近衛首相を総裁とする大政翼賛会(たいせいよくさんかい)が発足したのは、一九四〇年(昭和十五年)十月のことだった」「国民も近衛の再登場を熱狂的に歓迎した。新聞各紙も「バスに乗り遅れるな」とばかり、新体制運動を支持し、三国同盟の締結を促した。読売新聞は、近衛内閣に「従来の半自由主義的な中途半端な考え方や方法では駄目だ」と注文をつけた。三国同盟が締結された当日の朝日新聞は、「いまぞ成れり“歴史の誓” めぐる酒盃(しゅはい)、万歳の怒涛(どとう)」と書いた。/内閣総辞職に追い込まれた米内は当時、知人あての手紙に「魔性の歴史というものは人々の脳裡(のうり)に幾千となく蜃気楼(しんきろう)を現わし……時代政治屋に狂態の踊りを踊らせる」と書いた。「時代政治屋」とは、近衛や松岡らを指していたのである。」(「ナチスを見習った大政翼賛会」読売新聞)
https://www.yomiuri.co.jp/sengo/war-responsibility/chapter2/chapter2-6.html

 今の時期、日本の政治は1940年10月に向かって逆流(backflow)、遡上(upstream travel)している。詰まりは「先祖返り」です。女性宰相は言宣言した、「ジャパン・イズ・バック」と。目指すは「大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)」時代であるのは明らかです。これを時代錯誤というのですが、それがなぜだか『日本劣島を強く豊かに』する方途だというのですから、まともに扱えない代物だと、ぼくには思われてくる。しかし、彼女にはたくさんのお手本と味方が付いているらしい。「さあ働かう!」という大政翼賛会のスローガンを、この政治家は「働いて働いて…」と眠りにある亡霊を呼び覚ますかのように叫び続けています。憲法改正が日程に上っていると、誰が言うのですか。どこをどのように改正するから、賛成だという世論が過半数を超えたというけれど、ぼくには「本当に?」、あるいは「そういうものか」という感想は湧くし、変えたければどうぞという、半分投げやりの気分があることをも隠さない。後で喚(わめ)きますよ、という話ですから。

◎ 大政翼賛会(たいせいよくさんかい)日中戦争・太平洋戦争期に政府主導で全国におかれた国民組織。新体制運動のなかで,第2次近衛内閣が新体制準備会の審議と9月27日の閣議決定にもとづいて,1940年(昭和15)10月12日に組織した。「大政翼賛の臣道実践」をスローガンとした。総裁は近衛文麿。機構は中央本部事務局,中央協力会議のもとに各自治体レベルの支部および協力会議が設置された。翼賛会の性格をめぐっては発足当初から議論があり,翼賛会が政治性をもつことは憲法違反のおそれがあるとされたため,41年2月には政治運動の中心としての性格を否定し,公事結社と称した。また地方支部の人事をめぐって内務省と翼賛会の間に対立がおき,41年4月には改組と職員の大幅入替えが行われ,内務官僚主導の精神運動組織,上意下達の機関となり,傘下にさまざまな団体をかかえ,町内会・隣組などが下部組織に編入された。45年6月国民義勇隊の設置にともなって解散した。(山川 日本史小辞典 改訂新版)

◎ 大政翼賛会(たいせいよくさんかい、旧字体: 大政翼󠄂贊會、英語: Imperial Rule Assistance Association)は、1940年(昭和15年)10月12日から1945年(昭和20年)6月13日まで存在した日本の政治結社。公事結社(公益のみを目的とする結社。…日本独自の概念である)として扱われる。「大政」は、天下国家の政治、「天皇陛下のなさる政治」という意味の美称、「翼賛」は、力を添えて(天子を)たすけること。/1930年代の日本において、不況や既成政党への不信感が渦巻く中で、ナチス・ドイツに倣ってファシズム(一国一党制による国家社会主義)へ政治体制を移行することによって、事態を打開しようとする動きが起こる。1937年から、近衛文麿内閣総理大臣を党首に担いでの新党結成運動がおこり、1940年に大政翼賛会が発足する。しかし、一国一党制への違憲論などにより一党独裁という当初の目的は薄れ、政府による社会統制を補助する国民運動体としての役割を担うにとどまった。(Wikipedia)

 とんでもない人物が首相を務めている「国の姿」という意味では、もはや「ナチス」時代に比肩しうるでしょう。目的を達成するためなら法律違反は言うまでもなく、憲法違反すら厭わないで「悪事を働く」、そんな人間が「正義」を語り「平和」を語るとは片腹痛いどころの騒ぎではないのです。自分は「危ない橋を渡っている」という自覚は十分に持っているからこそ、記者会見の場から逃げ回っているのではないでしょうか。ネット時代の不正の典型である「SNSによる誹謗中傷」画像の大量発信(公設第一秘書兼事務所代表が業者を通して発注したとされる)には一切無関係であり、事実無根であるというなら、週刊誌報道に対して断固とした法的措置を執らないのが不思議です。あれほどの「疑惑報道」がなされているにもかかわらず、「名誉棄損」なり「損害賠償」なりを求めて提訴すべきであるのは、公人たる「首相」の義務でもあるでしょう。あるカルト集団とかかわりがあると、一議員から指摘されたその場で、「名誉棄損」だと抗弁はしたが、一切の法的措置を執らなかったのは、なぜか。

 なによりも問題視しなければならないのは、大手新聞・テレビ(「公共放送」を名乗る某TVは特に酷いですね)の「首相の不祥事」に対する、あからさまな黙殺・容認です。すでにこの国のメディアは、率先して「大政翼賛」に参じているまぎれもない証拠でしょう。「アメリカのイラン攻撃」に発する石油危機は先の展望が開かれないままで「泥沼化」し、この国には円安・物価高・長期金利上昇という三重苦が生じている。いずれ日を置かずに、日本売り(国債の投げ売り)に端を発する、空前の「経済破綻」が迫っているのに、殺傷武器の輸出や戦争準備(国防費の増額)のための「狼煙」を上げ続けているのも、間違いなく、自らの政治責任からの醜い逃亡であることは間違いないでしょう。(左は「大政翼賛会」の記章。すでにいくばくかの「政治家たち」は胸につけているのではないのかな)

 政治・行政・経済、そして「権力の番犬(Watchdog of power)」たる職務を放棄している言論(人)に対して、言わなくてもいい一言を。「諸君らに聊かの気節ありやなしや」と。いまさら、問うも虚しい限りですね。「気骨と節度」があったなら、いくらなんでも、こんな無様なことにはならなっただろうし。

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