早くも二月(如月)に入りました

 本日(2月3日)は「立春(の入り)」です。その節目の日に、「3日(月)の立春を過ぎた来週の4日(火)頃から日本列島の上空に強い寒気が南下します。上空5500m付近で−36℃以下の大雪をもたらす寒気が4日(火)の夜には北海道から山陰付近まで南下する予想です。5日(水)には−42℃以下の寒気の中心部分が日本海に進んで、6日(木)にかけて寒波のピークとなります。−36℃以下の寒気がこれだけ広い範囲を覆うことはそれほど多くはなく、数年に一度のレベルとみられます」(WN・2025/02/01)(https://weathernews.jp/s/topics/202502/010135/

 珍しく風邪気味なのか、あるいは花粉症の前触れなのか、鼻水が止まりません。頭も少し痛い(こちらの方は年がら年中です)。やや睡眠不足の日が続いているので、それやこれやで、空の節々が悲鳴を上げかけているのですな。インフルエンザも流行中だし、老人なお壮健ならんか、決して無理をしないつもり。この地上、現下、至る所で地震・雷・火事・親父(狩り)と、世も末を思わせる狂乱ぶりです。とにかく、安心・安全専一に。

・きさらぎやうぐひすもちの青黄粉(万太郎) 今日は大豆なんかではなく、黄な粉持ちを買ってこようか。

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 「徒然に日乗」(645~651)

〇2025/02/02(日)夜半から降雨があり、午前中まで続いた。幸いなことにお湿り程度で、午後には止んでいた。▶終日自宅にとどまり、年賀状への返信の準備に時間を取られていた。自宅の印刷機で文面を刷るので、それなりに手間がかかる。今のところ、ハガキ印刷以外は自宅で印刷機を使うことがまったくないので、昨年のこの時期以来一年、印刷機は止まったままなので少し心配があった。猫が印刷機の上に乗り、まるでベッドのように独り占めしたりして、うまく作動・昨日するか心配だった。何とか動いてくれて、無事にハガキは印刷できた。(まだ少しは残っているが)その後に、宛名書きなどをして終わり。予定では明朝(3日)一番に投函する予定だ。▶本日は「節分」だった。豆まきなど何十年もしたことはない。(651)

〇2025/02/01(土)如月朔日。終日自宅に。▶かなり寒い一日だった。今冬一番の寒気団が週末から来週初めにかけて劣島にかかるとの予報、都心部にも降雪が予想されている。その前触れのような気温だった。当地では、明日は遅くに降雨がありそうとも。▶米大統領就任以来十日ほど。いよいよ本性をむき出しにして、自分流の政治パフォーマンスに走り出したと思う。恐らく、国内的には大混乱を予想させるし、他国との関係においても力を前提にした政治、強権政治を推進するばかり。世界の混乱には資しするものの、平和の到達にはきわめて危険な政治を展開するのだろう これが政治というものだろうか。自分を売り込むためだけの偽装政治行為だというべき。(650)

〇2025/01/31(金)本日で睦月も終わり。「あっという間のたばこの煙」、実感だ。跡形もなく時間は過ぎ去るが、残るのは各一週間(七日間)の「無為」「徒労」と「定かならぬ記憶」のみ。頼るは「暦」ばかりだが、その暦自体も頼りにはならぬから、何とも始末に悪い。▶昨年は正月の「能登地震」に度肝を抜かれたが、そののちには大きく被災した幾つかの地区に災害義援金の名目で「募金(寄付)」をしたので、確定申告時の所得税控除等を申請するための「義援金払い込み証明書」発行を七尾市、輪島市、穴水町に依頼した。ぼくとしては想定以上の金額になるが、被災地・被災者にすれば「雀の涙」ということだろう。できる範囲で、この後も続けていきたいものだ。(649)

〇2025/01/30(木)九日ぶりで「猫缶」購入のために千葉市緑区土気(あすみガ丘)に。現在の缶詰はいつから買い続けているのか、かなりの期間、これ一品で済ませてきた。少しばかり「飽き」が来ている子もいるが、全体的には以前ほどの食べ盛りではなくなったということかもしれない。缶詰のほかに、さまざまおやつ類を揃えているので、何とか食欲を落とさないでいるのかもしれない。寒さが厳しいので、大部分は家の中で夜を過ごしている。(648)

〇2025/01/29(水)今日も昼前に茂原まで。普段の買い物のほかに、後期高齢者医療保険料の第7期分を納入するため。今月末が納入締め切り。払い込みをしようとコンビニに行ったのはよかったが、念のためにと確認したら、別の「税金(固定資産税)」支払い用紙を持ってきてしまったことが判明。確認したつもりだったが、ミステイク。衰えが激しい。ちなみにこの保険料の払い込み年額が30万弱。この十年間で、一回だけ医者にかかったから、そっくり保険料を某機構に寄付しているようなもの。たまには医者にかかり、介護保険の申請をしたらどうか、そんなお誘いが、役場から来たような気がしたのが、つい先だって。役場(福祉課)からのアンケートに未回答のままでいたら、「安否不明」とされた。国庫や自治体に納付する税金等は、一円でも少なくしたい。その代わりに、必要なところに一円でも多く寄付したいと念じている。物価高の折から、初夏からのNPOの寄付要請がしばしば届く。小生は現在、4か所ほどの「ひとり親家庭」等の団体へ寄付をしている。深刻な事態が一向に完全されないどころか、物価高騰の折から一層厳しくなるのはなぜだろうかと、空の財布を恨めしく思うばかり。▶今冬一番の寒気団が劣島を襲っている。幸いに房総半島付近は今のところは寒さや降雪の災難からは逃れられている。この「寒気団」はしばらく居座るそうだから、油断はできない。(647)

〇2025/01/28(火)昼前に買い物、茂原まで。いつも書いてしまうが、物を買うたびに、そして同じような商品を購入しているのだが、物価高騰が極めて深刻だと感じてしまう。一回の買い物をひとまとめにしてみると、三割以上の値上げが続いているように感じる。個々の商品の値上げは数%だといわれるが、トータルでは2割3割以上の高騰だと言わざるを得ない。▶昨日の某テレビ局の「記者会見」はなんと十時間を費やしてなお、要領を得ないやり取りに終始した感が強い。結局は、会社幹部が守りたかったのは同社元社員の人権ではなく、タレントとの営業上の利益だったことが明白。それが、結果的には自らの名誉や地位だったことは明らか。そのために、役員たちは嘘を付き通すほかなかったのだろう。(646)

〇2025/01/27(月)終日寒さが身に堪える一日だった。風がないだけ、助かったという気分。陽射しがまったくなかったので、洗濯物を干すことができなかった。▶終日自宅に。このところ、方々で「通り魔的な事件」が多発している。件数の多少も問題であろうが、この何十年間にわたり社会問題になり続けてきた「精神疾患」を予想される人の犯罪と思われることが多すぎるのは、なぜだろうか。社会関係そのものが、個々人のレベルで壊れている、その端緒でもある家庭問題に、おおきな課題を持っている。処方箋が簡単に見つかるものではないけれど、何よりも「個人」の育ち方に深く神経を使い配慮を払うべきだろう。▶午後四時から始まったフジテレビ問題の記者会見、ただ今午後十時を過ぎるが、まだ続いている。何が問題を長引かせているのだろうか。実に単純で、知っている事実を隠蔽してきたことが、問題を大きくしてきたのだ。会社は無関係という無理筋を通そうとしている。この企業の変わり目は見つけられないと思う。四十年にわたって絶大な権力を行使し、会社の発展を阻害してきた「H天皇」の引責がなければ、もう終わり。社員の決起を求めたいところである。(645)

失敗の記憶を持ち続けること

⦿ 週初に愚考する(五拾六)「 勝ち負けのある戦事(いくさごと)鬼は外」(飯野無骨) 人間界の約束事は「自然界の後追い」がよろしかろう。人智の生み出す科学・技術は「自然」という天恵(天恩)を掌に乗せた気にさせる。「自家薬籠中」という思い上がりが、至る所で事件や事故を生み出している。その典型は「戦争」の齎す「災厄」だ。いまだ各地の「戦火」は消えず、飛び散る火花はあらぬ方面で新たな災厄を生む。半藤さんの語る「うぬぼれれ」や「身のほど知らず」は国家ばかりの占有ではない。▶「朕は国家なり」と思い込み、「われは天皇だ」という自他の誤認を増長させる結果、驚くべき弊害を社会全体にもたらすが、当人や取り巻きには「天皇の一族」「王様と友だち」という致命的な錯覚があって、自分たちは「治外法権」の恩典に与るという「逆上(のぼ)せた思い違い」が潜んでいるのに気づかない。ことが起こって、社会的非難や糾弾を受けて、なお責任を感じない。無責任の無限連鎖は企業や国家を解体させてもなお、自らの責任を自覚できないのがほとんどのケースで生じている。▶小さな島国には「無責任」を受容する麗しくも悪しき「習俗」がある。「うぬぼれ」が肥大し、やがて「逆上(のぼ)せ」を生む。

 「戦後八十年」、「昭和百年」は単なるめぐり合わせ。「立春」が時に2月2日、時に2月3日になるのと同じ現象。問題は「めぐり合わせ」の歴史的意義を自問することにあろう。戦争に負けて「八十年」も経った。そろそろ、もう一度、何処かと一戦を交える時だと、馬鹿どもを元気づけ、逆上せあがらせる端緒になりかねないのが、この小島社会の現状か。▶「戦争に」勝ち負けはつきものと多くは考えるが、何をもって「勝負」を判断するか。対米英戦争は負けだったが、その負けを呼んだのは「日清」日露」の怪しい勝利だったとするなら、「勝ちは負け」であるという学び方こそ歴史の示すところではないだろうか。▶「成功は失敗の源」という貴重な経験を誰しもが有している。もし「めぐり合わせ」に意味があるとするなら、間違った地点にもう一度戻る縁(よすが)にすること。間違いの記憶を持ち続けられる人は賢(かしこ)い人だといいたい。もちろん「危うきに近づかない」程度に、犬や猫並みに、です。それが「歴史に学ぶ」という意味だ。(犬や猫たちが「集団発狂」するのを見たことも聞いたこともない。殺りく兵器も造らず、ノーベル賞も欲しがらない、その程度の「慎ましさ」が欲しいですね)

【小社会】節分に 例年より1日早くて、ぴんとこないが、きょうは「節分」。地球の公転の関係で、たまにずれる年があり、ことしが該当するという。〇前回2月2日だったのは4年前の2021年。それでもなじみが薄いのは、前々回が120年以上前の1897(明治30)年だったからだろう。日清戦争終結の2年後に当たる。〇暦が巡るその120年余りの歴史を振り返ると、まさに悲劇ではないだろうか。日本は軍備拡張を加速させ、7年後の1904年には日露戦争に突入する。作家の故半藤一利さんは、その辛勝が日本が道を誤る転機になったとみる。〇「大勝利の国民戦争と夢想し、うぬぼれのぼせていい調子になった」(著書「語り継ぐこの国のかたち」)。うぬぼれはやがて昭和の大戦と敗戦につながる。戦後80年のことしは、そうした歴史を改めて意識せざるを得ない。〇折しも日露戦争が始まった04年の9月、高知新聞は誕生し昨年、創刊120年を迎えた。特に戦後80年、時の政治を厳しく問い続けてきたのは大戦中の戦争加担への猛省があるからだ。いまは国の体制も国際情勢も異なるが、国が防衛予算増強に走る姿はどうだろう。〇この先は子孫が暦を振り返る時、戦争のない歴史を刻んでいきたい。きょうは本紙120周年事業で、将棋の棋王戦コナミグループ杯5番勝負第1局が高知市で行われる。本紙が報じる「勝負」はいつまでもこういう平和の対決であり続けたいものだ。(高知新聞・2025/02/02)
【有明抄】福と鬼 「幸せ」は「する」と「あわす」が結びついた言葉。もともと二つのものがぴったり合わさった状態のことだった。古人はそれが自分の意志や努力だけでは実現せず、別の大きな力に左右されると信じていたという◆だから、かつては主に「運」や「めぐり合わせ」を指す言葉として使われた。当然「良いめぐり合わせ」があれば、「悪いめぐり合わせ」もある。「幸せ」には「不幸」や「人が死ぬこと」「葬式」といった意味さえあったというから驚く◆きょうは節分。冬から春への変わり目である。むかしは厄年に当たる人が氏神に詣でた後、くしやかんざしなど身につけたものをわざと落とした。そうやって悪いめぐり合わせを絶ったのである。中には、ふんどしを落とす男衆もいたらしい◆例年なら3日のはずが、このところ4年おきに1日繰り上がるという。地球が太陽の周りを回る公転周期とカレンダーとの微妙なズレが積み重なったからだとか。言葉の定義や習俗がうつろうように、時間は少しずつ季節の境目も変える◆「福は内、鬼は外」。願いを込めて豆をまく。福ばかりが都合よく舞い込むわけがない。反対に、鬼と見えた人に案外救われたりもする。世の中を見渡せば、福と鬼とをきっぱり分けられないことに気づく。「幸せ」と同様、禍福もそれとわかる姿はしていないものである。(桑)(佐賀新聞・2025/02/02)

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「はてなの価格」に、はてな?

 「はてなの茶碗」、ぼくはもっぱら古今亭志ん生さんでした。何十何百回聴いたかわかりません。京都の茶谷金兵衛(茶金)さんと「油売り」の掛け合いが底抜けに面白いのと、つまらない清水の数茶碗(雑器)に何百・何千両も出すという、権力者の無類の頽廃も、「笑い」の下地になっていて、この「馬鹿話」を伺って庶民が留飲を下げ続けた経緯(子細)が分かるような気がします。よく似た落語に「猫の茶碗(皿)」があります。欲しい人には、どんな下手物であっても目玉が飛び出るような価格でも欲しい、買いたい。(『はてなの茶碗』(はてなのちゃわん)は、古典落語で上方落語の演目の一つ。東京では『茶金』の名で演じられる。三代目桂米朝が、子供の頃にラジオから流れていた二代目桂三木助の口演の記憶をもとに戦後復活させた。現代では、米朝の実子五代目桂米團治などが得意として口演している)(Wikipedia)

 (ヘッダー写真「フジテレビが運営する動画配信サービスFODは、2024年11月1日(金)14時に発表された2024年 オリコン顧客満足度®調査 定額制動画配信サービスのランキングにおいて、「国内ドラマ」部門で2年連続となる1位を獲得しました」)(https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001661.000000084.html

 「有明抄」で引用されている某作家の語りについて。「〈個人商店の時代って非常に値段が高かったんだけど、それは商品にコミュニケーション料とかカウンセリング料とか癒(いや)し料が入っていた〉というくだり。本当ですか。ぼくにはそんな店に出会ったことはなかった。当たり前に商売していて、しかも町や村に魚屋が一軒しかないような時代。「家庭のぐちを聞いてもらったり、体調を気遣ってもらったりする時間も含めて買っていたのだ」と。ホンマかいな。いかにもありそうで、実際はどうだったか。「ものの値段」とは需給の関係で決まるもの。人生相談料や夫婦喧嘩の仲裁料までが価格転嫁されていたんですか。大根やキャベツが高い理由は、相談料を含んでの「値段だった」など、ぼくは聞いたことも見たことも、経験したこともない。

 元は清水の数茶碗、値打なんかない二束三文の「はてなの茶碗」でも、天下の目利きが見れば評判を呼ぶ。まさに骨董・美術品などはその類。それこそ価格は「あってなきが如し」、それに値をつけるのは「鑑定家」であり、「好事家」たちの世界の話、それは一種の金持ちの「遊び」だったと思う。キュウリやナスビと違って、高価な骨董品など、そんなものたいての人にはなくても困らない。そんな不要な品物に何千万と費やす世界こそ、虚仮虚仮(こけこけ)の迷妄の世界ではないでしょうか。幸いなことに、ぼくにはそんな趣味も余裕もないから「書画骨董」の類は一つも持ち合わせていない。

 それはさておき「顧客満足度ナンバーワン」で購入する品物にどんなものがあるのでしょう。「お米」ですか、「マグロ」ですか、「胡瓜」ですか。「消費者庁の調査では、消費者の半数がこれを参考にしているらしい」とある、そんに面倒な商品には何があるのか、それを教えてほしい。こんな愚図な世の中ですから、「顧客満足度」のランキングを調べて買う品や人は、確かにあるでしょうが、はたして、それはスーパーで販売している野菜や食品なのでしょうか。「野菜に果物、お菓子に加工食品…値上げの話題を目にしない日はない」「資材高騰や人手不足でかさむコストを価格に転嫁せざるを得ない事情もわかる」「『顧客満足度』を『安さ』にばかり求める時代ではないのかもしれない」というけれど、「野菜に果物、お菓子に加工食品」などを、いちいち「顧客満足度」を参考にして買うような変わり者・暇人・世捨て人などがいるのでしょうか。その日の必要に応じて賄う品物に、いちいち「満足度ランキング」を調べて買うバカがいるはずもないでしょうね。

 某作家は「家庭のぐちを聞いてもらったり、体調を気遣ってもらったりする時間も含めて買っていたのだ」と異なことを断定されているがどこの店でしたか。ぼくは、一度だって酒屋に「人生相談」を持ち掛けたことはない。家庭のぐちを聞き入れて、相談料を取っていた店など一軒だってなかった。近所の八百屋や魚屋は、離婚相談にも乗るような暇人でも粋人でもなかったろうし、まさか弁護士事務所なんかではなかったでしょう。いかにもありそうで(だとは思われない)、しかしどこにもない話なら、「ネット時代」のお手の物(フェイク)、その程度の話を「さも、ありなん」と書く、喋るというのはいただけないな。ぼくはこの手の話には、どうしても引っ掛かるし、いかにも詐欺横行時代のネタにしかならないと思う。「管見」ですらないような噺を「針小棒大」に膨らませる(盛る)のを、昔は「誇大妄想狂」といったそうだ。今は作家や新聞記者というらしい。

【有明抄】はてなの価格 茶道具の目利きで随一といわれた主人がいた。この人が手に取って首をかしげただけで茶器の値段が上がる。ある日、茶店で出された湯飲みにどこからか水が漏れている。「はてな?」とつぶやけば、それが値打ちのある器だと勘違いされて…。上方落語「はてなの茶碗」である◆ものの価値とはよくわからないものである。近ごろ盛んな広告のうたい文句は「顧客満足度ナンバーワン」。消費者庁の調査では、消費者の半数がこれを参考にしているらしい。ところが広告主は調査会社に勧められるまま、根拠を十分確かめていないのが大半だったという◆野菜に果物、お菓子に加工食品…値上げの話題を目にしない日はない。家計にはこたえるが、資材高騰や人手不足でかさむコストを価格に転嫁せざるを得ない事情もわかる。あいまいな「顧客満足度」を「安さ」にばかり求める時代ではないのかもしれない◆作家の藤原智美さんが語っていた。〈個人商店の時代って非常に値段が高かったんだけど、それは商品にコミュニケーション料とかカウンセリング料とか癒(いや)し料が入っていた〉。家庭のぐちを聞いてもらったり、体調を気遣ってもらったりする時間も含めて買っていたのだ、と◆ものの価値は見えないところにある。それが値付けと見合っているか、陳列棚の前で「はてな?」と考えてみる。(桑)(佐賀新聞・2025/01/31)

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When will they ever learn? 

 このところずっと心晴れない日が続いています。理由はさまざまでしょうが、何よりも世界の各地で起こっている「戦争」「殺戮」「民族浄化」…。なんとでも形容できます、その惨禍・惨状がぼくたちの日常の一コマになっていることに耐えられないからだということです。その意味合いは異なるでしょうが、自動車事故で一人が亡くなるのと、一発のミサイルで何十人もが亡くなる、その軽重を問うのではありません。「いのちの重み」に変わりはないと思うと、ぼくは現状には居たたまれないのです。戦争に対峙するのに、ぼくには何もできない、せいぜい、間接の間接のようなまだるっこい署名やささやかな寄付くらいしか、今のぼくにはできない。だから、こそ、その不条理な殺人に怒りを思いきりぶつけるのです。気休めにもならないけれど、そうするほかに手がないと思うから、「心晴れない日々」が続くのです。

 その「戦争」(双方が悪い場合もあろうが、そのほとんどは「大義」を掲げて人を殺し合うのであり、戦争に「大義」があるはずもないのに。いずれもが、ほんの一握りの「権力者」のつまらない自尊心や功名心の為せる業。ぼくは政治は大嫌いだし、政治家などは、まさに軽蔑の的と言っていい存在でした。その背景には、どんな人間でも根っこには「政治性」があり、人というものは、時には誰彼に対して「政治的(暴力的)」になるという性質を持っているから、その「わが内なる暴力性」を限りなく抑制することが、ぼくには至上の命題となっているし、なってきたのです。

 高校時代、この国は日米安保条約改定問題に発する政治の季節は酣(たけなわ)だった。その状況も少しは知っていたが、ぼくは野球やラグビーに血道をあげていた。大学に入り、アメリカのベトナム戦争深入りが抜き差しならぬ時代に入っていた。当然のことながら、米国の地に「戦争反対」の輪が広がり、それを支えるように、たくさんの反戦歌が流れていました。たくさんあった中でも、ぼくは「花はどへ行った」に心を奪われた。ピートシガーは、ある意味ではアメリカンフォークの中興の祖の趣があったし、その単調・素朴な歌唱が気に入っていた。同時期には、この「花はどこへ行った(Where Have All The Flowers Gone)」は、ジョン・バエズ、キングストン・トリオ、ピーター・ポール・マリー(P.P.M.)などのレコードや歌唱は多くの市民に受け入れられ、方々でその歌声とともに反戦の意気は上がっていたと思う。

 心晴れない日々、ぼくの耳には「花はどこへ行った」が流れ続けていたのです。そんなとき、奇遇というかめぐり合わせというか、今朝の「ラジオ深夜便」午前2時台にピート・シーガー特集があり、ぼくはそれを聞くともなく聞いていた。猫が盛んにぼくを起こしかけていました。「花は…」が聞こえてきて、ベッドを出た。一瞬、シーガーは何年生まれだったかが気になった。亡くなったのは2014年だから、とても高齢で亡くなっていたはず。咄嗟に評論の加藤修一、俳人の金子兜太さんの顔が浮かんできた。(多くの人の生年没年を覚えるのがぼくの趣味?)そして、改めてシーガーの年齢に驚いた。彼の詞はむずかしくはない。野原一杯に咲いていた花は何処へ行ったのか。若い娘がすべて摘んでしまった。その娘たちは何処へ行ったか。夫を探しに…。そして、それぞれの結びに<When will they ever learn? When will they ever learn?>と問いかける。「いったい、いつになると学ぶのか?」と。戦争が愚かであり、無辜の民を殺すことが名誉になるということがあるはずもないと、どうして人間は学ばないのだろうか。反戦歌というのは、人間の愚かさへの終わりのない「警鐘」、いやむしろ「弔鐘(a funeral bell)」だとぼくには思えるのです。

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⦿花はどこへ行った アメリカのフォーク・シンガー、ピート・シーガーの曲。1955年発表。コサック民謡に触発されてつくった曲。その後フォーク・シンガーのジョー・ヒッカーソンが歌詞を一部書き足したため、シーガーとヒッカーソンの共作とも言われている。サンフランシスコのフォーク・グループ、キングストン・トリオが1961年に発表したカバーが全米第21位を記録。1962年にはピーター・ポール&マリーがデビューアルバムに収録してヒット、以後反戦曲のスタンダードナンバーとなる。原題《Where Have All The Flowers Gone?》。(デジタル大辞泉)

⦿シーガー(Seeger, Pete)[生]1919.5.3. ニューヨーク,ニューヨーク [没]2014.1.27. ニューヨーク,ニューヨーク アメリカ合衆国のシンガー・ソングライター。別名 Peter Seeger。1950年代から 1960年代にかけて,フォークソングのリバイバルの立役者として数多くの曲を生み出した。代表作は『花はどこへ行った』『天使のハンマー』『ワインより甘いキス』『ターン・ターン・ターン』などで,単独作品も共作もある。ハーバード大学中退後,全米を旅してカントリー・バラード(→カントリー・アンド・ウェスタン)や労働歌,賛美歌を収集し,5弦バンジョーの名人芸を身につけた。1940年ウディ・ガスリーらとともにアルマナック・シンガーズを結成,1948年にはウィーバーズを立ち上げた。だが,シーガーがかつて左翼的な活動にかかわっていたせいで,ウィーバーズ時代,ソロ演奏家時代に要注意人物とみられた(→マッカーシズム)。1990年代にはそうした過去を乗り越え,1994年にナショナル・メダル・オブ・アーツを受けた。1996年にロックンロールの殿堂入りを果たした。1997,2009年にグラミー賞を受賞。(ブリタニカ国際大百科事典)

*Pete Seeger: Where Have All the Flowers Gone?(https://www.youtube.com/watch?v=1y2SIIeqy34

Where Have All The Flowers Gone?   
(Pete Seeger & Joe Hickerson)        

Where have all the flowers gone,
Long time passing?                 
Where have all the flowers gone,            
Long time ago?                     
Where have all the flowers gone?            
Young girls have picked them, ev'ryone.         
When will they ever learn?              
When will they ever learn?              

Where have all the young girls gone,         
Long time passing?
Where have all the young girls gone,
Long time ago?
Where have all the young girls gone?
Gone to husbands, ev'ryone.
When will they ever learn?
When will they ever learn?

Where have all the husbands gone,
Long time passing?
Where have all the husbands gone,
Long time ago?
Where have all the husbands gone?
Gone to soldiers, ev'ryone.
When will they ever learn?
When will they ever learn?
Where have all the soldiers gone,
Long time passing?
Where have all the soldiers gone,
Long time ago?
Where have all the soldiers gone?
Gone to graveyards, ev'ryone.
When will they ever learn?
When will they ever learn?

Where have all the graveyards gone,
Long time passing?
Where have all the graveyards gone,
Long time ago?
Where have all the graveyards gone?
Gone to flowers, ev'ryone.
When will they ever learn?
When will they ever learn?

Where have all the flowers gone,
Long time passing?
Where have all the flowers gone,
Long time ago?
Where have all the flowers gone?
Young girls have picked them, ev'ryone.
When will they ever learn?
When will they ever learn?

*Where have all the flowers gone -The kingston trio(lyrics)(https://www.youtube.com/watch?v=bI3QVsW30j0&list=RDbI3QVsW30j0&start_radio=1&rv=jwpz-wkofZw

Peter, Paul and Mary – Where Have All the Flowers Gone (25th Anniversary Concert)(https://www.youtube.com/watch?v=ZgXNVA9ngx8

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愚者は経験に、賢者は歴史に学ぶ

 「過去の過ちを繰り返すために、警戒を怠れ」という風潮が全世界件で起こっているのではないでしょうか。その元凶は、言うまでもなく「西欧」「欧米」です。フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア等々、軒並みに「極右擡頭」が真っ盛り。なぜ、こうなったか。恐らく「戦後八十年」という年回り(めぐりあわせ)が最大の理由かもしれません。ひゃねんでも五十年でもない、八十年。「個々人の経験」と「集団社会の歴史」の狭間に、ある種の隙間風(「先祖返り」と歴史修正主義の合体という)が吹いているのでしょう。

 十分に現状に対する「警戒が足りなかったから」「警戒を怠ったから」、先祖返りに血道をあげる人々が増えたのでしょうか。はっきり言うなら、もう一度「ファシズム(黄金時代)」を取り戻したかったから、そう願う人々が多くなったのだということです。「ナショナリズムを掲げて闊歩する若者もいる。愛国者ではなく、ファシストだ」と語ったのがワイントラウプさん(左写真)。九十九歳。「戦争を知らない子どもたち」が、どの国においても圧倒的多数を占めている時代。だから、「過ち」は繰り返され、繰り返されようとしているのでしょう。「過ち」の未経験者だという自己認識が強く働いています。この劣島でも「国や郷土を愛しましょう」という「国家万歳教育」が強いられている。それが成功しているかどうか、よく分からないけれど、現状を肯定し、排他的な風潮が濃くなっているとみられるのですから、先ずは「順調」というところなのか。今の総理大臣は「軍事オタク」だというから、まぎれもなく、「愛国者」ではなく「ファシスト」に類するというべきだと思う。(ヘッダー写真「戦後78年 東京大空襲など被害者救済の署名活動 なぜ今?」NHK・2023年11月16日)(https://www.nhk.or.jp/shutoken/wr/20231116a.html

 言うまでもなく、ファシストはファシズムを信奉している者。そのような人々が力を持ってくると、独裁主義に走り、排他主義に進むことは避けられないでしょう。政治形態としてというより、政治信条として始まることもあるが、ときには一気に「独裁権力」を求めることもある。たぶん、欧米主要国の現状は「極右支配」、あるいは「独裁待望」に深く傾いているのは否定できません。アメリカの現大統領の振る舞いは、いかにも独裁的であり、あからさまに排他的でもあるという意味では、間違いなく「ファシズム」前夜と、アメリカの現状に関しては、危機的な夜明け前です。

⦿ ファシズム(fascism)= 極右の国家主義的、全体主義的政治形態。初めはイタリアのムッソリーニの政治運動の呼称であったが、広義にはドイツのナチズムやスペインその他の同様の政治運動をさす。自由主義・共産主義に反対し、独裁的な指導者や暴力による政治の謳歌などを特徴とする。(デジタル大辞泉)

【日報抄】「過去の過ちを繰り返さないために、警戒を怠るな」。きのうの紙面に載った、この言葉が印象に残った。発言の主は、かつてポーランドのアウシュビッツ強制収容所に送られたレオン・ワイントラウプさんである▼99歳。解放80年の追悼式典で述べた。収容所で母親と叔母がガス室で殺された。発言の背景には欧州で広がる排他的な風潮があった。「ナショナリズムを掲げて闊歩(かっぽ)する若者もいる。愛国者ではなく、ファシストだ」▼第2次大戦中、ナチス・ドイツはユダヤ人の大量虐殺を引き起こした。その反省から、欧州では過度なナショナリズムを戒める考え方が主流だった。しかし近年は、自らと異なる人種や文化への攻撃的な論調や排外主義が目立ち始めた▼「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。経験から学ぶことを愚か者呼ばわりするとは言い過ぎな気もするが、自分のわずかな経験ばかりに頼ると狭量になったり、視野が狭まったりするという意味だと解釈したい▼歴史は他者の経験の膨大な積み重ねだろう。先の大戦を顧みれば、排外主義が肥大化した果てに大量虐殺が起きた。同様の構図は今も世界で悲劇を生んでいる。歴史に学ばねば、この先も繰り返すのは明らかだ▼わが国もことしで戦後80年を迎える。本紙をはじめ、メディアもさまざまな角度からあの時代に光を当てるはずだ。戦争を経験し歴史を紡いだ人は、今や一握りになってしまった。だからこそ、その言葉には真摯(しんし)に耳を傾けたい。(新潟日報・2025/01/30)

 「日報抄」で引かれている「「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉はドイツ(プロイセン)の統一を成し遂げた「鉄血宰相」たるビスマルク(1815~1898)その人の言らしいとされています(後掲資料参照)。独裁主義の実践家であり、名代の排他主義者だった人です。その人が述べたという、その意味は深長ですね。(明治維新以降の日本の政治および政治家に計り知れない影響を与え続けた存在でした)彼は自らを「愚者」と見たか、「賢者」と見ていたか。もちろん、自分は「賢者」と自認していたからの表現だった。しかし、正当な評価をするなら、彼は「愚者」だということになりませんか。半分は冗談で言うのですが、でも「帝国主義(領土拡張主義)」を貫いたという点では、今の為政者の多くにも通じる「ファシスト」であったともいえそうです。他国に侵略し、領土拡張を図る、あるいは他国の領土を自らのものにしたいという欲望を隠さない、そんな政治家が現実政治の手綱を握っているのです。

 「戦争を経験し歴史を紡いだ人は、今や一握りになってしまった。だからこそ、その言葉には真摯に耳を傾けたい」(コラム氏)しばしば「歴史は繰り返す」と言われます。表現にこだわる必要もないのですが、繰り返すのではなく、人間の犯す愚かさは、何時の時代でも瓜二つだということを言っているのでしょう。明治以降、この国は何度も「戦争」を起こしてきたが、日露戦争は日清戦争の繰り返しではなかったことは明らか。にもかかわらず、「戦争」という愚劣な行動を起こしたという意味で、人間の生み出す政治過程において、「歴史は繰り返す」というのでしょう。

 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という時、重要なのは、個人にとって、「経験と歴史」は異質なものではないということを知ることでしょう。さらに大切なのは、「歴史に学ぶ」という「自らの経験」そのものが、自分の過ちを防ぐ力になる、そのように「学ぶ」ことを経験する、それが歴史につながる(重なる)のです。

◉ビスマルク=プロイセン,ドイツの政治家。ユンカー出身。1848年の三月革命に際しては反革命派として活躍。革命後プロイセン公使としてドイツ連邦議会に派遣され,駐露・駐仏大使を歴任。1862年プロイセン首相兼外相となり,有名な鉄血演説を行い,議会を無視して軍備拡張を強行。小ドイツ主義を唱え,普墺戦争,普仏戦争を勝ち抜いてドイツを統一,1871年ドイツ帝国成立とともに帝国初代宰相となり,以後20年間その職にあってヨーロッパ外交の指導者となった。1878年ベルリン会議を主宰,また三帝同盟,ドイツ・オーストリア同盟,三国同盟,再保障条約などの同盟関係によってフランス孤立策をとり,ドイツの安全を確保しようとした。しかし内政面ではカトリック教会弾圧(文化闘争),社会主義弾圧(社会主義者鎮圧法)を図っていずれも失敗。1890年皇帝ウィルヘルム2世と衝突して辞職。(百科事典マイペディア)

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剛毅朴訥、仁に近し

 ぼくは長年の「ながら族」で、本を読むときも原稿(駄文)を書く時も、きっと音楽を流している。「~しながら」聞く音楽。その昔はほとんどクラシックだったが、ここにきて、もっと気軽に聞けるポップス、あるいはジャズが多くなっています。もちろん、聞くともなく聞くのが心地いいからであって、声楽などは最もよくない。言葉を追いかけてしまうからです。いわば「BGM」に相応しい音楽ということを盛んに考えている。

 今ではステレオ装置で音楽を聴くことはなくなった。もっぱらパソコン内蔵のプレーヤーと外付けスピーカをで聴いている。いまもこの駄文を書いている前方のスピーカーからクラシックでもよく演奏される「人気曲(ポピュラー)」、例えばパッヘルベルの「カノン」やヴィヴァルディの「四季」など、さまざまな演奏家のものをリストにしたプログラムから適当に流しています。五時間でも十時間でも流し続けられるので、とても便利に使っている。住んでいるのが「長柄町(ながらまち)」だから、文字通りに、身も心も「ながら族」というわけ。

 ぼくの場合、何事かに集中するという時、一心不乱・無我夢中ということはまずありません。うんと若いころは、昼過ぎに読書を始めて、気が付いたら周囲が暗くなっていたということは何度もあった。若かったから集中力が続いたということもあろうし、読書に飢えていた時代でもあったからでした。拙い原稿も徹夜で書いたこともしばしば。無駄でしたね。それが、この年齢になると、寝食を忘れて夢中になるということは、まずないと断言できる。それだけの心身の持続力がないからです。当たり前と言えば当り前。だから神経や視力が疲れすぎないように、気分をそらすために「ながら族」になっているという面もありますでしょうね。

 今流れているのは一昨年6月に亡くなった、アメリカの作曲家兼ピアニスト、ジョージ・ウィンストンの「ディセンバー」です(彼はギターもハーモニカもよくした)。レコードだったら、盤が擦り切れるほどというくらいに、繰り返し聴いたものでした。彼の「田舎性」というか「朴訥さ」がとても気に入っていた。彼のピアノは決して流麗とも颯爽とも違う。なんとも朴訥、無骨、それがぼくにはこの上なく心地がいいのです。まるで農夫の手指のようです。彼はモンタナ州で育った。

 本日の駄文のテーマは決まっているのですが、なかなかそれに触れたくないので、もたもたしています。朴訥や素朴とはおよそ趣が異なる、上辺だけの、見せ掛けのパフォーマンスの悪質性・悪意性について、ということです。いやな時代だからこそ、単純で素朴な物事に身をあずけたい気もする。昨日の長崎新聞「水や空」の「お茶を濁す」について。 これを別の表現で言い当てるなら「巧言令色、鮮ナシ仁」(「論語―学而」にある)、「剛毅朴訥、仁に近し」(「論語‐子路」中の「子曰、剛毅朴訥近仁」 )でしょうか。同じ「人間の質」「品性」を裏と表からみとろうとしている。「仁」が人間性の核になることが最も望まれた時代もありました、遥かの遥かの昔でしたが。

(⁂ 「仁」というのは「思いやり。いつくしみ。なさけ。特に、儒教における最高徳目で、他人と親しみ、思いやりの心をもって共生 (きょうせい) を実現しようとする実践倫理」(デジタル大辞泉)

 「茶を濁す」とは、茶の作法を知りもしないで、その礼法を「知ったふりして」、適当にごまかす風儀。それだけではないと思うのですが、要するに自他を誤魔化し、結果的には世間を欺くことになる。そこで愚考一番。世間を胡麻化そうという御仁や紳士淑女が叢生(そうせい)しているのは事実です。でも、その出現が一向に止まないのはどうしてか。おそらく世間の方が胡麻化されたがっているからではないかと、ぼくは愚かにも考える。騙そうとするものと騙されてやれという両者の「阿吽の呼吸」、それが今日の社会の危機の要因であることは間違いないところ。

 「水や空」氏も触れていますが、米大統領は「まず平和賞が欲しい」と、前回の就任段階から懇望している。あの政敵の「オバマ」が貰って、どうして自分には来ないのかと、それこそ悔しがっているのです。平和賞受賞のきっかけはごろごろ転がっている。「ガザ」「ウクライナ」「移民」等々、どれ一つでもそれなりの進展があれば、「晴れて受賞」となるはずと、それを目当てに彼は動いているのですから、始末に悪いというばかりです。呉れてやりなさいな。

【水や空】お茶を濁す 谷川俊太郎さんに〈禁酒禁煙せぬことを誓う〉で始まる、ややひねくれた詩がある。〈人だかりあればのぞきこみ/美談は泣きながら疑うことを誓う〉(「年頭の誓い」)。▲ご当人は朗報、美談、良い話を届けたつもりだろう。トランプ米大統領が、米中ロ3カ国での核軍縮の協議に意欲を示したという▲ほかの2カ国がそんな話にたやすく乗るわけがない、と邪険にする米メディアもある。「夜も眠れないほどノーベル平和賞が欲しい」トランプ氏が受けを狙っただけだ、と▲疑うしかない美談、良い話ではある。眉唾と思いつつもしかし、大統領が「非核化が可能か確かめたい」と発言したのは銘記すべきだろう▲何かにつけて「前のめり」が際立つ人だが、こちらはどうか。核兵器禁止条約の締約国会議に日本は与党議員を派遣し、オブザーバー参加をまたも見送るという▲国民にはいくらか前進したように見せたい。ただし、条約参加に反対する米国の機嫌は損ねたくない。「お茶を濁す」の一語しか浮かんでこない▲谷川さんの詩の続きは〈誓いを破って悔いぬことを誓う〉と、さらにひねくれる。トランプ氏の胸の内と思えなくもないが、この国はと言えば「誓い」よりも米国の「顔色うかがい」を重んじる。十年一日(いちじつ)のごとく。いや、戦後八十年一日のごとく。(徹)(長崎新聞・2025/01/28)

 閑話 「澆季溷濁(ぎょうきこんだく)」とか「濁流滾滾(だくりゅうこんこん)」などという死語を使いたくなるご時世が続いています。

 「思いやりなどの人らしい感情が薄くなり、善悪や正邪の基準がおかしくなって、世の中が乱れること。『澆季』はこの世の終わりのような、道徳や人情が乱れた世の中のこと。『溷濁』は濁るや、汚れるということ」(四字熟語辞典オンライン)「「濁流滾滾(だくりゅうこんこん)」とは「勢いよく濁った水が流れる様子。『滾滾』は水がいつまでも激しく流れ続ける様子を言い表す言葉」(同上)

 如何でしょう。現実の世の中は、東西南北、いずれの地においても「濁された」ままの水が滔々と、あるいは滾滾と流れるままに任せています。そこに「流れに掉さす」のが政治だといえば、悪い冗談、いや瓢箪から駒みたいな話です。「流れに棹をさして水の勢いに乗るように、物事が思いどおりに進行する。誤って、時流・大勢に逆らう意に用いることがある」(デジタル大辞泉)

 「[補説]文化庁が発表した「国語に関する世論調査」で、「その発言は流れに棹さすものだ」を、「傾向に乗って、ある事柄の勢いを増すような行為をする」と「傾向に逆らって、ある事柄の勢いを失わせるような行為をする」の、どちらの意味だと思うかを尋ねたところ、次のような結果が出た。(左図表)(国立国語研究所)ここに「言語の誤用」に関する大問題があります。それに対して、学校教育はいかに貢献しているか(流れに掉さしているのかもしれない)。

 閑話休題 核問題をなんとか現状から一歩でも、一寸でも動かせたら「ノーベル平和賞」なんでしょうか。「核兵器禁止条約の締約国会議」に、体裁だけを繕うために、オブザーバーを参加させんとする劣島政府。何を見て政治をしているのか。「核抑止力」などという寝言を、目を開けたまま言っていながら、恬として恥じないのはどんな蛙なのだろうか。まるで、パンツをはいたままで小便を垂れるという気色の悪さがあります。いずれにしても、核保有国の面々、それに付かず離れず身を寄せているタツノオトシゴ国の政治家たち、どれもこれもが「核を玩具(おもちゃ)」に、あるいは「核を弄んでいる」という謗(そし)りは受けるだろうけれど、これまた恥じるところがないのだ。

 何が何でも欲しい人に差し上げるのも「世の平和」のためにはいいでしょう。授けたらどうでしょう。米大統領にノベール平和賞をぜひ。そうなれば、まさに「不世出(前代未聞)の大統領」でしょう。刑務所も平和所授賞も。その昔、この劣島国に「泣く子と地頭には勝てぬ」という世評がありました。「聞き分けのない子や横暴な地頭とは、道理で争っても勝ち目はない。道理の通じない相手には、黙って従うしかない」(デジタル大辞泉)。T 大統領、その「地頭並み」か、いやそれ以下の傍若無人ぶり。恥知らずとは、こういうのを言うのかもしれない。それを煽る取り巻きがいるから、この国も焼きは回っているだろう。その後には金正恩もプーチンもネタニヤフも、どうせなら、一括して授けたらどうか。「平和」なんて、彼らにすれば「容易いもの」なんですよ、きっと。

(参考文献 トランプ大統領をノーベル平和賞候補に推薦-ノルウェーの右派議員 トランプ米大統領がノーベル平和賞の候補になった。朝鮮半島の非核化に取り組む合意を北朝鮮から引き出した功績が理由。/ノルウェーの与党で右派の進歩党の議員2人が推薦した。国営のNRK放送が報じた。今年の受賞に向けた候補指名の期限は1月だったため、トランプ氏は来年の候補となる。今年の候補にも名を連ねているかどうかは不明。/ノーベル平和賞は政治家や学者、研究者らが受賞し得る。ノルウェーのノーべル賞委員会には例年、数百人が候補として推薦される。過去にはロシアのプーチン大統領やキューバのカストロ議長が候補に挙がったこともある。今年の候補者は過去最高の330人。(以下略)(Bloomberg・2018年6月14日)(https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2018-06-13/PA9MEBSYF01T01

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