「人権の館」は火宅だったんだ

 国際人権組織「アムネスティ日本」でパワハラ疑惑、職員「罵倒された」と訴え 労組が事務局長らの解任を要求 国際的な人権擁護組織である公益社団法人アムネスティ・インターナショナル日本(本部・東京都千代田区)の労働組合は、田嶋俊博事務局長と内藤裕子理事長の辞任を法人に求めている。田嶋氏が怒鳴るなどのパワーハラスメントで職員を休職させたためで、内藤氏については有効な労働環境の改善策をとらなかったことを理由とした。(畑間香織)
◆事務局長が大声で「何やってんだよ」
 労組などによると、職員6人が田嶋氏からパワハラを受けたと訴えている。そのうち、大福美穂さん(42)には、業務中に「何やってんだよ」と大声で怒鳴ったり、他の職員のいる前で「わかっていない」「説明不足だ」と否定し続けたりした。大福さんは昨年9月から休職している。

 労組は、厚生労働省の指針でパワハラの典型例として示されている、精神的な攻撃や過大要求に該当すると主張。理事会との団体交渉で、ハラスメント再発防止の研修や、不明瞭な業務指示を慎むことなどを求めた。だが、改善は見られないとして労組は今年3月、2人の更迭などを求める通知書を法人に出した。
 労組には法人の東京・大阪事務所で働く12人の職員のうち9人が加入。大福さんはX(旧ツイッター)で被害を告発した。東京新聞などの取材には、人権擁護の活動団体で職員の人権を巡る労働争議が起きたことを「悲しく、つらい、怒りもある。職場が改善されるのであれば戻りたい」とし、「二度と同じような被害者を生まない組織づくりを望む」と話した。労組によると、大福さん休職後に職員1人が退職し、別の職員1人も一時休職した。
◆「調査には全面的に協力している」
 理事会は先月、独立した弁護士による調査中と、労組と交渉中であることを公表した。東京新聞の取材に、田嶋氏は法人の代理人弁護士を通じて「第三者の弁護士による調査が行われており、現段階で個別のコメントは差し控える。調査には全面的に協力している」とした。
 労組が内藤氏の更迭も求めていることについては、法人は代理人を通じて「理事長の人事について、現時点で決定している事項はない」と回答した。(東京新聞・2026/06/04)

 朝方、このニュースを見て、すぐに事務局に電話を掛けました。ぼくは、この団体が1970年に創立された段階から関心を持っていたし、ある時期からはサポーターの一人として会員に名を連ねてきました。人権を徹底して擁護する組織の幹部が複数の職員に「パワハラ」を長期間にわたり加えていたという報道の「事実」に関して、電話に対応してくださった職員の一人の意見からも、事実の否定はできなものとぼくには思われました。(⇚ 事務局長から怒鳴られるなどのパワーハラスメント被害を告発した大福美穂さん=東京都内で)

 「人権の砦(とりで)(Human rights stronghold)」という表現があります。だから、「人権侵害はもっての外」というのではなく、どんな組織にも「その地位に就くのは間違い」という人物が必ずと言っていいほどに存在します。問題は、かかる人物が組織の枢要なポストに、間違って(当事者からすれば、幸運にも)就くことにあるのではなく、問題が発覚した段階でいかなる処方を組織として取りうるかという点が問われるのだ思う。現段階では、報道を超えての詳細は分かりませんが、内部職員の情報によると、ある男性職員が、昨年1月に事務局長に就任し、その直後から「パワハラ」が発生したという。以来、一年以上、しかも複数の職員が被害にあっているとも言います。つまるところ、「看板は人権擁護団体(Human rights organizations)」だったが、内部の実態は、少なくともこの一年余は、「人権侵害団体(Human rights abuse organizations)」であったことになります。

 電話をしている間にも、ぼくは怒りを超えて「笑い」がこみ上げてきました。まるで「お笑い」です。「人権の砦」が「人権侵害の牙城」だったということでしょう。理事会は第三者からなる「調査委員会」を作り、6月中に報告書を出すという。ここにも、「人権侵害の牙城」たる所以があるでしょう。組織そのものが人権に真っ向から反する組織であることを晒したようなもの。(この組織は、これだけではなく、他にも問題を抱えています)

(ヘッダー写真=アムネスティのロゴには、ろうそくと有刺鉄線が用いられています。これは何を意味していると思いますか?実は、有刺鉄線は「自由を奪われた人びと」を、そして、ろうそくは暗闇を照らす「希望」を表現しているのです。/アムネスティの創設者であるピーター・ベネンソンが、「暗闇を呪うより、1本のロウソクをともそう」という中国の格言から、イメージしたといわれています。/このロゴマークには、「どんなに解決が困難に思える人権侵害を目の前にしても、私たち一人ひとりが希望を抱き、行動し続ければ、状況を打ち破ることができる」というメッセージが込められています)(https://www.amnesty.or.jp/about_us/who_we_are/

⁑火宅=仏語。煩悩(ぼんのう)や苦しみに満ちたこの世を、火炎に包まれた家にたとえた語。法華経の譬喩品(ひゆぼん)に説く。現世。娑婆(しゃば)。(デジタル大辞泉)

 冗談ではなく、「アムネスティ日本」の多くの職員は「人権擁護」とはどいうことなのかを日々実践(体験)しておられる、自らの心身を賭して。これを乗り越えた暁には、貴重な経験となって、さらに、人権擁護のために前進できるでしょうし、そうなっていただきたいですね。その昔、ぼくはしばしば「人権屋」と揶揄され、罵られていました。それがどうしたという、ささやかな気概のようなものがぼくにはあったんでしょうね。この国は、総理大臣の陣営が「他者を貶める」人権侵害行為を堂々と行っているのです。その犯罪行為を指摘されて、当の首相は「知らぬ、存ぜぬ」と白を切る。そんな国なんですね、悲しいかな。

 とにかく、この組織は現有勢力(職員)で徹底して問題を剔抉(てっけつ)するように行動してほしいとお願いをしました。場合によっては、一会員としてできることがあるなら、それを躊躇しないとも付加しました。もう十歳も若ければ、ぼくは(刃物を忍ばせて、まさか)現場に飛び込んでいたでしょう。今は老人の身、それ相応に賢明な行動をとり、かつ「一本のろうそく」の灯を絶やさないように、やれることを見つけたいと念じている。

 声を奪われないために、声を挙げよう! : Amnestos(英語) Αμνηστός(希臘語)=「忘れられた」、つまりは「囚人」として社会集団から隔離・抹殺された人々の「発話の権利」を回復するための「標識」になったのです。奪われた権利の回復を図る活動が、アムネスティの出発でした。

◎資料

国際人権NGO 公益社団法人アムネスティ・インターナショナル日本 事務局長による複数の職員へのパワーハラスメント、ハラスメントを放置した理事会の安全配慮義務違反に関する告発

私は国際人権NGO 公益社団法人アムネスティ・インターナショナル日本 職員の大福美穂と申します。会員や寄付者の皆様のサポート業務(会員管理)を担当しております。
タイトルの通り、アムネスティ・インターナショナル日本の事務局長より私を含めた複数の職員がパワーハラスメントを受けてきたこと、使用者である理事会が職員からのハラスメントの申し立てへの対応を長期間にわたり怠っていることを告発いたします。
本件については、2025年9月より東京事務所の職員全員が加入する労働組合が理事会に働きかけてまいりましたが、2026年4月26日時点においても誠実な対応がみられないため、個人の判断で公にすることにいたしました。
なお、ここで記載する内容はあくまで私個人の意見や要望のため、記載内容の責任は全て個人で引き受けます。予めご理解いただけると幸いです。
パワハラや安全配慮義務違反の内容については、2026年3月21日(土)22日(日)に開催した団体の年次総会で労働組合から会員配布したチラシを参考資料として添付いたします。
チラシに記載の通り、2025年4月頃から事務局長からパワハラと不適切な業務指示が繰り返され、理事会にハラスメントの対応を放置されたことで、私は2025年9月に適応障害と診断され、現在も休職しております。
私はこの1年間、労働の権利を虐げられ続け、助けを求めても誰にも助けてもらえないという絶望感と強い憤りを持ってきました。心身ともにこれ以上耐えられません。
目の前にいる人に人権侵害をし、救済を求めている声を聞き入れない人たちが世界的に人権擁護を謳う団体のトップにいることが私は許せません。
事務局長も理事会も現在も責任逃れをしています。団体交渉を重ねても話は平行線を辿り、職員と理事会の溝は深まるばかりです。
団体の理念に賛同し、5年間働いて成長させていただいた場所でもあるので、このような形で告発をするのは本望ではありませんが、致し方ない選択です。
ハラスメントをしたこと、放置し続けた事実を認め、事務局長と理事会にまずは謝罪を求めます。
今現在支援してくださっている会員や寄付者の皆様だけではなく、社会的責任のある公益社団法人であることから、できるだけ多くの方に知っていただきたいです。

2026年4月28日
アムネスティ・インターナショナル日本
会員管理担当
大福 美穂

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被害者の絶望や苦しみを描くことで…

 数日前に「戦争と画家」に関して「アッツ島玉砕」(藤田嗣治)について触れました。戦時中は絶賛を博した「アッツ」製作者だったが、戦後は「戦争協力画家」との批判の対象にもなった。それに対して藤田氏は「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」(「手記」)と、不本意な日本での扱い(評価)に不平を隠さなかった。「戦意高揚」「銃後の守り」どころではない「参戦」「応戦」の姿勢は藤田氏の中に大きく育っていたのでした。父親は森鴎外の後任の軍医総監まで務めたし、親類縁者にも軍関係が多かった藤田は、ある時期には「陸軍美術協会理事長」を受け入れていたほど(右写真)。彼自身の中に「戦争」に向かう(加担する)素地があったのだという気もします。パリ在住時代にはピカソとも交流を重ねていたこともあった。

 二人の「戦争画」を比較をするつもり(意図)はありません。しかし、同じ戦争を題材にした二人でしたが、絵を描く動機や目的は決定的に異なっていたことは忘れるべきではないでしょう。画家とは、題材は何であれ、絵を描くのが仕事といえばそれだけですが、それで終わりではないのはいうまでもありません。本日の西日本新聞のコラム「春秋」は、この「戦争」と「画家の責任」について、ピカソの語った、きわめて強烈な逸話を述べられています。「ドイツ占領下のパリでゲシュタポの将校がピカソのアトリエを訪れた。机の上にゲルニカの写真を見つけ、尋ねたという。『これはあなたの仕事?』『いや、君たちのやったことだ』また、「見るだけの画家や聴くだけの音楽家は愚かだ」とも。

 ある時期、やむを得ない事情からであったとしても、戦争への積極的な姿勢を示したことを隠しも否定もしないで、堂々と「告白」した人がどれほどいたでしょうか。「戦時」が「平時」であるかのように文筆や絵筆をとり、音楽を演奏したり作曲したりした人材(芸術家)はきりがないくらいに、この国には数多くいました。その人たち自身の「戦争責任」を問わないで、その仕事や作品に向き合うことはぼくにはできない相談でした。

 ここでたくさんのことを駄弁りたいのですが、ピカソの「ゲルニカ」の反戦思想の深さを感じ取るだけで十分だとも思われます。ぼくは、家にあった一冊の画集で、飽かずに「ゲルニカ」を観て育ってきたといってもいいほどに、心を打たれてきました。それはまた、この国の丸木位理・俊さんの画業に重なります。広島の「原爆の図」や「沖縄戦の図」の前に、ぼくは繰り返し立ってきました。「反戦」というにはあまりにも惨い経験を画家は描き続けてこられたのだ。「芸術家は、この世の悲劇や喜びに敏感な政治家であるべきだ。無関心は許されない」(ピカソ)それは芸術家に限ることではないでしょう。ぼくたちもまた、理不尽な暴力のもたらす悲劇や災厄に無関心であってはならないのだ。ましてや、最悪の暴力である「戦争」を意図しようとする政治家たちのも、ゆめゆめ気を許してはならないのではないでしょうか。

【春秋】1937年6月4日、「ゲルニカ」は完成した 泣き叫ぶ女、死んだ子供、いななく馬、振り向く牡牛、力尽きて倒れる兵士。それは、禍々(まがまが)しい力に満ちた、絶望の画面-。原田マハさんの小説「暗幕のゲルニカ」は20世紀を代表する反戦画をこう描写している▼ピカソの「ゲルニカ」は縦3メートル半、横8メートル近い大作だ。三十数年前、スペインの美術館で防弾ガラス越しに見た時、モノトーンの世界から悲鳴が聞こえそうな迫力に立ちすくんだ▼絵は1937年6月4日に完成したとされる。ナチス・ドイツは4月26日、スペイン北部の町ゲルニカを無差別爆撃。大勢の市民が犠牲になり、憤ったピカソは1カ月足らずで仕上げた▼ゲルニカと同じサイズの絵を子供たちが描く「キッズゲルニカ」は戦後50年の節目に日本で生まれた。取り組みは今、世界各地に広がっている。昨夏は長崎の爆心地に12枚の絵が並んだ。本家と対極をなすカラフルさに希望が託されていた▼ドイツ占領下のパリでゲシュタポの将校がピカソのアトリエを訪れた。机の上にゲルニカの写真を見つけ、尋ねたという。「これはあなたの仕事?」「いや、君たちのやったことだ」。後にピカソは語っている。「見るだけの画家や聴くだけの音楽家は愚かだ。芸術家は、この世の悲劇や喜びに敏感な政治家であるべきだ。無関心は許されない」▼ウクライナにガザに、色のない絶望の街が増えていく。いまだ世界は、ゲルニカを止められない。(西日本新聞・2026/06/04)

●作家名:パブロ・ピカソ(Pablo Picasso;1881-1973) 作品名:ゲルニカ(Guernica) 制作年:1937年 使用された素材・画材:油彩・カンヴァス サイズ:349.3cm×776.6cm 所蔵場所:ソフィア王妃芸術センター(スペイン、マドリード)(ヘッダー写真・株引用のモノも含めて:https://www.pablopicasso.org/guernica.jsp)* 題名の「Guernika」は、ナチスに爆撃されたスペインの街「ゲルニカ(Gernika)」に、「戦争(Guerra)」の意味をかけて造語された。

ゲルニカ(絵画)げるにか(Guernica)= スペインの画家ピカソの大作(349.3センチメートル×776.6センチメートル)。スペイン内戦中の1937年4月26日、フランコ側を支援するナチス・ドイツの空軍が、バスク地方の自治と統一を象徴する町ゲルニカを爆撃した。同年夏のパリ万国博スペイン館の壁画を共和政府から依頼されていたピカソは、この事件に強烈に反応し、5月1日に構想を練り始め6月4日に完成した。しかしピカソは、ゲルニカには直接言及せず、この、愛する祖国の惨禍を、スペイン人の深層心理に根ざした闘牛の象徴性に託し、キュビスムが可能とした破壊的なフォルムと、黒、白、灰色という悲劇的な色調で描き、『ゲルニカ』に時空を超えたヒューマニスティックなメッセージを与えた。闘牛の象徴性に関しては、牡牛(おうし)をファシズム、馬を抑圧される人民とするアングロサクソン系の解釈と、前者を人民戦線、後者をフランコ主義ととるスペイン系の解釈がある。この作品はその後ニューヨーク近代美術館に展示されていたが、81年、63点のデッサンや関連作とともに初めてスペインに帰り、ピカソの遺言に従って、マドリードのプラド美術館付属の19世紀館に展示されたが、92年ソフィア王妃芸術センターに移った。(日本大百科全書ニッポニカ)

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⁑ゲルニカに描かれているもの                                                                       普遍的なメッセージ 《ゲルニカ》は、ゲルニカが負った悲劇を直接的に写しとったものではありません。背景や図像が単純化され、シンボルとして描かれたこの作品は、現実に起こった爆撃の告発というよりも、「戦争」や「暴力」などの本質的で普遍的な問題を訴えるものといえます。/パリ万博での公開時は、作品の評価は芳しくありませんでしたが、それゆえに、多くの批評家や知識人たちの間で論争が繰り広げられました。特に牡牛と馬の象徴性については、国際的な議論へと発展しています。ピカソ本人は、描かれた動物たちにについて、象徴的な意味があるとだけ述べ、具体的なことは明言しないままこの世を去りました。主題や図像の象徴性について議論が深まるなかで、《ゲルニカ》は反戦と平和のシンボルとしての名声をいっそう高めていきます。                                                     

シンボルが示すもの 《ゲルニカ》に描かれた象徴的なモティーフのなかで、「牡牛」と「馬」は45枚におよぶ習作のほとんどに描かれています。特に牡牛は、もっとも多様な解釈がなされてきました。野蛮な力で自由を阻むものの象徴であると論じられる一方で、災厄を見届け、そこから身を遠ざけようとするピカソ自身であるとの見方もあります。また馬は、犠牲者である人民や、共和制のスペインの象徴であるとする一方で、フランコ政権の崩壊であるとの考えもあります。/また画面には、灯火を捧げる、死児を抱く、建物から落ちていくなど、さまざまな女性が描かれています。さらには死んだ兵士、太陽、鳥、といったモティーフがあり、それらすべてをながめてみても、画面には攻撃する側が描かれていません。被害者側の絶望や苦しみを描くことで、戦争の愚かさが普遍的に表現されています。/《ゲルニカ》に描かれたモティーフは、ピカソの個人的なイメージに基づくものですが、ヨーロッパ美術史において長い歴史をもつものでもありました。このことから、研究者の間では《ゲルニカ》を古典古代の正統な絵画として位置づけようとする試みもなされています。 

ゲルニカが白黒で描かれた理由 《ゲルニカ》がピカソ作品のなかで異彩を放っている理由のひとつに、白黒で描かれていることがあげられます。厳密には、白と黒のほかに、紫や青みがかった灰色など、さまざまな色調が使われています。色彩心理学の観点からも、黒は死や悪、恐怖をイメージさせる色であり、本作を白黒で描いたことは、作品の表現効果をより高めることにつながりました。/ピカソがなぜ白と黒を選択したのか、ということについては、ゲルニカの爆撃を視覚情報として伝える媒体が、唯一新聞だけであったからという説があります。また、写真家であり愛人でもあったドラ・マールの「ピカソは写真スタジオや暗室の白と黒の世界に影響されていた」という証言も残されています。/ピカソは制作の過程を詳細に記録しました。習作にはナンバーと日付を記し、カンヴァスの制作段階では、完成時を含めてその過程を8枚の写真に収めました。この記録によると、ピカソは途中、色彩のある生地でコラージュを試みましたが、多くの習作と検討を重ね、白と黒、そして灰色による《ゲルニカ》の誕生に至りました。(以下略)(Artelier:ttps://media.artelier.co.jp/column/161/  

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