「給料物足りなくて」小学教諭がキャバクラで副業 停職処分で退職 高知県教委「前代未聞」 24年度懲戒13人
高知県教育委員会は17日、採用1年目の小学校の女性教諭がキャバクラで副業していたとして停職3カ月の懲戒処分とした。昨年9月から今年2月まで計71日間働き、約100万円を得ていたという。県教委は「接客を伴う店での副業は前代未聞」としている。教諭は同日付で退職届を提出し、受理された。また、県西部の50代の男性中学教諭が男子生徒の体を触り、セクハラ発言をしたとして減給10%、12カ月の懲戒処分となった。処分はいずれも同日付。
県教委によると、停職処分を受けたのは高知市立横浜新町小の女性教諭(23)。公務員の副業が禁止されていることを知りながら、昨年9月、友人の誘いでキャバクラの面接を受け、「学校に分からなければ大丈夫かもしれない」とアルバイトを始めた。午後9時~午前0時に働き、12月には24日間、今年1月は23日間、店に出ていた。「週末のみのつもりだったが、店から日数を増やしてはどうかと言われた」と説明したという。
2月に匿名の電話が同校にあり発覚。校長が確認したところ、本人が認めた。
県教委の募集要項によると、2024年度採用の初任給は約22万円だが、女性教諭は「いざ給料をもらうと物足りなく感じた」「公務員としての認識が甘かった」と述べたという。
県西部の男性中学教諭は、自身が顧問を務める部活動の男子生徒の体を複数回触った。「性的なことに興味があるだろう」とし、セクハラ発言も繰り返していた。1月に被害生徒と保護者が学校に相談し、発覚したという。
24年度に懲戒処分を受けた教職員は、今回で計13人となった。会見で県教委小中学校課の蛭子穣課長は「何をしたらだめなのか、より具体的に伝えていく」と述べた。
止まらない不祥事に長岡幹泰教育長は1月、市町村教育長らを集めた緊急合同会議で「不祥事を自分事として捉えてほしい」との緊急メッセージを出していた。長岡教育長はこの日も会見に出席せず、「教職員一人一人が不祥事を自分事と捉えられるよう粘り強く取り組んでいく」とのコメントを出した。(相良平蔵)(高知新聞・2025/03/17)

数日前に、何かの要件で高知新聞社に問い合わせをしたばかりでした。高知教育界では「小学教諭がキャバクラで副業」という事案が「前代未聞」なのかと、ぼくは驚嘆している。「接客を伴う店での副業は前代未聞」とは県教委ですから、これは間違いないのでしょう。ぼくはまったくの未経験ですから、接客業がどういう業態を指すのか、よくは理解できません。報道が数日前だったら、事態の内容を当該新聞社(記者)に問いただすところだったのに。県教委が、「副業(アルバイト)」を問題視しているのでないことは確からしい。その職場が数ある接客業でも「キャバクラ」だったから処分の対象になったわけです。いまでもなお、公務員の副業は禁止されているというのも「時代おくれ」だと思うし、問題の核心である「給料が安い」からというところには、教委はあえて触れようとはしないんですね。つつけば、文字通りに「藪蛇」だったんですが、「先生、チート勇み足じゃア」と言いたいところ。
この女性教師を擁護するつもりはありません。すべて副業は禁止しますという規定にも「時代おくれ」を感じてしまうので、どうしても女性教師の側に立ちそうになるのです。「71日間で100万円」ですから、一日当たり1万5千円足らず。目くじら立てるほどのこともないじゃんと茶化したくもなるが、「教師は聖職」だから、「たとえ一円であっても」断じて認められないということでしょう。古いね。ダサいよ。表向きだけの「杓子定規」ではないんですか。新卒教師の「「学校に分からなければ大丈夫かもしれない」という料簡は外れていないといってはいけないけれど、果たして、「バレないので」副業に勤(いそ)しんでいる教師が絶無だと、ぼくには思われないのです。それ以上に「キャバクラ」だから論外という「色眼鏡」が県教委の処分に色濃く反映していないかということです。ぼくは「キャバクラ」や「アルサロ」がどんな場所か知らないから、何も言えません。しかし、字面から判断すると、いかにも「イカガワシイ」そうに聞こえてくるのはなぜでしょう。ぼく自身の中にも「(イカガワシイと感じる)偏見」があるということでしょう。県教委の面々は「イカガワシイ」ことや場所だとよくご存じだから、処分は厳しくなったのかな。

長く学校教師の真似事をしていましたから、こんな問題(キャバクラで副業)にはよく遭遇しました。と言って、職場の教師が「キャバクラ」や「ホストクラブ」で副業をしていたというのではありません。担当する授業(主として「演習(ゼミ)」)の履修者で、何人(女性でした)かが、おそらく問題視される「お店」で働いていて、主として男性とトラブルになり、それなりに「人生相談」を受けたことは何度かありました。学生の身でありながら、そんなイカガワシイところでアルバイトとはけしからんとはついぞ思ったことはなかった。見当はつくけれど、詳しく実態は知らなかったから。まして、「よくやっているな、えらいね」と褒めもしませんでした。ともかく、理由があって、「本人が決めたことだから」という、そこから問題を捉えようとしていたことは事実です。相談する方も、そうで、自分では答えを持ちながら、一応は「相談」に来るのですから、まるで「相談される方が試されている」と何時だって思っていました。
高知県の女性教師の「キャバクラでの副業」が短期間で終わったのは、「タレコミ」があったからだといいます。ひょっとしてお店に通っていた同僚からだったか、タレコミの主は。もし「密告」されていなかったら、もっと続いていたかもしれないし、教師よりも、こちらの方が適性があると考えていたかもしれません。人生、何が幸いするか、いや、一寸先は闇か、人生色々で、単純な価値観や短い尺度では測れないんですね。たくさん経験を積んで、教師に戻られたら、酸いも甘いも判るような、「さぞ、いい教師」になれただろうに。

結論は単純です。この女性教師の行動(キャバクラでアルバイト)が「前代未聞」と素っ頓狂な感想を述べている県教委の感受性というか、鈍感力には点ける薬がないということ、それが第一(本当は、こんな程度のことは知っているけれど、知らないで驚いたふりをしているかも)。次に「停職3カ月の懲戒処分」を受けて、件(くだん)の教員は退職したという、その軽挙・妄動、あるいは軽はずみな行為に注文を付けたいというのが第二です。恐らく、不祥事で処分されれば、即刻「退職」にするのは、いくつかの理由があります。それには触れません(最大の理由は組織防衛であり、自己(管理職者の地位)防衛でしかない)。寧ろ、その「処分」をその後の教員キャリアになぜ生かさないのかと、ぼくは惜しむものです。
もう何年も前のことにもなります。昔の職場で、同僚の後輩教員が「大学院生(女性)」に対してパワハラ(セクハラか)を働いたとして「処分」されたことがあった。事前に相談を受けていたので、「(事実を認めるなら)処分は避けられない」けれども、決して辞めないようにと。屈辱を感じるだろうけれども、自ら蒔いた不祥事の種。そこから逃げないで教師の仕事に生かしてほしいと。学校当局は「不祥事」があると、「早々に退職を迫る」のは、外見を憚るからです。処分即退職なら「退職金」は出すというのです。人間は間違いを犯す動物です。教師であろうが神主であろうが、裁判官であっても、いささかも変わりはない。大事なのは同じような過ちを繰り返さないことです。そのために必要なのは「間違ったことを胸に刻む」姿勢です。(何かの折(間違いそうになった時)に、そこが「初心」「出発点」になるからです。国家でいうなら「敗戦記念日」、いや「開戦記念日」みたいなものか)

「会見で県教委小中学校課の蛭子穣課長は『何をしたらだめなのか、より具体的に伝えていく』と述べた」とあります。馬鹿草! ここまで来ているんですね。「善悪の判断」はなかなかつきにくい時代ですから、教委の幹部諸氏の気苦労も大変ですねと同情すべきでしょうか。(監督不行き届きの教員)が生まれるのは「学校教育の成果じゃないですか」と減らず口を叩きたくもなる。「何をしたらだめなのか、より具体的に伝えていく」という、その手の教え込み、インストラクション(注入教育)が間違いのもととは、まさか気が付かいないでしょうね。
「灯台下暗し(Darkness under the lighthouse)」<People often know little of what is happening under their very noses>というのでしょうか。(ぼくの直観(直感)では、実際には、誰が何をしているか、たいていは知っているんです。知らないふり(pretend not to know)をしているだけ)
「止まらない不祥事に長岡幹泰教育長は1月、市町村教育長らを集めた緊急合同会議で『不祥事を自分事として捉えてほしい』との緊急メッセージを出していた。長岡教育長はこの日も会見に出席せず、『教職員一人一人が不祥事を自分事と捉えられるよう粘り強く取り組んでいく』とのコメントを出した」と。どうして出席しなかったんですか。「不祥事を自分事と捉え」ていないあからさまな証拠。キャバクラに行っていたか。

昨年の今頃でしたか、兵庫県高砂市の小学校校長が、(コンビニにあるインスタント)コーヒーの「種類と値段の差(数十円」」を胡麻化して解雇されました。退職直前の三月だったと思う。数十円(一度だけではなかったらしい)を胡麻化して三千万円余だったかの退職金を失った事件がありました。ぼくは「あまりにも可哀そうじゃないか」と、市教委に事情を聞こうとしたが、果たせませんでした。この時も、処分を受けた、即退職ではなく、こんなことで処分された、不本意な自分を隠さないで、「教職を続けてほしい」と願ったのでした。今回も同じです。
事件の大小を問わず、「過ちを犯す」「過ちを犯した」人間として、その後を生きる、その過ちを糧としてほしいと、間違い(過ち)の経験の重要性を繰り返し言い続けたいですね。ぼく自身が「過ちのかたまり」のような人間です。「自分は間違える」人間ではあるけれども、そのことがあるおかげで、「同じような間違い」は起こさないというきっかけ(信号)にはなるのですから、間違いの効用を大事にすることが、あまりにも疎かにされていると痛感する次第。「間違ったことは忘れてさ、心機一転、新しく生き直しなさいよ」という出鱈目が、そもそもの間違いの元ですね。
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