ただ今午前7時。室温26.5℃、湿度79%。小雨が降ったりやんだり。

ずいぶん昔の記憶です。小学校時代、何年生だったかは忘れましたが、「クラス新聞(便り」」というものがあった。おそらく担任教師が手作りで出していたと思う。今日でも、「学級だより」とか「学級通信」という手法で、子どもたちにというよりは親に読んでもらいたいと、熱心に出している教師もいるでしょう。今の時代、いろいろな方法がありますので、かなりの普及ぶりが想定されます。もちろん、発刊対象の単位は学級とかクラスというのですから、大きな話題や学校外のことはさておいて、担当クラスのことごと(出来事や問題点など)が書かれているに違いない。(この「学級新聞」的なものがさらに進化して生まれたのが,戦時中に興隆期を迎えた「綴り方教育」というものでした)

本日の高知新聞のコラム「小社会」を一読、高知新聞そのものに懐かしさを覚えたと同時に、地域新聞、地元新聞というものの「あり方」や「現実の問題」についていくつかのことを考えさせられました。もうかなり前のことになりますが、一夕、親しく高知新聞の記者と現地で飲んで話すという機会に恵まれました。つかず離れず、ぼくはかなり以前から当該新聞には関心を寄せていたから、なおさら、本日のコラムが切実さをもって迫ってきたというわけです。
「ニュース砂漠」、とても気になる現象ではないでしょうか。もちろん、この「ニュース(情報)枯渇」が引き起こす砂漠化は、この社会のいたるところで生じているはずです。時に「町から書店が消える」という話題が、深刻な問題として報道されることがあります。無書店市町村は年とともに増加しています。もちろん、情報や知識は書物や新聞からしか入るものではないのは分かりきっています。でも、この現代にあっても、誰もがネットを通じて情報を得ているとは限らない。ともすると、誰も彼もがスマホやパソコンを使ってネットにアクセスしているとみなす向きが圧倒的に多いことでしょう。逆に、スマホやパソコンを利用しない人間は、それこそ「時代おくれ」「社会の敗残者」の如くに扱われるという現実(人々)もある。情報から遮断されている存在に「社会的弱者」というレッテルを張って、事足れりというのでしょうか。
【小社会】高知も砂漠に? 米国の地方紙を何社か訪ねたことがある。かの国には市や郡ごとに地元紙があり、記者たちはインクのにおいが漂う小さな社屋で懸命に地域のニュースを発信していた。日刊や週刊などを合わせた数は2004年時点で8891紙に上った。▶しかし、社会のデジタル化と新型コロナによる広告減などで大半が経営難に。米大学の調査によると、22年までに3割が廃刊に追い込まれ、記者やカメラマンは6割も減った。▶その結果、住民が地元の報道に触れることがほとんどできない「ニュース砂漠」が広がった。メディアの監視が弱まると、地方行政や議会は緩み、腐敗する。地元紙が廃刊になった米西部の市では、市幹部が議会と結託して給料を大統領の2倍に引き上げていた。▶日本も危うい。全国の新聞・通信社の記者は過去20年で24%減。県内でも特に全国紙の記者が減り、新聞によっては高知の記事が載らない日が増えた。▶先日の黒潮町長選では性加害問題で辞職した前職が返り咲いた。被害女性と和解できていない前職の再挑戦をどう考えるべきか。正面から取り上げたメディアは本紙だけだった。▶小4男児が亡くなった高知市のプール事故もそうだ。遺族に寄り添いつつ市当局の対応を問い続けているのは本紙のみ。そんな中、市長与党の市議は「一部の行き過ぎた報道に不信を抱く」と議会で言い放った。足元で砂漠化が始まっているのか。踏ん張らねば。(高知新聞・2024/10/05)

「情報の空白」問題を「新聞消滅地域」に限定して考えてみます。ここでいわれる「新聞」とはおそらく「宅配新聞」、あるいは「購読新聞」を指しているのでしょう。宅配以外でも、駅やコンビニなどで購入することもできますから、要するに「読むべき新聞そのもの」が消滅しているという話でしょう。ぼくが住んでいる地域(町)は、人口が6247人(本年10月1日現在)、世帯数は2944世帯。平均同居者数2.12人。(この十年で、ほぼ1300人が減少したことになります)間違いなしに、近未来には消滅する自治体であることは確実。この町には「タウン誌(町内報)」が発行されていますが、拙宅には届かない。折り込みで配布するので、新聞購読者に限るということでしょうか。ぼくは新聞を取っていないので無配達。(それに反して、納期が遅れるとやんやの催促便が来ます。「無駄使いは止めろ」といつもうために、役場に行きます)
だから、この自治体の情報にはまったく通じていません。時に、地方紙で扱われている地元ニュースをネットでみることはあります。しかし詳細はカヤの外。一年前ほどから、ごく近くで「産業廃棄物最終処分場」の建設工事が始まりました。おそらく、町議会で長年議論されてきたのでしょうが、現場で工事が始まる段階でようやく知るというお粗末ぶり。大掛かりな工事で、何年かかるか、どういう施設なのか、そんな事柄にもまったく通じていないのですから、一住民としては、その資格を、ぼくは問われると思う。「タウン誌」の戸別配達を希望しても、色よい返事はない。というわけで、ぼくは、まさに「情報砂漠」「ニュース砂漠」のただなかに住んでいます。文字通り「砂上の陋屋」ではあります。
コラム「小社会」では高知の砂漠現象の齎す「弊害」状況について書かれています。少し長い引用を。

「先日の黒潮町長選では性加害問題で辞職した前職が返り咲いた。被害女性と和解できていない前職の再挑戦をどう考えるべきか。正面から取り上げたメディアは本紙だけだった。▶小4男児が亡くなった高知市のプール事故もそうだ。遺族に寄り添いつつ市当局の対応を問い続けているのは本紙のみ。そんな中、市長与党の市議は『一部の行き過ぎた報道に不信を抱く』と議会で言い放った。足元で砂漠化が始まっているのか。踏ん張らねば」と。「砂漠化が始まっているのか」ではなく、すっかり砂漠になったということですよ、コラム氏さん。高知新聞にしてこうですから、他紙は推して知るべし、と言えば叱られるか。地域新聞は地元に密着しているがゆえに、当局や有力者(広費収入源)の意向には逆らえない道理で、ぼくの知るだけでもいくつもの自治体で同じような「新聞と報道対象の癒着」「馴れ合い」が生じています。そのいちいちを取り上げようとすると、そんなの嫌だと、ぼくのへそ曲がり根性が反対をします。
ほとほと、この社会はダメになった、堕落しきった、腐敗の極みだと、言えばきりがないほどに、社会悪の横行、道義の頽廃は尽きるところがないようです。それもこれも、あるべき地方新聞がなくなったからというのではない。もちろん全国紙とか大手紙という「看板倒れ新聞」の落日がかかる事態を招いているというのでもない。一言で申すなら、なるべくしてなった、そういうことです。今般、予想に反してだったか、石破某が総理大臣に押し立てられた。見識や経験を買われたという、彼の人望がモノを言ったのでないこと言うまでもありません。地位をかけて争った高市某が当選していた方がよかったのかもしれない。その心は「あの東洋の小国は、それほどに右翼・極右が跳梁していたのか」と他国から総スカンを喰らうはずだったし、その方が、日本崩壊の完了は早かったかと思われるからです。

このところ、いたずらにアメリカ大統領選挙の報道を、現地メディアを通じてみています。そして、あれっと思ったのは「大手メディアが事実を正しく報じていない」というメディア批判が頻繁に叫ばれることでした。「選挙で負けた」という事実に砂をかけて、権力の地位にしがみつこうと、あらゆる手段を使って選挙結果を歪めようとした元大統領、三十数件の犯罪事実で起訴され、有罪判決も出ている元大統領が、あろうことか、再び、公党の候補者に祭り上げられたという事実に、ぼくは肝を潰したのでした。これがアメリカの政治の現実なのだと、民主政治の目指すところ、はるかに遠いことに嘆息しきりだった。こんな出鱈目を許したのは彼の国の政治であり、報道であり、指導者や一般選挙民の関心の薄さだったでしょうか。誰が悪いというのではないかもしれぬが、少なくとも「メディア」は政治や権力への健全な批判力を研ぎ澄まさなければ、たちまちにして権力の軍門に降る、結果は見ての通りということになろう。そして、あろうことか、その元職の再選が実現可能視されているのだ。
他国の問題については、事情もよくわからないところがあるので事の断定はできません。しかし、それでもなお、メディアの復元力と批判力の旺盛さに、ぼくは一縷の望みがあるという思いを強く持つ。残念だけれど、わが社会には「復元力」も「批判力」もすっかり「鈍麻」「摩滅」してしまったという実感がある。「ニュース砂漠」「情報砂漠」は、新聞やテレビ等、メディアが伝えるべきことを伝えず、書くべきことを書かないところから生じる社会現象でしょう。「伝えるべき」、「書くべき」とは「ありのままの事実」を伝え、書くということです。起こっている事実を正確に伝え書く、その役割を怠り失えば、メディアは権力の「手先」「便所の紙」でしかなくなるのです。まるで「不夜城」のような、煌々とした明かりに照らし出されている「砂上の楼閣」、それが各地にみられる「砂漠化」の現実の姿だというほかない。それに抗して、何か、回復や復元の道があるとは、ぼくにはとても思われません。

「一粒の麦死なずば、ただ一つにてあらん。 もし死なば、多くの実を結ぶべし」という。
勤め人時代、ぼくは勤務先の大学の著しい頽廃に対して、いつも広言していました。「堕ちろ、堕ちろ」と。中途半端に生き延びると、一層困難な状況で死(破滅」を迎えるからだと、顰蹙を買いながら、嘲笑を浴びながら言い続けていました。この国もまた、同じ事態にありますね。「堕ちろ、堕ちろ」、と叫ぶしかないようです。「果報は寝て待て」ですけれど、「知るべき事実」は向こうから、ひとりでにやってはこないのです。寝てる場合か。
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