「小さな不便は国の危機」です

 新芽きらきら、爽やかな香り! 高知県仁淀川町で一番茶の収穫始まる 県内有数の茶どころの仁淀川町で14日、一番茶の収穫が始まった。仁淀川沿いの段々畑では緑黄色の新芽がきらきら。生産者らが手際よく刈り取ると、爽やかな香りが広がった。/県によると、 2025年の仁淀川町の茶農家は142戸で、生産量は県内2番目に多いという。/黄色の新芽が輝く仁淀川沿いの段々畑 この日は池川茶業組合の農家ら10人が同町大板の茶畑(約50アール)で摘採機などを使って作業。刈り取ったみずみずしい新芽約400キロを町内の加工場に運んだ。/今年は少雨で芽立ちが遅い畑があるものの、霜害は昨年より少なく生育は順調という。同組合の一番茶収穫は5月10日ごろまで続き、36トンの収量を見込む。/24年の県民1世帯当たりの緑茶購入額は1535円(全国平均3194円)で全国46位。品原伸組合長(37)は「一番茶は春先の優しい日差しで育ち、渋みが少なく甘みとうまみが強い。茶葉を使ったプリンなどもあるので、ぜひお茶に触れてほしい」と話していた。茶葉は今月20日ごろから販売する。(伊野部重智)(高知新聞・2026/04/16)(ヘッダー写真も)

 毎日、朝のお茶は欠かせません。起床すると、猫に食事などをやりつつ、お湯を沸かし、日本茶を入れる。それは午前3時であろうが、5時であろうが変わらない、ぼくの日課です。まあ、ある種の「位置について」かもしれませんね。今朝も、飽きもしないで、性懲りもなく「駄文」を書いているのが午前5時。喫茶の習慣はもう半世紀も続いているでしょうか。必ず日本茶です。ゆっくり「一服*」、お茶を飲みながら、日の出を見たり、鳥の鳴き声を聞いたり。慌ただしいのは嫌いですから、まあ、お茶はぼくの一粒の「精神安定剤」、あるいは一服の「清涼剤」かもしれない。時には面倒なことや忙(せわ)しない出来事に遭遇するのですが、だから「お茶を濁す」ということがあるかもしれない。「いいかげんに言ったりしたりしてその場をごまかす」(デジタル大辞泉)そんな面倒なことがぼくに起こるというのは滅多にありませんけれど、とにかく、「おーい、お茶」です。かみさんはまだ寝ています。

 (*いっ‐ぷく【一服】読み方:いっぷく [名](スル)1 茶やタバコを1回のむこと。また、その量。2 茶やタバコをのんで、休息すること。ひと休み。「ここらで—しよう」3 粉薬1回分。「朝夕—ずつ服用」4 取引相場で、相場がしばらく安定した状態を保つこと。「—感」(デジタル大辞泉)

 「三遍回って煙草にしょ」というのもありました。「《夜回りで、三度見回ってから休憩しようの意から》休むことを急がず、念を入れて手落ちのないように気をつけよう」(デジタル大辞泉)今では全く使われなくなりましたね。不思議なというか、とても知恵のあることわざだと、ぼくは感心したこと覚えています。「仕事の段取りをつける」ということだったと思います。

 ある時期までは、毎年のように静岡・伊東や伊豆あたりに出かけては農家からお茶を買っていました。ほとんど同じお茶屋さんからでした。今も変わらないでしょうが、東海道新幹線に乗車していると、ぼくには富士山よりも掛川や富士当たりのお茶畑を見るのが楽しみでした。見事なものでしたね。「丹精を籠める(心を込めて物事に当たる)」というのは、あのような農作業(仕事)をいうのでしょうか。

 これも、二十年ほど前になりますが、ある小さな国立の学校、それは静岡県の安倍川の西側、内牧という地域にありましたが、そこを訪問し、その時に「これは生徒たちが育てたお茶です」といって、学校自家製の「お茶」をいただいたことがあります。どこの学校もそうだとは思われませんで、その学校に特有の「教育(授業)(カリキュラム)」の一環にお茶の栽培が組み込まれていたのでした。「園長(所長)」のお招きで、子どもたちとも話しをしながら、いろいろなことを考えさせられたことがあった。正式名称は「駿府学園 静岡少年鑑別所」、ぼくは入所した経験はありませんが、何かとかかわりがあった学校の一つだった。(今でも、卒業生の何人かは、職員・教官として、各地の「学校」に務めているはずです)その敷地内に広大な茶畑があり、園生たちが「丹精をこめて」育てていたのでした。再び「丹誠」という語を使いたくなりました。文字通り、手づくり、手を掛けるという作業は「人間教育」にも大きくかかわる事柄ではないでしょうか。

 「田植え」と同じように「茶摘み」にも長い歴史がある農作業で、主として女性の仕事だったと思われます。「生産」(「産む」)に携わることは、神事につながる貴重な機会だったでしょう。「茜襷(あかねだすき)に菅の傘」と謳われた作業は、田植え同様、今ではすべてが機械仕事になりました。それは当たり前のことで、合理化は機械化でという、現代農業の工業化現象でもあるのでしょう。お茶好き人間の願いからすれば、毎朝、心おきなく「一杯のお茶」が飲める、この「ゆとり」だけは奪われたくない。でも、その根元から、驚くべき物価高騰の波をまともに受けているのも、この「お茶」です。半端じゃない値上がりですよ。必要以上に「苦いお茶」になるようで、苦々しい思いがしています。 

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【有明抄】小さな不便 新品を買うことはできるが、古いものを修理することはできない。「これは国の危機だ」と米国の人気コラムニスト、アンディ・ルーニーが嘆いていた。1980年代のことである◆車の窓が開かない。蛇口が水漏れしている。トースターが壊れた…。世の人びとは、そんな「小さな不便」に助けを求めている。なのに、ほころびをさっとつくろってくれる洋服屋も、丁寧に庭の芝刈りをしてくれる職人もいない。〈だれも些(さ)細(さい)な仕事はもうしなくなった〉◆そんな一節を思い出したのは、東京の飲食店での出来事。高齢の夫婦がタッチパネルの注文に戸惑っていた。店員に声をかけても説明が要領を得ない。片言の日本語が聞き取りにくかったのかもしれない。「あんたじゃ話にならん」と別のスタッフを呼ぼうとしたが、店内は外国人の店員ばかり◆世間で取るに足らないと見られている仕事ほど、社会を支えているものである。「きつい」「給料が安い」と敬遠され、人手が足りない。頼みは外国人労働者だが、最長5年間働ける「特定技能1号」の受け入れ数が上限に近い業種もある。すでに満杯の外食産業は13日から新規受け入れが停止された◆暮らしを「ひと任せ」にしているうち、小さな不便がやがて取り返しのつかない不便になる。ルーニーならずとも「これは国の危機だ」と叫びたくなる。(桑)(佐賀新聞・2026/04/17)

 「新品を買うことはできるが、古いものを修理することはできない」「これは国の危機だ」まさしく我が意を得たりというべきか。先ごろ、かみさん愛用の車の車検を受けた。その際に、バックライトのカヴァーの一部が破損していた(ブロックかなにかでこすったらしい)ので、その部分だけを修理してもらおうとしたら、バックライト装置そのものを取り換える必要があるという。よくある、一個の部品だけを修理しないで「基盤全体」を交換するというやつ。修理代込みで数万円もした。間をおかないでもう一方の同じ部分も、驚くほどの高価な取り換えを余儀なくされました。(かみさんは運転は決して上手ではない、下手ですね』ぼくが乗っている車のトランクのダンパー部分が故障しているらしいので、修理したい、どれくらいかかるかと尋ねたら、部品がないので修理不能だといわれた。時代は鬼気・危機迫る事態を迎えています。

 その昔、都内本郷に住んでいたころ、真空管アンプやをステレオ装置の部品を、散歩をかねて秋葉原に行って、そこで買ってきて、見よう見まねで、音響機器を自作していた時代が懐かしくなります。はんだごてを使って溶接する作業にも興味を持つようになった。今では、部品そのものが扱われなくなって、「基盤」をそっくり取り換えるという。そして、実に奇妙にも思われるのですが、今は「真空管アンプ」は、とてつもない高価な贅沢品の典型のようになっています。貧乏学生には「垂涎の的」だった「(ラックスの)SQ-38FD」なるアンプ、先輩の耳鼻科のお医者さんが所有していて、それこそ、その音を聴くたびに、いつかこれを自分も持ちたいものと、恋焦がれてもいました。当時の三年分の年間授業料に相当していたのではなかったか。今を去る、六十数年前のことでした。

 修理ではなく買い替え、これが時代のトレンドでしょう。やがて、その風潮は人間をはじめとする命(いきもの)そのものにも及ぶのです。もう及んでいるでいるところもある。確かに「小さな不便」が修理可能だった時代を知っている人間からすれば、修理できるのにしないという、いかにも貧しい環境(物を大事にしない)風潮が方々で蔓延している時代と社会で生きている、歪んだ環境にいることを痛感するのです。ネットで、どんな古いものでも電気製品であれば、とにかく「修理に挑戦する」職人(技術屋)さんが話題になっているようです。部品がなければ、自作するという。こんな職人はどこにもいた時代が、懐かしいだけでなく、かえって、人間の生活だったという感覚がぼくの中に、まだ息づいているのです。今は「一個のパーツ」の寄せ集めではなく、全体が「一個のパーツ」である、そんな時代でしょうか。

 「便利は不便と隣り合わせ(Convenience is always accompanied by inconvenience.)」です。

 よく「使い捨て」などどいわれた時代が始まった当座、大変なことが起こっているという実感がありましたが、今では、その風潮は諸事万般に及んで、無駄や浪費の極みを目指していると思うほどに、この社会は危ない方向に進んでいるのでしょう。ものを大事にしないところで、ひとが大事にされるはずもないといいたくなります。ぼくは自分では「物持ちがいい方」だと思い込んでいます。買ったものは捨てない、手元にあるものも簡単には処分しない。だからなんでも溜まる一方です。最も長く保存しているものには本がある。それこそ学生時代に購入したものから、ほとんど処分していません。65年は所持しています。

 次に古いものは「かみさん」で、もう55年近くななるでしょう。(こんな言い方はかみさんに失礼だし、知れば怒られる。でも事実はそうで、逆にかみさんも同じことが言える。彼女は何でも棄てるほうですから、ぼくもやがて…と思いつつ、ここまで来ました。まだ油断はできませんが)「小さな不便」は修理(入院・手術)しては保存し続けました。というわけで、「小さな不便」は「自分で治す」か、それが無理なら、修理屋さんにお願いする。それでもだめなら、そのまま所有しておく、それがぼくの「処世術(Die Kunst des Lebens)」です。いつか、何かの役に立つかもしれないと思うからです。レストアが当節のはやりになることを願っています。

 いらなくなったから捨てる、邪魔だから処分する、この便利と不便、必要と不必要などの境目がつかなくなると、ついには静物(無機)と生物(有機)の境界も失われ、有用か無用か、役に立つか経たないか、好きか嫌いか、そんな怪しい判断(感情)で、どんどんと「無用」「無役」が増やされ、捨てられていくのです。いとも簡単に(であるとは思わないが)「いのち(命)」を奪うことに、苦悩も躊躇もないとすれば、それはもはや人間業ではないというべきでしょう。自分の勝手で「戦争」をはじめて、「好き放題の人殺し」をするような人間が大国の大統領ですからね。時代は終末です。

 (左上「本のカヴァー写真」は村上春樹著「猫を捨てる」です。「時が忘れさせるものがあり、そして時が呼び起こすものがある。ある夏の日、僕は父親と一緒に猫を海岸に棄てに行った。歴史は過去のものではない。このことはいつか書かなくてはと、長いあいだ思っていた。―村上文学のあるルーツ。」文藝春秋, 2020刊)

 暴露するのではありません。高名な画家の奈良美智さん。彼はまだ小学生のころ、父親と自分と愛犬と一緒にドライブに出かけ、名前は忘れましたが、ある山の中で降りて、しばらく犬と遊んでいた。犬が喜んで遠くへ行った、その隙に、父親と急いで車に乗って、犬を置き去りにしたという。絵を描きだして後、ある時期からどういうわけか、自分の絵に犬が出てくるようになったといわれている(弁解がましいですな。ことの発端(責任)は父親でしょうね。もっと別の方法を考えられなかったというのは、ぼくには理解できません)。「犬」の画家、奈良さんの「原点」、否「原罪」というか、こんなことがあったんですね。その話を知って以来、奈良美智の絵を見る、ぼくの鑑賞姿勢は変わったと思う。どうして「騙(だま)し打ち」のように犬を捨てたか、「家で飼っていて、吠えて吠えて仕方がなかった。近所の手前もあり、…」ということでした。父親にぼくは問いたいですね、いまさらのように。

 犬や猫は「捨てるものではない」という、そんな「初歩」がなっていないんじゃないですか。こんな事例は「枚挙に遑(いとま)なし」というほどに、この国もまた「焼きが回った」というほかありません。犬猫などをペットとみるのは、どうなんでしょうか。不遜というか横柄というか)。ぼくはペットショップ廃止(禁止)を唱えている人間です。

 コラム氏が言うように、たしかに「これは国の危機だ」といいたくなりますが、そんな呑気な話ではなく、人類の危機であり、「いのちのきき(生命の危機)」であるとぼくなどには思われてきます。事態は深刻の度を加えているのではないですか。

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アンドリュー・エイトケン・ルーニー(Andrew Aitken Rooney)(1919年1月14日 – 2011年11月4日)は、アメリカのラジオおよびテレビの脚本家で、1978年から2011年までCBSニュース番組「60ミニッツ」の一部として毎週放送された「アンディ・ルーニーとの数分間」で最もよく知られていた。彼が「 60ミニッツ」にレギュラー出演したのは2011年10月2日が最後で、その1か月後に92歳で亡くなった。(Wikipedia)

◎ 耐久消費財= 想定耐用年数がおおむね1年以上で比較的購入価格が高い商品。具体的には、自動車や家具、家電製品、パソコンなどが挙げられる。想定耐用年数が1年未満または比較的購入価格が低いものは非耐久消費財といい食料品などが該当する。また、衣類や靴、カバンなど耐用年数の比較的短い商品を半耐久消費財とする分類方法もある。個人事業主や法人など家計以外で購入された場合には、減価償却を伴う固定資産として扱う。内閣府の消費動向調査では、世帯別や属性別に主要耐久消費財の普及率や保有数量、買替え状況などを調査している。(imidas)

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人皆有不忍人之心。先王有不忍人之心、…

 今朝は夜来の雨が続いています。このところの多雨もあってか、付近の田んぼではすっかり田植えは終わり、拙宅の周りの竹やぶでは筍(たけのこ)は旬を過ぎました。「卯の花の匂う垣根に」時鳥(ほととぎす)がやってきて、さわやかに鳴いていたかと思っていたら、すっかり田植えは終わっていました。このところ、天気に恵まれれば、自宅の周りから出て、すこし遠出のドライブを楽しんでいます。隣町の長南町あたりでは、これから田植えというところもまだまだありました。街道筋はほとんどが小高い山(丘というべきか)に囲まれていて、なお方々に山桜が、まるで山上に着飾った「一張羅」のように、煌(きらめ)いています。車を降りて桜の傍まで行くのでもなく、走りながら、左右に見える田んぼと緑の丘と、その中の一点景として枝葉を伸ばし、鮮やかに桜花が香る姿、それを目にするだけで、ぼくは「一息」も「二息」もつける。

 房総の山間部を走る利点は、まず混雑(渋滞)とは無縁であり、加えてほとんど信号がないということです。ぼくの車は初年度登録は2002年だったか、にもかかわらず1リッターでは9キロも走ってくれます。ガソリン(ハイオク)高騰の折、実に愛すべき友という感じですね。(この駄文を書いているのは朝5時前。雨がしとしと降っています。猫は簡単に朝食を済ませて、それぞれが散歩だか二度寝だか、多くは家の中から姿を消しています。そして、家の前あたりで鶯(うぐいす)が清らかな声で啼き続けてくれている。その横からカラスがカアカア。

 ぼくの鈍った感覚でも、とても季節の足取りが速いと、本当にびっくりしています。もう少し足を延ばし、夷隅市当たりまででかければ、すでに四月前に田植えが終わっています。超早場米(早稲)とかで、八月には稲刈りも始まるという。狭い範囲にあっても季節は順繰りにバトンの受け渡しをしているようで、つかの間の自然の恵みに見惚(みと)れるという「幸運」を楽しんでいる。間違いなく、季節は一か月は早まったという感じがしています。春秋は短く、夏冬が長いという、およそ温帯気候にはなじまない地球の運行のしからしむるところでしょう。それに輪をかけるように「人為」「人工」が、自然の秩序・基調を狂わせているのですが、いつ終わるともわからない、人間どもの愚かさのなせる業。

 現住地に越してきた当時、庭のアクセントにもなるかと、茶の苗を育てようと計画をしたことがあります。それを見て、近所の T さんが「止めた方がいい」と忠告してくれた。理由ははっきりとは聞かなかったが、虫が付くやらで、手間が大変ということだったかもしれません。その T さん宅の敷地はかなり広く、その中にはお茶の垣根も見えていたが、手入れはあまりされていないようでした。彼は半官半農のような生活ぶりで、その時は、官庁勤めを終わっていたと思う。ぼくと同じ年でした。無類のウォーキング好きで、一日に5キロ、10キロは平気で歩いている人でした。(知り合いの女性に言わせると、「あの人は徘徊老人です」と噂が立っていた、と。この数年ほとんど姿を見なくなったままですが、健在であろうかと心配しています。拙宅から徒歩十数分の距離にあるお隣さんです。

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 今もなお「天の声」は「健在」でしょうか。「天の声」を受け止めて、世に語る人は存在するのでしょうか。その昔は何十年も購読していた A 新聞。今ではまず手に取ることもネットで見ることさえ、ほとんどありません。何んとも薄情なと、我ながら思わないではありませんが、致し方ないとも思う。こうなった事情が当方にではなく、彼の方にありそうですから「オールドメディア」などと蔑まれつつ、斜陽の一途をたどる姿を見ていると、「昔日の雄」の落魄(らくはく)ぶりに、なんだか当方までもが悲しくなってきます。

 何人かの先輩記者に厚情をいただいた身としても、これもまた「一社」の寿命なのかと「詮方なし」の思いが募ります。たくさんの新聞記録類の切り抜き在庫を抱えている、わが「保管庫(storage)」から、ここに、日付はmさに「旧聞」ではありますが、その内容はいつまでも「新聞」であり続けるであろう、「天声人語」二題を。

 余計な解説は無用。「天に声あり 人をして語らしめよ」という「天声人語」の氏育ちをいうなら、この二編まだまだ「天声」が人間にも届いていたと考えられる「人の語るところ」であったと、ぼくは受け取っています。老若の交わり、先輩後輩の交流、親子の契り、赤の他人であっても、そこにおいては失われてならない、大切な「天与」「天恵」かと信じたくなるような「不忍人之心(人に忍びざるの心)」をもし失ってしまえば、人は人に対して悪鬼となり、波旬(はじゅん)(悪魔)となるほかありません。

 この三週間余、心が晴れないままで、ついに恐れていた「現実」に打ちのめされそうになっています。余りにも惨(むご)い事件の犠牲者になった京都の園部町の Y.A. 君の御霊に深く額づく想いで、この「中高生」と周りの人たちとの間に芽生えている、消えることのない「心情(惻隠之心不忍人之心)」をわが胸に刻み、かつその尊さを信じて、心ある人にも、あるいは見失っている人にも捧げたい。困っている人、不幸に喘(あえ)いでいる人に対して、誰もが「見ていられない」「我慢できない」、そんな心持ちを抱くという「惻隠(そくいん)の情」が人間同士のつながりの第一歩です。それはまた、大げさではない「他者への敬愛の念」でもあるでしょう。どんな関係であれ、いささかの「尊敬心」が働かないようでは、人間であることはできないのだと、ぼくは頑(かたく)なに信じてきました。血中にも些少の塩分が欠かせないように、尊敬心は人との交わりにおいては、親子であれ、何であれ、不可欠の要素なのだとぼくには思われます。

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京都・南丹の男児死亡 死体遺棄の疑いで逮捕の父親、容疑認める 京都府南丹市の山林で行方不明になっていた市立園部小の安達結希(ゆき)さん(11)の遺体が見つかった事件で、京都府警は16日、安達さんの遺体を遺棄したとして、父親で会社員の安達優季容疑者(37)を死体遺棄の疑いで逮捕したと発表した。「私のやったことに間違いありません」と容疑を認めている(以下略)」(毎日新聞・2026/04/16 01:52) Y君の冥福を祈るばかりです。(合掌)

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 (「惻隠之心、仁之端也」という孟子の「言」をここに出しておく)

 「人皆人に忍びざるの心有り。先王人に忍びざるの心有りて、斯(ここ)に人に忍びざるの政有り。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行はば、天下を治むること之を掌上に運(めぐ)らすべし。人皆人に忍びざるの心有りと謂ふ所以(ゆゑん)の者は、今(いま)人乍(たちま)ち孺子(じゆし)の将に井に入らんとするを見れば、皆怵惕(じゆつてき)惻隠(そくいん)の心有り。交はりを孺子の父母に内(い)るる所以に非(あら)ざるなり。誉れを郷党朋友に要(もと)むる所以に非(あら)ざるなり。其の声を悪(にく)みて然するに非ざるなり。是(これ)に由(よ)りて之を観(み)れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり羞悪の心無きは、人に非ざるなり辞譲の心無きは、人に非ざるなり是非の心無きは、人に非ざるなり惻隠の心は、仁の端なり。羞悪の心は、義の端なり。辞譲の心は、礼の端なり。是非の心は、智の端なり。人の是の四端有る、猶(な)ほ其の四体有るがごときなり」と。)(漢文塾・https://kanbunjuku.com/archives/102

 不忍人之心(孟子)

孟子曰、
「人皆有不忍人之心。
先王有不忍人之心、斯有不忍人之政矣。
以不忍人之心、行不忍人之政、治天下可運之掌上。
所以謂人皆有不忍人之心者、
今人乍見孺子将入於井、皆有怵惕惻隠之心。
非所以内交於孺子之父母也。
非所以要誉於郷党朋友也。
非悪其声而然也。
由是観之、無惻隠之心、非人也。
無羞悪之心、非人也。
無辞譲之心、非人也。
無是非之心、非人也。
惻隠之心、仁之端也
羞悪之心、義之端也
辞譲之心、礼之端也
是非之心、智之端也
人之有是四端也、猶其有四体也。」
(公孫丑 上)

◎ 孟子【もうし】=中国,戦国時代の思想家。魯国の鄒(すう)の人。名は軻(か),字は子輿(しよ),子車。孔子の仁の徳に基づく徳治主義を継いで諸国を遊説したが用いられず,退居して教授と著述に専念。その弟子たちとの言行が《孟子》7編に記録されている。彼は礼を父子,君臣,夫婦,長幼,朋友の五倫とし,人間の本性を性善説で把握,覇道を排して王道による天下統一を説いた。つまり,天意は仁心に基づいた民生安定にあるので,天子はこの民本主義の仁政を行う責任を負っていて,その成否によって生じる天下民心の向背に基づいて天から任免されるとした。その思想は宋代の朱子学によって高い評価を受け,《孟子》は《論語》と並称され,〈孔孟の道〉は儒教の代名詞となった。また孟子の母が教育環境を配慮して三度転居したという伝説,〈孟母三遷〉は有名。(百科事典マイペディア〉

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◎ 天声人語(てんせいじんご)は、朝日新聞の朝刊に長期連載中の1面コラムである。1904年(明治37年)1月5日付の『大阪朝日新聞』2面に初めて掲載され(初期は必ずしも1面に掲載されるとは限らなかった)、以後、別の題名となった時期を挟みながら1世紀以上にわたって継続して掲載されている。最近のニュース、話題を題材にして社説とは異なる角度から分析を加え、特定の論説委員が一定期間「天声人語子」として匿名で執筆している。新聞本紙では見出しは付けられていないが、朝日新聞デジタルでは見出しが付けられ、書籍化の際には標題が付けられる。                                                                      

題名の由来 命名者は西村天囚[1]で、「天に声あり、人をして語らしむ」という中国の古典に由来し、「民の声、庶民の声こそ天の声」という意味とされる。しかし、この古典が何であるかは高島俊男によれば不明である。荒垣秀雄も「その原典はよくわからぬ」と書いている。/ラテン語の“Vox populi vox dei.”(直訳は『民衆の声は神の声である』)が元になっているという説もある。“Asahi Evening News”に天声人語の英訳を掲載する際、当初アメリカ進駐軍の機関紙“Stars and Stripes”の“Voice of Heaven, Voice of People”という直訳タイトルを転用する予定だったが、荒垣の提案でこの“Vox Populi, Vox Dei”が採用された。   

                                                                             一方池澤一郎「国分青厓の『天有声』について」は、1903年に国分青厓が発表した「天有声」という漢詩に「天有声(略)天雖無口使人言」という表現があることに着目し、この詩の影響を受けつつ平仄の都合で「天声人言」ではなく「天声人語」にしたのであろうと考察している。(「近世文藝 研究と評論」107号)/1904年1月5日に『大阪朝日新聞』で掲載が始まった「天声人語」は、2月から中断し、「鉄骨稜々」と題されたコラムに代わるが、3月には「天声人語」に戻された。大阪に遅れて、『東京朝日新聞』では1913年(大正2年)6月1日から「東人西人」が常設コラム化されたが、40年9月1日に東西のコラムは統合され「有題無題」となり、43年1月1日には「神風賦」となって、戦時中はこの題名が続いた。コラムが「天声人語」に復したのは、1945年(昭和20年)9月6日であった。(Wikipedia)

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Kindness is not just for others’ sake.

【明窓】春に思う ダンゴムシと助けられる力 自宅の玄関横に座り、一服しながら足元の砂利を見ると、ダンゴムシが動いていた。ほおに当たる風は暖かい。春の訪れを感じる▼桜が咲き誇った今月1日に新聞社の入社式に参加した。「石見神楽の記事を書きたい」「子どものためになる仕事がしたい」。よどみなく語る新入社員に驚いた。30年前、同じ場所で自分が何を話したのか覚えていない。目標は社会でいろいろな人に会う中で見つかった気がする。経験から言えるのは焦らなくてもいいということ。若い頃に壁にぶつかって悩み、迷った日々は将来の肥やしになる▼壁は自らつくることもある。真面目な人、優しい人ほど壁をつくって、突然心が折れるという内容の記事を読んだ。必要なのは「助けてもらう力」。特別な才能ではない。あいさつする。「ありがとう」を言葉にする。「でも」より「やってみます」と言う。相談相手に結果を伝える。積み重ねが人との距離を少しずつ変える▼個人的に決めていることがある。うそはつかない、間違ったことをした時は謝る。幼少期に親や先生から口酸っぱく言われた。当たり前と言われるかもしれないが、実践するのは難しい。できない大人を見てきた▼うららかな春の日差しと裏腹に生活環境の変化で心身のバランスを崩しやすい季節。ダンゴムシのように丸まりたい時もある。焦らず、ゆっくりと。人に助けてもらう。その力を身に付けたい。(添)(山陰中央新報・2026/04/15)(右下写真も)

 このところ、ずっと鬱屈した気分に覆われていました。いろいろと気に病むことばかりが起こるのが世の習いと、いまさらのように思いいたるのです。特に、先月23日から「行方不明」が伝えられていた、京都府南丹市園部の小学五年生とみられる男児の「遺体」が発見されたという一報が、昨夕流れました。一面識もない小学生の事件だった(と想定される)が、いたたまれない気分に襲われていました。ぼくは、若いころから学校の教師をしようと、漠然とではあったが、考えていたし、そのために大学で教員資格を取った。卒業後は京都に帰り、田舎(山間部)の中学校の教師になることを思い描いていた。それも、園部あたりの学校でやろうか、と考えていたのでした。土地勘があったり、園部でなければという理由は特になかったが、親元からは近かったし、山の中の学校という感覚には、その当時の「生活綴り方教育」を実践していた教師たちがまだ健在だったことも関わっていたでしょう。何かと世話になった(迷惑をかけたという意味)中学校時代の教師たちもその近辺に住まわれていた、そんな因縁も作用しての「園部」だったかもしれない。

 (ヘッダー写真:「困っている人を発見!どうする?」<grape>:https://grapee.jp/411462

 大学を卒業しても、ぼくは田舎に戻らないまま、学生生活を続けて、やがてある学校に教員として採用された。それでも、ぼくはいつかは京都の田舎の山間部の学校で教師をしようと、ずっと考えていた。この駄文収録で、今回の事案が起こった地域のすぐ近所で「村八分」という住民同士による「諍(いさか)い」が起こり、やがて裁判沙汰になった結果、「八分」にした住民が裁判で敗訴した事件に触れたことがありました。(「村がなくても、「村八分」は残る」(「人権と特権」:2026/09/21掲載分)今回の園部における問題を知り、この「村八分」事件を想起し、とても「奇遇」としか思われませんでした。その地区がどうというのではなく、遠く隔てられた時間経過の中で、偶然に発生した事件が重なっただけだったでしょう。それでも、ぼくは「園部」駅付近の情景を思い出したりしていた。「長閑(のどか)」を絵にかいたような地域だったが、その空気の中で人々の暮らしがあったのです。(「発見された遺体」は行方不明とされた当人だと判明したとの報道に接しました。ご冥福を祈るばかりです)(左写真は、新藤兼人監督「「らくがき黒板」出演の児童たち(1959年撮影、(C)近代映画協会)(中國新聞・ 2020/2/12)

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 本日のコラム「明窓」に、ぼくは自らの歩みを重ねていました。殺伐とした事件や事故に遭遇するばかりの明け暮れとはいえ、そんなものは嘆くに値しないとは言えませんが、それにしても遥かに離れた地域で起こった「不幸」「不遇」に対してぼくは必要以上に動揺していたかもしれません。そして、新年度の通例でしょうか、コラム氏は「30年後の新しい人」に対して思いやりと優しい助言を合わせて述べておられる。「目標は社会でいろいろな人に会う中で見つかった気がする。経験から言えるのは焦らなくてもいいということ」「若い頃に壁にぶつかって悩み、迷った日々は将来の肥やしになる」と、いかにも、スマートな「格好いいこと」をおっしゃっている。果たしてぼくに「壁」のようなものがあっただろうかと、奇妙なことも思い浮かんできます。組織そのものがぼくには「壁」だったと思う。誰かに命じるのも命じられるのも、死ぬほどいやだったから、もともとが「組織」にはふさわしくない人間だったと自分ではわかっていました。だから、いつだって「無所属(インディーズ)」、それがぼくの偽らない心持ちでした。

 ぼくにとって幸いなことに、有り余る「教室(授業)」、それも向学心に燃えるような情熱を持っているとは全く言えない、そんな学生で満杯の「教室」がありました。一クラス300人をはるかに超える、そんな反教育的教室を放置したままの学校でしたから、教育環境は劣悪そのものだったし、教える側の教育に向ける無関心もひどいものだった。そのことには学生時代に感じていたよりもっと酷(ひど)いものだと直ちにわかりました。そんな学校のスタッフの一人になったのですから、前途は多難だった。大教室では、それこそ毎日が「講演会」という趣でしたね。学生諸君には気の毒なことでしたけれど、そんな悪い環境で、何ができるか、そんなことばかり考えていたように思います。コラム氏とはややニュアンスが異なるかもしれません。ぼくはしばしば「いい人とは、どういう人ですか」と学生に尋ねることがありました。ぼくには実に単純明快な「問い」と「答え」だったと思いました。けれども、多くの学生諸君は「頭をひねる」ばかりでした。どうして?、なんでやねん?と実に奇妙な感覚を持ったことを記憶しています。犬や猫にも分かるようなことだったでしょうよ。

 「情けは人の為ならず」という俚諺(りげん)があります。その解説は「人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分にもどってくる、ということ。誤って、親切にするのはその人のためにならないの意に用いることがある」(デジタル大辞泉)とありました。誤解がはなはだしい例としてよく出されますが、何のことはないんですね。大事なことは、「情けを掛ける」時の「人」は誰かという問題です。日本語の「人(ひと)」には、第一義は「他人」という指示内容があります。しかし、加えて、その「人(他人)」は、自分をも指していることが多いんですよ。自分の部屋に親が黙って入ってしまった時など「勝手に人(他人)の部屋に入らないでよ」ということがあります。自分の部屋だけれど、親からすれば「他人」の部屋ですから、「人の部屋に…」というのでしょう。「情けは人の…」場合はどうですか。「人」は「自分」であると同時に「他人」を意味するとするなら、①「自分のためだけではない」であり、②「他人のためだけではない」③両方のため、という意味も生まれることになるでしょう。(日本語の「私」には「自他共存」状態にあると言ったらどうでしょう。あるいは「自他不分離」でもあるでしょうね。「自分であると同時に、他人でもある」そんな「渡し」を、ぼくたちは生きているんですね)

 言葉使い(表現とその意味するもの)は時代によって変わることはいくらもある、というより、変わるのが当たり前とも言えます。「情けを掛ける(相手の心情を自分の心に思い描く)(ぼくのよく使う表現では「惻隠の情」があります)」とは、他人のためにも自分のためにもなるということを言っているのですが、自分のためになるなら(それを狙って)他人に親切にするというのはどうですか、「アカンでしょ」という、疑問というよりは、「打算が働く」のはよくないですね、要は、そんな程度の事柄ではないかと考えています。同じような意味合いで「人を思うは身を思う」があります。この場合の「人」は「他人」であり、「身」は「我が身」ですね。同じことですよ、自分だけいい思いをするのは、具合が悪いんじゃないですかと、問われている気がしませんか。つねづね学生諸君に尋ねていた、「(あなたが考える)いい人とは、どんな人でしょうか」という答えは一つではないでしょう。いろいろな意味が含まれているのが言葉というもの。それを狭く、固定してとらえるのは言葉を使う姿勢としては褒められませんね。その点では、学校は狭すぎます、ミリ単位を「後生大事に」、振り翳(かざ)していますからね。

 これと似たような、いかにも誤解されそうな表現(俚諺)に「転ばぬ先の杖」というのがあります。「前もって用心していれば、失敗することがないというたとえ」(デジタル大辞泉)という。そんなことが本当にありますか。似た表現の「備えあれば患いなし」に重なります。いかにも慎重に人生の階段を上る人専用のことわざでしょうか。しかし、とぼくは考えてみる。「転んでわかる痛さ」というものがあり、「備えはあっても憂いは残る」のだという経験もまた真実でしょう、そんな減らず口をたたいてみたくなるのです。わざわざ言わなくても、ぼくは「経験」をとても重んじてきました。スキーの滑走法を書いた本をいくら読んでもうまくは滑れないし、バッハの伝記を何冊読もうが、彼の音楽の演奏には役には立たない。「習うより慣れろ(Learning by Doing)」とか、「百聞は一見に如かず(Seeing is Believing)」という「ことわざ」は、先人の経験から得られた「知恵のエキス」が生み出した表現ではないですか。ぼくは、それを本当に重んじてきました、教えられてきたのです。(右写真:BBC・2019年8月15日:https://www.bbc.com/japanese/video-49353674

 「焦らず、ゆっくりと。人に助けてもらう。その力を身に付けたい」とコラム氏は一文を結んでいる。「焦らず、ゆっくりと」は、ぼくも同じです。「人に助けてもらう」について、ぼくは言いたい「(自分のできる範囲で)困っている人を助けられる力を身に付けたい」と。「助けられる人」にぼくはなりたいし、諸君にもなってほしいと、暇があれば口にしていました。ぼくの実感では、それほどに「困っている人には近づかない、関わらない」そんな人が、思いのほか多くいたように思われたからでした。「見て見ぬふりをする(Turn a blind eye)」だったでしょうか。翻って、今はどうでしょうか。「袖すり合うも他生の縁」というのも、仏教系ですね。

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He is desperately seeking relief.

 彼は、自分自身にも他人にも、自分の(実際には備わっていない)「凄さ(greatness)」「異能(extraordinary ability)」を誇示するためなら何でもするだろう。詰まりは「軽薄な男(a frivolous man)」なのです。彼は世界情勢やアラブ諸国間の複雑な地政学にはほとんど関心がなく、基本的な知識すら欠いていると思う。もちろん、イランへの空爆は(ベネズエラ爆撃と同様)、彼自身の判断ではなく、「狡知は、自分自身にも他人にも、自分の(実際には備わっていない)「凄さ(greatness)」「異能(extraordinary ability)」を誇示するためなら何でもするだろう。詰まりは「軽薄な男(a frivolous man)」なのです。彼は世界情勢やアラブ諸国間の複雑な地政学にはほとんど関心がなく、基本的な知識すら欠いていると思う。もちろん、イランへの空爆は(ベネズエラ爆撃と同様)、彼自身の判断ではなく、「取り巻き」が使嗾(しそう)・扇動したものだと私は確信している。(ヘッダー写真「米国がイラン攻撃に踏み切った直後の3月5日、ホワイトハウスにキリスト教福音派の牧師ら20人が集まった。神妙な表情のトランプ大統領に牧師は手をかざして「米軍に神の恵みがありますように」とイラン攻撃の成功を祈った」日本経済新聞・2026/03/30)

 しかし、言われるがままに攻撃を開始してしまった後で、彼は「侵略(戦争)」をいつ終わらせるかという「青写真」(出口戦略)を持っていなかったことに気づいた。時が経つにつれ、ガソリンをはじめとしたアメリカ国内の物価は高騰し、ドルは下落し、市場は彼の無知と無謀さを嘲笑うかのように、彼の意に反して(激しく)動いた。彼は依然として「ビジネスマン」であり、何よりも、市場に自分の「偽りの姿」を見抜かれることを恐れている。

 彼は常に自分を「力強い存在(王様)だ」と広言したがる。実際のところ、この「虚言」は、紛れもなく、彼自身の「臆病さ」を示している。これが、彼の発言が矛盾し、絶えず変化する大きな理由です。彼の著しい欠陥は、他者の命への「顧慮(consideration)」のなさであって、同時に、こんな人物が大統領であることを公認している米国市民の道徳的頽廃もまた看過できないほどのものがあります。

 そして今、彼は本当に自分が「救世主イエス」だと信じたがっているのでしょう。彼には冗談を言う余地・余裕などなく、「溺れる者は藁にもすがる」という状況に喘(あえ)いでいたのです。彼が自らを「イエス・トランプ」と宣言した瞬間、彼の底なしの愚行に対して四方八方から、(福音派からでさえ)矢と弾が降り注ぎ、彼は一瞬たじろいだように見えました。そして、いつものように虚勢を隠し、脅迫と恐喝に訴えました。いつでも使いたがる<We won.>という言い草には、彼の人生観が滲(にじ)んでいます。勝ち負けでしか、人間のの能力を測れないとは、いかにも獣的ではないでしょうか。彼の内なる葛藤はしばらく続くでしょう。彼が健全な判断を下せるようにならない限り(もはや無理だと思う)、大統領の座にとどまることは不可能だと、ぼくは考えています。世界(彼自身は元より)は彼の揺れ動く「衝動(impulse)」(on schizophrenia)によって翻弄されているのです。(だれもが油断していると、彼は「核のボタン」を押す「現代のイエス」になりかねない。「時代」はそれほどの危殆に瀕している)

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《トランプ米大統領は自身をイエス・キリストのように描いた画像をソーシャルメディアに投稿し、その後削除した。支持者も反発するなど、批判の声が上がっていた。/問題のt投稿は、米国旗を背景にローブ姿のトランプ氏が病人に手を触れている様子を描いたもの。米国とイスラエルによる対イラン戦争を非難したローマ教皇レオ14世をトランプ氏が批判した後に投稿された。/「神はいかなる紛争も祝福しない」と米政権の主張に異議を唱えたローマ教皇について、トランプ氏は「犯罪に対して弱腰だ」と批判していた。/トランプ氏は13日、問題の画像を投稿したことを認め、自身を医師として描いたものだったと釈明した。/「私はそれを投稿したし、医者として描かれ、赤十字に関係しているものだと考えていた」と発言。その上で「医師として人々を癒やす姿を描いたもので、私は実際に人々を癒やしている」と述べた》(Bloomberg・2026年4月14日 at 6:21)

 《トランプ氏のイエス・キリストのようなイメージとローマ法王との確執が、いかに反発を招いているか/ドナルド・トランプ大統領は、自身をイエス・キリストのような人物として描いた画像をTruth Socialに投稿したことで、ますます強い反発に直面している。/現在削除されているこのAI生成画像は、トランプ氏が病院のベッドで病人を癒しているように見える様子を描いていた。この画像が投稿されたのは、大統領がローマ教皇レオ14世を批判する長文のメッセージを投稿した数時間後のことだった。/大統領はその後、その画像は自分を医者として描いたものだと思ったと述べている。/BBCのサラ・スミス記者が、大統領とローマ教皇の間の確執、そして大統領の最も熱心な支持者たちの反応について解説する》(BBC・2026/04/14)(https://www.bbc.com/news/videos/c624dy3pgg2o

初の米国出身のローマ教皇と米国大統領は、中東戦争に関して全く異なる見解を表明した。
4月5日: 教皇レオ1世は、初めての復活祭の祝福の中で、「戦争を引き起こす力を持つ者たち」に「平和を選ぶ」よう強く促した。
4月7日:トランプ氏はTruth Socialに、イランがホルムズ海峡を開放しなければ「今夜、一つの文明が滅び​​るだろう」と書き込んだ。その後、教皇レオ1世は記者団に対し、「今日、イラン国民全体に対するこのような脅威があったが、これは到底容認できない」と述べた。
4月11日:イランとアメリカの交渉担当者が戦争終結に向けた協議のために集まる中、レオ教皇は国際社会に対し「戦争という狂気」を終わらせるよう強く訴えた。
4月12日:トランプ氏はローマ教皇を批判し、「政治家ではなく、偉大な教皇であることに専念すべきだ」と述べた。同氏は教皇が「犯罪に弱腰」で「過激左派に迎合している」と非難した。トランプ氏はソーシャルメディアへの長文投稿で、レオ教皇は「感謝すべきだ」と述べ、「私がホワイトハウスにいなければ、レオはバチカンにいなかっただろう」と付け加えた。
4月13日:レオ教皇は記者団に対し、「トランプ政権を恐れていないし、福音のメッセージについて声高に語ることも恐れていない」と述べた。(BBC・2026/04/13)(「教皇に逆らう者は滅びる(chi mangia papa crepa)」)
トランプ氏、イラン問題でローマ教皇レオ1世を攻撃 ドナルド・トランプ氏は、ローマ・カトリック教会初の米国人指導者であるレオ14世が、トランプ氏によるイランへの脅迫を非難したことを受け、ソーシャルメディア上でレオ14世を強く批判している。
米大統領はTruth Socialに長文の投稿をし、ローマ教皇は「外交政策にとって最悪だ」と書いている。
「イランが核兵器を保有することを容認するような教皇は望まない」とトランプ氏は述べている。
トランプ氏は、教皇レオに対する他の多くの不満を列挙し、教皇レオは「犯罪に弱く、核兵器にも弱い」と書いている。
先週、レオ1世は、イランが戦争終結のための合意に至らなければ「今夜、一つの文明が滅び​​るだろう」というトランプ大統領の脅迫を批判した。/彼はそれを「到底容認できない」と述べ、さらに「確かに国際法上の問題もあるが、それ以上に、これは道徳的な問題だ」と付け加えた。(BBC・2026/04/13)
大統領は、削除された投稿は自分を「キリストのような人物ではなく、医者として描いたもの」だと述べている。
トランプ氏は、本日未明にTruth Socialで共有した、自身をキリストのような人物として描いた物議を醸す画像から話を始めた。この画像はその後削除されている。/彼は、その画像は自分をイエスのような人物としてではなく、「人々を癒す」医師として描いたものだと述べている。/彼は、メディアがその物語を「でっち上げた」と非難している。(BBC・2026/04/13)

(右写真・「イスラエルのテルアビブで、福音派団体が設置した看板の前。トランプ米大統領の写真とともに「神とトランプ氏に感謝」という文字がある。3月12日撮影。REUTERS/Nir Elias」Reuters・2026/04/09)

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◎ キリスト 教福音派(Evangelical)=キリスト教のプロテスタントから派生し、聖書の文言を原理主義的に解釈する。英語では「エバンジェリカル」。神はアダムをつくり、妻イブをアダムの肋骨ろっこつからつくった―とする創世記の創造論を信じ、ダーウィンの進化論を否定する。ピュー・リサーチ・センターの2014年の世論調査によると、米国では成人の25・4%を占める。キリスト教の最大勢力で、プロテスタント主流派の14・7%、カトリックの20・8%をしのぐ。(カルマン共同)キリスト教のプロテスタントから派生し、聖書の文言を原理主義的に解釈する。英語では「エバンジェリカル」。神はアダムをつくり、妻イブをアダムの肋骨ろっこつからつくった―とする創世記の創造論を信じ、ダーウィンの進化論を否定する。ピュー・リサーチ・センターの2014年の世論調査によると、米国では成人の25・4%を占める。キリスト教の最大勢力で、プロテスタント主流派の14・7%、カトリックの20・8%をしのぐ。(カルマン共同)(共同通信ニュース用語解説)

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水と油を「乳化」させるには

 朝から快晴で、まさしく薫風の候というのでしょう。まだまだ花粉が飛散していますので、油断はできませんけれど、少しは外に出かけてみたい気もします。地球の内外、さまざまに吉凶交々という、いつに変わらぬ、chaos(カオス)とcosmos(コスモス)の糾(あざな)える縄状態であります。月から地球を見た映像が送られてきました。月への使者が地球に贈ったプレゼントだったのでしょう。地球の住民よ、争いやいがみ合いは止めたらどうだと、離れてみれば、まるでボール玉のような、可憐な地球の姿に、ある種の感慨を催してきます。(ヘッダー写真:オリオンから撮影した「地球の入り」=NASA提供)(読売新聞・2026/04/11)

 かと思えば、衝動に駆られて始めた「イラン戦争」、たくさんの死傷者を生んでなお、停戦に至る道筋さえも見いだせないという愚かさに、ぼくは別種の感慨を抱きます。よく水と油といいます。「水と油が互いに溶け合わないように、性質が合わず、しっくり調和しないこと。油と水。油に水」(デジタル大辞泉)その水と油の混合水に「界面活性剤(例えば石鹸など)」を注入すると、どうなるか。犬猿の仲同士が、対面してもうまく交渉は進まないのは道理で、「水と油」ですから。それをうまく対話・交渉に乗せる(「乳化」させる・Emulsifying)「仲介人(界面活性剤)」が求められます。今回はパキスタン。果たして、その展開は。この「界面活性剤」が十分に機能しなったのか、あるいは、交渉両国が必要以上に汚染・汚濁水であったせいでしょうか。いずれにしても、「予想通りの物別れ」、そして互いの「水分の汚染・汚濁度」を罵(ののし)りあっているのかもしれません。多くの人が考えている以上に「泥沼」は続くとぼくは心配している。

 本日は、二つのコラムを引用しておくだけ。まずは「明窓」から。「物は考えよう」とは言いますが、いろいろな人がいろいろなことを言います。「水平思考」だの「垂直思考」だの。お好きにどうぞ、というばかりです。文中に出てくる「個性」という表現。これもまたずいぶんと好き放題に使われてきた言葉でしょう。第一は「個性的」という意味での、「ある人に特有の」ということのようです。そして次にはその固有性を尊重するという意味で「個性重視」。「個性蔑視」は言うもはばかられる忌み語ですから、ひたすら「個性尊重」の一点張り。~だけというのは、実に危ういですね。

 こんなに長い間、広く叫ばれながら、いまだに「教育は個性を尊重することです」といわれているのは、個性が尊重されてこなかったし、今も尊重されていないからでしょう。もっと言えば、「個性」とは尊重されるものなんですか、されないものかもしれないと、ぼくなどは考えてしまいます。犬や猫と人間は「種」が違う。それを、それぞれの「固有性(種)」、つまりは「個(性)」といっているに過ぎない。犬は犬、猫は猫、人は人というだけのこと。とすれば、「自分らしく」と、ことさらに「個性」「個別性」を主張しなければいけないものかどうか、ぼくには怪しく思われてきます。Aさんと B さんは別人、それをして「個」「個性」といっているだけのことでしょう。それをどのようにして「尊重」するのでしょうか。もっと別の視点と姿勢が求められていませんか。「個性は尊重」「規則で縛る」という、この垂直思考なんですか、出鱈目無思考が幅を利かせる学校という環境を、激しく問い直したいですね。

 詳しく話すと駄文が長くなるので、それはしない。「間違いじゃない。それでいい」と、縦書きの常識を覆す、それが「水平思考」なんです、というコラム氏の指摘。いかにも馬鹿らしいけれど、「個性は尊重されなければ」ということらしいですね。。

【明窓】「間違いじゃない。それでいい。」 水平思考のススメ 先週末に足を運んだ横浜市で奇妙な広告板を見つけ、思わず二度見してしまった。「間違いじゃない。それでいい。」-。白地のスペースは横長なのに文字は縦書き。まるで布団に寝そべっているかのように、2行にわたり書かれていた。◆地元の学校法人のPRで、右隣に法人名が普通に横書きで記されており、その上に「『自分らしく』を応援します」という文字があった。別の場所では「間違いじゃない。それでいい。」の縦書き文字が上下逆転した縦型の広告板も見かけた。違和感が募るが、決して“間違いじゃない”ようだ。◆「文字は正しく配置すべきだ」という世間の常識をあえて逸脱することで、人目を引くのが狙いだろう。個性を尊重する校風のアピールにも見事に成功している。広告媒体として秀逸だ。◆この違和感は水平思考にも通じる。問題を解決するため固定観念にとらわれず、物事を多角的に考察する手法のこと。対する垂直思考は、一つのアイデアや問題を深く追求する考えを指す。情報のスピードが速く先行きの予測が難しい現代では、型にはまった考え方より、常識を逸脱するような水平思考が必要だ。◆新年度が始まって間もなく2週間。研修を終えた新社会人の職場配置もそろそろか。自由にアイデアを出してほしい。同時に上司の側も頭ごなしに否定するのではなく、「間違いじゃない」と温かく見守る度量を持っていたい。(健)(山陰中央新報・2026/04/12)(ヘッダー写真;「間違いじゃない。それでいい。」と縦書きで書かれた広告板=5日、横浜市神奈川区

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【春秋】色を消して、顔を上げて 4月から何か新たに始めたいことはあるだろうか。各種調査によれば、定番はウオーキングや食生活改善といった健康もの、節約や投資のマネー関連が上位に入る。一方で改善したいことを問うと、浪費や不規則な生活、との回答が多い。人の願いは表裏一体だ▼先日、知人が「きょうから始めたよ」とスマホの画面を見せてくれた。色がない。白黒だ。いわく、スマホを見ている時間が1日平均4時間、計算すると1年間で60日分に相当すると知り、ショックを受けたらしい▼スマホには使用時間を表示する機能があるので、一度確かめてみてほしい。2時間でも年730時間、30日分になる▼時間を減らしたいならば、画面の色を消すことが一つの方法だ。スマホの設定を変えるだけで、簡単に白黒に切り替えられる。同じ文字や画像なのに、色が消えた途端、魔法が解けたように見続ける意欲が落ちる。台湾の元デジタル担当相オードリー・タン氏も白黒画面を実践していると公言していた▼鮮やかな色彩は脳を興奮させて、「もっと見たい」という快楽物質のドーパミンを分泌させるそうだ。画面は極彩色のショーウインドーのように視覚を刺激している▼情報を欲していたのではなく、色という刺激に惑わされていた時間の方が長いのかもしれない。季節は、花咲く春から新緑の初夏へ。世界は鮮やかな色に満ちてゆく。さあ、顔を上げていきましょう。(西日本新聞・2026/04/12)

 「色を消して、顔を上げて」という、コラム「春秋」の意見。ぼくはスマホを持たないから、語る資格はありません。でも、「色を消して」といっているのは間違いでしょう。「黒」は色ですからね。「先日、知人が『きょうから始めたよ』とスマホの画面を見せてくれた。色がない。白黒だ」と。コラム氏はびっくりすることをいう。「白黒」を色でないといわれる。本当ですか。どこまで行っても「色がない画面」と書かれる。おかしいですねと、ぼくは目を凝らして、コラムを読む。「同じ文字や画像なのに、色が消えた途端、魔法が解けたように見続ける意欲が落ちる」、指摘されることはわかります。でも無色の画面がスマホに出せるんですかと、問いつづけたいですね。

 「鮮やかな色彩は脳を興奮させて、『もっと見たい』という快楽物質のドーパミンを分泌させるそうだ。画面は極彩色のショーウインドーのように視覚を刺激している」と書かれている。「そんなの当たり前じゃん(That’s obvious.)」といいたくなりますね。「水平思考」と「垂直思考」の「まやかし(deception)」を、そうは捉えられていないもどかしさ、まあ、一種の「あやかし」に遭遇しているんでしょうね。

 この 「あやかし」という語にぼくは惹かれてきました。「1 船が難破する時に海上に現れるという化け物。2 不思議なこと。また、そのもの。妖怪(ようかい)。3 コバンザメの別名。4 (「怪士」と書く)能面の一。男の怨霊(おんりょう)を表す面。5 愚か者」(デジタル大辞泉)と、豊かなものです。

 「常識にとらわれない、水平的思考」などといわれると、ぼくは間違いなく逃げ出します。一つの漢字を「音で読む」か、「訓で読む」か、その程度の違いだろうと思う。それは大変な違いですけれど、その違いを調べると、どこかで収まりがつくものです。ぼくはコラム氏に直言したいですね。「色を消して、顔を上げて」ではなく、「スマホを消して、顔を上げて」と、ね。このところの各紙の「コラム」、(生意気を言わせていただくと)なんというか、停滞前線の中に巻き込まれている気がします。水平でも垂直でもいい、色を消しても消さなくてもいい、「書くべきこと」(「書きたいこと」ではありません)を、全体重をかけるほどのどっしりさで、しっかりと書く。もちろん、これは自らへの自戒(self-admonition)であり、注意喚起(call for attention)でもありますよ。

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「徒然に日乗」(1060~1066)

◎2026年04月12日(日)終日好天が続く。報道によれば、真夏日になった地点も出たという。▼午前中、少しばかり裏庭の除草をした。焼け付くような暑さではなかったので、ほんの少しだったが、除草作業をし、溜まっていた「燃やせるゴミ」の償却も。▼昨日送っておいた娘二人への「筍(タケノコ)」が届いたという電話が午後、前後して入った。一人は横浜市、もう一人は草加市在。ともに元気の様子。▼夕方になって、イスラマバードで行われていたイラン・米による「和平交渉」が物別れに終わったというニュース。どう考えてもまとまるはずもない交渉だから、ぼくの想定通りで驚きはしないけれど、この状態(泥沼)が続く限り、日本への石油の輸出は一層困難になるだろう。2月28日の、アメリカ・イスラエルによるイラン侵攻以来、一隻のタンカーもペルシャ湾経由のものは日本の港に入ってきていないのだ。この先、「備蓄」はどれだけ持つのか。半年は絶えられないとすると、いずれは強烈な「オイルショック」が劣島を収集するのは確実。▼《高市首相、憲法改正「時は来た」「発議に目処立った状態で来年の党大会迎えたい」…自民党大会で意欲 高市首相(自民党総裁)は12日、東京都内で開かれた党大会で憲法改正について、「立党から70年、時は来た。改正の発議について何とか目処が立ったと言える状態で来年の党大会を迎えたい」と語り、早期の国会発議に意欲を示した。(中略)/今国会では衆院憲法審査会で9日、実質審議が始まっており、緊急事態条項の改正条文案の作成に入れるかが焦点となっている。首相は「どのような国を作り上げたいか、理想の姿を物語るものが憲法だ」と強調し、「国民に堂々と問おうではないか」と訴えた》(読売新聞・2026/04/12)▼「憲法改正」が党是だというのは事実だが、今何をすべきか、おそらく政権担当者たちの眼中にはないのだろう。無知無能であってみれば、残念だけれども「現状把握」もできないのだから、国と国民は「地獄を見るぞ」と言っておく。▼現職自衛官が自民党大会で「君が代斉唱」が憲法等に違反しないのか。子の門田については改めて。(1066)

◎2026年04月11日(土)おそらく今年最も暑い日となっただろう。25度は超えていたのではないか。午前中に裏庭の除草をしようと準備はしたが、日差しが強く、とてもこの暑さでは無理だと、何もしないで止めてしまった。まったく暑さに体力が慣れていないのだから、無理をする手はないのだ。徐々に慣れてゆくしかないと思う。その後、茂原まで買い物に出る。日曜日で好天だったから、人出はそれなりにあった。▼《ワシントン(AP)-メラニア・トランプ大統領夫人が木曜日に突然発表した、不名誉な性的人身売買犯ジェフリー・エプスタインとの関係を否定する声明は、金曜日になっても、この事件が世間の注目から遠ざかっていた時期に、なぜこのような声明が出されたのかと人々を困惑させた。/メラニア・トランプ夫人は木曜日、ホワイトハウスで用意された声明文を読み上げ、故金融家との関係について、自身と弁護士らが「根拠のない嘘」と戦っていると述べた。故金融家は有罪判決を受けた性犯罪者で、富裕層、権力者、有名人との繋がりを利用して被害者を勧誘し、犯罪を隠蔽していた。/「私をあの恥ずべきジェフリー・エプスタインと結びつける嘘は、今日で終わりにしなければならない」と彼女は述べた。「私について嘘をついている者たちは、倫理観も謙虚さも敬意も持ち合わせていない。彼らの無知を非難するつもりはないが、私の名誉を傷つけようとする彼らの悪意に満ちた企みを断固として拒否する。」(AP・2024/04/11)大統領も知らなかったという、突然(と思われる)会見。この時期に予告もなく開く、いったいそこにどういう意味(意図)があるのか、各紙も探りかねている。(1065)

◎2026年04月10日(金)曇りのち雨の天気だった。雨の合間を利用して買い物に茂原まで。帰宅後は自宅に。▼明日からのイラン・アメリカの停戦協議を前にして、すでに「停戦協議」が破綻しているような激しい動きがいろいろなところで見えている。理由もなく爆撃が始められたのだから、理由もなく停戦するのも道理だが、当事者と目される人たちには物事を合理的に考える習慣がないだろうから、簡単に「停戦」や「和平」に至るとは思われない。詰まり「泥沼状態」に陥ってしまったという感想を持つ。この国においても石油消費に大きな危機が始まったのだが、これがいつ終わるとも知れないで、長く続くだろう。最大の問題は「ホルムズ海峡を、どこ(だれ)が実効支配するか」というのだから、簡単には終わる問題ではないのだ。アメリカの「軽率」な爆撃は、文字通りの「藪蛇」だったと思う。(1064)

◎2026年04月09日(木)終日快晴。本日も長南町の街道筋を走る。房総半島の南部になるが、信号もほとんどなく、道路は整っているし、交通量も多くはなく、適度なドライブ派には格好の環境だと思う。その後、茂原市内に戻り、買い物をして帰宅。▼アメリカとイランの2週間の「停戦合意」。だという。まだ不安は残るが、アメリカはこれ以上の侵攻・爆撃は無理だろうし、まして地上軍の派遣は不可能とみる。加えて、ホルムズ海峡のイラク軍の実効支配が認められたとするなら、今後の日本への石油調達が可能になったと見るべきか、疑わしい。「ホルムズ海峡」の支配(航行)権は国際協調によっていたが、イラン軍管理となった分だけ、イランの権益が増強することになろう。*「アラブ首長国連邦ドバイ(AP)-イラン内戦における暫定的な停戦は、イスラエルによるベイルートへの爆撃、テヘランによるホルムズ海峡の継続的な封鎖、そして土曜日に予定されている協議で共通の立場を見出せるかどうかの不確実性といった重圧の下、木曜日に揺らぎ始めた。/火曜夜の停戦発表後、勝利を宣言したイランと米国は、圧力をかけているように見えた。イランの準国営通信社は、石油輸送の要衝であり、封鎖がテヘランにとって最大の戦略的優位性となっているホルムズ海峡に、米軍が機雷を敷設したと報じた。一方、ドナルド・トランプ大統領は、イランが合意を履行しなければ、米軍はこれまで以上に厳しい攻撃を行うと警告した。/また、停戦合意にイスラエルとヒズボラ間の戦闘の一時停止が含まれるかどうかについても意見の相違があった。イスラエルは水曜日にベイルートを空爆し、2月28日に戦争が始まって以来、レバノンで最も多くの死者を出した日となった。/また、緊張の中心となっているイランの濃縮ウラン備蓄がどうなるのか、海峡を通る通常の航行がどのように、いつ再開されるのか、そしてイランが将来ミサイル攻撃を行い、地域の武装勢力を支援する能力はどうなるのかといった点についても、依然として疑問が残っている。(以下略)」停戦協定に入ることができるかどうか。暗雲が垂れ込めてきた。(AP・2026/04/09:午後9時50分)(1063)

◎2026年04月08日(水)昨日とは一転した好天の一日。午前中に自動車のタイヤのボルト締め(弛み)の確認と、オイル交換のためにいつもの自動車工場へ。タイヤ交換、車検後、およそ100キロ走行をめどにタイヤボルトの弛みを直し、かなり長くオイル交換をしなかったので、交換(約5㍑)。車検時にどうしてしなかったのか、理由は不明。エレメントと間違えたかもしれない。気のせいか、新しいオイルに入れ替えたので、踏み出しや走行がかなりスムースになったと感じられた。(1062)

◎2026年04月07日(火)終日小雨が降り続く。気温も肌寒さを感じさせるほどのものだった。▼イラン戦争(アアメリカの侵略)の帰趨は、たぶん米大統領にも分かっていないのだ。彼はある種の動物だから、自分に不利になるものは避け、少しでも有利と思えば、無我夢中で追いかける。現段階では、彼の本能はマヒしかかっており、本能らしさも混濁しているのだろう。単なる暴力でしかない戦争をだれが支持するのか、米国社会も大統領の感覚を疑っているだろうし、この東洋の小国の首相でさえ、今頃になって、訪米中の振る舞いの醜悪さに気が付きかけているのかもしれぬし、いやそれは無理だという話かもしれぬが、ずれにしても「任にあらず」というほかない。(1061 )

◎2026年04月06日(月)快適な一日。午前中に茂原まで買い物。帰宅後は自宅内に。午後、一枚のはがきが。高校時代の「同窓会の案内」昭和38(1963)年3月卒だから、63年が経過したことになる。ぼくは一度も参加したことがない。先日T君が「最後かもしれないから、ぜひ参加してくれないか」と電話をかけてきた。6月だから、まだ時間はある。場所は嵐山の料理屋だという。当時は、毎日のように友人と遊んでいた曽遊の地。▼イラン情勢はますます混沌としてきた。米国大統領は常軌を逸しているのは前からだが、さらに進行しているようで、いうことが支離滅裂。万難を排して排除しなければならない時期にあるように思う。いつ何時「核のボタン」に手を掛けるかもしれぬ。属国としても「とんずら」はできないだろう。自他の「政道」をただすべく行動に出るだけの勇気と正義感はあるまいな、この劣島の政治家には。「正常な感覚」の持ち主にはあり得ないは減の嵐だ。<He said: “Tuesday will be Power Plant Day, and Bridge Day, all wrapped up in one, in Iran. There will be nothing like it!!! Open the Fuckin’ Strait, you crazy bastards, or you’ll be living in Hell – JUST WATCH! Praise be to Allah. President DONALD J. TRUMP”/Afterwards, he told Fox News there was a “good chance” a deal would be reached on Monday, but he was considering “blowing everything up and taking over the oil” if a deal to end the war was not reached quickly.>(BBC・2026/04/06)(1060)

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無理なんだ、もっと真摯な「政治」は

【国原譜】演説とはなかなか面白いものだと、改めて思った。最近のでは、イラン攻撃についてのトランプ米大統領の国民向け演説が一番だ。▼中でも、イランを「石器時代に戻す」という発言には抱腹絶倒した。比喩として上等かどうかは別として、こんなことを口にできる“才能”は認めていいかもしれない。▼だが面白がってばかりはいられない。米国とイスラエルが始めたイランへの攻撃が、私たちにも実害を及ぼしているからだ。トランプ氏は一体何をしたいのか。▼演説からうかがえるのは、攻撃の目的はイランの核武装阻止。イランに対する昨年6月の「真夜中の鉄槌作戦」にも触れているから、その続きということか。▼核兵器廃絶を願う日本の庶民としては評価したい。ただし、米国自らが保有する大量の核兵器はどうなるのだ。ロシアや中国など諸国の核兵器はどうなるのだ。▼演説での「米国から石油を購入してほしい」という海外に向けた一節にも笑った。安価で良質なら、日本も買えばいいのでは。だがしかし、世界が「力による平和」を乗り越えるのは、もっと先になりそうだ。(北)(奈良新聞・2026/04/12)

⁂ 週初に愚考する(114)~ 米国大統領の、狂気に発する「一国文明撲滅」演説を聴いて(読んで)「抱腹絶倒した」というコラム氏の無神経に虫唾が走りましたね。奈良新聞とは、やはりこんなに愚かしい記者が生息している会社なんだと、いらぬ「いちゃもん」を付けたくなったほどでした。「イランを地上から抹殺する」という狂人の狂言を「こんなことを口にできる“才能”は認めていいかもしれない」と言ってのける。(驚くのは、こんな「ゲテモノコラム」が、そのまま新聞に掲載されるというで無神経さ、です)「デリカシー」もなければ、「惻隠の情」も持ち合わせていないとは、なんと気の毒な、可哀想なと思うと同時に、ぼくは情けなくなる。この新聞社が「初めての女性宰相」誕生を祝して書かれた「奈良の女」連載を読んでいて、大丈夫だろうかと気を揉んだとおりに、首相としてはおそらく、歴代最低レベルの、人間としては水準以下の「女性宰相」に対して、応援団新聞は「贔屓の引き倒し」寸前の「ほめ殺し(over-praising)」だった。(ヘッダー写真は「商店に置かれたテレビでニュースを見るパキスタンの市民)4月11日、ハイデラバードで撮影(2026年 ロイター/Yasir Rajput)

 初の訪米時における数々の下品な(vulgar)「振る舞い」で「属国宰相」ぶりをいかんなく発揮したのも、頷けるとは言うまい。出身地奈良からすれば、彼女は「故郷の誉れ」かもしれぬが、一人の国民にとっては、まぎれもない「卑屈な媚態」「恥辱」と映りました。いかにも「国辱」の名に恥じぬ「軽薄・軽率」な日本の首脳の「能天気」は、より一層米国の『手下(minions)(flatterer)」になり下がった印象を世界中に広めた、首相の、その「功績」は認める。(悲しいかな、この国が世界でどのように評価されているかはほとんど知られていない。「知らぬが仏」ですね。今では「貧乏な、お人よしの国」と評されている。それだからと、どうというつもりなないのです、実態ですから)

 繰り返し言うようですが、「イランを『石器時代に戻す』」という発言に対して、コラム氏は腹を抱えて卒倒したそうだが、「君は馬鹿か」といいたいくらいです。もちろんこの「石器時代に戻す」という思いあがった発言の出どころは、ヴェトナム戦争の「北爆」を指揮したカーチス・ルメイ将軍の発したもの。彼は典型的な米国軍人で、東京大空襲の指揮を執ったことでも知られる。一人の「英雄」として日米両国のある部分からは高く評価されているのだ。(「トランプ氏、イランを今後2〜3週間『極めて激しく』攻撃 『石器時代に戻す』」BBC・2026/04/02)《https://www.cnn.co.jp/usa/35245959.html)(ぼくは奈良新聞のコラム「国原譜」掲載について、読者としての感想をと電話をかけ、担当者がいなかったけれど、批判の趣旨を担当記者に伝えてくれと、電話を受けてくださった方にお願いしました。日曜のお昼前でした)

カーチス・エマーソン・ルメイ(英語: Curtis Emerson LeMay、カーティス・ルメイまたはカーチス・E・ルメイ、1906年11月15日 – 1990年10月1日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人、空軍軍人。最終階級は空軍大将。/第二次世界大戦中は第20空軍隷下の第21爆撃集団司令官に赴任し、東京大空襲を指揮。1957年7月から1965年2月まで第5代空軍参謀総長を務め、在任中はキューバ危機の間にキューバのミサイルサイトの爆撃を呼びかけ、ベトナム戦争の間に持続的な北ベトナム爆撃キャンペーンを求めた。(中略)「鉄のロバ」(頑固者)と呼ばれ、訓練が実戦で生死を分けると信じており、作戦と作戦の間に部下を徹底的にしごき、寡黙で鬼のように厳しかったが、部下からは絶大な信頼を寄せられていた。(中略)戦後のルメイは「我々は東京を焼いたとき、たくさんの女・子供を殺していることを知っていた。やらなければならなかったのだ。我々の所業の道徳性について憂慮することは(中略)ふざけるな」と語った。(Wikipedia)

 トランプ米大統領の「イランを地上から消してしまう」という魂胆はどこから出てくるのか。ルメイ元将軍が、当時(1960年代)のヴェトナム人に対して抱いていた「侮蔑感情」が、現大統領に伝染した挙句の言葉だったでしょう。後年のルメイ元将軍の述懐です、(ルメイは日本爆撃に道徳的な考慮は影響したかと問われ)「当時日本人を殺すことについて大して悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった」「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことに我々は勝者になった」(同上)「人間を殺したのではなく、虫けらを殺したのだ」という発想です。「轢き逃げ」した当人は「何かを轢いたかもしれないが、人間だとは思わなかった」と、嘯(うそぶ)くのが「決まり文句」のようになっています。

 その将軍に対して。日本政府は「勲一等旭日大綬章」を与えます。佐藤栄作首相の時でした。授賞理由は「航空自衛隊育成の功績」とされていた。その「屈辱姿勢」は一貫して日本政府の米国追従・追随の伝統となったでしょう。奈良出身の女性首相の「恥辱外交」はそのお手本(先例)に忠実だったというほかありません。(左の2枚の写真、20年の隔たりがあったのに、その間に、日本の卑屈な対米姿勢はかえって強くなったと思う)

 「イランを石器時代に戻す、そこが彼らの居場所にふさわしい」と米大統領は言った。すべてを破壊しつくして「石器時代(stone age)に」というのは、一言でいうなら「核爆弾で片づける」ということだったでしょう。コラム氏は、この大統領の狂言を「褒め」もし、「笑い」もした。「悪い冗談」だと確信していたのなら、そう書くべきだったと思う。即座に、すべてを否定しなかったという態度は、この国のメディアの、一部で認められる「頽廃」と「無思慮」の「右代表」という点では、痛憤の極みですね。「『米国から石油を購入してほしい』という海外に向けた一節にも笑った。安価で良質なら、日本も買えばいいのでは」という、このタガが外れた時代感覚、人命を蹂躙する行為に対して、いささかの怒りも糾弾もない。この空恐ろしい姿勢は、大なり小なり新聞全体の、現下の傾向なのかもしれませんが、ここまで堕ちてもなお「新聞記者」であるという、この虚妄さが、房総半島の一老人を激しく苦しめる。

 一国文明を「跡形もなく滅ぼす、一夜にして」という、そのどこがおもしろいのか、抱腹絶倒すべきはコラム氏の「底抜けの無知(無恥)」の方でしょう。歴史から学ばないと、手に負えない愚かさに襲われる一例証でしょうか。奈良の女性首相は訪米中、前アメリカ大統領の肖像の代わりに掲げられていた「自動署名機」(現大統領の、心ない仕打ち、児戯以下の悪意よる)の前で、嘲(あざけ)りの笑いを隠さなかった。それの映像を「ホワイトハウス」側は公式の記録として世界に発信していた、その狙いは何だったか。あるいは「朝貢外交使節」の、たとえようもない愚かさ、滑稽さを嘲笑したかったのだ。この、両国の政治家たちの「政治感覚」のなさ(nonsense)に、ぼくは卒倒します。

 日本の首相はこれほどに「デリカシーのない人間」と、世界に向かって吹聴したのであり、日本を今なお強烈に蔑視する態度が透けて見えていた。なさけないことに、多くの日本のメディアは「侮辱されたという感覚」がなかったと見えて、いまもなお、「日米同盟体制」と、びっくりするような「夢想」を隠さない。まさしく白昼の「夢見」心地にあるのです。その「愚かしさ」は奈良新聞のコラム氏の「知能水準」と寸分も変わらない。再び三たび、この国は米国の踏み台にされ、足蹴にされるのを好き好んで求めているように、ぼくには見える。今でも「ノーベル平和賞」に、狂人大統領を推薦する気でいるんでしょうね、この首相は。そして、きっと「自衛隊をホルムズ海峡に派遣」するとぼくは思っています。理由は、すでに大統領に「約束した」のだから。これを日本では「密約(Secret Agreement)」といい、米国では「公約(public commitment)」という。(「日米首脳」の退任は近いとぼくは直感していますし、期待もしている。世界のため、日本のためになりませんから、一日も早い辞職(解任)を念じている)

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